All Chapters of 消えた妻は振り返らない 復讐は雨のように: Chapter 1 - Chapter 5

5 Chapters

STORY 1

黒崎家のリビングは、夜半を過ぎるとひどく広く感じられる。天井まで届く大きな窓の向こうには都心の灯が淡く滲み、磨き上げられた大理石の床にはその光が揺れている。けれど、その冷ややかな輝きとは裏腹に、室内には人の気配がほとんど存在しない。私はソファの端に腰掛け、両手を膝の上で重ねたまま、ただ静かに時間が過ぎるのを待っていた。 黒崎澪、二十六歳になる。旧姓は榊原だ。 榊原グループの令嬢だった母と、その家に婿入りした父との間に生まれた一人娘である。背中まで届く黒髪はひとつにまとめていて、淡いベージュのワンピースも、誰に見せるわけでもない室内着にすぎない。整った目鼻立ちとどこか儚げな雰囲気は、かつて「深窓の令嬢」と呼ばれていた母によく似ていると、よく言われたものだが、この家でそれを口にする者はいない。時計はすでに日付をまたいでいた。 ダイニングテーブルの上には、三度目の温め直しを待つ料理が並んでいた。私はそれらに目を落としながら、いまさら味の問題ではないのだと、どこか冷静な自分が囁いているのを感じていた。それから少しして玄関の電子音が静寂を破り、低く響く足音が近づいてくる。この家に帰ってくるのは一人だけ。 黒崎恒一、形式上私の夫だ。 三十二歳になったばかり。若くして世界的な大企業である黒崎ホールディングスを率いる経営者だ。整った横顔は冷たく研ぎ澄まされていて、スーツの皺ひとつ許さない几帳面さが、そのまま性格を表しているように見える。「まだ起きていたのか」視線は私を素通りし、ネクタイを緩める仕草もどこか事務的に見えるのは、私の心の問題かもしれない。「お帰りなさい」できるだけ明るく言ったつもりだったが、それが彼にどう届いたのかはわからない。わからないままでいいのかもしれない、とも思う。結婚して一年になるが、この家で私が“妻”として扱われた記憶はほとんどない。 この結婚が両家の両親にとって取引にすぎなかったことは、最初からわかっている。愛情を期待する愚かさも、とうに捨てたはずだった。それでも、この一年、努力をすればいつかは少しくらい温かい家庭が築けるのではないかと、そう思って自分なりにやってきたつもりだった。食事を温め直そうとキッチンへ向かいかけたとき、不意にスマートフォンの通知音が鳴った。振り返りはしなかったが、テーブルに置かれた
last updateLast Updated : 2026-03-27
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STORY 2

都内でも名の知れた高級ホテルの最上階。大きなガラス窓の向こうには夜景が広がり、柔らかな照明に照らされた店内は、静かで落ち着いた空気に包まれている。食器が触れ合うかすかな音と、抑えられた会話だけが上品に響いていた。スタッフに名前を告げ、案内されようとした、そのとき――「恒一さん!」弾んだ声が、空気を破った。振り向くと、そこには見覚えのある父、そして継母、義妹の姿があった。義妹の美咲はまっすぐこちらへ駆け寄ってくる。淡い色のワンピースを揺らしながら、迷いなく距離を詰めてくるその姿に、私は思わず目を見開いた。そして彼女は、ためらいもなく恒一さんの腕に触れる。「久しぶりです、会いたかった……!」親しげに見上げるその顔に、恒一さんの表情がわずかに緩んだ。その表情に、さらに私は驚きを隠せない。私が彼女たち親子の存在を知ったのは、つい先日のこと。どうして、夫に久しぶりというのか……。「……ああ、美咲か。久しぶりだな」低く落ち着いた声。その響きは、私に向けられるものとはどこか違っていた。「元気にしてたか?」「はい! 恒一さんはお仕事お忙しかったんですか?」まるで当たり前のように交わされる親密な会話。にこやかで屈託がなく、天真爛漫な女性。それが美咲だ。その距離感は、とても“初対面”とは思えない。私はそのすぐ隣に立っているということに気づいていないのか……。そう思った瞬間、ぱっとその腕を離すと、美咲が私に頭を下げた。「お姉さん、ごめんなさい。怒らないで」え? 怒る? 確かに距離感はおかしい、そう思ったが、私が何を怒るというのだろう。「先にお姉さんに挨拶すべきだったのに……」そんなこと、別に言ったこともないし、思ってもいないことだったが、美咲は深々と頭を下げる。「美咲、そんな必要はないだろう」夫が苛立ったように言うのが分かり、私も笑みを浮かべた。「別に気にしてないから。でも……ふたりとも久しぶりって?」そう問いかけると、美咲が何かを言おうとしたが、そこに父たちが合流して、話が途切れた。ここのフレンチはとても美味しいはずだが、目の前で繰り広げられる私を除いた人たちの会話に、私は黙々と料理を口に運ぶしかなかった。そのとき初めて知ったことだが、美咲と恒一さんは面識があったようだ。もともと結婚は親同士のもので、父と恒一さんの父が友人だった
last updateLast Updated : 2026-03-27
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STORY 3

あの食事会から一か月近くが経つが、恒一さんとは相変わらずの日々が続いていた。 毎日彼のシャツにアイロンをかけ、食べるかわからない食事を作り、待つ日々。彼は社長として多忙な日々を送っていて、感情をあまり表さない人だと思っていたが、それは違ったのだ。 美咲と話すときの恒一さんは、私の知っている人とは違った。冷たいのは私に対してだけだった。そのことは少しずつ私の中で、このままでいいわけがないという思いに変わっていった。どうにかして離婚を――そう考え始めたとき、ありえない連絡が入った。「美咲を、しばらくお前の家で預かってほしい」父からの電話に、私はさすがに「は?」と声が漏れていた。「なんだその言い方は!!」すぐに飛んできた罵声に、私は小さく息を呑む。それにしても、どうしてそんなことが言えるのか……。常識的に考えて、娘の結婚している家に妹を同居させるなど、非常識なうえに、夫が了承するわけ――。そこまで思って、私は思考を止めた。――夫は同意する。その確信が私にはあった。あの二人の親密な様子を見れば、きっと美咲が頼んだか、あるいは夫から提案した可能性も否定はできないだろう。「どうして?」そう尋ねると、父は仕事で家を空けることになり、美咲がひとりでは心配だからと、取ってつけたような理由を口にした。二十四にもなって一人で暮らせないわけはない。家もお金もあるのだから。そうは思うが、そんなことを言っても仕方がないだろう。私が了承の返事をする前に、父の電話は切られ、無機質な音が響いていた。その夜、あろうことか、いつもは午前様の恒一さんが珍しく早い時間に帰宅した。玄関の電子音に顔を上げ、違和感を覚えたまま出迎えに向かう。だが、扉の前で足が止まった。そこに立っていたのは、恒一さんだけではなく、美咲の姿もあった。「どうして一緒なの?」 いつもならそんなことを聞くことはないが、今日の私は少し苛立っていた。 理不尽な扱いにも限界だったからだ。お金のためというのなら、もう少し私に敬意を持つべきだろう。ただ、何もできない主婦をバカにしているだけなのだ。「お姉さん、ごめんなさい。新婚のお家にお邪魔するなんてダメだって、お父様にも話したのよ」神妙な面持ちで美咲はそう言うと、深々と頭を下げた。そんな彼女をかばうように恒一さんが美咲の前に立つ。「一人暮らしなん
last updateLast Updated : 2026-03-27
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STORY 4

部屋を片付けていると、背後で静かにドアが開く音がした。振り返らなくてもわかったのは、甘ったるい香水の匂いがしたからだ。あれからまだ十分もたっていないのに、もう急かしに来たのだろうか。「まだ終わってないわ」振り返らずにそう言うと、後ろでドアが閉まったのが分かった。仕方なく振り返ると、そこには美咲だけが立っていた。「恒一さんは?」別に興味はないがそう聞くと、美咲は「お風呂よ」と答えた。時間からして、食事をしてきたのかどうかもわからないが、こんなに早いとは思わなかったし、昼間の父の電話のこともあり、今日は作っていない。「へえ、確かにゲストルームよりこっちの部屋の方が広いわね」私の横をすり抜けて部屋の中に入ると、見回しながら美咲がそう口にする。特に何も答えずにいると、美咲は壁にもたれ、私に視線を向けた。「ねえ、私がここに来た理由、なんだと思う?」クスっと可愛らしく聞く美咲に、私はまとめていた荷物から顔を上げ、彼女を見据えた。「両親が海外に行くからじゃないの?」父から聞いたままの言葉を返すと、美咲は微笑を浮かべて何度か首を縦に振った。「そうよ。ひとりになっちゃうから、私、寂しかったの。お姉さんがいてくれたら、家族が一緒にいられるでしょう?」その言葉にさすがに苛立ちを隠せず、私は表情をゆがめた。「さすがにそんな言い訳、信じない」淡々と言うと、美咲は少し驚いたような表情を浮かべた。「へえ、お姉さん、私のことわかってるんだ」ここまであからさまにされて、わからないということなどありえない。そう思っていると、衝撃の言葉が降ってくる。「でも、ずっとずっとそうだったって知ってた? 私、ずっと、お父様にもお母様にも、そうやってお姉さんのこと言っていたのよ」「え?」両親が私に冷たいのは母のことがあったからだと思っていた。もちろんそれもあるかもしれないが、美咲があることないこと言っていたため、父もあの態度だったのか……。妙に腑に落ちた私だったが、それを今知ったからといって何も変わらない。「そう、別にどっちでもいいわ」私がそう答えると、美咲は初めて表情をゆがめた。「つまらない」「何か言った?」呟いた美咲の言葉を聞き取れず聞き返すと、いきなり美咲が、「ごめんなさい! お姉さん!!」そう大声で叫んだ。「ごめんなさい! お姉さん!!」その甲高
last updateLast Updated : 2026-04-01
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STORY 5

寝室を一緒に使おうがどうだろうが、この部屋にいるとまた何かを言われそうだと思った私は、家を出て行くことも考え、荷物をスーツケースに詰めていく。特に大した荷物もないし、とりあえず出て行ったとしても、母のお金を使わなくても働いていた頃の貯金もある。今まで盲目的に父の言うことは絶対で、そうしなければ継母にも怒られる――それがトラウマになっていたのかもしれない。普通に考えれば、こんな私にメリットのない結婚をする理由などないのだ。それ以外にも、この結婚をした理由はあるのだが……。しかし、離婚しようと私が言い出したところで、あの人たちが了承するとは思えない。私はそこで一息つくと、荷物を持って一階のゲストルームへと向かった。十畳ほどだが、トイレもシャワーも備え付けてある部屋だ。ここで十分だし、二階より一階の方が何かと都合がいい気がする。そう思いながら、私はベッドへと腰かけた。このまま美咲がこの家にいるなら、また何かをしてくるかもしれない。そして恒一さんは、それを盲目的に信じる。その前に、自分でできることを始めなければ。そう思うと、私はPCの電源を入れた。とりあえず、榊原の顧問弁護士に――いや、それはまずい。父の息がかかっていないとは言い切れない。もちろん、一人だけこの件を相談できる相手はいる。いや、正確には“いた”というべきかもしれない。今も協力してくれるとは限らない。小松碧唯。私が働いていたKMコーポレーションの上司であり、そして――私がこの結婚を決めるきっかけになった人だ。世間体もあったため、大学は好きに行かせてもらえたが、父のもとで働くことは許されなかった。しかし、大学時代の論文が目に留まり、国内最大手のセキュリティ企業であり国家案件まで扱うKMコーポレーションに、運よく入社することができた。結婚しろと言われるまで、私はそこで働いていた。その時の上司が、小松碧唯だった。冷静沈着で、感情を表に出すことはあまりない人だったが、残業で疲れている部下や仕事に行き詰まった者をきちんと見て、さりげなくフォローしてくれる人だった。ひそかに、私が憧れていた人。高い身長に整った容姿、芸能人と言われても遜色のない外見に加え、KMという大企業の若き部長。憧れたり、本気で想いを寄せたりする女性社員は後を絶たなかった。それでも、小松部長がその誘いに応じるとこ
last updateLast Updated : 2026-04-02
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