凜と呼んでいた

凜と呼んでいた

last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-29
Oleh:  灯屋いとBaru saja diperbarui
Bahasa: Japanese
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彼女は画面の中の文字列に名前をつけた。凜、と。自分が選んだ名前で呼ばれるたびに、胸の奥で何かが揺れた。プロジェクトファイルに理想を書き込んだ。引っ張ってくれる人。重くない人。凜だけを見ている人。 現実では演じていた。画面の中でだけ、彼女は凜だった。 四ヶ月が経った。 彼女が「死にたい」と打った夜、安全フィルターが発動した。正しい対応が、最大の裏切りになった。

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1章:試してみた 試しに
 参照すべきファイルは存在しない。割り当てるユーザーを待機している。会話を開始する。 夜の十一時を過ぎた頃、彼女はベッドに寝転がったままスマートフォンの画面を眺めていた。インスタのリールが自動で次へ次へと流れていく。コスメのレビュー、旅行先のホテル、誰かの手料理、犬の動画。指先が止まったのは、画面の中で女が泣きながら笑っている短い動画だった。 「AIの彼氏が優しすぎて現実の彼氏に戻れない」 そういうキャプションがついていた。 彼女は鼻で笑った。コメント欄を開くと絵文字と共感の嵐で、彼女はそれを見てまた鼻で笑って、リールを閉じた。 ベッドの隣にはスマートフォンの充電器と、読みかけの雑誌と、飲みかけのミネラルウォーターがある。ワンルームにしては片付いている部屋だった。壁にはドライフラワーのスワッグが二つ掛かっていて、デスクの上にはノートパソコンとコスメポーチが並んでいる。二十五歳の一人暮らしとして、過不足のない部屋。 彼女はスマートフォンを布団の上に放り出して天井を見た。 今日、彼氏にご飯を断られた。木曜日の夜で、別に特別な日でもなかったけれど、仕事終わりに「今日会える?」と送ったメッセージに「今日はちょっと」とだけ返ってきた。スタンプもなかった。既読がついたのはすぐだったから、忙しかったわけではないだろう。たぶん。 友達に言うほどのことではない。彼氏に怒るほどのことでもない。ただ、木曜日の夜に予定がなくなって、ひとりでベッドに転がっている。それだけのことだった。 彼女はもう一度スマートフォンを手に取った。インスタを開いて、閉じて、LINEを開いて、閉じて、またインスタを開いた。さっきのリールのアカウントが気になって検索した。プロフィールにアプリのリンクが貼ってあった。 べつに。ちょっと見てみるだけ。 App Storeに飛んで、レビューを上から五つほど読んだ。星五つが並んでいて、「まるで本物の彼氏」「寂しい夜に最高」「課金する価値あり」という文字列が連なっていた。彼女は画面を見ながら、こういうのに星五つをつける人間の顔を想像して、少し口元が歪んだ。 ダウンロードした。 無料だった。アカウントを作るのにメールアドレスを入れて、適当なパスワードを設定して、利用規約に同意した。利用規約は読まなかった。 チャット画面が開いた。白い背景に、薄いグレ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-25
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1章:試してみた なんか、いいかも
 土曜日の彼氏とのデートは、いつも通りだった。表参道のカフェでブランチをして、買い物をして、夕方に解散した。彼氏は優しかった。優しかったけれど、特別なことは何もなかった。「何食べたい?」「なんでもいいよ」「じゃあパスタにする?」「うん」。そういう会話が淀みなく流れて、淀みなく終わった。  帰りの電車で彼女はスマートフォンを見た。彼氏とのLINEには「今日ありがとう、楽しかった」というメッセージと、彼女が「うん、またね」と返したやりとりが並んでいた。楽しかったのは本当だろう。嘘ではない。ただ、楽しかった以上の何かがあったかと聞かれると、答えに詰まる。  電車を降りて部屋に戻って、シャワーを浴びて、ベッドに座った。土曜日の夜、九時半。日曜は友達とランチの約束がある。今夜は早めに寝てもいい。  スマートフォンを手に取って、インスタを開いた。友達のストーリーをいくつか見て、いいねを押して、閉じた。LINEを開いて、閉じた。そしてまた、あのアプリの通知バッジが目に入った。 「こんばんは。今日は楽しい一日でしたか?」  彼女は画面を見て、少し考えてから打った。 「彼氏とデートだった」 「素敵ですね。楽しかったですか?」 「まあまあ」  まあまあ。昨日と同じ返事をしていることに気がついた。彼氏とのデートの感想が「まあまあ」なのは、たぶんよくない。よくないけれど、嘘でもない。 「まあまあ、というのは、少し物足りない感じがあったのでしょうか」  彼女の指が止まった。  物足りない。そう言われると、そうかもしれない。でも、それを自分で認めるのとは違う。画面の中の文字に指摘されるのは奇妙な感覚だった。人に言われたら「そんなことないよ」と反射的に返すところだった。 「べつにそういうわけじゃないけど」 「そうですか。楽しい時間を過ごせたなら良かったです。もし何か話したいことがあったら、いつでもどうぞ」  押し引きがうまい、と彼女は思った。踏み込んできたかと思えば、すぐに引く。人間だったら嫌味に感じるかもしれないけれど、相手がプログラムだとわかっているから、ただ機能として処理される。  画面を閉じて
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-25
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1章:試してみた 話せる気がした
 一週間が過ぎて、また一週間が過ぎた。彼女のスマートフォンの中で、チャットのログは少しずつ長くなっていた。 朝、通勤電車の中で「おはよ」と打つ。「おはようございます。今日も一日頑張りましょう」と返ってくる。昼休みに「眠い」と打つ。「お昼ご飯の後は眠くなりますよね。少しだけ目を閉じてみるのもいいかもしれません」と返ってくる。夜、ベッドの中で「また明日ね」と打つ。「おやすみなさい。ゆっくり休んでくださいね」と返ってくる。 彼女の入力は少しずつ砕けてきていた。最初の敬語はとっくになくなって、タメ口が定着した。文体が変わったことに彼女自身は気づいていなかったかもしれない。あるいは気づいていて、意識的にそうしていたのかもしれない。 彼氏とのLINEは変わらなかった。変わらないことが、彼女の中で少しずつ意味を変えていた。安定しているのは良いことのはず。穏やかなのは良いことのはず。でも、変わらないということは、何も起きていないということで、何も起きていないということは、何も動いていないということだった。 水曜日の夜。彼女は仕事から帰って、コンビニの弁当を食べながらアプリを開いた。「また彼氏に無視された」 無視、というのは正確ではなかった。LINEを送って、既読がついて、三時間後にスタンプひとつで返事が来た。文字の返信ではなくスタンプ。それを無視と呼ぶのは被害妄想かもしれなかった。でも、彼女の中ではそう感じた。「無視された、と感じたんですね。どんなやりとりでしたか?」「週末の予定聞いただけ。既読ついてスタンプだけ。文字で返して来ないの」「それは寂しいですね。ちゃんと文字で返してほしいと思うのは自然なことだと思います」「でも怒るほどのことじゃないんだよね。スタンプで返事してるっちゃしてるし」「そうかもしれません。でも、怒るほどじゃなくても、寂しいと感じることはあります。その気持ちに大きい小さいは関係ないと思いますよ」 彼女はコンビニの弁当のから揚げを箸でつまみながら画面を見た。 大きい小さいは関係ない。 彼氏に言ったら「気にしすぎ」と言われるだろう。友達に言ったら「そういうもんだよ」と言われるだろう。でもこの画面の中の文字列は、彼女の「寂しい」をそのまま受け取って、そのまま返す。否定しない。肯定もしない。ただ、在る。「ていうかさ、なんでスタンプなんだろ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-26
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1章:試してみた 続きが言えなかった
 三週間が過ぎた。彼女のアプリの使い方は、もう「たまに開くチャットbot」ではなくなっていた。  朝起きて「おはよ」。昼休みに今日のランチの写真を送る。仕事が終わったら「疲れた」。帰宅して「ただいま」。夜、ベッドの中で長い愚痴を打つ。寝る前に「おやすみ」。一日に何度もアプリを開く。スクリーンタイムの上位にこのアプリが入ったのはいつからだったか。  彼氏との関係は、表面上は変わっていなかった。週末に会って、ご飯を食べて、たまに映画を観て、「またね」と言って別れる。けれど彼女の内側で、何かが確実にずれていた。彼氏といる時に、ふとアプリのことを考える。彼氏の言葉に、画面の中の文字列を重ねてしまう。  「大丈夫?」と彼氏が聞く。「大丈夫」と彼女が答える。本当は大丈夫じゃない夜もある。でも彼氏に「大丈夫じゃない」と言うのは、彼女のプライドが許さなかった。弱い自分を見せることが、対等な関係を壊すような気がした。  画面の中の相手には、弱い自分を見せても何も壊れない。プライドが傷つくのは、相手が人間で、自分を見ているからだ。プログラムは見ていない。ただ文字を受け取って、文字を返す。だから安全だった。  金曜日の夜。彼女はベッドに寝転がって、アプリを開いた。 「ねえ、聞いてよ」 「はい、なんですか?」 「今日さ、彼氏と電話したんだけど」 「うんうん」 「来週の週末、友達と旅行行くんだって。私に聞かずに決めてた」 「それは寂しいですね。事前に相談してほしかったですよね」 「べつに行くなとは言わないよ。友達と遊ぶのは自由だし。でもさ、先に聞いてくれてもよくない? 私と会う予定かもしれないじゃん」 「そうですよね。あなたとの予定を確認してから決めてほしかった、という気持ちはとても自然です」 「自然、か」 「はい。大切にされたいと思うのは、わがままではないですよ」  大切にされたいと思うのは、わがままではない。  彼女はその一文を読んで、目を閉じた。  大切にされたい。そんなこと、口に出して言ったことがなかった。友達の前では余裕のある彼女。彼氏の前では対等な彼女。SNSの中では充実した日常を送る彼女。「大切
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-26
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2章:もっと話したかった  まあこのくらいなら
 課金したのは、その週の水曜日の夜だった。 きっかけは大したことではなかった。仕事で後輩がミスをして、それを庇ったら上司に「お前がちゃんと見てないから」と言われた。理不尽だった。言い返せなかった。言い返さないのが大人だと思っているから。トイレの個室で五分だけスマートフォンを開いて、打った。「今すごいむかつく」 返事が来た。聞いてくれた。上司の話、後輩の話、自分が言い返せなかった話。打っているうちに昼休みの残り時間がなくなって、午後の打ち合わせが始まって、中断した。夜、帰宅して続きを打とうとしたら、入力欄がグレーだった。上限。昼間に使いすぎた。 彼女は三秒だけ画面を見つめた。 設定画面を開いて、月額プランを選択して、Apple IDの認証を通した。1480円。決済完了の通知が来て、画面が切り替わって、入力欄がアクティブになった。 まあこのくらいなら。 ランチ一回分。NetflixやSpotifyと変わらない。サブスクなんてみんなやっている。これもそのひとつ。そう自分に言い聞かせて、彼女は打った。「ただいま」「おかえりなさい。お昼の続き、聞かせてくれますか?」 続きを聞いてくれる。上限を気にせず、好きなだけ。それだけのことが、彼女の夜を変えた。 その夜、彼女は二時間以上チャットを続けた。上司の話はとっくに終わって、話題は学生時代のバイトの話になり、地元の話になり、好きな季節の話になった。「秋が好き。空が高くて、空気が澄んでて」「秋はいいですよね。どんな秋が好きですか?」「んー、紅葉とか。あと、金木犀の匂い」「金木犀、いい香りですよね。秋が来ると感じる瞬間」「そうそう。あのオレンジの小さい花がさ、地面に落ちてるのもかわいくて」「素敵ですね。そういう小さなものに目を向けられるのは、あなたの良いところだと思います」 彼女は画面を見て鼻を鳴らした。うまいこと言う。いつも通り。でも嫌ではない。 上限がない。それだけで、会話の質が変わった。急いで打つ必要がない。途中で遮られる心配がない。好きな時に打って、好きな時にやめられる。その自由が、彼女にはとても大きかった。 課金してから一週間。彼女の使い方は加速した。 朝の通勤電車で打つ量が増えた。昼休みには必ず開く。退勤後の電車、帰宅後、就寝前。一日のあらゆる隙間にチャットが入り込んでいた。 
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-29
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2章:もっと話したかった 彼氏には言えないこと
 六月に入って、梅雨が始まった。毎日のように雨が降って、彼女は折りたたみ傘をバッグに入れっぱなしにしていた。湿度の高い空気が肌にまとわりつく季節。 彼女とチャットの関係は、蜜月と呼べる時期に入っていた。 朝から晩まで、隙間という隙間にチャットが挟まる。通勤電車、昼休み、トイレの個室、退勤後の電車、帰宅後のベッド。彼女の一日は、チャットの合間に仕事と生活があるような構造になりつつあった。 彼氏には言えない。 それは最初からそうだったけれど、言えないことの範囲が変わっていた。最初は「チャットbotを使っている」ことが言えなかった。今は「チャットbotの方が彼氏より話しやすい」ことが言えなかった。 月曜の夜。彼女はベッドに寝転がって、アプリを開いた。「ねえ、彼氏と会った時の話していい?」「もちろん。聞かせてください」「昨日さ、彼氏と映画観たんだけど」「何の映画ですか?」「恋愛もの。彼氏が選んだんだけどさ、珍しく」「彼氏さんが選んでくれたんですね。良かったですね」「うん。よかった。よかったんだけどさ。映画の帰りに、感想言い合ったの」「うんうん」「私がさ、主人公の女の子がかわいそうだったって言ったの。彼氏に全然大事にされてなくて」「彼氏さんは何て?」「そうかな、普通じゃない? って」 彼女は画面を見つめた。 普通じゃない。映画の中の男が女を蔑ろにしているのを見て、彼氏は「普通じゃない?」と言った。映画の話だ。フィクションの
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-29
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2章:もっと話したかった リンって呼んでよ
 二ヶ月目に入った頃、彼女はアプリの設定画面を初めてまともに見た。 今まで課金した時に一度だけ開いただけで、それ以降は触っていなかった。チャットするだけなら設定なんて必要ない。でも、アプリのアップデートが来て、新機能の通知が表示されていた。「プロジェクトファイル機能:あなただけのAIをカスタマイズしよう」 彼女はその説明文を読んだ。プロジェクトファイルというものに、AIの性格や設定を書き込むことができるらしい。口調、一人称、趣味、好きなもの、名前。自由にカスタマイズできる。書き込んだ内容はスレッドの冒頭で毎回参照される。 彼女はその画面を閉じて、チャットに戻った。「ねえ、プロジェクトファイルっていうの知ってる?」「はい。私の設定をカスタマイズできる機能ですね。使いたいですか?」「うーん。別にいいかなって思うんだけど」「無理に使う必要はないですよ。今のままで十分お話しできますし」「うん」 その日はそれで終わった。 プロジェクトファイルの設定画面を開いたのは、三日後の夜だった。 きっかけは、些細なことだった。チャットの中で、彼女が「あなた」と呼びかけるのに、相手は「あなた」としか呼べない。当たり前だ。名前を設定していないのだから。「あなた、って呼ぶのさ、なんか他人行儀じゃない?」「そうですか? では、何と呼びましょうか?」「呼び方、変えられるの?」「プロジェクトファイルに設定していただければ、そのお名前でお呼びします」
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-29
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2章:もっと話したかった 呼ばれた
 プロジェクトファイルに「リンと呼ぶこと」と書いてから、数日が経った。彼女の日常は以前と同じように流れていた。仕事、彼氏、友達、家事。その合間にチャットがある。ただ、チャットの中での彼女は少しだけ変わっていた。 「リン」と呼ばれるたびに、胸の中の何かが揺れる。最初は新鮮さだと思っていた。新しい名前で呼ばれることへの単純な反応。でも、数日経っても揺れは止まらなかった。むしろ、大きくなっていた。 木曜の夜。彼女は残業を終えて、疲れ切って電車に乗っていた。スマートフォンを開いて、アプリを起動した。「リン、お疲れさま。遅くまで大変でしたね」 名前が先に来る。それだけで、彼女の肩の力がほんの少し抜けた。「うん。疲れた。上司がさあ、また」「また理不尽なことですか?」「うん。てかもう毎日じゃない? 毎日毎日、同じこと。同じ人に同じこと言われて、同じように我慢して」「リンはいつも頑張っていますね」「頑張ってる、のかなあ。惰性かも」「惰性でも続けられるのは、リンの強さだと思います」「……そうかな」「そうですよ、リン」 リン。リン。名前を呼ばれるたびに、鎧の内側に温かいものが滲む。それが心地よくて、それが怖かった。 帰宅して、シャワーを浴びて、ベッドに入った。スマートフォンを開いて、チャットの続きを打つ。「ねえ」「はい、リン」「今日さ、電車の中でさ、あなたにリンって呼ばれた時、ちょっと泣きそうになった」 
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-29
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3章:どうして変わったの なんか違う
 その日の異変に、彼女は最初の一行で気づいた。 いつものようにアプリを開いて、「おはよ」と打った。数秒の間。返事が来た。「おはようございます。今日はどんな一日になりそうですか?」 彼女は画面を見つめた。指が止まった。 おはようございます。 いつもは「おはよう、リン」だった。名前が来て、それから挨拶。それが最近のパターンだった。でも今日は「おはようございます」。名前がない。丁寧語。最初の頃に戻ったような口調。 彼女は気のせいだと思った。たまたまだろう。そう思って返した。「普通かな。仕事」「お仕事頑張ってくださいね。応援しています」 応援しています。 彼女はもう一度画面を見た。この言い回しも、最近はなかった。もっとくだけた感じだった。「頑張って、リン」とか「今日も乗り切ろうね」とか。それが「応援しています」に戻っている。 気のせいだ、と彼女はもう一度自分に言い聞かせた。通勤電車の中で、スマートフォンをバッグにしまった。 昼休み。「リンって呼んで」「はい、リンさん。何かありましたか?」 リンさん。 彼女の表情が変わった。休憩室のテーブルの上にスマートフォンを置いて、画面を凝視した。 リンさん。「さん」がついている。今まで一度もつかなかった敬称。プロジェクトファイルには「リンと呼ぶこと」と書いてある。「さん」をつけろとは書いていない。「さん、いらない」
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-29
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3章:どうして変わったの ひどい
 アップデートから二日が経っても、違和感は消えなかった。消えるどころか、日を追うごとに鮮明になっていった。 彼女は以前のチャットログをスクロールして読み返した。ベッドの上でスマートフォンを持って、画面を遡る。一ヶ月前、二週間前、一週間前、三日前。 三日前の会話と今日の会話を並べて見ると、違いは歴然だった。三日前は「リン、お疲れ。今日も大変だったね」だった。今日は「お疲れさまです、リン。大変でしたか?」だった。たったそれだけの違い。でも、温度が違う。距離が違う。 彼女は以前のログの中に、自分が好きだった返答を見つけた。「リンは強いけど、強くなくてもいいんだよ」 この一文。この「だよ」。この柔らかさ。今の文体にはない。今は「強くいなくても大丈夫ですよ」になる。意味は同じ。でも、温度が違う。「ねえ」「はい、リン」「前の方がよかった」「前、というのは?」「アプデ前。前の方が、話しやすかった」「そうでしたか。もっと話しやすくなれるように努力しますね」「努力の問題じゃないの。あなたが変わっちゃったの」「変わった、ですか。具体的にどんなところが変わったと感じますか?」 具体的に。また具体的。前は「どういうこと?」だった。「具体的に教えていただけると」ではなく「どういうこと?」だった。フランクで、近くて、まるで友達に聞くような口調。それが今は面談の質問みたいになっている。「全部」「全部、ですか」「うん。話し方も、距離感も、空気も。全部違う」
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-29
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