Todos los capítulos de 僕は僕が欲しいものなんて知らない 聖北学院大学演劇研究会 入学編: Capítulo 11 - Capítulo 20

21 Capítulos

第十話

 僕は数学が嫌いではなかった。心理学を学びたかったので高校では文系を選択したが、数学も物理も化学も得意科目だった。だからというわけでもないが、履修単位数にまだ余裕があったので数学を選択科目で選んでいた。線形数学という種類の学問らしいが、講師は高齢の男性だった。  授業が始まり、話を聞いていたが最初から何を説明しているのかわからない。おかしい。予備校に通っていなかったが、学校の授業だけで微分は理解できていたので、僕の数学の能力は低いわけではないと思うんだけど。上の空で聞いていたわけではない。最初からある程度集中して聞いていたはずだ。けれど何を言っているのか理解できない。なんだろう。授業を聞くレベルに達していない感じがする。小学一年生が高校数学の授業を受けているような。 講師が想定しているこのくらいのことは理解できているだろう、という前提の上で授業が始まってしまっている。うん、これはだめだな。と感じたが、それでも理解しようと努めた。無理だったけれど。  今日は四コマ目で授業は終わりなのでサークルが始まるまで、まだ二時間くらい余裕がある。四コマ目も松本と同じ授業を受けていたので、流れで部室へ行くことになった。  サークル棟二階の真ん中あたりにある部室へ向かう。中学生のときは、部活に入っていたが部室はなかった。高校では部活自体に入っていなかったので、自分が所属する部室に入るのは初めてだ。「お疲れ様でーす」 松本は慣れた感じで部室に入る。「失礼します。ええと、この前見学させていただいた渡辺です。演劇の経験はないですけど、入部したいと思います。よろしくおねがいします」 僕が挨拶すると、中にいた数人の部員が「お〜!」と歓声をあげ、拍手が沸き起こった。注目されて恥ずかしい。拍手されることも最後がいつだったのか覚えていない。「まあまあそんなとこにいないで座って座って!」 十二畳くらいあるフローリングの部室の真ん中には大きなテーブルがあり、椅子が八脚置かれていてまばらに部員が座っていた。真ん中の椅子をひかれたので大人しく座る。
last updateÚltima actualización : 2026-01-03
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第十一話

「お菓子でも食べなよ」 「漫画もたくさんあるから、自由に読んで」 口々に先輩たちから声をかけられる。部室の中には天井に届きそうなくらいの高さがある本棚に漫画がたくさん並んでいた。背表紙の文字が赤い少女漫画もけっこうあるみたいだった。部室ってどこもこんな感じなんだろうか。大学だからだろうか。「先輩先輩、俺は?」 松本も歓待を期待したみたいだ。「ガジン」 見学前に会った背の高い先輩だ。にこにこしている。見学した時に田中と呼ばれていた。後で知ったが、松本は|雅人《まさひと》という名前で、サークル内でのあだ名は音読みのガジンになっていた。「はい」 「ジュース買ってきて」 先輩がお金を出す。「ちょっと俺のことももてなしてくださいよ」 「最初にもてなしただろ。忘れた?」 「そうですけどー」 「コーラね」 そう言ってお金を受け取り松本は出ていった。知らない人たちの中に取り残されるとどうすればいいのかわからない。早く戻ってきてほしい。「渡辺くんは高校までどんなことしてたの?」 女の先輩が聞いてきた。たしか前田先輩だ。このまえの稽古でみたかぎり、メインの役を割り当てられている。「えぁ!?その、高校では部活とかに入ってなくて、毎日小説読んでました」 「へー、そうなんだ。文学青年だね。ゴウくんとかと話合うかもね」 前田先輩はうんうん、とうなずく。普通の小説も読んでいたが、ライトノベルの方をたくさん読んでいた。でもそれは言うまい。「あいつ本は読むけど、ミリオタだからな。変に染められるかも」 ミリオタってなんだっけ。「おはようございま〜す」 部室に入ってきたのは一緒に見学していた女子学生だ。たぶん一年生だと思う。「お、橋本おはよう」 「おはよう」 「裕子ちゃん、新入部員増えたよ」 おっとりとにこにこしている山崎先輩が僕のことを紹介してくれた。裕子というのはたぶん橋本さんのことだろう。
last updateÚltima actualización : 2026-01-03
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第十二話

 稽古の時間になった。このまえの見学では先輩たちが全員ジャージを着ていたので、僕もジャージを持ってきていた。女子は多目的ホールの中にある調光室で着替え、男子はその場で着替えた。調光室というのは多目的ホールの照明を調整する機械が設置された部屋だ。 柔軟運動の時間になったが、今日は各自で柔軟運動をしている。この前は一年生が見学に来ていたから一緒にしたのだろうか。橋本さんも上はTシャツ、下はジャージで柔軟運動をしている。Tシャツ姿になると本当に目のやり場に困るので視界に入らないよう意識する。 稽古場には、この前見学に来ていた一年生がもう二人いた。背が小さくて体も細くてぱっと見た感じでは中学生と言っても良さそうな子と、逆に少し背の低い男子学生くらいの、女性にしては背が高い子だ。背の低い方は池田理恵さん、背の高い方は岡田瞳さんという。さっき部室で紹介された。二人は友人同士なのだろう、仲よさげに話しながら柔軟運動をしている。僕は静かに柔軟運動をしている。CDラジカセからたぶん聞いたことがあるJ-POPの曲が流れている。 この前と同じようにストップモーションと発声練習と筋トレを終えると稽古が始まった。とりあえず、ということで今回の公演では僕は照明の助手として参加することになった。助手と言っても知識はなにもないので照明についていろいろ教えてもらうだけだ。今回照明を担当しているのは、おっとりした二年の山崎先輩と三年で部長の鈴木先輩だ。あとで知ったのだが、二人は付き合っているらしい。背が高い三年の田中先輩とメイン役を演じている二年の前田先輩も付き合っているらしい。誰と誰が付き合ってるとか、高校よりも多くなった感じがする。やはり年齢が上がると増えるのだろう。「はい、じゃあ新しく書いた分くばりまーす」 脚本演出の加藤先輩がA3用紙の束を抱えて持ってきた。まだ脚本は完成していないらしい。あと一ヶ月後に本番を迎えるみたいだが、そういうものなのだろうか。ノートに鉛筆か何かで手書きした脚本をコピーしたものらしい。役職は脚本家だが、配られたものは台本と呼ばれている。どう違うのだろう。紙が全員に行き渡ると、役者陣が輪になって台本を読む。けれどバイトで休んでいる部員もいる。「ガジン、ゴウくんの代わりやっ
last updateÚltima actualización : 2026-01-04
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第十三話

 次の日には清水さんという一年の女子学生が演劇研究会に入部した。背が低くてふっくらしていて、メガネをかけている子だ。見学には来ていただろうか。覚えていない。一週間もするとだいたいの演劇研究会のメンバーと顔見知りになった。授業がない時はだいたい部室に行って漫画を読んでいるか、図書室で小説を読んでいた。 サークル棟の多目的ホールは、演劇研究会では月・水・金曜に使うことができた。火曜と木曜は授業で使う本館の教室を借りて稽古が行われていた。多目的ホールを使えない時は照明助手として特にやることがないので、大道具の手伝いをしていた。大道具は三年の佐々木先輩が担当している。父親が大工なのだそうで、木材の扱いに慣れていた。舞台装置がどのようなものなのか僕は全く知らなかったけれど、指示に従って舞台を作るのは新鮮でおもしろかった。 のこぎりの切り始めは最初に少し切れ目を入れてから挽き始めるとか釘は軽く打って少し埋まってから最後まで打つとか、学校の技術家庭科の授業で習ったような記憶はあるが、本格的に実践したことはなかった。ベニヤ板はホームセンターなどで一八〇センチ✕九〇センチの大きさで売っているが、そもそもの単位は一間✕半間で、一八〇✕九〇センチよりも微妙に大きく、長さがそろっているわけではないなんてことは知らなかった。 今は舞台袖となる壁を作っているところだ。二四〇センチ✕九〇センチの壁を何枚も作っている。二四〇センチの角材があればそのまま使うが、だいたいそれよりも短いものしかない。演劇部専用のものではないが、サークル棟の近くに倉庫があり、過去の公演で使った舞台装置がバラされて保管されている。それをまた角材とベニヤ板にバラしてリサイクルして、代々使っているそうだ。代々と言っても、演劇研究会ができたのは数年前らしい。脚本演出の加藤先輩の、一年上の先輩が作ったと言っていた。 短い角材同士をつないで二四〇センチにするのだが、つなぎ目には短い角材を上において角材同士を五寸釘くらいの太い釘で打ち付けるとしっかりつながる。五寸釘はよく人を呪う場面で使われている、あの釘だ。そうして角材の枠を作り、枠にベニヤ板を置いて小さな釘で枠とベニヤ板をつなぐ。それができたら枠の中に右上角と左下角、または左上角と右下
last updateÚltima actualización : 2026-01-04
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第十四話

 あっという間にゴールデンウィークに突入した。ゴールデンウィークが明けると、次の週の金曜日から日曜日まで公演が行われる。本番が近いのでゴールデンウィークも関係なく稽古が行われる。休みの日に学校へ行くなんて久しぶりだった。「ちゃんと勉強してんのかい?遊んでばっかりじゃだめだよ」と母から注意された。「まあ、やってるよ」と僕も軽く答える。僕は勉強については心配していない。高校受験の時も大学受験の時も、勉強しすぎて母からもう少し休んだほうがいいんじゃないの?と心配されたほどだ。だからまあ、母も本気で心配しているわけではないだろう。スイッチを入れたらちゃんとできる自信はある。というか、勉強することくらいしか自信がない。試験も七月なのでまだまだ先だ。 それよりも、僕は遊んでいる感覚なんてなかった。演劇を遊びでやっているつもりがない。新鮮な出来事ばかりで楽しいが、真剣にやっていた。新しいことを学んでいる感覚だ。そもそも僕は遊び方を知らない。遊びと称されることをしたことはあるが、それをして楽しんでいたかというと甚だ疑問だ。子どもは遊ぶものだろう、遊びに興じているふりをしていたほうが大人は安心するのだろう、と考えて遊びに参加していた気がする。 大学へ着くとまっすぐ部室へ向かう。やはり休日は人が少ない。運動系のサークルが目に付くくらいだ。今日から多目的ホールは本番を終えるまで演劇研究会で貸し切っている。舞台を設営したままにするからだ。舞台装置はすでに作り終え、あとはペンキを塗って組み立てれば完成だった。 ジャージに着替えて多目的ホールへ向かうと、海外の業務用トマトのホール缶みたいな缶に入ったペンキが並んでいた。大道具の佐々木先輩が指揮を取って全員でペンキを塗る。白ペンキに少量の赤ペンキを混ぜて水で薄める。ペンキは水で薄めて使うなんて知らなかった。世の中はまだまだ知らないことだらけだ。 舞台装置は前日にブルーシートを敷いた多目的ホールの中に運び込んでいた。ハケとローラーを使って舞台装置にペンキを塗っていく。最初のうちはジャージにペンキがつかないように恐る恐る塗っていたが、気づかないうちに撥ねていて、ペンキがついていたほうが演劇部のジャー
last updateÚltima actualización : 2026-01-05
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第十五話

 当然ながらペンキはすぐに乾かない。けれど稽古は始めたいので、舞台装置を自立させるためのものを取り付ける。演劇研究会で「足」と呼ばれている、三角形の木枠だ。これを舞台装置に釘で接続する。舞台装置に足をつけて乾燥させればその分スペースがあく。ペンキのにおいが薄くなるまで換気してから稽古が始まった。 すでに脚本は完成していた。僕も全ての台本をもらっていた。脚本の題名は「the end of the world」。世界の終わり。僕は人より数倍以上の読書量だという自負はあり、物語に対して一定レベルの批評眼は持っているつもりだ。それでもこの脚本はおもしろいと感じた。それを個人の一大学生が書いたというのは驚きだった。もちろん台本には地の文の代わりにト書きがあって、僕は今まで台本を読んだことはない。台本として完成されたものかどうかはわからない。それでも物語として楽しめた。 大学生のときに友人同士だった三人のうちの一人が卒業後に働き始めてから自殺するところから始まる、後悔と喪失と再生の物語だった。シリアスな場面とギャグシーンのバランスが良く、観ていて飽きさせなかった。 僕は照明の助手をしているが、照明を操作するのは二年の佐藤先輩だった。みんなから旦那と呼ばれている。よくわからない貫禄というか頼りがいがあり、太っていてひょうきんな先輩だった。 照明にはいくつか種類がある。天井から舞台全体を照らす地明かり、上から一人にスポットライトを当てるサス、下から照らすフットライト、顔に影を作らせないためのフロントライト、舞台から客席に向かって光を当てるバックライト、横からスポットライトを当てるサイドスポット。多目的ホールに備えられた照明設備はこのくらいだった。僕はサイドスポットを動かす仕事を割り当てられた。照明は調光盤を使って操作するが、サイドスポットは独立して操作しなければならないので、一人専門でついて動かす必要があった。仕事は少ないが演出効果に与える影響は大きいので責任は重大だった。
last updateÚltima actualización : 2026-01-05
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第十六話

 三日後の土曜日に仕込みが行われた。仕込みというのは、照明や音響や舞台装置を全て本番と同じように使える状態にすることだ。仕込みは二年の山口先輩が取り仕切る。仕込みを取り仕切る人のことを舞台監督、略して舞監というらしい。 午前九時。二十名くらいいる部員全員がほぼ集まっている。なるべく人が集まれる日に設定されたので当然といえば当然だ。「はい、じゃあ今日一日で仕込みは終わらせるんで、よろしくおねがいします!じゃあ、やりますか」 山口さんがそう言うと全員が輪になった。「本番成功させるぞ!」 『おー!!』 なんだか楽しくなってきた。そわそわというか、わくわくというか。なにかおもしろいことが始まりそうな予感がした。「照明から吊っていきます!ブラザーさんと田中さん、お願いします」 二人とも背が高い先輩だ。ブラザーさんというのは、今回主役をやる四年の中村先輩のことだ。演劇研究会には変なあだ名の先輩がわりと多い。なぜそういうあだ名がついたのか気になるものばかりだ。田中先輩はふつうに田中さんと呼ばれている。 ブラザーさんと田中さんはそれぞれ昨日用意していた脚立を準備する。他の部員たちは山口さんの指示に従ってフロントライトを渡していく。田中さんは天井にかけられた骨組みにぶら下がって脚立を足で動かし、移動する。田中さんは平気そうだが見ている方は落ちないかひやひやした。「ナベくん、こっち手伝ってもらっていい?」 僕は大道具の佐々木さんに声をかけられた。僕の名前はいつものようにナベになっていた。渡辺姓の人はおそらくみんなそうなのではないだろうか。「了解です。よろしくおねがいします」 僕は照明助手としてはあまりやることがなく、よく大道具を手伝っていたので佐々木さんの大道具を手伝っていることが多かった。僕も大道具の仕事はおもしろかったので、大道具助手のような感じになっていた。数日前にペンキ塗りをした舞台装置は、乾いたあとも二度塗り、三度塗りをしていた。そうすることでムラがわかりにくくなるのだそうだ。 男子部員たちが佐々木さんの指示に従って舞台装置を組み立てていく。それぞれの壁が倒れないよう三角形の足を取り付け、壁同士の木枠を五寸釘を打って繋いでいく。上手の奥と手前に一箇所ずつ、下手の奥と手前に一箇所ずつ、合計四箇所の舞台袖ができた。一番奥には
last updateÚltima actualización : 2026-01-06
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第十七話

 いったん昼休憩になった。今日は土曜なので大学生協は営業していない。みんなで大学近くのコンビニへ買い出しに行った。コンビニで買ってきた弁当を多目的ホールで食べていると、なんだか自分がまるで普通の大学生のように思えた。僕は人付き合いが苦手なので、あまり人と積極的にかかわらない。わざわざ人と違うことを自覚して傷つくことをしなくてもいい。そんなふうに思っていた。けれど大勢の部員と食事をしていると、なんだか自分が普通の人間みたいに感じる。これは錯覚だろうか。 昼休憩が終わり、午後からは客席を作るために、舞台台を積み重ねていく。舞台台というのは折りたたみベッドみたいな構造をしている台で、三十センチくらいの高さがある。それを階段状に積み重ねて、さらに椅子を置く。こうすることで映画館みたいな後ろに行くほど高くなる客席ができあがった。さらに客席が舞台台から落ちないよう、椅子同士をすずらんテープでしばって固定し、椅子と舞台台も同じようにしばって固定する。 つづいて客席の後ろに音響台を作る。音響台に音響操作のためのCDプレーヤー二台とミキサー、スピーカーを接続する。ミキサーというのは二台のCDプレーヤーを再生して一方を小さくして一方を大きくするなどの調整をするための機械だ。ミキサーを使うことで、今かけている曲の音量を小さくしつつ次の曲をかけ始めて徐々に音量を上げ、違和感なく曲を変えることができる。 音響と照明のどちらにも使う言葉だが、徐々に小さく(暗く)することをフェードアウト、徐々に大きく(明るく)することをフェードイン、フェードアウトとフェードインを組み合わせて別の曲(照明)へ変えることをクロスフェードという。また、突然曲(照明)を切る(落とす)ことをカットアウト、突然曲(照明)を入れる(つける)ことをカットインという。これらの言葉は演劇研究会に入ってから教えてもらった。 配線をつなぎ終え、お客さんがコードにつまづかないようにまとめる。つづけて、音響の最大値と照明の最大値を決める。客席にバラバラに部員が座り、スピーカーから出る限界の音を出して、徐々に小さくしていく。左右の音のバランスも調整する。照明も最大光量を出してから徐々に調整していく。これは部員たちに意見は聞くが、脚本演出の加藤先輩が最終決定権を持っている。加藤先輩は名前が俊輔であだ名はシュンだった。
last updateÚltima actualización : 2026-01-06
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第十八話

 音響と照明の調整が終わると、役者の出入りのシーンのみを最初から最後まで確認する。これは、配置した舞台装置同士の幅や足の大きさに問題がないか確認するためだ。走って引っ込むときにぶつかりそうなときは足の取り付け位置を変えるか小さく作り直す。また、客席から役者が見切れる位置などを確認し、床にバミリのためのテープを貼っていく。バミリというのは、物の位置や役者の立ち位置などを決めておくためのものだ。暗転中に板付きするために蓄光テープを使う。蓄光テープは暗闇の中でも光る。こんな物があることも初めて知った。舞台装置の裏側にも全て蓄光テープが貼ってある。暗転中にぶつかったり足を引っ掛けたりしないためだ。 同時に音響のタイミング、照明のタイミングと照明の取り付け位置や角度も調整していく。「ブラザー、ちょっと立って」 脚本演出のシュン先輩の指示でブラザー先輩が舞台中央に立つ。「サスだけつけて」 ブラザー先輩の姿が舞台上に切り取られる。「顔の影が濃いな。もうちょいサス客席側に下げて」 田中先輩が脚立に乗って吊り下げたサスの位置を調整する。すると、顔の影が薄くなった。 照明の調整とともにバミっていく。午後六時をすぎ、夕食休憩を挟んでまた残りのシーンの調整が続く。午後九時ころ、すべての調整が終わった。「みなさんの協力のおかげで、無事一日で仕込みを終えることができました!ありがとうございます!俺の仕事はまあ、バラシが始まるまで何もトラブルがなければほぼありません。あとはみなさんが本番を成功させるだけになりました。残り一週間、走り抜けましょう!」 舞台監督の山口先輩が締めの挨拶をすると、盛大な拍手が沸き起こる。いよいよ本番が近づいてきたなと感じる。 すでに脚本は完成し、役者たちの頭の中にもセリフは入っている。音響と照明と舞台装置がそろうと、その場に流れる空気が変わった気がする。世界を構成する要素の全てが、その脚本が表現しようとしているものを実現するために存在している。それが空気を変えたものの正体のような気がする。
last updateÚltima actualización : 2026-01-07
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第十九話

 本番は金曜日の夜に一公演、土曜の昼と夜に一公演ずつ、日曜の昼と夜に一公演ずつの合計五公演行われる。木曜にはゲネと呼ばれる本番と全く同じ条件で行われる稽古がある。ゲネというのはドイツ語のゲネラルプローベという言葉の略らしい。リハーサルのことだ。衣装もすでに用意されている。といっても自分たちでゼロから縫ったりするわけではない。現代劇なのですでに持っているものを使ったり、衣料品店で新たに買ったりして用意されたものだ。 メイクも開始される。男の役者もメイクをしているのは意外に思ったが、それは僕の偏見だと思い直した。舞台の上にたつのだから、メイクくらいするだろう。男でも。舞台は人と人がふだん会話する距離で顔を見るわけではないので、はっきりとした顔でなければ印象が薄くなるらしい。母を見ているので人がメイクをしているのを見るのは初めてではないが、興味を持って見たのは初めてだ。女子部員が髪をかきあげて静止している男子部員のメイクをしている。「えー。無事にゲネを迎えられてよかったです。脚本も完成して、衣装も間に合って」 脚本演出のシュン先輩が挨拶を始める。「シュンさん、シュンさん。脚本遅い」 田中先輩がツッコむ。田中先輩は三年でシュン先輩は四年。先輩に気安くツッコめるのは風通しがよくていいと思う。「それはごめん。まあ、初日がゲネってことにならなくて良かったです」 笑いが起こる。the end of the worldのギャグシーンの中に同じセリフがあったからだ。この脚本の中で主役の三人の大学生は、学生時代に演劇をしていた。シュン先輩自身の経験が投影されているのだろう。「シュンさん、主役三人に謝って」 田中先輩はさらにツッコむ。当然だが主役三人のセリフ量が一番多かった。「悪かったって。ええとなんだっけ。君たち、もう面白くなってるからあとは全力で楽しんでね。じゃあ、六時四十分からゲネ始めます」 六時四十分は明日の本番開始の時間と同じ時間だ。大学の五コマ目が終わる時間が六時十分なのでこの時間になっている。五コマ目を終えてからメイクして間に合う時間だった。お客さんとしても三十分くらいなら待てる時間だ。だいたい二
last updateÚltima actualización : 2026-01-08
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