テーブルに置かれた一枚の紙は、私に重い現実を突きつけた。「このマンションは売却した。今月中に出て行ってくれ」私は彼の言葉が理解できず、ダイニングテーブルの下で握った手が震えた。指先が冷たく、爪が掌に食い込む痛みさえ感じない。私は何か彼の機嫌を損なうことをしたのだろうか? 朝食の味噌汁が薄すぎたとか、洗濯物の畳み方が雑だったとか、そんな些細なことで三年を終わらせるはずがない。離婚届には楠木健吾のサインが力強く記入され、血のように赤い印鑑が捺されていた。朱の色が妙に鮮やかで、紙の白さを汚しているように見えた。「どういうこと? 訳がわからないわ」顔を上げると氷のように冷ややかな目が私を見下ろしていた。いつもは優しく細められるその瞳が、今は鋭い刃となって私の胸を抉る。昨日まで同じテーブルで朝を迎え、夜は肩を寄せ合って眠った男とは思えない。「冴子、聞こえなかったのか? 今月中に出て行けと言っているんだ」声は低く、感情の起伏を欠いていた。まるで天気予報でも告げるような平板さだ。昨日までの平穏な日常が足元から崩れてゆくのを感じた。キッチンのカウンターに並ぶ二人分のマグカップ、ソファに残る彼の匂い、玄関に揃えて置いた靴、すべてが急に他人事のように遠のいていく。理由もわからないまま三年間の結婚生活に終止符を打てというのか。私は目の前に置かれたボールペンと印鑑、ご丁寧に用意された朱肉を凝視した。朱肉の蓋が半開きで、小さな鏡のように光を反射している。「理由を言って頂戴……納得出来ない限り、私はこれにサインしない」「……」沈黙が部屋を満たした。時計の秒針がカチカチと音を立てるたび、私の心臓が締めつけられる。健吾は窓の外を見据えたまま、唇を結んでいる。冷たい空気とは裏腹に、優しい陽光がリビングに降り注いだ。三年前、ここでプロポーズされた時も同じ光だった。あの時は笑顔で「ずっと一緒にいよう」と言ったのに。私は震える指で離婚届を手に取った。紙は意外に重く、指先に冷たさが染み込む。欄外に走り書きされた「財産分与なし」の文字が目に入り、息が詰まった。三年間、専業主婦として尽くしてきた家事、健吾の帰りを待つ孤独な夜、すべてが無意味だったのか。「ねえ、健吾」声が掠れた。「せめて……最後に、ちゃんと話してくれない?」彼はゆっくりと振り返った。だが、その瞳にはもう、私の居場所
最終更新日 : 2025-10-23 続きを読む