All Chapters of 記憶に咲く薔薇 ~消えゆく庭を守る少女たち~: Chapter 1 - Chapter 8

8 Chapters

第一章「蝶の庭を探して」

 五月の朝は、いつも光の粒子が見えるような気がする。 御厨胡蝶は通学路の途中で立ち止まり、街路樹の葉を透過する陽射しを見上げた。新緑の葉は光を受けて、まるで薄い翡翠のステンドグラスのように輝いている。その美しさに心を奪われて、胡蝶は思わず息を呑んだ。 美しいものを見ると、胡蝶の心臓は少しだけ早く鳴る。それは恋に似ているけれど、もっと純粋で、もっと儚い感覚だった。「胡蝶ちゃん、また止まってる」 親友の声に我に返る。振り向くと、ショートカットの少女――柚木ひかりが、呆れたような笑顔でこちらを見ていた。「ごめん。でも見て、この光……まるで宝石みたいでしょう?」「うん、綺麗だね。でも毎朝これだと遅刻しちゃうよ」 ひかりは実際的で、地に足のついた少女だった。胡蝶とは小学校からの付き合いで、夢見がちな胡蝶をいつも現実に引き戻してくれる。 二人は桜丘高等学校の二年生だ。この街は郊外の静かな住宅地で、古い洋館や昔ながらの商店街が残る、どこか懐かしい雰囲気を持っていた。 教室に着くと、胡蝶は窓際の席に座り、鞄からスケッチブックを取り出した。授業が始まるまでの僅かな時間、彼女は今朝見た光の粒子を描こうとする。でも、どうしても上手く表現できない。 美しいものを見つけることは得意だけれど、それを形にすることは難しかった。「おはよう、胡蝶さん」 声をかけてきたのは、クラスメイトの遠山紬だった。地味な印象の少女で、いつも教室の隅で静かに本を読んでいる。長い黒髪を三つ編みにして、大きな眼鏡をかけていた。「おはよう、紬さん」 胡蝶は微笑んで答えた。紬は少し照れたように頷き、自分の席へと向かう。 実のところ、胡蝶は紬のことをほとんど知らなかった。同じクラスになってもう二ヶ月が経つのに、会話らしい会話をしたことがない。紬はいつも一人で、誰とも深く関わろうとしない印象があった。 午前中の授業は退屈だった。数学の公式も、英語の構文も、胡蝶の心には響かない。彼女の頭の中は、常に「美しいもの」のことでいっぱいだった。 パリのオペラ座の天井画。ロンドンの古書店の佇まい。プラハの石畳に反射する雨粒。胡蝶は世界中の美しい場所の写真を集めていた。いつか、そんな場所に行きたいと思っている。 昼休み、ひかり
last updateLast Updated : 2025-12-16
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第二章「時を忘れた花々」

 翌週の土曜日、胡蝶は朝から薔薇園を訪れた。 いつもより早い時間で、朝露がまだ花びらの上で宝石のように輝いている。空気は冷たく澄んでいて、薔薇の香りがより鮮明に感じられた。 門をくぐると、マリアンヌがすでに庭で作業をしていた。麦わら帽子を被り、古いエプロンをつけて、丁寧に雑草を抜いている。「おはようございます、マリアンヌさん」「あら、胡蝶さん。今日は早いのね」 マリアンヌは立ち上がり、腰に手を当てて微笑んだ。「お手伝いさせてください。私にもできることがあれば」「まあ、嬉しいわ。じゃあ、一緒に水やりをしましょうか」 二人は古いブリキのジョウロに水を汲み、薔薇の根元に丁寧に注いでいった。 朝の光の中で、庭園はまた違った表情を見せていた。蜘蛛の巣に朝露が付いて、銀色の糸のように光っている。鳥たちが枝から枝へと飛び移り、楽しげにさえずっていた。「マリアンヌさん、この庭はいつからあるんですか?」 胡蝶は水やりをしながら尋ねた。「そうね……この洋館が建てられたのは、今から八十年ほど前よ」 マリアンヌは遠い目をして言った。「建てたのはフランス人の実業家、ジャン=ピエール・ローレンス。私の夫の祖父にあたる人よ」「ご主人の……?」「ええ。私は若い頃、このローレンス家の庭師として雇われたの。当時、私は二十歳で、薔薇の栽培について学んでいた」 マリアンヌは一つの薔薇の前で立ち止まった。深紅の大輪の薔薇だ。「そして、ここで働いているうちに、ローレンス家の息子――アンリと恋に落ちたの」 その言葉に、胡蝶の心臓が高鳴った。まるで古い恋愛小説の一場面のようだった。「アンリは音楽家でね。ピアノを弾くのが上手だった。この洋館のサロンで、よく演奏会を開いていたのよ」 マリアンヌの瞳が、記憶の中を泳いでいる。「私が庭で薔薇の世話をしていると、窓からアンリのピアノの音が聞こえてきた。ショパン、ドビュッシー、ラヴェル……美しい旋律が薔薇の香りと混ざり合って、まるで夢の中にいるようだった」「素敵ですね」 胡蝶は心から感動して言った。「でも、幸せは長くは続かなかったの」 マリアンヌの声が少し震えた。「戦争が始まったのよ。アンリは出征し、二度と帰ってこなかった」「マリアンヌさん……」「それから私は、ずっとこの庭を守り続けてきたの。アンリが愛した薔薇を、枯
last updateLast Updated : 2025-12-16
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第三章「銀糸の魔法」

 月曜日の朝、胡蝶は教室で紬の姿を探した。 いつもの席に紬はいたが、何かが違った。大きな眼鏡の奥の瞳が、いつもより輝いている。背筋もピンと伸びていて、まるで何かを決意した人のような雰囲気があった。「おはよう、紬さん」 胡蝶が声をかけると、紬は顔を上げて微笑んだ。「おはよう、胡蝶さん。あのね、昨日からずっと考えてたの」「薔薇園のこと?」「うん。どうやって刺繍で残すか、構想を練ってた」 紬はノートを開いて見せた。そこには薔薇園の簡単な見取り図と、様々な薔薇の名前が書き込まれていた。「全部で三十二種類の薔薇があるの。それぞれの特徴を刺繍で表現したい」「すごい……もう調べたんだ」「マリアンヌさんから薔薇のリストをもらったの。それに、刺繍の技法も勉強しなきゃ」 紬の熱意に、胡蝶も心が動いた。「私も何かしたい。写真を撮るのはどう? 記録として残せるし」「それいいね! 私が刺繍するときの参考にもなる」 昼休み、二人は図書室に行った。 刺繍に関する本を探すためだ。古い手芸の本から、現代の刺繍アートの写真集まで、関連する資料を次々と借りた。「見て、これ」 紬が一冊の本を開いた。 それは十九世紀のフランス刺繍の技法書だった。精緻なイラストとともに、様々なステッチの方法が解説されている。「サテンステッチは、光沢のある糸を使って花びらの滑らかさを表現するの。ロング&ショートステッチは、色の濃淡を自然に繋げることができる」 紬は興奮した様子で説明した。「フレンチノットは小さな結び目を作って、花の中心や蕾を表現するの。それから……」 胡蝶は紬の横顔を見つめていた。 こんなに生き生きと話す紬を見るのは初めてだった。普段は教室の隅で静かにしている彼女が、刺繍のことになると別人のように輝く。「紬さん、刺繍が本当に好きなんだね」 胡蝶の言葉に、紬は少し照れくさそうに頷いた。「うん。小さい頃からずっと好きだった。でも、誰にも言えなくて」「どうして?」「だって……地味でしょう? 刺繍なんて、おばあちゃんの趣味みたいで」 紬は自嘲的に笑った。「クラスのみんなは、もっとキラキラしたことに興味があるから。私みたいに、糸と針で地道な作業をするなんて、変わってるって思われそうで」「そんなことない」 胡蝶は強く言った。「紬さんの刺繍は、本当に美しい。
last updateLast Updated : 2025-12-16
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第四章「消えゆく楽園」

 七月に入り、薔薇の最盛期が過ぎると、庭は少し静かになった。 花の数は減り、葉が濃い緑色に変わっていく。でも、その静けさにも独特の美しさがあった。 胡蝶は、薔薇園の四季を全て記録しようと決めた。春の華やかさだけでなく、夏の深い緑、秋の実り、そして冬の眠りまで。「季節によって、庭の表情が全く違うの」 胡蝶はカメラのファインダーを覗きながら言った。「この変化も、記憶の一部として残したい」 紬の刺繍も、順調に進んでいた。 すでに十五種類の薔薇が完成し、それぞれが驚くほどの完成度だった。でも、紬は満足していなかった。「まだ足りないの」 ある日、紬は悩ましげに言った。「個々の薔薇は刺繍できた。でも、庭全体の雰囲気を表現する大作も作りたい」「大作?」「うん。すべての薔薇が一つの布に咲いている、庭園の風景を刺繍したいの」 それは途方もない計画だった。 一つの薔薇を刺繍するのに一週間かかる。庭全体を表現するとなれば、数ヶ月では足りないだろう。「時間が足りないわ」 マリアンヌが心配そうに言った。「十二月までに完成させるのは、無理があるんじゃない?」「でも、やりたいんです」 紬の目には、強い決意の光があった。「この庭の本当の美しさは、個々の薔薇だけじゃない。全体の調和、光と影のバランス、空気の流れ……そういう全てを含めて、薔薇園なんです」 マリアンヌは深く頷いた。「分かったわ。じゃあ、一緒に頑張りましょう」 それから、紬の生活は刺繍一色になった。 朝は早く起きて、登校前に一時間刺繍する。昼休みも、放課後も、全ての時間を刺繍に費やした。「紬さん、大丈夫?」 ひかりが心配そうに声をかけてきた。「最近、ずっと疲れてるみたいだけど」「大丈夫」 紬は笑顔を作った。「やらなきゃいけないことがあ
last updateLast Updated : 2025-12-17
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第五章「針と糸で紡ぐ未来」

 十月に入り、空気が秋めいてくると、薔薇園にも変化が訪れた。 夏の深い緑は、少しずつ黄色や赤みを帯び始める。実をつけた薔薇もあり、その姿もまた美しかった。「秋の薔薇は、春とは違う魅力があるのよ」 マリアンヌが言った。「花は小さくなるけれど、色が濃くなる。香りも、より深みを増すの」 胡蝶はカメラを構えて、秋の薔薇を撮影した。深紅の花びらに、朝露が光っている。 文化祭は二週間後に迫っていた。 紬の大作――庭園全体を描いた刺繍は、ようやく全体の姿が見えてきた。 縦一メートル、横一メートル五十センチの大きな布に、薔薇園の風景が刺繍されている。手前には様々な色の薔薇が咲き、奥には白い洋館が佇む。空は淡い青で、雲が浮かんでいる。「すごい……」 それを見た高村先生が感嘆の声を上げた。「これは、もう芸術作品のレベルよ。プロの刺繍作家でも、ここまでのものを作るのは難しい」「でも、まだ完成してないんです」 紬は疲れた顔で言った。「細部が詰め切れていない。もっと、もっと……」「紬さん」 胡蝶が紬の手を取った。「もう十分だよ。これ以上無理したら、体を壊しちゃう」 実際、紬の体調は限界に近かった。睡眠不足と過労で、時々めまいを起こすほどだった。「でも……」「完璧を目指さなくてもいいの」 マリアンヌが優しく言った。「芸術は、完成することよりも、心を込めることの方が大切よ。あなたの作品には、もう十分魂が宿っているわ」 紬の目に涙が浮かんだ。「本当に……これでいいんでしょうか」「ええ」 マリアンヌは紬を抱きしめた。「あなたは素晴らしい仕事をした。誇りに思っていいのよ」 その温もりに、紬はようやく肩の力を抜いた。 一方、署名活動
last updateLast Updated : 2025-12-18
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幕間「冬の記憶」

 十一月の終わり、薔薇園に最初の霜が降りた朝のことだった。 マリアンヌは一人、庭を歩いていた。白く凍った草の上を、慎重に足を進める。薔薇の葉も霜で縁取られて、銀色に輝いていた。 この季節になると、いつも思い出すことがある。 八十年前の冬。アンリが出征する日のことを。 あれは一九四三年の十二月だった。 戦争が激しさを増し、多くの若者が戦地へ送られていた時代。アンリもその一人として、召集令状を受け取った。「マリアンヌ」 出発の前日、アンリは彼女をこの庭に呼んだ。 雪が降り始めていた。薔薇たちは冬の眠りについていて、花は一つも咲いていなかった。でも、アンリは庭の中央にある一本の薔薇の前に立った。「これは、パパ・メイアンという薔薇だ。まだ新しい品種でね、フランスから取り寄せたんだ」 アンリの声は穏やかだったが、どこか緊張していた。「春になれば、深紅の花を咲かせる。まるで情熱の炎のような、美しい薔薇だよ」「なぜ、今その話を……?」 マリアンヌは尋ねた。心の奥で、もう答えが分かっていたけれど。「君への贈り物だよ」 アンリは彼女の手を取った。「僕がいなくても、この薔薇が毎年咲く。その度に、僕を思い出してほしい」「アンリ……」「約束してくれ、マリアンヌ。この庭を守ると。薔薇たちを愛し続けると」 マリアンヌは涙をこらえて頷いた。「約束するわ。あなたが帰ってくるまで、必ず」 その夜、アンリは最後の演奏会を開いた。 洋館のサロンには、親戚や友人たちが集まった。でも、アンリの目は、ずっとマリアンヌを見ていた。 彼が選んだ曲は、ショパンの『別れの曲』だった。 ピアノの音色が、サロンに響き渡る。悲しくて、美しくて、胸が締め付けられるような旋律。 マリアンヌは、必死に涙を堪えた。 でも、曲の最後の和音が消えた時、もう堪えきれな
last updateLast Updated : 2025-12-19
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エピローグ「五年後の春」

 桜が満開の四月、御厨胡蝶は久しぶりに故郷の街を訪れた。 東京の大学で写真を学んで三年。春休みを利用しての帰省だった。 駅を降りると、懐かしい空気が胡蝶を包んだ。変わらない商店街、変わらない街並み。でも、どこか新しい活気も感じられた。 駅前には、大きな看板が立っていた。「桜丘ローズガーデン・ミュージアム 春の特別展開催中」 胡蝶は微笑んだ。 あれから五年。薔薇園は、今や街の誇りとなっていた。 バス停に向かう途中、ふと目に入った本屋のウィンドウに、一冊の本が飾られていた。「刺繍で綴る庭園の記憶」――著者:遠山紬 胡蝶は思わず立ち止まった。 紬の初めての作品集だった。 本を手に取ると、表紙には薔薇園の刺繍が使われていた。あの時、二人で作り上げた記憶の庭園の写真が、美しい装丁になっている。 ページをめくると、紬の五年間の作品が並んでいた。 薔薇園の四季。消えゆく古民家。忘れられた路地裏の風景。 全てが、愛情を込めて刺繍されていた。「すみません、これください」 胡蝶はレジに向かった。 書店を出て、胡蝶はそのまま薔薇園へ向かった。 懐かしい路地を抜けると、あの錆びた鉄の門が見えてくる。 でも、今は門の横に立派な看板が立っていた。「桜丘ローズガーデン・ミュージアム」 開館時間:9:00~17:00 入場料:500円 胡蝶はチケットを買って、門をくぐった。 一歩足を踏み入れた瞬間、時間が止まったような感覚に襲われた。 五年前と、何も変わっていなかった。 いや、もっと美しくなっていた。 薔薇たちは丁寧に手入れされ、小道は整備され、所々にベンチや案内板が設置されている。でも、庭の本質は失われていなかった。 あの時の静謐さ、優しさ、温もり――全てがそこにあった。「胡蝶さん!」 声に振り向くと、紬が走ってきた。
last updateLast Updated : 2025-12-21
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