黒崎家のリビングは、夜半を過ぎるとひどく広く感じられる。天井まで届く大きな窓の向こうには都心の灯が淡く滲み、磨き上げられた大理石の床にはその光が揺れている。けれど、その冷ややかな輝きとは裏腹に、室内には人の気配がほとんど存在しない。私はソファの端に腰掛け、両手を膝の上で重ねたまま、ただ静かに時間が過ぎるのを待っていた。 黒崎澪、二十六歳になる。旧姓は榊原だ。 榊原グループの令嬢だった母と、その家に婿入りした父との間に生まれた一人娘である。背中まで届く黒髪はひとつにまとめていて、淡いベージュのワンピースも、誰に見せるわけでもない室内着にすぎない。整った目鼻立ちとどこか儚げな雰囲気は、かつて「深窓の令嬢」と呼ばれていた母によく似ていると、よく言われたものだが、この家でそれを口にする者はいない。時計はすでに日付をまたいでいた。 ダイニングテーブルの上には、三度目の温め直しを待つ料理が並んでいた。私はそれらに目を落としながら、いまさら味の問題ではないのだと、どこか冷静な自分が囁いているのを感じていた。それから少しして玄関の電子音が静寂を破り、低く響く足音が近づいてくる。この家に帰ってくるのは一人だけ。 黒崎恒一、形式上私の夫だ。 三十二歳になったばかり。若くして世界的な大企業である黒崎ホールディングスを率いる経営者だ。整った横顔は冷たく研ぎ澄まされていて、スーツの皺ひとつ許さない几帳面さが、そのまま性格を表しているように見える。「まだ起きていたのか」視線は私を素通りし、ネクタイを緩める仕草もどこか事務的に見えるのは、私の心の問題かもしれない。「お帰りなさい」できるだけ明るく言ったつもりだったが、それが彼にどう届いたのかはわからない。わからないままでいいのかもしれない、とも思う。結婚して一年になるが、この家で私が“妻”として扱われた記憶はほとんどない。 この結婚が両家の両親にとって取引にすぎなかったことは、最初からわかっている。愛情を期待する愚かさも、とうに捨てたはずだった。それでも、この一年、努力をすればいつかは少しくらい温かい家庭が築けるのではないかと、そう思って自分なりにやってきたつもりだった。食事を温め直そうとキッチンへ向かいかけたとき、不意にスマートフォンの通知音が鳴った。振り返りはしなかったが、テーブルに置かれた
Last Updated : 2026-03-27 Read more