第一章 静定構造の均衡 都市の輪郭が、灰色の雨に溶け出していた。 午後八時を回り、空調の切れたオフィスには、湿度を帯びた静寂が沈殿している。大手総合建築設計事務所「アルク・デザイン」のフロアで稼働しているのは、奥まったデスクの一角だけだ。 雨音が窓ガラスを叩く不規則なリズムと、キーボードを叩く硬質な音が、奇妙な和音を奏でている。 日向湊は、手元の素材サンプルから視線を上げ、斜め向かいのデスクを盗み見た。 そこにいるのは、構造設計部のエースであり、社内でもその名を轟かせる加賀見壮一郎だ。三十二歳という若さでチーフを任された彼は、文字通り「完璧な構造」のような男だった。 仕立ての良いチャコールグレーのスーツには、シワ一つない。銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、常に数値と力学の均衡を見据えている。彼が設計する建築物は、どんな地震や強風にも揺らがない堅牢さを誇り、その性格もまた、一切の妥協を許さない冷徹さで知られていた。 だが、日向だけが知っている加賀見がいる。「日向。クロスの選定、まだ迷っているのか」 モニターから目を離さず、加賀見が声をかけてきた。低いが、よく通るバリトンボイスだ。「あ、すみません。クライアントの要望が『温かみのあるモダン』という矛盾したオーダーなもので……。加賀見さんの方こそ、構造計算は終わったんですか?」「躯体の応力分布に微細な偏りがある。許容範囲内だが、美しくない」 加賀見が眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。その仕草だけで、日向はドキッとしてしまう。 日向はインテリアデザイン部、加賀見は構造設計部。 本来なら水と油のような職種だが、二人は入社以来、多くのプロジェクトでペアを組んできた。 社内では「アルクの黄金比」と揶揄されるほどの阿吽の呼吸。加賀見が描く無骨で力強い骨組みに、日向が柔らかな色彩と光を吹き込む。それは、互いにないものを補完し合う、完璧な静定構造のように見えた。「美しくない、ですか。加賀見さんの計算書は、いつだって芸術品みたいに見えますけど」「……お前が言う『美しさ』は、住む人間の感性に訴えるものだろう。俺のは、重力に対する単なる解に過ぎない」 加賀見がふと手を止め、日向を見た。その視線が絡み合った瞬間、オフィスの空気がわずかに熱を帯びる。 日向はこの
Last Updated : 2025-12-13 Read more