All Chapters of BL短編集◆愛しいきみの腕の中で: Chapter 1 - Chapter 10

18 Chapters

001:不完全性定理と雨の夜の定義

第一章 静定構造の均衡 都市の輪郭が、灰色の雨に溶け出していた。 午後八時を回り、空調の切れたオフィスには、湿度を帯びた静寂が沈殿している。大手総合建築設計事務所「アルク・デザイン」のフロアで稼働しているのは、奥まったデスクの一角だけだ。 雨音が窓ガラスを叩く不規則なリズムと、キーボードを叩く硬質な音が、奇妙な和音を奏でている。 日向湊は、手元の素材サンプルから視線を上げ、斜め向かいのデスクを盗み見た。 そこにいるのは、構造設計部のエースであり、社内でもその名を轟かせる加賀見壮一郎だ。三十二歳という若さでチーフを任された彼は、文字通り「完璧な構造」のような男だった。 仕立ての良いチャコールグレーのスーツには、シワ一つない。銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、常に数値と力学の均衡を見据えている。彼が設計する建築物は、どんな地震や強風にも揺らがない堅牢さを誇り、その性格もまた、一切の妥協を許さない冷徹さで知られていた。 だが、日向だけが知っている加賀見がいる。「日向。クロスの選定、まだ迷っているのか」 モニターから目を離さず、加賀見が声をかけてきた。低いが、よく通るバリトンボイスだ。「あ、すみません。クライアントの要望が『温かみのあるモダン』という矛盾したオーダーなもので……。加賀見さんの方こそ、構造計算は終わったんですか?」「躯体の応力分布に微細な偏りがある。許容範囲内だが、美しくない」 加賀見が眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。その仕草だけで、日向はドキッとしてしまう。 日向はインテリアデザイン部、加賀見は構造設計部。 本来なら水と油のような職種だが、二人は入社以来、多くのプロジェクトでペアを組んできた。 社内では「アルクの黄金比」と揶揄されるほどの阿吽の呼吸。加賀見が描く無骨で力強い骨組みに、日向が柔らかな色彩と光を吹き込む。それは、互いにないものを補完し合う、完璧な静定構造のように見えた。「美しくない、ですか。加賀見さんの計算書は、いつだって芸術品みたいに見えますけど」「……お前が言う『美しさ』は、住む人間の感性に訴えるものだろう。俺のは、重力に対する単なる解に過ぎない」 加賀見がふと手を止め、日向を見た。その視線が絡み合った瞬間、オフィスの空気がわずかに熱を帯びる。 日向はこの
last updateLast Updated : 2025-12-13
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002:鉄の心臓が奏でるノクターン

第一章 初期化ルーチン(Initialization) 酸性雨が降り止まない灰色の都市、ニュー・トウキョウ。 その第十三居住区、旧市街の片隅に、時代に取り残されたような煉瓦造りの洋館が佇んでいる。ドーム都市の管理された人工気象とは無縁の、冷たく湿った外気が、分厚いカーテンの隙間から滲み込んでいた。 午前七時〇〇分〇〇秒。 アルファ(AR-α)の視覚素子が起動する。システムチェック、オールグリーン。駆動系、異常なし。機体温度、摂氏三六・五度——人間が最も安心感を覚える温度に調整完了。 彼は音もなくベッドサイドに歩み寄り、天蓋付きのベッドで浅い眠りについている「主人(マスター)」を見下ろした。 冬月律。かつて世界的な称賛を浴びた天才ピアニスト。 透き通るような色素の薄い肌、夜の色を映したような黒髪、 そして今は光を失い、閉ざされたままの瞳。 アルファの電子頭脳において、この存在は「最優先保護対象」として定義されている。だが、最近の処理ログには、単なる保護プログラムでは説明のつかない、不可解な演算負荷が蓄積されていた。「……律様。朝です」 アルファが声をかけると、律の眉がわずかに動いた。 のろのろと起き上がる律の背中に、アルファは素早く、しかし絹よりも柔らかい手つきでガウンを羽織らせる。「……雨の音。今日も降ってるのか」「はい。降水確率は九十八パーセント。気圧低下による偏頭痛の兆候はありませんか?」「ないよ。お前はいちいち細かすぎる」「私の機能ですので」 律は不機嫌そうに唇を尖らせるが、アルファの手を振り払うことはしない。視力を失った律にとって、アルファの腕は世界と繋がる唯一のインターフェースだからだ。 洗面所へ誘導し、蒸しタオルで顔を拭く。そして、朝の着替え。 寝巻のボタンを外すと、痩せた白い胸元が露わになる。アルファの視覚センサーが、律の心拍数、呼吸数、皮膚温度を瞬時にスキャンする。(心拍数、正常。体表温度、やや低下。……接触による加熱を推奨) アルファは温めた自身の指先で、律の鎖骨の窪みをなぞるように触れた。 ビクリ、と律の肩が跳ねる。「……冷たいですか?」「逆だ。熱いんだよ、お前の指は。……まるで生きている人間みたいで、気持ち悪い。機械のくせに
last updateLast Updated : 2025-12-13
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003:カーテンコールは微熱のあとで

第一章 本読み 都内某所、大手映画配給会社の第一リハーサル室。 張り詰めた空気の中、空調の低い駆動音だけが響いている。 長机の中央に座っているのは、今、日本で最もチケットが取れないと言われる国民的俳優、九条蓮だ。 三〇歳という男盛りの年齢に加え、彫刻のように整った顔立ちと、スクリーンを圧倒する演技力。「歩く芸術品」と称される彼は、台本に視線を落としたまま、微動だにしない。 その対面に座る瀬戸遥は、膝の上で固く拳を握りしめていた。 二二歳。かつては「天才子役」と持て囃されたが、成長ととも青年らしい外見になり、それにともなって仕事が激減し、今は崖っぷちの状態だ。今回の映画『硝子の檻』の準主役に抜擢されたのは、奇跡に近い。「……違う」 九条の低く、冷たい声が静寂を切り裂いた。 遥の肩がビクリと跳ねる。「く、九条さん……?」「今のセリフ。君は『ユウ』として俺を愛している設定だ。だが、今の君の声には体温がない。ただ台本をなぞっているだけだ」 九条がゆっくりと顔を上げた。切れ長の瞳が、射抜くように遥を捉える。 その視線の強さに、遥は息を呑んだ。憧れの人と共演できる喜びは、クランクイン前の読み合わせの段階で、畏怖へと変わっていた。「す、すみません。もう一度……」「何度やっても同じだ。……休憩にしよう。他の皆は外へ。瀬戸君、君だけ残ってくれ」 九条の指示に、監督やスタッフたちが気まずそうに部屋を出ていく。 広いリハーサル室に、二人きり。 逃げ場のない閉鎖空間で、九条が立ち上がり、遥の元へ歩み寄ってくる。高級なレザーシューズが床を叩く音が、遥の心拍数とシンクロして早まる。「九条さん、あの、僕は……」「立って」 短く命じられ、遥は反射的に立ち上がった。 身長一八五センチの九条に対し、遥は一七二センチ。見下ろされる圧迫感に足がすくむ。 九条の手が伸び、遥の顎を強引に上向かせた。「君は、俺演じる殺人鬼『リョウ』に、全てを捧げる役だ。命も、身体も、魂もだ。……経験は?」「え?」「男として、男を知っているか、と聞いている」 あまりに直截的な問いに、遥の顔が沸騰したように赤くなる。「し、知りません! そんな……」「だろうな。君の演技は綺麗だが、渇いている。欲望の匂いがしない」 九条の親指
last updateLast Updated : 2025-12-13
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004:氷の王冠と誓いの口づけ

第一章 凍てついた心臓 北の大国ノルドガルドの冬は、魂さえも凍てつかせると言われている。 王城の尖塔は鋭利な氷柱に覆われ、吹き荒れる風が慟哭のように石壁を叩いていた。 その最上階、王族の私室にあるバルコニーに、一人の青年が立っていた。 第二王子、エリス。 二十一歳を迎えたばかりの彼は、この極寒の風景の一部であるかのように美しく、そして冷ややかだった。月光を吸い込んだような銀髪。長い睫毛に縁取られた瞳は、深淵の紫水晶の色をしている。「……殿下。そのような薄着で外に出られては、お身体に障ります」 背後から、低く重厚な声がかけられた。 エリスの肩が、微かに――本当に微かに強張った。 振り返らずとも分かる。そこに立っているのは、近衛騎士団長ジークフリート。漆黒の鎧を纏い、「黒狼」の異名で畏怖される、エリスの専属護衛騎士だ。 幼い頃から、常にエリスの影として傍らにいた男。 そして、エリスがこの世で唯一、愛してしまった男。 エリスは手すりを握る手に力を込めた。革の手袋越しに、冷気が染み込んでくる。 心臓が早鐘を打ち始めている。駄目だ、感情を高ぶらせてはいけない。 ノルドガルド王家の血に宿る氷の呪い。 愛、怒り、悲しみ。激しい感情の波動は、宿主の体温を奪い、最終的にはその身を氷の像へと変えて砕け散らせる。 ジークフリートが傍にいるだけで、エリスの胸には恋慕という名の熱い炎が灯り――皮肉なことに、それが呪いの氷を呼び寄せてしまうのだ。 最近、その発作は頻度を増していた。指先の感覚が消えかけている今も。「……ジークフリート」 エリスは感情を凍結させ、能面のような冷徹さを装って振り返った。「今日限りで、私の護衛を降りろ」「……は?」 常に沈着冷静なジークフリートが、素っ頓狂な声を上げた。端正で無骨な顔に、動揺が走る。「意味が分かりかねます。私が、何か不手際を?」「不手際などない。ただ、飽きたのだ」 嘘だ。 喉が張り裂けそうになるのを堪え、エリスは言葉のナイフを放ち続ける。「お前のような無骨な男が常に背後にいるのは、息が詰まる。これからは誰もつけない。一人の方が気楽だ」「殿下! 今の国内情勢をご存知ですか。第一王子派の動きが不穏な今、あなたを一人にすることなど……!」「これは王命だ、ジーク
last updateLast Updated : 2025-12-13
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005:緋色の祝言とあやかしの檻

第一章 雪の夜の嫁入り 大正××年、帝都。 鉛色の空から、牡丹雪が音もなく降り注いでいた。まるで天が泣いているかのような、静かな、しかし容赦のない雪だった。 ガス灯の頼りない明かりが、石畳の路地を薄ぼんやりと照らしている。その静寂を破るように、一台の人力車が軋んだ音を立てて進んでいた。車輪が雪を踏みしめるたびに、ミシリ、ミシリと悲鳴のような音が響く。 乗っているのは、一人の青年だ。 千白。二十一歳になる彼は、男でありながら白無垢を纏わされていた。 没落した分家の生まれであり、稀代の「凶運」と忌み嫌われた霊媒体質。物心ついた頃から座敷牢に閉じ込められ、家族からすら疎まれて育った。千白の体質は、周囲のあやかしや悪霊を引き寄せる磁石のようなもので、彼が外を歩けば、必ず怪異が群がってきたのだ。 そんな彼に与えられた最後の運命は、帝都の闇を鎮める退魔の名門・久堂家への「生きた供物」としての嫁入りだった。分家は千白を売り払い、その代金で没落を多少なりとも遅らせようとしているのだ。 (寒い……) 綿帽子を目深に被った千白は、膝の上で震える手を重ねた。指先の感覚はとうに失われ、白い息だけが虚しく宙に消えていく。 久堂家の当主・久堂蓮二郎は、冷酷無比な鬼神のごとき男だと聞いている。軍属の退魔師として数多の怪異を屠り、その刃は血に飢えているという。霊力を消耗しやすいその男の「器」として、千白は使い潰されるために買われたのだ。 自分の命など、この雪のように儚く消えるのだろう。 いや、もしかしたら雪よりも軽いかもしれない。雪はせめて地面に触れるまで存在を許されるが、自分は触れることすら許されずに消えるかもしれないのだから。 千白は目を閉じた。幼い頃、座敷牢の格子から見上げた空の記憶が蘇る。あの狭い牢の中で、千白はただ一人、誰とも触れ合うことなく育った。家族は千白を恐れ、使用人は千白を忌避し、誰一人として優しい言葉をかけてはくれなかった。 だから、もう何も期待していない。 痛みがあるなら、せめて早く終わってほしい。それだけが、千白の願いだった。 やがて車夫が足を止めた。目の前には、威圧的な武家屋敷の門がそびえ立っている。 黒々とした門には、金色の家紋が鈍く光っていた。二匹の龍が絡み合う意匠は、見る者を威圧するかのように複雑で、禍々し
last updateLast Updated : 2025-12-14
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006:裏切りの銃弾とネオンの雨

第一章 蜜と毒(Honey and Poison) アジア最大級の歓楽街、九龍エリア。 極彩色のネオンサインが、途切れることなく降りしきる雨に滲み、濡れたアスファルトを毒々しく染めている。ピンク、グリーン、ブルー、レッド――無数の光が乱反射し、この街全体を巨大な万華鏡の中に閉じ込めているかのようだ。 路地裏から立ち昇る中華料理の油の匂いと、ドブ川の腐敗臭、そして安っぽい香水の匂いが混ざり合う。売春宿から漏れる下品な笑い声、マージャン牌の音、遠くで鳴り響くサイレン――欲望と犯罪の掃き溜めのような街。 だが、この汚濁にまみれた街こそが、ケイにとって過去二年間の戦場だった。 その一角にある会員制クラブ「ヴェルベット」。地上三階、地下一階の瀟洒な建物は、周囲の安酒場や麻雀店とは明らかに一線を画していた。入口には屈強なボディガードが二人、黒いスーツに身を包み、値踏みするような目で通行人を睨んでいる。 この店のVIPルームは、紅竜会の幹部たちだけが使える聖域だった。 重低音のビートが床を震わせ、壁の防音材を通してなお、下階のフロアから歓声が漏れ聞こえてくる。革張りのソファに深く沈み込んでいる男がいた。 レイ。 この街を牛耳る巨大犯罪組織「紅竜会」の若き幹部にして、裏社会で最も恐れられる男の一人。齢はまだ二十九歳というが、組織内での地位は頭目に次ぐ序列三位。麻薬、武器、人身売買――あらゆる闇ビジネスを手がけ、その冷酷さと頭脳で組織を支配している。 気怠げに紫煙をくゆらすその横顔は、映画スターのように端正だ。彫りの深い顔立ち、真っ直ぐな鼻筋、薄く引き結ばれた唇。だが、その美貌の奥に潜む瞳には、決して飼い慣らせない獣が棲んでいる。「……で? 西地区のシマを寄越せだと?」 レイが低い声で呟く。その声には、侮蔑と苛立ちが滲んでいた。 対面に座る男――敵対組織「青蛇幇」の幹部・チョウが、脂汗を拭いながら愛想笑いを浮かべた。彼の額には大粒の汗が浮かび、高級スーツの襟元が湿っている。「いや、レイさん、寄越せとは言っておりません。ただ、共同管理という形で……」「共同管理?」レイが鼻で笑った。「つまり、お前らが何もせずに利益の半分を持っていくということか」 一触即発の空気が、部屋を支配した。 レイの背後に控え
last updateLast Updated : 2025-12-14
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007:砂漠の獅子と月夜の盗賊

第一章 王宮の罠(The Trap) 砂漠の大国アズラク。 太陽が地平線の彼方に沈み、灼熱の大地が深い瑠璃色の夜に包まれる頃、王都は妖艶な静寂に支配される。 巨大な城壁に囲まれた王宮の尖塔が、月の光を受けて白銀に輝いていた。 その王宮の屋根を、音もなく駆ける黒い影があった。 ジャミルだ。二十一歳の彼は、貧民街で育った孤児でありながら、悪徳商人の蔵しか狙わない義賊として、裏社会で「青い月(カマル)」と呼ばれ英雄視されている。 しなやかな肢体は猫のように軽やかで、夜風に靡く黒髪の間から、宝石のような青い瞳が鋭く光る。(今日の獲物は、王の寝室にあるという『嘆きのダイヤ』だ) ジャミルは警備兵の巡回を完璧なタイミングですり抜け、最も高い塔のバルコニーへと降り立った。 侵入成功。 そう確信して、透かし彫りの施された豪奢な窓枠に手をかけた、その時だった。 ガシャリ、と冷たい金属音が響く。 足元の床が抜け、ジャミルは抗う間もなく落下した。「うわっ!?」 受け身を取って着地した先は、石造りの冷たい地下牢――ではなく、ペルシャ絨毯が敷き詰められた広大な部屋だった。 甘い香油の匂いが鼻をくすぐる。 無数の絹のクッション、金細工の施された柱、そして部屋の中央にある天蓋付きの寝台。 そこには、一人の男が優雅に寝そべり、グラスを傾けていた。「ようこそ、我が寝室へ。……随分と可愛らしい鼠が迷い込んだものだ」 男がゆっくりと身を起こす。 鍛え抜かれた褐色の肌に、王族の証である黄金の装飾品。猛禽類を思わせる鋭い金色の瞳。 アズラク国の若き王、カリムだ。「黄金の獅子」と畏れられる、この国の絶対支配者。「罠か……!」 ジャミルは即座に腰の短剣に手を伸ばすが、それより早く、部屋の四隅から現れた近衛兵たちに取り押さえられた。「離せ! 卑怯だぞ、王なら正々堂々と……!」「盗っ人が正々堂々を語るとは笑わせる。……だが、いい度胸だ」 カリムが近づいてくる。 その威圧感は、砂漠の太陽のように圧倒的だ。 彼は捕らえられたジャミルの前に立ち、無遠慮にその顎を掴んで顔を上げさせた。「ほう。貧民街の塵にしては、随分と美しい目をしている」 カリムの指が、ジャミルの頬を撫でる。 値踏みするような、それでいて獲物を愛でるような視線。ジャミルは屈辱に唇を噛み、その手
last updateLast Updated : 2025-12-14
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008:きらめく破片と、金継ぎの愛

第1章: 完璧な献身と潜む亀裂 六畳一間のアトリエ兼居間で、律はろくろを回していた。土の柔らかな香りが、奥のキッチンから漂う淹れたてのコーヒーの香りと混ざり合う。晶の淹れるコーヒーはいつも完璧で、マグカップの取っ手の向きさえ律が使いやすいように揃えられている。その几帳面さが、金融アナリストとして働く彼の本質であり、律が愛してやまない横顔だった。  晶は完璧だった。  朝食は栄養バランスを計算されたスムージーと全粒粉のトースト。家賃や公共料金の支払いは一度も遅れたことがない。友人や家族への対応は常に誠実で、律の陶芸家としての活動に対しても、最も論理的で現実的な助言を与えてくれる。律の陶芸作品で「愛されすぎてひびが入った」お気に入りの抹茶碗を、彼は専門業者に頼み、最新の樹脂と漆で修理に出してくれた。  「直す」行為は、晶にとって『不完全なものを完全に戻す』論理的なプロセスだった。  「律。週末のギャラリーの打ち合わせ、場所と時間、全てメールで送っておいたよ。資料もPDFで添付した。確認してくれ」  律は泥まみれの手を止め、振り返った。晶は既に外出着に着替え、完璧にプレスされたシャツの袖に腕を通している。律は首にかけたタオルで手を拭き、近づいた。 「うん、ありがとう、晶。相変わらず抜かりないね」「抜けがあって、君に迷惑をかけるわけにはいかないから」  晶は微笑んだ。その微笑みは温かいが、どこか深い部分で彼自身を隠しているように感じられた。律は晶のシャツの襟を直し、ネクタイを締め直してやった。 「完璧な晶さん。今日も世界を論理で救ってくるのかな?」「世界は救えないが、私の顧客の資産を守るのが仕事だ」  晶は律の顎先に残ったわずかな土を指先で拭い、そのまま律の頬を優しく包んだ。その手のひらの熱が、律の心臓を穏やかに揺らす。 「愛してるよ、律。君は、私にとっての…完璧な『定数』だ」  晶の言う「定数」とは、金融モデルにおける不変の基準値のことだ。律は、晶の頭の中で自分が最も信頼できる、揺るぎない存在なのだと理解した。だが同時に、その完璧な論理に守られていることが、時々ひどく息苦しくなる。 「……うん。僕も愛してる」  律は晶の首に腕を回し、少しだけ背伸びして、彼の唇に軽く触れた。短いキス。愛情に満ちた、いつものルーティ
last updateLast Updated : 2025-12-14
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009:不協和音の夜と、象牙の誓い

第1章: 完璧な技術と、才能の不協和音 音楽大学の練習室。蓮の指が、スタインウェイの鍵盤の上を滑る。奏でられているのは、ショパンの難曲『バラード第1番』。音の一つ一つが驚くほど正確で、テンポの揺らぎさえも論理的に計算されているかのようだった。その完璧な技術は、聴く者に知的な快感を与える。  しかし、誰もいないはずの部屋の隅から、低い溜息が聞こえた。  「相変わらず、綺麗事しか弾けないな、レン」  声の主は、馨だった。蓮の二年上の先輩であり、この大学で最も奔放な才能を持つピアニスト。技術的には粗い部分も多いが、彼の弾く音には、聴く者の心を抉るような、生の感情が宿っていた。  蓮は演奏を止め、振り返った。 「馨さん。そこにいたんですか。勝手に聞かないでください」「聞くも聞かないも、君の音は壁を突き破ってくる。だが、薄い」  馨はそう言って、蓮の隣の椅子に腰掛けた。 「君の音には、『自由度』が欠けている。まるで、AIが完璧なパラメーターで出力した音みたいだ。楽譜という論理は完璧に守っているが、その先にある感情が凍結している」  蓮は、その言葉に深く傷ついた。それは、彼が最も恐れ、認められたいと願っている部分だったからだ。彼は馨の、楽譜を無視してでも聴衆の感情を揺さぶる、天性の才能に激しく憧れていた。  「僕には、馨さんのような才能はありません。僕にできるのは、与えられた楽譜を、誰よりも正確に、誰よりも論理的に、最高の技術で弾きこなすことだけです」  蓮は立ち上がろうとしたが、馨が彼の細い手首を掴んだ。その指の力が、技術屋である蓮の手首を軋ませる。  「逃げるな、レン。君の音を薄くしているのは、君の技術じゃない。君の中にある、『何か』だ」  馨の瞳には、愛と、そして隠しようのない嫉妬が混在していた。  馨は蓮の技術に嫉妬し、それを罵るが、その罵倒の根底には、蓮の完璧さを独占したい、壊したいという強い愛と執着がある。蓮は馨の才能に憧れ、傷つけられることに耐えながらも、馨の感情的な爆発を何よりも必要としている。  二人は共に信じている。「馨は、蓮の才能を認めず、嫉妬からその芸術性を否定している」。だが、馨の真の動機は、別の場所に潜んでいる。第2章: 嫉妬の音律と、過去のトラウマ 二週間後、二人は権威ある国際コンク
last updateLast Updated : 2025-12-14
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010:背徳の聖餐と白銀の十字架

第一章 神の羊と夜の獣(The Lamb and the Beast) 欧州の辺境、深い霧に閉ざされた森の奥深く。 断崖の上に聳え立つ古城「ノスフェラトゥの城」は、数世紀にわたり人の侵入を拒んできた魔の領域だ。 月光さえも凍りつくような寒夜。城の重厚な扉が、軋んだ音を立てて開かれた。 足を踏み入れたのは、一人の青年だった。 ノエル。教会の異端審問局に所属する若き祓魔師(エクソシスト)。 闇に溶け込む黒い司祭服(カソック)に身を包み、銀髪が冷たい風に靡いている。その手には、清められた銀の十字架と、白木の杭が握られていた。「出てこい、古き血の王よ。……神の御名において、貴様を浄化する」 広大なエントランスホールに、ノエルの凛とした声が反響する。 石造りの床、煤けたシャンデリア、そして赤絨毯の大階段。 その階段の踊り場に、いつの間にか「影」が立っていた。「……神の御名、か。久しく聞いていない言葉だ」 絹を裂くような、滑らかで低い声。 現れたのは、夜の闇を凝縮したような黒いベルベットのマントを纏った男。 ヴァレリウス。数百年を生きるとされる純血の吸血鬼。 死人のように蒼白な肌に、鮮血のような唇。そして、見る者の魂を吸い込むような真紅の瞳を持っていた。「私の眠りを妨げたのが、こんな愛らしい子羊だとは」 ヴァレリウスが階段を降りてくる。足音がしない。まるで重力から解放されているかのようだ。 ノエルは即座に聖水を撒き、十字架を掲げた。「悪しき魂よ、塵に還れ!」 聖なる光が溢れ出す――はずだった。 だが、ヴァレリウスは眉一つ動かさず、瞬きする間にノエルの懐へと潜り込んでいた。「なっ……!?」 ガキン、と硬質な音が響く。 ノエルが突き出した銀の十字架は、ヴァレリウスの素手によって、飴細工のように捻じ曲げられていた。 圧倒的な力の差。「……ッ、離れろ!」「良い匂いだ」 ヴァレリウスはノエルの手首を万力のような力で掴み上げ、その首筋に鼻を寄せた。「禁欲、祈り、そして隠された絶望……。極上の血の香りがする」 ノエルが抵抗しようと蹴り上げるが、ヴァレリウスは嘲笑うように彼を床に押し倒した。 冷たい石床の感触が背中を走る。 見上げれば、美しい魔物が、嗜虐的な笑みを浮かべてノエルを見下ろしていた。「殺しはしない。……退屈凌ぎに、
last updateLast Updated : 2025-12-16
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