LOGIN素材へのこだわりが強すぎてホテルを退職したショコラティエ・清水真琴。 最後の勤務日に完成させた「自分史上最高のチョコレート」を食べてくれる人はもういない。 “この甘さを必要としてくれる誰かがいれば”そう願った瞬間、真琴は甘い風に包まれ、異世界へと転移する。 恋と幸福を司る精霊により「菓子職人の勇者」として召喚された真琴は、《パーフェクト・スイートセンス》の祝福を授かる。 やがて出会ったのは誠実で美しい騎士・リオン・ヴァルハート。 彼の内に秘めた優しい甘さを感じ取った真琴は、次第に惹かれていく――。 バレンタインのように甘く、運命のようにとろける異世界ショコラティエ・ロマンス。
View More夜明け前の城は、息を潜めたように静かだった。砦へ向かう準備のため馬具を整えていると、懐の中で小さな紙片がカサリと音をたてた――それは、真琴から渡されたチョコの包み紙だった。 その瞬間、心が不安定に揺らぎ始める。(……まだ、香りが残っている) こんなにも微かな香りなのに内側から優しい波が広がり、戦へ向かう朝にこうして甘さに救われるなど思いもしなかった。 不意に、昨夜の真琴の顔が浮かぶ。 迷いながらも勇気を振り絞った声。小箱を差し出す手の震え。そして、言葉を飲み込むように頬を赤くした表情。(……あのとき、私も手を握り返してしまったな) 思い出すだけで、鼓動が軽やかに乱れる。なぜ彼に触れたのか、理由はあとからどうにでも言い訳できる――けれど。(違う。あれは……触れずにいられなかったんだ) 想いに気づいた瞬間、息が細かく震え出す。戦の前にこんな感情に陥るとは、騎士としては愚かだ。だが、一人の男としては――もう誤魔化しようがなかった。(真琴……私に帰ってきてほしいと、あんなふうに――) 目を閉じて、包み紙をそっと握りしめる。紙越しに伝わる甘い記憶が、心に蜜のような甘みを染み込ませていく。「……この想いを言葉にする日は、帰ってからだ」 もし戻れなかったら、この想いは永遠に胸に沈む。それでも、彼は信じて待つだろう――だからこそ、絶対に裏切れない。 小さく呟いた声は風よりも弱かったが、確かな気持ちだった。真琴に向ける想いは、もうただの“庇護”や“感謝”ではない。失うことを恐れてしまうほどの、名を持たない感情だった。 ――彼の笑顔を守りたい。彼が待ってくれている場所へ、生きて戻りたい。 その願いを胸に刻み、馬に跨ってぎゅっと手綱を握る。「真琴……君が待つ場所へ必ず帰る」 その言葉と共に、馬がゆっくりと北へ歩き出した。 北の砦は、魔物との境界線に近い。一度判断を誤れば、仲間の命も民の暮らしも失われる場所だ。 空はまだ夜の色を残しているが、東の端では微かな金色が滲み始めている。それは、真琴の香りを思わせる朝の色だった。
*** 夜の王都はしんと静まり返っていた。昼間の喧騒が嘘のように遠のき、石畳の上を渡る風が、ほんの少し冷たく頬を撫でる。 僕は厨房にひとり立ち、カカオ豆を砕く手を止めた。リオン様が明日、北の砦へ向かうという知らせを聞いてから、落ち着かないざわめきが心の中でずっと続いていた。「……これが僕にできる“送り出し”の形になるかな」 ただの騎士様なら、ここまで胸が騒ぐだろうか。そう考えてしまう自分に、僕はそっと首を振った。カカオ豆の代用品を嫌な顔ひとつせずに、仕事の合間を見繕って探し、僕のところに届けてくれたり。チョコに合う果実を笑顔で差し入れしてくれたりと、リオン様にはお世話になりっぱなしだった。 鍋の中で溶かされたチョコレートが、ゆっくりと光を帯びていく。それは《スイートセンス》の祝福が働いている証――香りが感情に共鳴する瞬間だった。 リオン様がちゃんと帰ってきますように。誰かのために剣を振るうあの背中が、無事であること。それは溶けるカカオに、祈りをひとしずくずつ染み込ませていくような感覚だった。「フェリシュ、これ……リオン様は喜んでくれるかな」 戸惑いを滲ませた声で告げたら、肩にとまった小さな精霊が、淡い光をキラッと瞬かせる。「うん! 真琴の“心の甘さ”が、ちゃんと伝わるのだわぁ。このチョコ、ほかのよりも……あったかい味がするのですぅ」 「そっか……うん、よかった」 できあがったチョコを手早く小箱に詰めてそっと抱きしめ、夜風の中へと歩き出した。 この間チョコを届けた城の訓練場の一角、火の灯る詰所の前にリオン様がいらっしゃった。 いつも身にまとっている銀の鎧を外し、ひと息ついたその姿は、昼の勇ましさとは全然違う。それは少しだけ人間らしい、疲れと静けさをまとう横顔だった。その静けさに、僕の心臓が否応なしに高鳴る。「こんばんは。リオン様……」 「真琴、こんな夜更けにどうした?」 「チョコを作ったんです……明日の遠征に、持って行ってほしくて。えっと……これはリオン様の“お守り”みたいなもの、です」 僕が恐るおそる木箱を差し出すと、リオン様は受け取りながら微笑む。箱を開ければ、中には包み紙にくるまれた小さなチョコが四つ入っていた。形は少し不揃いだけれど、香りはいつも作っているものより深く、上品な甘さがある。 箱から甘い香りが夜気にふわりと溶
*** 朝の巡回時、真琴の顔を見たときから、胸の奥がざわついていた。「今日はスパイス市があるって、ご近所さんから教えてもらったんです。これから仕入れに行ってきますね」 笑いながら話してくれた瞬間から、背筋に冷たい予感が這い上がるように、ざわめきが広がっていく。いつもなら「気をつけて行け」で済ませるはずだったのに、今日はどうしても口が動かなかった。「……私も行く」 やっと絞り出したセリフを聞いた真琴は、何度も目を瞬かせた。「え? リオン様はお忙しいのでは?」 「君だけじゃ、変な商人に絡まれるかもしれない」 強引な理屈だと自分でもわかっている。本当はただ理由なんていらないほど、隣にいたかっただけ。そんな簡単でだからこそ恐ろしく素直な理由を、自分の口から言えるわけがない。「そ、そうですか。ありがとうございます」 困ったように微笑む真琴の笑顔が、胸に触れたみたいに温かかった。 王都の大通りは、季節祭りの前で人の波ができていた。色とりどりの屋台の上を、いろんな香りが混ざり合っていく。(――近い) 真琴がふと横に立つたび、袖が触れそうで勝手に一歩下がる。だが、真琴が露店に引かれてふらりと離れると、今度は無意識に距離を詰めてしまった。 どれだけ気を配っても、視線が真琴を追っている。情けないと思うほど、視線の先にいる真琴が愛おしかった。「わ、これ美味しそう……リオン様も食べますか?」 串焼きを差し出してくる真琴。火照った頬と、湯気の向こうにのぞく無邪気な笑顔が眩しい。「じゃあ、少しだけ」 本当は全部食べたい。真琴が買ったものを分け合いたい。そんな欲求が喉にこびりついて離れなかった。 串焼きを分け合いながら歩くと、真琴がスープの屋台に目を留めた。熱いカップを手渡され、指先が触れそうになるだけで、心が溶けるように揺らぐ。 飲み終わったカップを見つめ、捨てるべきだとわかっているのに指が動かない。たかが紙カップ。それでも今日、彼が初めて自分に手渡してくれた温度ごと、捨ててしまうなんてできなかった。(私は馬鹿だ、本当に――) 香辛料商の店に入ると、強くて甘い香りがあふれていた。主人が差し出した小瓶を、真琴が試しに嗅いでみる。 次の瞬間、真琴がぽつりと言った。「これ……リオン様に似合いそう」(――私に似合うとは?) それだけで鼓動が乱
*** 次の日、アルセリアの街に降り注ぐ陽光が、石畳をあたたかく照らした。 王都の外れにある騎士団の訓練場へ向かう道すがら、地面の砂を踏む音と木剣が打ち合う甲高い響きが風に混じって届く。 そこへ、場違いなエプロン姿の男がひとり――まるで、戦場に迷いこんだ菓子職人のように僕は両手で大切そうに抱えた木箱を胸に、そろそろと歩いた。(昨日、リオン様が見せてくれた“苦味”。 あれを知ってしまった以上、僕はもう何もせずにはいられなかった) フェリシュは肩の上でふわりとリボンを揺らして、「真琴、がんばるのです!」と小さく励ましてくれる。「ありがとう、フェリシュ。……僕、そんなに緊張してる?」 「だって真琴の体、いつもよりあったかいですもん」 小さな天使のような精霊が、僕の頬にちょんと触れる。その瞬間、心臓が軽やかに跳ね、訓練場に赴く緊張が少しだけ楽しみに変わった。 目的地に近づくにつれ、《スイートセンス》が静かに反応していく。甘く、力強い香り――鍛えあげた精神の芯にだけ宿る、澄んだ“真摯さ”の香気が鼻腔をくすぐった。「来たな、真琴」 リオン様の低く響く声に、思わず顔を上げる。 陽光を背に立つ副団長の姿は、昨日よりもさらに威厳を帯びて見えた。白銀の鎧に反射する光が眩しく、胸がきゅっと締めつけられる。「昨日の話、覚えているか? 君の“甘味”が皆の力になるかもしれない。今日はそれを試してみたい」 「はい。できる限り、やってみます!」 リオン様が頷き、訓練を終えたばかりの騎士たちに召集の声をかける。 僕は持っていた木箱の蓋を開いた。中には、一口サイズのショコラが整然と並んでいる。飾り気のないチョコの表面は陽の光を受けてきらりと輝き、ふわりと甘く優しい香りが訓練場全体を包み込んだ。 その香りに触れた瞬間、ピンと張りつめた空気が少しやわらぐ――まるで、冬の朝に灯された小さな焚き火のように。「な、なんだこの香り……」 「体の疲れが、少し軽くなったような?」 ざわめく声があちこちからあがる。その反応に僕の心臓は早鐘を打ち、指先がわずかに震えた。 耳元でフェリシュが囁く。「大丈夫。真琴の“甘さ”は、ほんとの気持ちからできてるのですぅ」 その声に背中を押された僕は、深呼吸をする。(戦う人たちの心には、きっと僕が知らない苦味がある。それでも――甘さを