《裁判官の妻に、腎臓を奪われた後》全部章節:第 1 章 - 第 8 章

8 章節

第1話

現役裁判官の妻・神崎志保(かんざき しほ)は、末期腎不全で命の危機にある初恋の相手・白石透(しらいし とおる)を救うため、あろうことか夫である俺――黒瀬慎(くろせ しん)の腎臓に目をつけた。「冗談じゃない!俺だって腎不全なんだぞ。これ以上腎臓を奪われたら、本当に死んでしまう!」必死に訴える俺に、志保は憎しみを隠そうともせず吐き捨てた。「透はあんなに苦しんでいるのに、あなたはまだ嫉妬して見殺しにする気?本当に血も涙もないのね!」その後、裁判官としての立場と人脈を使って同意書はでっち上げられ、俺の訴えは握り潰された。意識も朦朧としたまま手術台に乗せられ、腎臓を奪われた。その結果、腎不全は急速に悪化。志保が透の手術が終わるのを待っていた頃、俺は冷たい手術台の上で、ただ死を待っていた。体中に管がつながれ、無機質な電子音だけが耳に響く。その音はまるで、死神が「もう時間だ」と告げているようだった。やがて心電図の波形が一本の線になり、ピーという長く単調な音が室内に響き渡った。その頃には、透の手術も無事に終わっていたらしい。手術室のランプが消えたのと同じ頃、俺の目も二度と開かなくなった。未練があったのか、それとも深い恨みのせいか。気づけば魂だけになった俺は、志保のそばにいた。死の淵から戻った透を抱きしめ、目を赤くして喜ぶ志保。その姿を見た瞬間、胸の奥が絶望の底へ沈んでいった。彼女は、一瞬でも俺の命を案じてくれただろうか。そう問いただしたかった。けれど、答えなど分かりきっている。透を救うためなら、志保は何だってした。ありもしない罪を俺に着せ、逃げ場のないところまで追い詰めた。裁判官としての立場と人脈を悪用し、必死の訴えさえ握り潰したのだ。腎臓を摘出される直前。ストレッチャーで運ばれながら、震える手で志保に電話をかけた。「志保……俺が悪かった。頼む、腎臓だけは取らないでくれ。もう体が限界なんだ。このままじゃ死んでしまう……」出会ってからこれまで、彼女に頭を下げたことなど一度もなかった。プライドを捨てて許しを請えば、ありもしない罪をすべて被れば、夫婦としての五年の情に免じて、せめて命だけは助けてくれるのではないか。そう縋るように思っていた。だが、電話の向こうから返ってきたのは、
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第2話

志保が透に付き添って病室へ入った直後、外から息を切らして駆け込んできたのは、芹沢レイ(せりざわ れい)だった。廊下で志保とすれ違っても見向きもせず、一直線に俺のそばへ駆け寄ると、震える両手で俺の手を固く握りしめた。「慎……っ」絞り出すような声が、ひどく震えていた。俺の頬を撫でようと伸ばした指先が、すっかり冷え切った肌に触れた瞬間、レイの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。「ばか……あの時、私を選んでくれていたら……こんな最期、迎えずに済んだのに……!」ひどくやつれた顔を見て、胸の奥がつんと痛んだ。きっと、遠く離れた赴任先から大急ぎで駆けつけてくれたのだろう。志保と結婚してから、レイはこの町を離れた。志保が彼女をよく思っていなかったこともある。けれど何より、これ以上そばにいれば俺の負担になる――そう考えたレイは、自ら身を引いたのだ。俺は孤児だった。七歳で芹沢家に引き取られ、レイとは名義上の兄妹になった。最初の頃、俺たちの関係はぎこちなかった。むしろ幼い頃のレイは、どこか俺を避けていたように思う。けれどいつからか、レイは誰よりも俺を大切にしてくれるようになった。それでも俺は、志保のために養父母と縁を切った。養父母は俺を、取引先との政略結婚の駒として使おうとしていたのだ。もともと愛情から引き取られたわけではない。都合のいい道具が欲しかっただけなのだ。あの時、芹沢家から逃げ出す手助けをしてくれたのはレイだった。彼女の想いにも、ずっと前から気づいていた。けれど当時の俺には、志保以外の女性を選ぶことなどできなかった。何より、養父母が俺たちを許すはずもなかったから。レイが俺の遺体を引き取る手続きをしていた、ちょうどその頃。志保は、透のために病室を出ようとしていた。「……コーヒー飲みたい。車で1時間くらいかかるけど、前に一緒に行った店の」透がそうわがままを言っただけで、志保は迷わず立ち上がった。昔、俺が「駅前のおにぎりが食べたいから、仕事帰りに一緒に買いに行く」と頼んだ時でさえ、彼女は「面倒くさいわ」の一言で、寄り道すらしてくれなかったのに。廊下で、遺体を乗せたストレッチャーを押すレイと、志保が正面から鉢合わせた。俺の遺体は、頭から白い布ですっぽりと覆われている。志保とレイ
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第3話

透が一か月の入院生活を終え、退院する日。迎えに来たのは、もちろん志保だった。俺が孤独の中で死んだ時、そばにいてくれたのはレイただ一人だけだった。けれど透の病室には、親族や友人たちが大勢集まり、退院を祝っていた。志保が病室に姿を見せた瞬間、場の空気が一気に華やいだ。「神崎さん、いつになったら透と一緒になるんですか?こんなに大事にされて、透は本当に幸せ者ですね」友人から冷やかされ、透はうつむきながら、声を潜めて言った。「そんなこと言わないで……志保には旦那さんがいるんだから。慎に聞かれたら、また誤解されちゃう。僕、そんな関係だって思われたくないし……また慎に責められるのも、怖いんだ」すると、友人の一人が鼻で笑い飛ばした。「あんな嫉妬深くて器の小さい男のどこがいいんだよ。志保さんに愛されてるのは透だろ?だったら、邪魔なのはあっちのほうじゃないか。まだ夫面してるほうがおかしいだろ」その言葉を聞いて、俺は思わず吹き出しそうになった。そうか。俺のほうが「邪魔者」だったのか。いつものように、透は弱々しい被害者を装い、すべての矛先が俺に向くように仕向ける。だが、それ以上に心が冷えたのは、周囲の言葉を否定しなかった志保の態度だった。ただ黙って、透の荷物をまとめている。病室には大勢の人がいるのに、手を動かしているのは志保だけだった。結婚してからの日々が脳裏をよぎる。「一生愛する」と言ってくれた志保だったが、その言葉に行動が伴ったことは一度もなかった。家事をするのも、理不尽に耐えるのも、いつだって俺の役目だった。志保となら、どんな困難も一緒に乗り越えられると思っていた。けれど実際には、俺を一番傷つけていたのは志保だった。「透は神崎さんを一途に想って、ずっと独り身だったんですよ。そろそろちゃんと応えてあげてもいいんじゃないですか?」さっきから一番はしゃいでいた男が、志保の腕を取り、透とくっつけようとする。胸の奥がひどく苦くなった。ああ、俺は彼らの間で、ずっとそんなふうに見られていたのか。二人の仲を邪魔する、ただの悪者として。あの言葉にはっきり答えはしなかったけれど、否定もしなかった以上、志保自身もきっと同じように思っていたのだろう。退院した透は、そのまま志保のマンションへ連れて行かれた。
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第4話

「志保……もう一度やり直せないかな。君が結婚していたことも、僕が君から離れたことも、全部過去のことにしたい……僕は、君を愛したいんだ」透が少し声をやわらげるだけで、志保の心は簡単に揺らぐ。透は昔から、志保をなだめるのが実にうまかった。そして志保は、いつもその手に乗った。けれど俺がどれだけ必死に機嫌を取り、どれだけ尽くしても、怒った志保が笑ってくれることは一度もなかった。愛されていたのは透で、愛されていなかったのは俺だった。そんな残酷な答えに、俺は死んでからようやく気づいた。俺の前では氷のように冷たかった妻が、別の男の前ではいくらでも優しくなれる。透のためなら、自分で決めたルールも良識も、ためらいなく踏み越えていく。その事実が、胸の奥に細かな痛みとなって広がっていった。けれどもう、透がどんな手口で俺を陥れたのかも、志保がどれほど俺を憎んでいたのかも、少しずつどうでもよくなっていた。「退院したばかりでしょう。今日はもう休んで」そう言って、透の腕をそっと外す。返事も待たずに部屋を出ていく志保を、透は黙って見送った。扉が閉まった途端、苛立たしげに舌打ちする。マンションのエントランスを出たところで、志保がふと足を止めた。視線の先にあったのは、俺たちの家の窓だった。明かりは消えている。昔は、どれだけ帰りが遅くなっても、俺は必ず部屋の明かりを残していた。暗い部屋に帰らずに済むように。少しでも、彼女の帰る場所でありたかったから。その暗さに違和感を覚えたのか、志保はしばらく窓を見上げたまま動かなかった。家に戻り、玄関の扉を開ける。一か月以上、誰も足を踏み入れていなかった部屋から、ひやりと冷えた空気が流れ出した。志保の眉が、不愉快そうに寄る。「慎、いつまで拗ねているつもり!?透を助けるために少し手を貸したくらいで、そんなに怒ること?あなたが透にしたことを考えれば、当然でしょう!?」暗い寝室に向かって、ヒステリックな声が飛んだ。そこには、明らかな嫌悪と苛立ちがにじんでいた。俺はその背中を見つめながら、冷たく笑った。五年。五年もそばにいた俺の言葉より、志保は透の嘘を選んだ。むしろ、死んでよかったのかもしれない。生きていたら、この先もずっと、こんな日々が続いていたのだろう。
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第5話

そう吐き捨てると、看護師はすがるような志保の視線を振り切るように、足早にその場を離れていった。残された志保は、雷に打たれたように立ち尽くした。もしかすると、絶望の淵で、手術室へ運ばれる直前に俺がかけた最後の電話を思い出していたのかもしれない。あるいは、あの日レイが俺の遺体を乗せたストレッチャーを押し、自分のすぐそばを通り過ぎていった時のことを。やがて、何かに突き動かされるように病院を飛び出した。けれど向かった先は、俺の遺体が安置されている霊安室ではない。透のマンションだった。思わず、自嘲の笑みが漏れた。俺の死を知れば、少しは取り乱し、罪悪感を抱くのだと思っていた。けれど志保にとっては、死んだ俺のことより、透のほうがずっと大事らしい。マンションに着くと、透の部屋の扉は半開きになっていた。志保が足を止める。中から、苛立った透の声が聞こえてきた。「まだ何か用かよ?金なら渡しただろ。これ以上しつこくするなら、警察を呼ぶぞ」その低く冷たい声は、俺や志保の前で見せていた「か弱く優しい青年」とは、まるで別人のものだった。反射的に踏み込もうとした志保の手が、ドアノブに触れる。その瞬間、部屋の奥から、柄の悪い男の笑い声が響いた。「40万ぽっちで俺たちを黙らせる気か?こっちは裁判官相手に、命がけで芝居を打ったんだぞ。あと1000万出せ。出さないなら神崎志保に全部バラす。お前が裏で何をやってきたのか、あの女に教えてやるよ」志保が、扉の隙間から中を覗き込む。俺もつられて視線を向けた。そこにいた男たちの顔を見た瞬間、魂ごと震え上がった。あいつらだ。以前、透が「慎に雇われて襲われた」と泣きついてきた、あの柄の悪い男たちだった。けれど透は、志保がすぐ外に立ち、すべてを聞いていることなど知る由もない。うんざりしたように財布からカードを抜き出し、男たちの足元へ投げつけた。「これで全部だ。欲しければ持っていけ。その代わり、受け取ったらすぐこの町を出ろ。二度と俺の前に顔を出すな」先頭にいた、頬に傷のある男がいやらしく笑った。「あんなにベタ惚れされてるんだ。1000万くらい、すぐ用意できるだろうが。情けねえ男だな」透は冷たい目で男を睨みつけた。「あいつとはまだ籍を入れてない。今の俺には、あい
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第6話

透が事故で死んだという知らせを受けても、志保はこれといった反応を示さなかった。電話の相手にただ「分かった」とだけ告げ、通話を切る。今の志保は、行方知れずになった俺の遺体を探し出すことで頭がいっぱいだった。けれど、見つけたところで今さら何になるというのだろう。家の中をひっくり返すように探し回り、ようやくレイの連絡先を見つけ出した。電話がつながるなり、焦燥を隠せない声で問い詰める。「慎はどこにいるの!?」電話越しのレイは、思いのほか落ち着いていた。悪態をつくことも、志保を問い詰めることもない。ただ、呆れたように鼻で笑った。「一生、慎のことなんて思い出さないのかと思ってた。初恋の相手の看病で忙しかったんでしょう?慎が死んでから慌てるなんて、今さら何のつもり?」けれど、今の志保の耳にそんな皮肉は届かない。同じ問いを、もう一度繰り返した。レイは、氷のように冷たく言い放つ。「探せるものなら、勝手に探せばいい。でも、慎はあなたになんか二度と会いたくないはずよ」ああ、その通りだ。俺はもう、志保の顔など二度と見たくない。俺の生死すら気にかけず、ただの一度も信じようとしなかった女に、今さら会って何になるというのか。もし墓前に現れでもしたら、あの世へ向かう道まで穢される気がした。電話が一方的に切れると、志保はついにその場に崩れ落ちた。手にしていたスマホを床へ叩きつける。粉々に砕けたそれを見下ろすこともなく、しゃがみ込んだまま、自分の髪を掻きむしった。そして、胸を引き裂かれたような顔で泣き崩れる。罪悪感か。後悔か。それとも、悲しみだろうか。今となっては、俺にとって何の意味もない。俺はこれまで、何度も彼女にチャンスを与えてきた。志保も俺を愛してくれていると信じていたからこそ、すべてを捧げてきたのだ。けれど現実は、容赦なく俺の思い上がりを打ち砕いた。ふと、初めて志保と出会った頃の記憶が蘇った。俺たちは、ごく普通の恋愛結婚だった。当時の俺は、志保が名家・神崎家の令嬢だとは知らなかった。志保もまた、俺が芹沢家の養子だとは知らない。出会いは、学生時代ではない。大学を卒業して間もない頃のことだ。友人と出かけていた俺は、急にトイレに行きたくなり、通りすがりのカフ
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第7話

そんな抜け殻のような日々を、志保は二か月ほど送った。やがて、頻繁に外へ出るようになる。帰ってくるたびに頬はこけ、目の下の影は濃くなっていった。俺の魂は日に日に弱り、昼間の陽射しにも耐えられなくなっていた。だから、志保が外で何をしているのか知る術はなかった。ある深夜のことだった。ふらりと家を出た志保のあとを追うと、海の見える静かな墓地にたどり着いた。目の前には、真新しい墓石があった。脇に立つ墓誌へ目を移した瞬間、息が止まりそうになった。そこには黒瀬慎という名と、建立者としての芹沢レイの名が刻まれている。最近、志保が血眼になって探し回っていたのは、俺の墓だったのだ。けれど、その文字を見た瞬間、俺と志保は同時に言葉を失った。志保の顔が、激しい怒りに歪む。一方で俺の胸には、鼻の奥がつんとするような、切なくて温かいものが広がっていった。実のところ、俺とレイの間にやましいことなど何一つなかった。俺たちには決して結ばれる未来などない。それを彼女も俺も痛いほど分かっていたから、互いにその想いを心の奥にしまい込んできた。志保と出会ったことで、俺はあの淡い初恋の揺らぎを、ようやく過去のものにできたのだと思っていた。レイには、ずっと申し訳なく思っていた。彼女はこの世界で数少ない、見返りなど求めずに俺を愛してくれた人だった。この静かな墓地は、俺がようやく手に入れた、確かな居場所のように思えた。ところが次の瞬間、志保は墓前へ駆け寄り、納骨室の蓋石に手をかけた。俺の骨壺を取り出そうとしているのだ。爪が割れるのも構わず、狂ったように重い石をこじ開けようとするその姿に、焦りと怒りで気が狂いそうになった。生きていた頃、志保となら本当の温かい家を築けると信じていた。けれど結局、俺は何一つ与えられなかった。それなのに、死んだ後でさえ安らかに眠ることすら、許されないというのか。「やめろ……狂ってるのか!」怒りに任せて志保の背中を何度も叩いた。けれど当然、その体に触れることなどできない。俺の手は空しくすり抜けていくだけだった。生きていた頃の俺は、本当に惨めで無力だった。自分の生死を選ぶ権利すら奪われていた。そして死んだ今は、もっと無力だ。自分の尊厳すら守ることができない。「あん
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第8話

突然、レイが上体を起こした。泥にまみれた顔で、冷ややかに笑う。「ええ、本当に。死ぬべきだったのは、慎じゃなくて、あんただったのに」立ち去る前、レイは志保に鋭く言い捨てた。慎の墓を元通りに戻しておくこと。少しでも手を出せば、持てる人脈も権力もすべて使って、神崎家を徹底的に潰すこと。それだけ告げると、振り返ることなく墓地をあとにした。一人取り残された志保が、何を考えていたのかは分からない。長い間、冷たい地面に仰向けのまま横たわっていた。夜風がその前髪を揺らすのを見て、ふと昔、二人でキャンプに行った時のことを思い出す。あの夜の星空は、今夜よりもずっと綺麗だった。星が降るような夜だった。その夜、志保は突然、俺にこう言った。「慎、私と結婚してくれない?」好意から愛へ。そして愛から憎しみへ。たった五年だった。あまりにも短く、あまりにも早すぎた。不意に、志保がゆっくりと立ち上がる。その横に立つ墓誌へ、俺は目を移した。そこには黒瀬慎という名と、建立者としての芹沢レイの名が刻まれている。その文字を睨みつけたまま、志保は唇を噛んだ。やがて、滲んだ血で墓石の余白に文字を書き殴る。――黒瀬慎、神崎志保。まるで、そこに自分の名前を刻みつければ、死んだ俺まで取り戻せると信じているかのように。続けて志保は、ずれた蓋石のそばに静かに身を横たえた。すべてから解放されたように、ふっと微笑む。そして、手にした刃物を自分の手首に当て、深く沈めた。志保の体から力が抜けていくのを見て、俺は思わず眉をひそめた。錯覚だったのだろうか。志保は、魂だけの存在である俺のほうをじっと見つめていた。その瞳に、不意にかすかな光が宿る。「慎……やっと会えた。ずっと会いたかった……こんなことなら、もっと早くあなたのところへ行けばよかった」突然、目が合った。少し戸惑った。不思議なものだ。死んでからずっと志保のそばにいたはずなのに、いざ名前を呼ばれると、ひどく奇妙に感じた。まるで、見知らぬ他人に呼び止められたような気さえした。「何も言ってくれないのは……もう、私に何も言うことがないから?本当にごめんね。透なんか信じるべきじゃなかった……もう誰にも邪魔させない。慎……愛してる」上体を起こそうとしたものの、
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