門野真澄が初めて鳳凰院蓮杖を観たのは、二年前の春だった。 歌舞伎座の三階席、一番後ろの安い席。会社の先輩に誘われて半ば義理で訪れた舞台で、真澄の人生は一変した。花道から登場した蓮杖は、この世のものとは思えない美しさだった。白塗りの顔に紅を差し、金糸で鶴が織り込まれた打掛を纏った姿は、まさに「生きた人形」という表現が相応しかった。 それ以来、真澄は蓮杖の熱烈なファンになった。公演があれば必ず足を運び、チケットが取れなければ当日券の列に並んだ。蓮杖の演じる『娘道成寺』の白拍子花子、『京鹿子娘道成寺』の清姫。彼の女形は、優美さと妖艶さが完璧なバランスで調和していた。 真澄の部屋には蓮杖関連のグッズが溢れていた。公演パンフレット、ブロマイド、雑誌の切り抜き。友人たちは「また推し活?」と笑ったが、真澄にとって蓮杖は単なる趣味ではなく、生きる活力そのものだった。 平凡な会社員としての日々。経理部で数字と格闘し、上司の小言に耐え、取引先との調整に追われる。そんな灰色の日常に、蓮杖の舞台だけが鮮やかな彩りを与えてくれた。 そして今日、令和六年十一月の穏やかな午後。真澄は歌舞伎座の前に立っていた。 昼の部の公演を観終わり、まだ興奮が冷めやらない。今日の蓮杖は特に素晴らしかった。『京鹿子娘道成寺』で舞台を舞う姿は、本当に蛇の化身が人間の姿を借りているかのようだった。「はぁ……今日も最高だった」 真澄は大きく息を吐いた。十一月の冷たい空気が肺を満たす。もう帰らなければならない。明日も仕事だ。 歌舞伎座を背にして歩き出そうとしたとき、目の前の地面に何かが落ちていることに気づいた。 扇子だ。 それも、ただの扇子ではない。黒い漆塗りの骨に、金で松と鶴が描かれた、明らかに高級な品だった。扇面には「鳳凰院」という文字が小さく書かれている。 真澄の心臓が激しく跳ねた。「これ、もしかして……」 蓮杖のものかもしれない。いや、間違いない。「鳳凰院」という屋号は、彼の一門のものだ。 真澄は扇子を拾い上げた。手に取ると、かすかに白粉の香りがする。間違いない、これは舞台で使われたものだ。「届けなきゃ」 真澄は歌舞伎座の楽屋口へと駆け出した。 楽屋口には、すでに何人かのファンが出待ちをしていた。真澄も以前は出待ちをしたことがあ
Last Updated : 2025-12-07 Read more