森は記憶している。 千年前の嵐を、五百年前の干ばつを、百年前の大火を。樹々は年輪に刻み、土は層に積み、風は種を運んで記憶を未来へと繋いでいく。だが森の奥深く、陽の届かぬ古木の根元に佇む者だけは、それらすべてを己の肉体で記憶していた。 セレイン・アルヴェリアス。 エルフの魔導師である彼にとって、この森での滞在はまだ「短い」部類だった。百二十年。人間ならば五世代が入れ替わる時間も、彼にとっては長い瞑想の一部でしかない。 彼の住処は樹齢二千年を超えるユグノアの大樹の根元に設けられていた。魔法で空洞を作り、蔦と苔で入口を覆い隠した簡素な空間。そこには魔導書と魔法陣、そして彼が長い歳月で収集した植物標本が整然と並んでいる。 セレインの手は、いま目の前の標本箱に収められた一輪の花に触れていた。エフェメラル・ブロッサム――朝に咲き、夕に散る幻の花。彼がこの森に来た最初の春に摘んだものだ。「百二十年前か」 彼は呟いた。声には感慨も郷愁もない。ただ事実を確認するように。 エルフの時間感覚は、人間のそれとは根本的に異なる。彼らの細胞分裂の速度は人間の十分の一以下であり、神経伝達物質の代謝回転も極めて緩やかだ。そのため主観的な時間の流れ――哲学者ベルクソンが「持続」と呼んだもの――が人間よりも遥かに引き延ばされている。 人間が「昨日」と感じる時間を、エルフは「つい先ほど」と認識する。 これは祝福であり、同時に呪いでもあった。 セレインは五百六十年を生きてきた。その間、彼は無数の出会いと別れを経験した。友と呼べる者もいた。師と仰ぐ者もいた。だが彼らのほとんどは人間であり、彼の主観ではまだ「つい最近」別れたばかりなのに、彼らはとうに土へと還っている。 だから彼は決めたのだ。もう誰とも深く関わらないと。 森の中で、ただ魔法の研究に没頭する。植物を観察し、星を読み、古代の魔法理論を解明する。それが彼の選んだ生き方だった。時間という絶対的な隔たりを前に、関係性を築くことの無意味さを悟った者の選択。 ユグノアの根元から外を見れば、夕陽が木々の間から差し込んでいる。琥珀色の光が浮遊する花粉を照らし出し、空気そのものが金色に染まっていた。 美しい光景だ、とセレインは思う。だが彼の胸に湧くのは静かな諦念だけだった。 この美しさもまた、永遠に続く。そして永遠に続くものは、
Last Updated : 2025-11-23 Read more