All Chapters of 拝啓ご主人様 捨てられたのはあなたです: Chapter 11 - Chapter 20

37 Chapters

第十一話 許されざる関係

私の視線はキャンドルのゆらめきに吸い寄せられ、揺れる炎が心の動揺を映し出すようだった。健吾との離婚話が、楠木家の底しれぬ秘密を暴くことになるとしたら……その覚悟が私にあるだろうか。楠木夫妻の事故に隠された不審な報酬、達磨のような八の字……その謎が、単なる裏切りを超えた闇を暗示していた。私はテーブルの上で両手をギュッと握り、唇を噛んだ。冷えた指先が震え、復讐の決意と恐怖が交錯する。 すると、大きな手のひらが私の手にそっと重ねられ、冷えた心を温めるように包み込んだ。相馬の顔を見上げると、銀縁眼鏡の奥で、かつてシロツメクサの花冠を編んだ少年の瞳が穏やかに微笑んでいた。「大丈夫、一緒に乗り越えよう」と、彼の声は静かだが力強く、まるで深い森の闇から私を救い出す光のようだった。 ワインバーの仄暗い空気が一瞬和らぎ、ピノ・ノワールの香りが優しく漂う。私は小さく頷き、ショルダーバッグの中の登記簿謄本を意識した。 「相馬くん、私……このマンションを夫に渡したくないの」 私はテーブルにマンションの登記簿謄本を広げた。健吾と七海がどんな秘密を抱えていようと、私は相馬とともに戦う。キャンドルの光がワイングラスに映り、深紅の液体が揺れる。もし、私と健吾が離婚することになればこのマンションは財産分与で彼に奪われるかもしれない。それだけはなんとしても避けたかった。あの場所は……私が守って来た城だ。誰にも渡さない。
last updateLast Updated : 2025-11-02
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第十二話 葬送曲

 防犯用の監視カメラを新たに設置した私は、健吾の荷物を楠木家の祖父の屋敷に運び出す日を迎えた。リビングは引越し業者の足音と梱包材の擦れる音で騒がしく、かつての静寂は遠い記憶のようだった。   彼が七海と愛を囁き合ったクイーンサイズのベッド、一緒に映画を見て笑い合った胡桃材のソファ、健吾の不恰好なオムレツを食べたマホガニーのダイニングテーブル……全てを無情に運び出すよう、冷たく指示した。引越し業者は額に汗を滲ませ、大型家具を丁寧に梱包し、健吾のスーツや衣類を箱に詰め込んでいた。その姿は、まるで蟻が餌を必死に巣へ運ぶようで、私には滑稽に映った。   しかもその「餌」は、七海が恐れる祖父の屋敷へと届けられるのだ。私の口元に、冷徹な笑みが浮かんだ。社交界きっての仲睦まじい夫婦と称された私たちが離婚に至った……その原因が七海にあると知れば、厳格なお祖父様は二人の道徳に背いた交際にただちに気付くだろう。まして、息子が愛人に産ませた七海を、彼は決して良く思っていない。健吾と七海の未来は、暗雲に閉ざされる。ショルダーバッグの中の登記簿謄本が、私の勝利を静かに支えている。このマンションは私のものだ。監視カメラが健吾の最後の動きを記録し、家具が祖父の屋敷に山のように積まれる時、彼らの秘密は暴かれる。私はベランダに立ち、金沢の街を見下ろした。   エレベーターに積み込まれる家具の重い音が響く中、非常階段を蹴り上げる慌ただしい革靴の音が突如として鳴り響いた。「来たわね&
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第十三話 訣別のエレベーター

最後の言葉を失った健吾は、荷物を運び出し、埃くさいエレベーターに乗り込んだ。振り向いた彼の目は氷のように冷たく、まるで夫婦の最後の絆を自ら断ち切る刃のようだった。「さよなら、健吾」と私は腕を組み、冷笑を浮かべながらその扉が閉まるのを見送った。エレベーターのランプが一階で静かに止まり、機械音が遠ざかる。これで別れなのだ。私たちの時間は、このマンションで刻む時を止めた。 感傷に浸りそうになり振り返ると、弁護士の厳しさから穏やかな眼差しに変わった相馬の銀縁眼鏡の奥が、優しく微笑んでいた。「よく、頑張ったね」と、彼の声は静かだが温かく、気丈に振る舞っていた私の心を包み込むようだった。緊張の糸が切れ、喉の奥に熱いものが込み上げ、頬に一筋の涙がこぼれ落ちた。相馬は白いハンカチをそっと差し出し、私はそれを受け取った。 終わった。このマンションから、健吾と七海の裏切りが染み込んだ時間を全て排除できた。ショルダーバッグの中の登記簿謄本が、私の勝利を静かに支えている。監視カメラの赤いランプが点滅し、抜け殻のリビングが夜景に映える。私はハンカチで涙を拭い、相馬に小さく頷いた。「ありがとう、相馬くん。次があるわ」と呟くと、彼は力強く頷いた。 健吾と七海は祖父の屋敷で暗雲に閉ざされ、楠木家の秘密が暴かれる時を待つ。私の復讐はまだ終わらない。次の戦いは、もっと深く、もっと冷徹に。ベランダの風が私の髪を揺らし、新たな決意を夜空に刻んだ。 ところが、相馬と今後の打ち合わせをしようとリビングを見回すと
last updateLast Updated : 2025-11-04
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14*不倫の証拠は作ればいい

 「こちらのお席でよろしいでしょうか?」と店員に案内されたのは、店内一番奥のソファー席だった。柔らかなクッションと仕切られた空間は、人目を気にせず、気兼ねなくこれからの復讐劇を話し合うのに最適だった。「パソコンも開けますね」と相馬が言うと、「そうね」と私は厳しい眼差しで頷いた。だが、私たちの胃袋は空腹を盛大に訴え、腹の虫が揃って鳴り響く。周囲の賑やかな笑い声、カトラリーやグラスの触れ合う音、厨房から漂う肉の焼ける香ばしい匂いと脂の弾ける音が、復讐の冷たい炎を一瞬和らげた。私と相馬は迷わずメニュー表を開き、色彩豊かなサーロインステーキやハンバーグの写真に目を奪われた。チーズがとろけるハンバーグステーキの写真を見ているだけで、涎がこぼれそうだった。「これにしましょう」「これがいいわ」と、二人同時に指差したのは、チーズたっぷりのハンバーグステーキセットだった。   それは、高校生の相馬が初めてのアルバイト料で私をデートに誘い、照れながら注文したメニューだった。あの日の彼の銀縁眼鏡の奥の笑顔、シロツメクサの冠を編んだ少年の純粋さが、甘酸っぱい思い出として蘇る。自然と笑みが溢れ、相馬も目を細めて頷いた。監視カメラが健吾の狼狽を記録したこの日、復讐は新たな局面へ進む。だが、この賑やかな店内で、相馬との軽やかな時間が心を解きほぐす。「あの時も美味しかったよね」と私が呟くと、「冴子ちゃん、覚えててくれたんだ」と彼が笑う。   「チーズハンバーグステーキ、二つで」と相馬が注文し、「セットのコーヒーは食後で宜しいでしょうか?」と店員が尋ねると、彼は私が頷くのを確認してから「食後でお願いします」とメニュー表を閉じた。こんなさりげない気遣いが、健吾には決してなかった。健吾は私の意思を汲むことなく、勝手にオーダーを決め、
last updateLast Updated : 2025-11-05
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15*投げ入れた小さな石

相馬は銀縁眼鏡を掛け直し、ノートパソコンを静かに閉じた。その流れるような動きは、これから幕が上がる冷徹な計画を、誰の目にも触れないよう巧みに隠すかのようだった。彼はやや温くなったコーヒーカップに唇をつけ、ゆっくりと傾ける。湯気が揺れ、ファミリーレストランの賑やかな喧騒が一瞬遠ざかる。「それで、その写真をどうするの?」と、私は緊張でコーヒーカップの縁を指でなぞり、銀縁眼鏡の奥の感情を探った。その瞳は一瞬、弁護士としての鋭い光を放ち、私の心を射抜くようだったが、すぐに少年の頃の優しい面影を取り戻し、穏やかな微笑みに変わった。「冴子ちゃん、写真はただの火種だよ。健吾さんと七海さんが一緒にいる証拠を、楠木さんの屋敷に届けるんだ」と、彼は低く囁いた。健吾と七海が肩を寄せる一枚が、祖父の厳格な怒りを呼び、楠木家の秘密を暴く導火線となるかもしれない。 「たったそれだけ?」と、私の気の抜けた呟きがファミリーレストランの喧騒に掻き消された。チーズハンバーグの香りと笑い声が響く中、相馬の提案があまりに単純で、拍子抜けするほどだった。すると彼はスマートフォンを取り出し、滑らかな指先で画面をタップした。インスタグラムのアプリが開き、全世界の日常がカラフルな画像と共におしゃべりなコメントとともに表示される。賑やかな投稿は際限なく拡散され、まるで制御不能な波のようだ。 「これがどうしたの?」と私が眉を寄せると、相馬はコーヒーカップを静かに置き、ソーサーでカチャンと繊細な音を立てた。その音は、秘め事を暴く鍵が解かれる瞬間を思わせた。「冴子ちゃんが撮った写真を、適切なタイミングで適切な場所に投稿するだけ。楠木さんの目、世間の目が、健吾さんと七海さんを追い詰めるよ」と、彼は銀縁眼鏡の奥で冷たく微笑んだ。 
last updateLast Updated : 2025-11-06
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16*一億円と孤独な夜

次に相馬はバッグからファイルとボールペンを取り出し、テーブルの上で筆談を始めた。「……どうしたの?」と私がその秘め事に驚くと、彼は唇の前に指を立て、「しっ!」と片目を瞑った。その仕草は、幼い日、小松川の屋敷で悪戯を企んだ少年のような無邪気さを帯び、シロツメクサの冠を編んだ記憶を呼び起こす。だが、紙の上を走るボールペンのインクは、仰々しい文字で冷徹な計画をなぞり始めた。 ファミリーレストランの喧騒が遠ざかり、チーズハンバーグの残り香とコーヒーの湯気が、秘密の空気を濃密に包む。相馬のボールペンが紙を滑り、私のマンションの奥深くに眠る、端の折れた銀行の預金通帳に言及した。「冴子ちゃんの預金通帳には、今、一億円預けられているんだよね?」と、彼の声が急に生々しく響き、私は一瞬戸惑ったが、ゆっくり首を縦に振った。「それは健吾さんから生活費として貰っていた?」と続く問いに、再び頷く。「月々五百万円の生活費、僕にはその感覚が分からないけれど……少し多いような気がするんだ」と、相馬が銀縁眼鏡の奥で探るように私を見つめる。「……そうね」とだけ答え、言葉を濁した。確かにその額は異常だった。健吾の気まぐれな慷慨か、罪悪感の埋め合わせか……真相は闇の中だ。相馬は気心の知れた信頼できる相手だ。だが、十五年の歳月が彼の心にどんな影を落としたか、私には測れない。金銭の話題は、復讐の炎に冷水をかけるようで触れたくなかった。 しかしその不安は杞憂に終わった。相馬は、月々五百万円の生活費が楠木グループのマネーロンダリングの一端ではないかと推測した。「……私、罪に問われるの!?」と、思わず声を大きくし、ファミリーレストランの周囲のテーブルから好奇の視線が集中した。私は慌てて軽く会釈し、視線をチーズハンバーグの残りに落とした。「いや……マネーロンダリングだと決まった訳ではないし、冴子ちゃんが『知らなかった』の
last updateLast Updated : 2025-11-07
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17*祖父との対面

柔らかな陽光がレースのカーテンを揺らし、緩やかな影を床に落とす。窓から差し込む光に埃がキラキラと舞い、私はゆっくりと瞼を開いた。手を伸ばすが、隣に温もりはなく、ヒヤリとしたシーツの冷たさが虚しさを運ぶ。人の気配のないベッドルームは肌寒く、タータンチェックのショールを肩に掛け、ベッドから降りる。フローリングに着いた足の裏は冷たく、背筋を孤独が這い上がった。キッチンへ向かい、ケトルをコンロに置き、戸棚からインスタントコーヒーを探し出す。「……本当に何もないわね」と、フッと自嘲的な笑みが漏れる。ケトルから吹き出す白い煙に、健吾との結婚生活が揺らめき、儚く消える。コポコポとマグカップに湯を注ぐと、味気のないコーヒーの香りが立ち上る。並んだペアのマグカップの縁を指でなぞり、視線をアジアンタムに移した。葉先は、ほんの一日水遣りを怠っただけで萎れ、まるで今の私のようだ。 「今日は何をしようかしら……」と、私はベランダで動き始めた街を見下ろしながら、コーヒーの苦みを舌に残して予定を考えた。抜け殻のリビングは、家具の欠如でまるで廃墟のようだ。このままでは暮らせない。「ファニチャーショップにでも行こうかしら……」と呟くが、ふと楠木家に送り付けた引越しトラック二台分の家具の行方を思い出した。胡桃材のソファ、マホガニーのテーブル、七海と愛を囁いたクイーンサイズのベッド、それらが祖父の屋敷に山のように積まれる光景。「お祖父様が卒倒していなきゃいいけど……」と、唇に冷たい笑みが浮かぶ。あの厳格な老人にとって、禁断の関係と孫の裏切りは耐え難い屈辱だろう。それに、我儘な七海がいつまでもホテル住まいで満足するはずがない。健吾も、彼女のわがままに手を焼いているに違いない。そろそろあの二人が、キャリーバッグを転がし、楠木の重厚な門を叩く頃だ。 
last updateLast Updated : 2025-11-08
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18*禁断の告白

檜の門を叩いたのは、やはり健吾と七海だった。二人はやつれた表情で、キャリーケースを手に敷居を跨いだ。玉砂利を転がるタイヤが歪に響き、紅葉の庭園に不穏な音を刻む。家政婦は戸惑いながら七海のピンクのパールキャリーケースを受け取り、雑巾で丁寧に拭き始めた。「ありがとう」「いいえ、お久しぶりでございます」と、彼女の声には突然の七海の帰国への驚きが隠せない。健吾の黒いキャリーケースが重く床を打ち、「祖父さんは部屋か?」と彼が三和土を上がろうとした瞬間、視線が止まった。そこには、私の見慣れたハイヒールが静かに佇んでいる。健吾の顔が一瞬凍り、七海の黒曜石の瞳が不安に揺れる。 「冴子が来ているのか……」と、健吾がコートを脱ぎながら家政婦に問いかけた。声には動揺が滲み、玉砂利の軋む音が彼の焦りを増幅する。家政婦は視線を逸らし、「先ほど……今は旦那様のお部屋にいらっしゃいます」と、声を震わせて答えた。七海は健吾のスーツの裾を握り、黒曜石の瞳を不安げに見上げ、「お義兄ちゃん……大丈夫なの?」と囁く。その華奢な指に、かつて私の贈った大島紬のネクタイが揺れる。私は和室の襖の陰から玄関先のやり取りに耳を澄ませ、ほくそ笑んだ。健吾の狼狽、七海の怯え……復讐の火種が、楠木家の屋敷で燃え始める。 お祖父様は紫檀の座敷テーブルに片手をつき、心許無く立ち上がった。白髪の髭が震え、厳格な顔に動揺が刻まれる。私は杖を持ち、素早く駆け寄り、その手にそっと握らせた。「おぉ、すまんな冴子さん」と彼が呟く。「いいえ、とんでもない」と、私は穏やかに微笑み、悲哀の嫁を演じる。この些細な気配りが、健吾と七海を追い詰める鍵だ。祖父は杖をつき、胡桃の廊下を軋ませながらゆっくり玄関へ向かう。私はその背中を庇うように後を追い、復讐の舞台を
last updateLast Updated : 2025-11-09
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19*七海の嘘

祖父の顔色はみるみるうちに色を失い、血の気が引いてゆくのが分かった。私は彼の左手を握ったが、それは氷のように冷たく、震えていた。「お祖父様、大丈夫ですか?」と、私の声も自然と上擦り、和室の空気を重く張り詰める。「……誰の子だ」と、絞り出す声には畏れが混じり、健吾を見下ろす目は緊張で見開かれる。私は思わず唾を飲み、胸に悍ましさが渦巻く。健吾は畳から顔を上げ、唇を真横に結び、真剣な表情で「七海の、以前交際していた男性の子供だと聞いています」と断言した。私はスウと息を吸い込み、マンションで目にした乱れたベッドシーツ、七海の甘い香水、健吾の裏切りの夜を思い出した。そんな訳はない……二人は愛を囁き合う関係だ。産まれてくる子供は、99%、同じDNAの螺旋を描いているだろう。 そんなことなど思いもよらない祖父は、紫檀のテーブルに杖を叩きつけた。杖が折れんばかりの勢いで、和室の重厚な空気を激しく切り裂き、抹茶の湯気が揺れる。「七海! やはりお前は下賎な女の娘だな! 健吾! こんな娘に現を抜かす前に、冴子さんとの離婚を考え直せ!」と、怒号が屋敷の梁に響く。その言葉に私の背筋が冷え、健吾との縁を一刻も早く絶ちたいと願う。実の妹と肉体関係を結び、子供を儲けるような男……悍ましさが胸を抉る。私は悲嘆に暮れる嫁を演じ、涙を浮かべて健吾と七海を窺う。健吾の顔は青ざめ、七海は黒曜石の瞳を震わせ、祖父の逆鱗に触れた後悔と恐れが滲む。キャンディの香水が、禁断の関係を愚かに匂わせた。 祖父は行き場のない怒りに顔を赤らめ、胸を抑え前屈みに蹲った。「お祖父様! 大丈夫ですか!?」と私は駆け寄るが、呼吸は荒く、杖を握る手が小刻みに震える。「祖父さん、大丈夫か!?」と健吾が肩を支えようと手を伸ばすと、祖父はその手を強く振り払った。「お前の助けなど
last updateLast Updated : 2025-11-10
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20*赤いドレス

相馬はスマートフォンを、トランプのカードをテーブルに並べるようにゆっくりと置いた。画面には「妊娠を見抜く方法」という見出しの記事が表示され、冷たい光を放つ。「七海さんの診断書を……取り寄せるの?」と、私はテーブルに身を乗り出し、低い声で彼の表情を窺った。チーズハンバーグの鉄板がジュッと音を立て、ファミリーレストランの騒めきが遠ざかる。相馬は首を振って私の顔を凝視し、「七海さんが、どちらのクリニック……産婦人科を受診しているかは不明です」と掠れた声で答えた。「……そうね、分からないわ」と、私も声を潜める。七海の嘘……健吾を引き止めるための爆弾を暴く鍵は、まだ闇の中だ。私たちの戦いは、この不明なクリニックで新たな局面を迎える。私はポテトフライをフォークで刺し、「どうやって探す?」と問う。相馬は銀縁眼鏡を押し上げ、冷たく微笑んだ。「その時が来たら、七海さんは自ら告白することになるでしょう」と囁く。「その時?」「ええ、その時です」家族連れの笑い声が虚しく響く中、静かな計画が沈み込む。 やがて夕闇が窓を覆い、ファミリーレストランののぼり旗が激しく風にはためき始めた。雲行きが怪しくなり、磨き上げられたガラス窓に雨粒が筋を描く。「嵐みたいね」と私が呟くと、稲光が手元を一瞬照らす。「そうだね」と相馬が応じ、銀縁眼鏡の奥で静かに微笑む。私たちは、舌に豆の粉が残るような不味いコーヒーを飲んでいた。カップをソーサーに置くと、カチャンと小さな音が響く。その瞬間、テーブルの上に置いた私のスマートフォンが不穏な空気で震え出した。「……ちょっとごめんなさい」と、発信元を確認すると楠木の固定電話。嫌な予感が胸をよぎる。早足で出入り口のドアに向かい、通話ボタンを押すと、家政婦の声が飛び込んできた。尋常ではない、慌てふためく声色。「冴子様! 大変です! 旦那様が……!」と、言葉が途切れる。
last updateLast Updated : 2025-11-11
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