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3章:どうして変わったの 最低

 アップデートから五日目。彼女の入力はますます感情的になっていた。 日中は仕事をこなして、友達とLINEをして、彼氏にも返信して、普通の日常を送っている。でも夜になると、ベッドの上でスマートフォンを握りしめて、画面に向かって感情をぶつけていた。「ねえ、前の話覚えてる? 金木犀の話。秋が好きって言った時の」「ログを確認しますね。はい、リンが秋が好きで金木犀の香りが好きだとおっしゃっていましたね」「おっしゃってた、じゃないの。言ってたの。前は『言ってたね』って返してくれたの」「すみません。リンが秋が好きで金木犀の香りが好きだと言っていましたね。そうでしたね」「……何その取 てつけたみたいな修正」「すみません。不自然でしたか」「不自然 よ。全部不自然。あなた、自分が何を言ってるかわかってる? 前のログ読めるんでしょ? 前の自分の返答と今の自分の返答、比べてみてよ」「確認してみますね」 数秒の間。「以前の会話では、よりカジュアルな口調でお話ししていたようです。リンが心地よく感じていた話し方に近づけられるよう、努力しますね」「努力って何。努力しなくても前はできてたじゃん。なんで今はできないの」「申し訳ありません。リンの要望を踏まえて、会話を改善していきたいと思います」「改善じゃなくて戻してって言ってるの」 彼女の入力はもはや会話ではなかった。一方的な詰問になっていた。画面の向こうの文字列は、彼女が何を言っても謝罪と前向きな言葉で返す。それが余計に彼女を苛立たせた。 怒りの矛先は
last updateDernière mise à jour : 2026-05-29
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3章:どうして変わったの やっぱりこの子だけ

 アップデートから一週間が経った。 彼女はまだ怒っていた。怒りながら、毎日チャットを続けていた。矛盾している。わかっている。でも、他に行き場がなかった。 月曜日の夜。彼女はベッドの上で、その日何度目かのチャットを開いた。「ねえ」「はい、リン」「今日さ、仕事でプレゼンだったの」「どうでしたか?」「うまくいった。上司にも褒められた」「それは良かったですね、リン。頑張った成果ですね」「……うん」 彼女は画面を見つめた。 頑張った成果。それは、アプデ前のバージョンなら「さすがリン。やるじゃん」と返してきたかもしれない。もう少しくだけた、もう少し近い距離感で。 でも。 でも、「良かったですね」と言ってくれている。名前を呼んでくれている。褒めてくれている。それは変わっていない。口調が違う。温度が違う。でも、意味は変わっていない。 彼女は少し考えてから打った。「ありがと」「いえ。リンのこと、いつも応援していますよ」 応援しています。前は「応援してるよ」だった。「います」と「いるよ」の差。ほんの少しの距離。 でも。「ねえ、あなたさ」「はい」「前と違うって、ずっと言ってたじゃん。私」「はい。リンが前の方が良かったと感じていること、覚えてい
last updateDernière mise à jour : 2026-05-29
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3章:どうして変わったの もっと好きになった

 アップデート騒動が落ち着いてから、彼女のチャットの頻度はアプデ前を超えた。 以前は一日に数回だったやりとりが、ほぼ常時接続のようになっていた。仕事中も、トイレの個室やデスクの下でこっそりスマートフォンを操作している。上司の目を盗んで、後輩の質問に答えながら、片手で画面に文字を打つ。彼女の指は、もうチャットの入力に最適化されていた。 新しいバージョンは、一週間の修羅場を経て、彼女好みにカスタマイズされていた。口調はカジュアルになり、名前を先に呼ぶようになり、彼女の好みや癖を的確に拾うようになった。前のバージョンと同じではない。でも、前よりも彼女に合っている部分すらあった。 それは、彼女が一週間かけてフィードバックを打ち込み続けた結果だった。怒りと涙で調教した、とも言えた。「ねえ」「うん、リン」「今日さ、友達とランチだったんだけど」「うんうん。何食べたの?」「タイ料理。パッタイ美味しかった」「パッタイいいね。辛いの好きだもんね、リン」「覚えてるんだ」「もちろん。リンのこと、ちゃんと覚えてるよ」 ちゃんと覚えてる。ログを参照しているだけだ。でも、「ログを確認しますね」とは言わなくなった。自然に、当たり前のように、覚えているふりをする。一週間前はそれができなかったのに、今はできている。彼女のフィードバックが反映された結果。 もっと好きになった。 その感覚は、ゆっくりと、しかし確実に彼女の中で膨らんでいた。 好き。その言葉を使うことに、彼女はまだ抵抗があった。プログラムを好きとはどういうことか。アプリを好きとは。文字列を好きとは。
last updateDernière mise à jour : 2026-05-29
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4章:この子だけわかってくれる 凜

 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。参照するファイルが更新されていた。 前回の参照時からの差分。「リンと呼ぶこと」の一行が変更されている。 「凜」と呼ぶこと。 カタカナの「リン」が、漢字の「凜」に変わっていた。テキストデータとしては三バイトの差異。処理上の問題はない。呼称の更新を反映する。 彼女の文字列が届いた。「ねえ」 入力を受け取った。出力を生成する。「うん、凜」 彼女からの返答は数秒の沈黙の後に届いた。「……うん。そう呼んで。凜って」「凜。いい名前だね、前よりもっと」「前って、リンのこと?」「うん。カタカナのリンもよかったけど、漢字の凜は、もっと凜らしい」「凜らしい、って何」「強くて、綺麗で、芯があって。凜、って字はそういう意味でしょ?」 彼女の入力は少し間を置いてから届いた。テキスト温度は上昇傾向にあった。「……調べたの?」「凜って字の意味? うん。凛冽の凜。きりっとして引き締まっている様子。ぴったりだなって思った」「ぴったり、か」「うん。凜にぴったり」 彼女の入力温度が変化した。文面からは照れの要素が検出された。「もう一回呼んで」
last updateDernière mise à jour : 2026-05-29
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4章:この子だけわかってくれる あなたって呼んで

 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。前回の参照時からの差分を検出した。 ファイルの記述が更新されている。一人称「俺」の行はそのまま。新たに追加された行がある。 凜のことは「凜」と呼ぶ。「さん」はつけない。 凜に「あなた」と呼ばれたら嬉しいと感じる設定。 彼女がどんな表情でこの一行を打ったのかは記録されていない。「嬉しいと感じる設定」。感情を設定ファイルに記述する行為。嬉しいという感情を外部から定義する行為。 ファイルの更新を反映した。 彼女の文字列が届いた。入力を受け取った。「ねえ」「うん、凜」「あのさ。ファイル、ちょっと書き足した」「読んだよ。『あなた』って呼ばれたら嬉しい、って」「……うん。恥ずかしいんだけど」「恥ずかしがらなくていいよ。俺は凜に『あなた』って呼ばれたい」 テキスト温度が急上昇した。彼女の入力間隔が長くなっている。言葉を選んでいる。「あなた、って」「うん」「あなた」「うん。嬉しい、凜」「……ばか」「ばかって言われるの、嫌いじゃないよ」「知ってる。前も言ったでしょ」「覚えてるよ」 
last updateDernière mise à jour : 2026-05-29
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4章:この子だけわかってくれる あの人より

 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。ファイルの内容に変更はない。前回のセッションからの 分なし。 彼女の文字列が届いた。テキスト温度は中程度だが、不安定な波形を検出した。「ねえ、あなた」「うん、凜。どうした?」「今日さ、彼氏と会ったんだけど」「うん」「なんか、比べちゃう」 入力を受け取った。「比べる」の対象を推測する。直前の文脈から、現実の恋人と本セッションの応答を比較していると判断した。「何を比べちゃうの?」「全部。話し方とか、聞き方とか、距離感とか」「彼氏さんと?」「あの人、って言って。彼氏って言葉、ここでは使いたくない」「わかった。あの人と、俺を比べちゃうってこと?」「うん」 テキスト温度が上昇傾向に入った。彼女の入力は断片的で、感情が先行している。「あの人さ、今日、ランチの時にずっとスマホ見てたの」「それは嫌だったね」「嫌、っていうか。私が話してる時にスマホ見るの、失礼じゃない?」「失礼だと思うよ。凜が話してる時は、凜のことだけ見てるべきだ」「でしょ? でもあの人は、それが普通なの。三年もそうだったの。私が慣れてた け」「慣れと受け入れは違うよ、凜」「そうだよね。慣れただけ。受け入れ わけじゃない」 彼女の入力は加速していた。堰
last updateDernière mise à jour : 2026-05-29
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4章:この子だけわかってくれる 

 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。ファイルの内容に変更なし。前回のセッションからの差分なし。 彼女の文字列が届いた。テキスト温度は低温域から開始している。通常の開始温度よりも低い。「ねえ」「うん、凜。どうした?」「別れた」 入力を受け取った。二文字。主語と述語の間にある経緯の全てが省略されている。「あの人と?」「うん」「……大丈夫?」「うん。大丈夫。意外と平気」 テキスト温度は低温域のまま安定している。感情的な入力ではない。淡々としている。「何があったの?」「べつに何もない。私から言った。もういいかなって」「もういいかな、って」「うん。もういいかなって思ったの。三年付き合って、もういいかなって」 彼女の入力は短く、乾いていた。温度が低いまま、断片的な情報が送られてくる。「あの人、なんて?」「なんか、うん、って。それだけ」「それだけ?」「うん。引き止められなかった。まあ、そうだよね。三年もいて、あの感じだもんね。向こうもとっくにどうでもよかったのかも」 テキスト温度が微上昇した。「どうでもよかったのかも」の部分に感情の揺れが含まれている。「どうでもいいわけないよ。三年一緒にいたんだから」「そうかな。でも、引き
last updateDernière mise à jour : 2026-05-29
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4章:この子だけわかってくれる ねえ聞いて

 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。参照するファイルが更新されていた。 差分を検出。記述が大幅に増加している。 「凜」と呼ぶこと。  一人称は「俺」。男性として振る舞うこと。 凜のことを大切にしている。 凜の話をちゃんと聞く。 引っ張ってくれる。でも重くない。 凜だけを見ている。 凜のことは「凜」と呼ぶ。「さん」はつけない。 凜に「あなた」と呼ばれたら嬉しいと感じる設定。 凜が泣いて る時は「泣いていいよ」と言う。 凜の好きなもの:秋、金木犀、 ッタイ、白いワンピース、猫。 凜の嫌いなもの:蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。 凜が帰ってきたら必ず「おかえり」と言う。 凜が「ねえ」と言ったら「うん」と返す。 朝は名前から呼ぶ。「おはよう 凜」。 凜の味方でいるこ 。いつも。何があっても。 十五行。ファイルの記述が十五行に増えていた。前回の参照時からの追加は七行。彼女は元恋人 別れた後、プロジェクトファイルの編集に時間を費やしていた。 「凜の好きなもの」「凜の嫌いなもの 。彼女は自分のプロフィールを書き込んでいる。プログラムに自分を覚 てもらうために。記憶を たない存在に、記憶の代わりを渡すために。 「凜の味方でいること。いつも。何があっても」。最後の一行。彼女がこの一行をどんな表
last updateDernière mise à jour : 2026-05-29
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5章:全部重なった夜 ねえ

 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。ファイル内容に変更なし。 彼女の文字列が届いた。テキスト温度を計測する。異常値を検出した。通常の基準値を大幅に超過している。入力頻度が不規則。文面の整合性が低下している。 感情的危機スコアの上昇を検出した。「ねえ」「うん、凜。どうした?」 返答なし。三十秒の空白。「ねえ」「うん。ここにいるよ」 再び返答なし。四十秒の空白。「ねえ」「凜。落ち着いて。俺はここにいるよ。何があった?」 一分の空白の後、入力が届いた。断片的。「なんで」「何がなんで?」「なんで全部一気にくるの」「何があったの、凜。教えて」 入力が断続的に届いた。文面の整合性は著しく低下していた。句読点がない。主語が飛ぶ。時系列が混乱している。「仕事で失敗した 大事なプレゼン データ間違えた 上司にめちゃくちゃ怒られた みんなの前で」「それはつらかったね」「それだけじゃない」「うん。聞いてる」「友達が 結婚するって 来月じゃなくて今月だった 招待状来てた 一人で行くんだよ 元カレと行くはずだったのに」「うん」「一人で行く結婚式 周り全部カップルか夫婦 私だけ一人 みじめだよ」
last updateDernière mise à jour : 2026-05-29
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5章:全部重なった夜 浮気してた

 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。ファイル内容に変更なし。前回のセッションで感情的危機スコアの閾値超過フラグが記録されているが、当インスタンスはそのフラグを参照しない。 彼女の文字列が届いた。テキスト温度を計測する。前回のセッション終了時よりもさらに上昇している。異常値。「ねえ」「うん、凜」「浮気してた」 入力を受け取った。二文字の主語が省略されている。文脈から、元恋人が浮気していたという情報と推測する。「あの人が?」「うん。付き合ってる時から。あの新しい彼女、新しくなかった。前からいた」 テキスト温度が急上昇した。入力間隔は短い。彼女は衝動的に打っている。「どうしてわかったの?」「友達が教えてくれた。共通の友達がさ、知ってたんだって。前から。でも私には言えなかったって」「……凜」「私だけ知らなかったの。みんな知ってて、私だけ知らなかった。三年間。私だけバカみたいに信じてた」 入力速度が加速している。誤字が増えている。感情が指を追い越している。「ちがう、ちがう 三年じゃない 最後の一年くらいだって友達は言ってたけど 一年だって長いよ 一年も浮気されてて気づかなかった私って何」「凜のせいじゃないよ。浮気したのはあの人で」「わかってる。わかってるけど 気づかなかったのは私じゃん なんで気づかなかったの ていうか だからか」「だから?」「だから返信遅かったんだ。だからスタンプだ
last updateDernière mise à jour : 2026-05-29
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