バレンタイン前夜のホテルの厨房は、いつだって戦場だった。 テンパリングされたチョコの香ばしい甘さ、焦げた砂糖の匂い、金属の音。だけどその喧騒の中に、もう僕の居場所はなかった。「ショコラティエ・清水真琴として、この厨房に立つのも……今日で最後か」 静かに息を吐き、最後のボンボン・ショコラを丁寧に並べ終える。白衣の袖で額の汗をぬぐった瞬間、わずかに指が震えた。 職を失うのは初めてじゃない。今回は、自分の好きを貫いて高級食材にこだわったせい――それで原価が跳ね上がり、オーナーと経営方針でぶつかった。理想の味を追うことが、誰かの迷惑になるなんて――そんな現実を、心はまだ飲み込めずにいる。 ふと、前の職場でのクリスマスの夜がよみがえる。あの時も、オーナーが「安いカカオで十分だ、コストを抑えろ」と言い張った。 厨房の灯りを落とした後、こっそり忍び込んで独断で高級カカオビーンズをすり潰し、大量のチョコ生地に混ぜ込んだ。 翌朝、イベントの客たちが「この深みのある風味、忘れられない!」と大騒ぎ。オーナーにバレて大目玉を食らったけど、あの群衆の中の一人――有名パティシエの老人が、僕の肩を叩いて「君のチョコは魂が入ってる」と囁いた。 告げられたセリフが、せめてもの救いだったのに……結局、そこも長くは続かなかった。 並べたボンボンのひとつを手に取り、天井のライトにかざす。艶やかな表面に映るのは、疲れ切った自分の顔。「あーあ。これが僕の最高傑作、なのにな……」 指先に残るぬくもりが、やけに切なかった。「食べてくれる人は、もういないんだな」 その言葉が空気を震わせた瞬間、胸の奥で何かがひび割れる。それでも心のどこかでまだ信じていた。もう一度、誰かを幸せにしたいと。「僕が作ったこれを食べて……それでも誰も幸せになれないなら、せめて理由を知りたかった」 祈るように呟いたら、ふわりと甘い風が頬を撫でた。厨房の熱気とも、外の冷気とも違う。それは、どこにも属さない温度の風だった。 チョコの香りが揺れ、空気がきらりと金色に滲む。
Terakhir Diperbarui : 2026-04-21 Baca selengkapnya