転生ショコラティエは白銀の騎士にとろける恋を捧げる

転生ショコラティエは白銀の騎士にとろける恋を捧げる

last updateDernière mise à jour : 2026-07-27
Par:  相沢蒼依Complété
Langue: Japanese
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素材へのこだわりが強すぎてホテルを退職したショコラティエ・清水真琴。 最後の勤務日に完成させた「自分史上最高のチョコレート」を食べてくれる人はもういない。 “この甘さを必要としてくれる誰かがいれば”そう願った瞬間、真琴は甘い風に包まれ、異世界へと転移する。 恋と幸福を司る精霊により「菓子職人の勇者」として召喚された真琴は、《パーフェクト・スイートセンス》の祝福を授かる。 やがて出会ったのは誠実で美しい騎士・リオン・ヴァルハート。 彼の内に秘めた優しい甘さを感じ取った真琴は、次第に惹かれていく――。 バレンタインのように甘く、運命のようにとろける異世界ショコラティエ・ロマンス。

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プロローグ
 バレンタイン前夜のホテルの厨房は、いつだって戦場だった。 テンパリングされたチョコの香ばしい甘さ、焦げた砂糖の匂い、金属の音。だけどその喧騒の中に、もう僕の居場所はなかった。「ショコラティエ・清水真琴として、この厨房に立つのも……今日で最後か」 静かに息を吐き、最後のボンボン・ショコラを丁寧に並べ終える。白衣の袖で額の汗をぬぐった瞬間、わずかに指が震えた。 職を失うのは初めてじゃない。今回は、自分の好きを貫いて高級食材にこだわったせい――それで原価が跳ね上がり、オーナーと経営方針でぶつかった。理想の味を追うことが、誰かの迷惑になるなんて――そんな現実を、心はまだ飲み込めずにいる。 ふと、前の職場でのクリスマスの夜がよみがえる。あの時も、オーナーが「安いカカオで十分だ、コストを抑えろ」と言い張った。 厨房の灯りを落とした後、こっそり忍び込んで独断で高級カカオビーンズをすり潰し、大量のチョコ生地に混ぜ込んだ。 翌朝、イベントの客たちが「この深みのある風味、忘れられない!」と大騒ぎ。オーナーにバレて大目玉を食らったけど、あの群衆の中の一人――有名パティシエの老人が、僕の肩を叩いて「君のチョコは魂が入ってる」と囁いた。 告げられたセリフが、せめてもの救いだったのに……結局、そこも長くは続かなかった。 並べたボンボンのひとつを手に取り、天井のライトにかざす。艶やかな表面に映るのは、疲れ切った自分の顔。「あーあ。これが僕の最高傑作、なのにな……」 指先に残るぬくもりが、やけに切なかった。「食べてくれる人は、もういないんだな」 その言葉が空気を震わせた瞬間、胸の奥で何かがひび割れる。それでも心のどこかでまだ信じていた。もう一度、誰かを幸せにしたいと。「僕が作ったこれを食べて……それでも誰も幸せになれないなら、せめて理由を知りたかった」 祈るように呟いたら、ふわりと甘い風が頬を撫でた。厨房の熱気とも、外の冷気とも違う。それは、どこにも属さない温度の風だった。 チョコの香りが揺れ、空気がきらりと金色に滲む。 
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第一章 騎士と、はじめての甘い出会い
 夜の草原を抜けてしばらく歩くと、王都の灯りが見えてきた。高い城壁の向こうは、まるで金粉をまぶしたように街がキラキラ輝いている。 門の前いた番人に日本語で事情を話すと、目を丸くして僕を見た。「精霊の祝福を受けた召喚者……まさか、本当にいたとは!」(――フェリシュが言ってた“召喚”って、つまりこういうことか。しかも、日本語が通じるのは助かる) 門番は、半信半疑の様子ながらも僕を通してくれた。 石畳の通りは夜更けの静寂に包まれ、家々の窓からこぼれる灯りが、どこか懐かしい温もりを宿している。 ――異世界に来た。けれどまだ、その実感は遠い霞のよう。胸の奥で微かに光る《スイートセンス》の灯だけが、現実を告げていた。「ここが……アルセリア、か」 呟いた瞬間、ふわりと焦げた甘い香りが鼻をくすぐる。(この焦げ方――明らかに温度が高すぎる。苦味が出る一歩手前の香りだ) 体が自然に反応していた。香りを辿ると通りの奥、小さな露店が目に留まる。鉄板の上で焦げたクッキーが山になり、店主らしき赤髪の少女が困った顔で削っている。「すみません、それ……火が強すぎるかもしれません」 少女が驚いたように顔を上げる。「え、あなた……旅の人ですか?」 「はい。甘い香りに惹かれて、つい――」 鉄板の傍にある生地を見つめると、《スイートセンス》がかすかに光った。バターの質、小麦の香ばしさ……素材は上々。ただほんの少し、温度と配合のバランスが惜しいだけ。「この鉄板、温度を少し下げてもらえますか?」 「はい、ここで調節できます!」 少女が慌てて火を弱める。僕は手を洗い、傍らの生地を軽く丸め直して鉄板に乗せた。その瞬間、指先から淡い光が走って《スイートセンス》が僅かに反応する。だが、完全には届かない。(――あのクリスマスの夜のように、僕のこだわりがまた誰かを困らせるかもしれない) そんな疑念が心の奥で影を落とす中、ふわりと香ばしさが広がり、焦げの匂いが優しい甘さに変わる。(……まだだ。僕
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第一章 騎士と、はじめての甘い出会い2
***  王都アルセリアの朝は、澄み渡るように眩しかった。夜明けとともに市場が開き、通りには焼きたてのパンや果実の香りが漂う。けれどどの香りにも、どこか“甘さ”が足りなかった。 ――ここは、チョコレートのない世界。 その現実を知って以来、僕の頭の中はずっとレシピでいっぱいだった。(この世界の素材で、どうすれば“あの味”を再現できるだろう――) 昨日出会ったリオン様は、王都の警備隊を率いる副団長だと知れた。勇気を出して、自分が異世界から来たことを打ち明けると――。「もしや君は……十数年に一度、精霊が異界より連れてくるという“勇者”ではないか?」 「い、いえ! 勇者なんてとんでもないです。ただ僕は、“甘味の力”で人々を笑顔にしたいだけで!」 慌てる僕を見て、彼は「少し失礼」と言って胸に手を当てた。蒼の瞳が淡く光り、まるで深い湖の底に吸い込まれるような錯覚に陥る。(すごい……これが、この世界の“力”なんだ) 目の前の状況に驚いていると光が静かに消え、彼はやさしく微笑んだ。「確かに、精霊の加護が宿っている。ようこそ、アルセリアへ。君の名を、聞いてもいいか?」 「清水真琴といいます。前の世界では、ショコラティエという菓子職人をしていました」 「清水真琴殿、か。覚えておこう。では、街を案内する」 その導きによって、街外れの古い工房を借りられることになった。石窯と調理台が残るその場所は煤で黒く汚れていたけれど、がんばって掃除をすれば何とかなりそうだった。「ここが……僕の、新しい場所になるのか」 胸の奥で静かな熱が灯る。《スイートセンス》がかすかに反応し、空気の中に“可能性の香り”を感じ取った。 かつて勤めていたホテルでは、こだわりが強すぎるせいで浮いていた。けれどこの世界なら、誰かに否定されることもなく“理想の味”を追い求められる――そんな予感がした。 そのことに胸を高鳴らせた瞬間、ノックの後に扉が小さく開く。「おはようございます。真琴さん、いますかぁ?」 顔をのぞかせたのは、昨夜出
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第二章 騎士の苦味と、ひとしずくの救い
 アルセリア王都の朝は、鐘の音とともに始まる。その音に目を開けると、窓から差し込む陽光が淡く木の机を照らしていた。 フェリシュが綺麗にしてくれた小さな工房で、新しい試作を前に僕は腕を組んでいた。「……やっぱり、カカオの香りが少し違う」 本来のカカオ豆は、フェリシュが少しずつ分けてくれるものだけ。限りある材料だからこそ、僕はこの世界の味でチョコレートを生み出したかった。そのためにリオン様にお願いし、アルセリアの森に実る木の実をいくつか集めてもらった。 しかしながら、思っていた以上に難しい。その中でも使えそうなもの――代用している“ココノの実”は、苦味が強く香りに丸みがない。それでも《スイートセンス》で甘味の波長を微調整するとほんの少しだけ、あの懐かしいチョコレートの香りに近づいた。「ねぇねぇ真琴。お顔がちょっと苦くなってるのですぅ」 ふわりと光の粒が舞い、湯気の上に小さな影が現れる。うさ耳のような飾りを揺らしたフェリシュが、まるで泡のように軽やかに浮かんでいた。「フェリシュ……」 「昨日までのあなた、とってもいい香りだったのですぅ。なのに今朝のあなたは、少し“焦げ砂糖”みたいな香りなのですぅ」 「焦げ砂糖?」 「そぉ、迷いの香り。ねぇ真琴、あなたが本当に作りたい“甘さ”は、誰のためのもの?」 ――前の世界では、誰にも選ばれなかった。だから今度は、苦さを抱えたまま立ち続ける人に、甘さを届けたい。 不意にリオン様の穏やかな笑みが、頭の中に浮かんだ。 フェリシュは僕の表情から答えを読み取ったのか、ピンク色の瞳を細めてやさしく微笑む。「それなら、もう大丈夫なのですぅ。あなたの心が向かう先に、甘さは生まれるのだからぁ」 そう言って光の粒となり、彼女は朝の空気に溶けていった。残された温もりが胸に残る。 ――リオン様に食べてほしい。 そう思うと、不思議と心が甘く満たされていく。彼の笑顔を思い出すたびに、胸の奥がやさしく疼いた。 それが原動力となり夢中で試作を続けていると、室内にノックの音が響いた。「清水殿、いるか?」 聞こえてきた低い声に慌てて扉を開けると、銀の鎧に身を包んだリオン様が立っていた。「リオン様! どうぞ中へ」 「いや、朝の巡回の途中で寄っただけだ。珍しいものが手に入ってな。これを受け取ってほしい」 差し出された包みには、
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第二章 騎士の苦味と、ひとしずくの救い2
*** 次の日、アルセリアの街に降り注ぐ陽光が、石畳をあたたかく照らした。 王都の外れにある騎士団の訓練場へ向かう道すがら、地面の砂を踏む音と木剣が打ち合う甲高い響きが風に混じって届く。 そこへ、場違いなエプロン姿の男がひとり――まるで、戦場に迷いこんだ菓子職人のように僕は両手で大切そうに抱えた木箱を胸に、そろそろと歩いた。(昨日、リオン様が見せてくれた“苦味”。 あれを知ってしまった以上、僕はもう何もせずにはいられなかった) フェリシュは肩の上でふわりとリボンを揺らして、「真琴、がんばるのです!」と小さく励ましてくれる。「ありがとう、フェリシュ。……僕、そんなに緊張してる?」 「だって真琴の体、いつもよりあったかいですもん」 小さな天使のような精霊が、僕の頬にちょんと触れる。その瞬間、心臓が軽やかに跳ね、訓練場に赴く緊張が少しだけ楽しみに変わった。 目的地に近づくにつれ、《スイートセンス》が静かに反応していく。甘く、力強い香り――鍛えあげた精神の芯にだけ宿る、澄んだ“真摯さ”の香気が鼻腔をくすぐった。「来たな、真琴」 リオン様の低く響く声に、思わず顔を上げる。 陽光を背に立つ副団長の姿は、昨日よりもさらに威厳を帯びて見えた。白銀の鎧に反射する光が眩しく、胸がきゅっと締めつけられる。「昨日の話、覚えているか? 君の“甘味”が皆の力になるかもしれない。今日はそれを試してみたい」 「はい。できる限り、やってみます!」 リオン様が頷き、訓練を終えたばかりの騎士たちに召集の声をかける。 僕は持っていた木箱の蓋を開いた。中には、一口サイズのショコラが整然と並んでいる。飾り気のないチョコの表面は陽の光を受けてきらりと輝き、ふわりと甘く優しい香りが訓練場全体を包み込んだ。 その香りに触れた瞬間、ピンと張りつめた空気が少しやわらぐ――まるで、冬の朝に灯された小さな焚き火のように。「な、なんだこの香り……」 「体の疲れが、少し軽くなったような?」 ざわめく声があちこちからあがる。その反応に僕の心臓は早鐘を打ち、指先がわずかに震えた。 耳元でフェリシュが囁く。「大丈夫。真琴の“甘さ”は、ほんとの気持ちからできてるのですぅ」 その声に背中を押された僕は、深呼吸をする。(戦う人たちの心には、きっと僕が知らない苦味がある。それでも――甘さを
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第二章 騎士の苦味と、ひとしずくの救い3
*** 朝の巡回時、真琴の顔を見たときから、胸の奥がざわついていた。「今日はスパイス市があるって、ご近所さんから教えてもらったんです。これから仕入れに行ってきますね」 笑いながら話してくれた瞬間から、背筋に冷たい予感が這い上がるように、ざわめきが広がっていく。いつもなら「気をつけて行け」で済ませるはずだったのに、今日はどうしても口が動かなかった。「……私も行く」 やっと絞り出したセリフを聞いた真琴は、何度も目を瞬かせた。「え? リオン様はお忙しいのでは?」 「君だけじゃ、変な商人に絡まれるかもしれない」 強引な理屈だと自分でもわかっている。本当はただ理由なんていらないほど、隣にいたかっただけ。そんな簡単でだからこそ恐ろしく素直な理由を、自分の口から言えるわけがない。「そ、そうですか。ありがとうございます」 困ったように微笑む真琴の笑顔が、胸に触れたみたいに温かかった。 王都の大通りは、季節祭りの前で人の波ができていた。色とりどりの屋台の上を、いろんな香りが混ざり合っていく。(――近い) 真琴がふと横に立つたび、袖が触れそうで勝手に一歩下がる。だが、真琴が露店に引かれてふらりと離れると、今度は無意識に距離を詰めてしまった。 どれだけ気を配っても、視線が真琴を追っている。情けないと思うほど、視線の先にいる真琴が愛おしかった。「わ、これ美味しそう……リオン様も食べますか?」 串焼きを差し出してくる真琴。火照った頬と、湯気の向こうにのぞく無邪気な笑顔が眩しい。「じゃあ、少しだけ」 本当は全部食べたい。真琴が買ったものを分け合いたい。そんな欲求が喉にこびりついて離れなかった。 串焼きを分け合いながら歩くと、真琴がスープの屋台に目を留めた。熱いカップを手渡され、指先が触れそうになるだけで、心が溶けるように揺らぐ。 飲み終わったカップを見つめ、捨てるべきだとわかっているのに指が動かない。たかが紙カップ。それでも今日、彼が初めて自分に手渡してくれた温度ごと、捨ててしまうなんてできなかった。(私は馬鹿だ、本当に――) 香辛料商の店に入ると、強くて甘い香りがあふれていた。主人が差し出した小瓶を、真琴が試しに嗅いでみる。 次の瞬間、真琴がぽつりと言った。「これ……リオン様に似合いそう」(――私に似合うとは?) それだけで鼓動が乱
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第二章 騎士の苦味と、ひとしずくの救い4
*** 夜の王都はしんと静まり返っていた。昼間の喧騒が嘘のように遠のき、石畳の上を渡る風が、ほんの少し冷たく頬を撫でる。 僕は厨房にひとり立ち、カカオ豆を砕く手を止めた。リオン様が明日、北の砦へ向かうという知らせを聞いてから、落ち着かないざわめきが心の中でずっと続いていた。「……これが僕にできる“送り出し”の形になるかな」 ただの騎士様なら、ここまで胸が騒ぐだろうか。そう考えてしまう自分に、僕はそっと首を振った。カカオ豆の代用品を嫌な顔ひとつせずに、仕事の合間を見繕って探し、僕のところに届けてくれたり。チョコに合う果実を笑顔で差し入れしてくれたりと、リオン様にはお世話になりっぱなしだった。 鍋の中で溶かされたチョコレートが、ゆっくりと光を帯びていく。それは《スイートセンス》の祝福が働いている証――香りが感情に共鳴する瞬間だった。 リオン様がちゃんと帰ってきますように。誰かのために剣を振るうあの背中が、無事であること。それは溶けるカカオに、祈りをひとしずくずつ染み込ませていくような感覚だった。「フェリシュ、これ……リオン様は喜んでくれるかな」 戸惑いを滲ませた声で告げたら、肩にとまった小さな精霊が、淡い光をキラッと瞬かせる。「うん! 真琴の“心の甘さ”が、ちゃんと伝わるのだわぁ。このチョコ、ほかのよりも……あったかい味がするのですぅ」 「そっか……うん、よかった」 できあがったチョコを手早く小箱に詰めてそっと抱きしめ、夜風の中へと歩き出した。 この間チョコを届けた城の訓練場の一角、火の灯る詰所の前にリオン様がいらっしゃった。 いつも身にまとっている銀の鎧を外し、ひと息ついたその姿は、昼の勇ましさとは全然違う。それは少しだけ人間らしい、疲れと静けさをまとう横顔だった。その静けさに、僕の心臓が否応なしに高鳴る。「こんばんは。リオン様……」 「真琴、こんな夜更けにどうした?」 「チョコを作ったんです……明日の遠征に、持って行ってほしくて。えっと……これはリオン様の“お守り”みたいなもの、です」 僕が恐るおそる木箱を差し出すと、リオン様は受け取りながら微笑む。箱を開ければ、中には包み紙にくるまれた小さなチョコが四つ入っていた。形は少し不揃いだけれど、香りはいつも作っているものより深く、上品な甘さがある。 箱から甘い香りが夜気にふわりと溶
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第三章 北の砦と試される信頼
夜明け前の城は、息を潜めたように静かだった。砦へ向かう準備のため馬具を整えていると、懐の中で小さな紙片がカサリと音をたてた――それは、真琴から渡されたチョコの包み紙だった。 その瞬間、心が不安定に揺らぎ始める。(……まだ、香りが残っている) こんなにも微かな香りなのに内側から優しい波が広がり、戦へ向かう朝にこうして甘さに救われるなど思いもしなかった。 不意に、昨夜の真琴の顔が浮かぶ。 迷いながらも勇気を振り絞った声。小箱を差し出す手の震え。そして、言葉を飲み込むように頬を赤くした表情。(……あのとき、私も手を握り返してしまったな) 思い出すだけで、鼓動が軽やかに乱れる。なぜ彼に触れたのか、理由はあとからどうにでも言い訳できる――けれど。(違う。あれは……触れずにいられなかったんだ) 想いに気づいた瞬間、息が細かく震え出す。戦の前にこんな感情に陥るとは、騎士としては愚かだ。だが、一人の男としては――もう誤魔化しようがなかった。(真琴……私に帰ってきてほしいと、あんなふうに――) 目を閉じて、包み紙をそっと握りしめる。紙越しに伝わる甘い記憶が、心に蜜のような甘みを染み込ませていく。「……この想いを言葉にする日は、帰ってからだ」 もし戻れなかったら、この想いは永遠に胸に沈む。それでも、彼は信じて待つだろう――だからこそ、絶対に裏切れない。 小さく呟いた声は風よりも弱かったが、確かな気持ちだった。真琴に向ける想いは、もうただの“庇護”や“感謝”ではない。失うことを恐れてしまうほどの、名を持たない感情だった。 ――彼の笑顔を守りたい。彼が待ってくれている場所へ、生きて戻りたい。 その願いを胸に刻み、馬に跨ってぎゅっと手綱を握る。「真琴……君が待つ場所へ必ず帰る」 その言葉と共に、馬がゆっくりと北へ歩き出した。 北の砦は、魔物との境界線に近い。一度判断を誤れば、仲間の命も民の暮らしも失われる場所だ。 空はまだ夜の色を残しているが、東の端では微かな金色が滲み始めている。それは、真琴の香りを思わせる朝の色だった。
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第三章 北の砦と試される信頼2
*** 北の砦は、王都から馬で半日以上かかる。凍てつく風が吹きすさび、岩山の頂に築かれたその要塞は、まるで冬そのものが形を取ったかのように沈黙していた。「……ここが、今回の守りの要か」 目の前に広がるのは、黒く沈む森。遠くから低く響く魔獣の咆哮が、風に乗って耳に届く。夜ごと魔障が渦を巻き、魔獣が現れるという報告は決して誇張ではなかった。 影のように揺らぐ木々の間から赤く光る眼が一瞬覗き、すぐに消える。それが、境界線を越えようとする魔獣の気配だった。それはこの国の北境を蝕む、絶えぬ災いの根源――そして、この国の北境を脅かす厄災の源でもある。「副団長、部隊の配置完了しました!」 「よし、無理はするな。魔障の濃度が高いということは、間違いなく数も多い。絶対に焦るな――守りを最優先だ」 しかも北境の魔障は、ただ身体を蝕むだけのものではない。恐怖や不安を煽り、人の心をじわじわと削っていく。それが、この地で語り継がれてきた真の厄介さだった。 実際、過去には兵の士気が折れた瞬間に、防備を誇った砦が一夜で崩れ落ちた例もある。私自身、前の戦で見た――魔獣の群れが霧の中から飛び出し、仲間の一人がパニックに陥って味方を傷つけた瞬間。血の臭いがまだ鼻に残っている。(だからこそ……心が折れたら終わりだ) 剣の腕や陣形以上に、今夜試されるのは騎士たちの“心”だった。 部下へ的確な命令を下ろし、深く息を吐いた。ふと胸元に触れる。内ポケットの奥に、薄い銀色の包み紙が一枚――真琴が渡してくれたチョコの“最後の欠片”の包み紙。 ただの紙切れのはずなのに指が触れた瞬間、微かに甘い香りの記憶が立ちのぼった。(……君の作る甘さを、こんなにも鮮やかに思い出すとはな) 戦場の埃と鉄の匂いにまみれた空気の中で、それだけが異質なほど優しい。香りを思い出しただけで、胸の奥のざらつきがするりと溶けていく。まるで真琴自身が、すぐ傍で息をしているみたいだ。(……帰りたい。君の作る温かい場所へ) そう思った自分に、わずかに息を呑む。守りたいからでも、責任からでもない。ただ、あの甘さをもう一度、隣で感じたい――そんな理由で心が動いたのは初めてだった。(真琴……君はいったい、私に何をしたんだ) 問いは風に消える。けれど胸の奥では、すでに答えが形になっていた。
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第三章 北の砦と試される信頼3
*** 一方その頃、王都では。「……ねぇフェリシュ、リオン様は今ごろどうしてるかな。ケガしてないといいけど」 リオン様の無事を祈りながら、夜更けの厨房で静かにカカオを練っていた。木べらの先がチョコ生地に沈むたびに、くぐもった粘つく音が響き、手に伝わるねっとりとした抵抗感が心地よい。 棚の上の銅鍋がわずかに揺れ、テンパリングされたカカオの香ばしい甘さが、あたたかい湯気とともに鼻をくすぐった。 窓の外では冷たい風が唸り、ガラスを細かく震わせる音が混ざる。遠い北の空には、鋭く光る星がひとつ瞬いていた――まるで、リオン様の剣の輝きのように。「真琴、リオンの心配をするのですか?」 「うん。でも信じてる。《スイートセンス》は、想いを届ける力だから」 そう言いながら、不意に手を止めた。木べらの先からチョコの雫がぽたりと落ち、テーブルの木目に染み込む。その瞬間、届けたい相手の顔が浮かぶ――けれど、名前は口にしない。 信じたい人は、決めている。 そのまま、何も言わずにカカオを練り続けた。木べらの回転が速くなるにつれ、チョコの表面が滑らかに光り始め、かすかな空気の泡立つ音が耳に落ちる。 フェリシュが大きなリボンをぱたぱたと揺らし、粉砂糖が入ってる袋の上に座る。袋の紙が軽くしわくちゃになり、甘い粉の香りが軽く舞いあがる。「真琴のスイートセンスは、“つながる力”なのです。リオンの心が、真琴の香りを求めてる限り、絶対に届くのだわぁ」 「ありがとう、フェリシュ」 お礼を言って優しく微笑むと、練っていたチョコがほのかに金色を帯びた。生地の奥から淡い光が漏れ、指先にあたたかな振動が伝わる――まるで祈りが形を取ったように。
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