四十歳になった健太は、ある夜不思議な夢を見た。 夢の中で彼は十二歳の少年に戻っている。見渡す限りの稲穂が風に揺れ、入道雲が空の半分を占めている。どこかで風鈴の音がする。遠くで誰かが呼んでいる気がして振り返るが、誰もいない。ただ風だけが頬を撫でていく。 目覚めたとき健太の目には涙が浮かんでいた。なぜ泣いているのか自分でもわからない。ただ胸の奥に夏草の匂いのような、甘く切ない何かが残っている。 その夜から健太は毎晩のようにあの夏の夢を見るようになった。 夢は断片的だった。川辺で誰かと笑い合っている場面。蛍の光の中を歩く場面。星空の下で誰かと語り合う場面。でも相手の顔はいつもぼやけていて、声も風に溶けて聞き取れない。 目覚めるたびに健太は思う。あれは本当にあったことなのだろうかと。それとも脳が作り出した架空の記憶なのだろうかと。 量子力学には「観測者効果」という概念がある。観測という行為そのものが対象の状態を変えてしまうという理論だ。もしかしたら記憶も同じなのかもしれない。思い出すという行為そのものが、記憶を変容させていく。何度も思い出すうちに記憶は現実から離れて、より美しく、より切なく、より夢に近いものになっていく。 健太の手元には一枚の写真があった。色褪せた写真の中で、十二歳の健太が麦わら帽子をかぶって笑っている。背景には田園風景が広がっている。でも写真には健太一人しか写っていない。 本当に一人だったのだろうか。 健太は写真の端を見つめる。まるでそこにもう一人誰かがいたような、切り取られたような空白がある気がする。 ポケットの中で何かが触れる感触がある。取り出すと小さな青い羽根だった。驚くほど軽く、風に飛ばされそうな羽根。これは確かに誰かからもらったものだ。でも誰から? いつ? 健太は目を閉じる。すると暗闇の中に光が見える。淡い月のような光。そしてその光の中に、ぼんやりとした少年の姿が浮かび上がる。 その少年の名前は——。 健太は必死に思い出そうとする。でも名前は霧の向こうにあって、手を伸ばしても届かない。 その夜も健太は夢を見た。今度は夢がより鮮明だった。川辺に立つ少年の姿が見える。日に焼けた肌、少し長めの黒い髪。白いシャツに半ズボン。その少年が振り返って笑う。 その笑顔を見た瞬間、健太の胸に激しい感情が押し寄せた。懐かしさ、切なさ
Last Updated : 2025-11-28 Read more