All Chapters of 上場の鐘が鳴った日、彼を愛さなくなった: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

街角で小さな商売をしていたあの頃から、投資業界の風雲児と呼ばれるまで、深川綾人(ふかがわ あやと)は丸10年をかけて、ここまで這い上がってきた。その10年間、私、荒木麻理子(あらき まりこ)はずっと彼の傍らで過ごしてきた。どん底だったあの年、私はプライドをかなぐり捨てて、たった500円の食費を借りるためだけに、浮気をした父の前に膝をついた。辛そうに私を見つめる綾人に対し、私はそれでもこう言った。「会社がナスダックに上場する時は、私も連れて行ってね」彼は頷いてくれた。やがて会社は飛ぶ鳥を落とす勢いで成長し、私はもう一度その約束を口にした。彼は顔も上げずに答えた。「今は忙しいんだ。また今度な」だから私も、それきり何も言わなくなった。そんなある日、おすすめに流れてきたショート動画で、綾人の会社が上場を果たしたことを知った。華やかな上場セレモニー。沸き起こる拍手。壇上で堂々と挨拶する綾人。出張だと言っていたはずの彼は、ナスダックの壇上に立っていた。けれど隣にいたのは、私ではなかった。異母妹――荒木桃子(あらき ももこ)だった。綾人は桃子と並んで壇上に立ち、上場を祝う鐘を鳴らした。会場に拍手が沸き起こる。その瞬間、綾人は桃子をそっと抱き寄せた。その抱擁は、あくまで礼儀正しく、節度を保ったものに見えた。「一番大切な瞬間に立ち会ってくれてありがとう。すごく幸せだ」桃子はその抱擁に応えるように、そっと身を寄せた。「私も」私はスマホの画面を消し、目元を拭うと、いつも通り買い物へ出かけ、夕飯の支度をした。食事を終えてから、綾人にメッセージを送った。【500円、貸してくれる?】彼は理由も聞かず、迷いもせずに200万円を送金してきた。私はそこから500円だけ抜き取り、残りのお金を送り返した。添えたのは、たった一行。【多すぎよ】その500円は、そのまま父に渡した。これで、全部終わりだ。10年前、私はたった500円のために、プライドも見栄も捨てた。そして10年後、彼もまた、たった500円で、私たちの愛も未来も買い取った。彼の上場という晴れ舞台に、私の居場所はなかった。それなら私のありふれた毎日にも、もう彼はいらない。……「まだ起きてたのか」夜10時、突然部屋のドアが開いた。綾人が帰っ
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第2話

私は微笑んで、前へ進み出た。「ねえ、綾人」彼の足が止まり、こちらを振り返った。「どうした?」「私へのプレゼントは?」「なんの話だ」覚えていないらしい。「指輪よ」彼は一瞬固まったが、真っ先に桃子の方を見た。私はまた笑った。「エレベーター、来たよ」彼は適当に相槌を打つと、桃子を連れて逃げるように立ち去り、そのまま私の視界から消えていった。5年前、私は彼に、いつ私と結婚してくれるのかと尋ねたことがある。彼は私の髪をくしゃりと撫で、まっすぐな目で言った。「会社が上場する日、絶対プロポーズする。お前を世界一幸せな女にしてやる」けれど、指輪もないのに、どうやってプロポーズするというのだろう。私は1本の電話をかけた。「あの野外ケータリングの件、受けることにするわ」電話口の声が弾んだ。「よかったー!3年口説き続けて、やっと首を縦に振ってくれたな!」何かに思い至ったのか、電話の向こうの声がふと尋ねた。「でも今年、綾人くんと結婚するんじゃなかったのか?」私は誰もいない家の中を見渡し、首を振った。「……もうしないわ」翌朝、目を覚ますと、綾人はすでに出勤していた。たった一晩帰ってきただけなのに、家中に彼の痕跡が散らばっていた。浴室には脱ぎっぱなしの服。食卓には飲み残したコーヒーカップ。玄関には昨夜脱いだ靴下。私はそれらをひと目見ただけで、自分では手を付けず、家事代行サービスを頼んだ。やってきた女性はてきぱきと働き、30分もかからずに全部片付け、ついでに朝食まで用意してくれた。「奥様、今度からもこういうご用があれば、ぜひまた呼んでくださいね」「奥様じゃないわ」「え?」彼女はおずおずと言い直した。「……ええと、荒木さん?」「ええ。これから5日間、同じ時間に来てもらえる?30分だけでも、1日分のお給料は払うわ」彼女は嬉しそうに顔をほころばせた。「はい、喜んで!」彼女が帰った後、私は荷造りを始めた。すると、ナナが餌用のボウルをくわえてきて、私のスーツケースの中に放り込んだ。舌を出し、まるで笑っているような顔をする。「わん!わん!」私はその頭を撫でてやった。「よし、一緒に連れて行くよ」ナナは今年で6歳。私が流産したあの年、綾人が贈ってくれた犬
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第3話

私はスマホの電源を切り、涙をこらえながら食事を口に押し込んだ。お腹は満たされたのに、心にはぽっかりと大きな穴が開いていた。ナナが何度か鳴いて、私の足元に伏せ、何も言わずに寄り添ってくれた。夜11時、彼がやっと帰ってきた。手にはテイクアウトの箱を提げていた。ナナが彼の足元にまとわりつくと、蹴り飛ばされた。くうんと鳴いて、私の腕の中に逃げ込んでくる。私はナナを庇いながら、ゆっくりと彼の手の箱に目をやった。「夜食?」彼はその箱をテーブルに置いた。「美味かったから、お前の分も持ち帰った」「お腹空いてないわ」彼は眉をひそめ、有無を言わせない口調で言った。「わざわざ持ち帰ったんだ、食えよ」自分たちの食べ残しが、わざわざ私のために持ち帰ったものにされていた。私は答えなかった。彼が歩み寄ってきて、私のスマホを取り上げ、見下ろすように言った。「麻理子、一体どうしたんだ?言いたいことがあるなら、はっきり言え。そうやって黙り込まれるのが一番嫌いなんだよ」「私、そんな顔してる?」「してるだろ。さっきからずっと不機嫌そうな顔しやがって」後ろめたいことがあるのは、彼の方じゃないか。私は言い争うことなく立ち上がり、箱を開けた。エビフライに、カニクリームコロッケ、それに海鮮ちらし。並んだ料理を指差し、静かな声で言った。「これ、本当に私のために買ってきたの?私、シーフードアレルギーだって、忘れたの?」彼は一瞬固まった。「知らなかった……いや、これはもも……友達が持たせてくれたんだ」「桃子でしょ」彼の眉間に皺が寄った。「俺のこと、探ってるのか?」私はスマホを掲げ、SNSのタイムラインを開いた。何度もスワイプしても、出てくるのは彼と父の写真ばかりだった。「見たくなくても、目に入ってくるのよ」彼は私をじっと見つめると、背を向けてバーカウンターから酒瓶を取り、グラスに注いで一気に飲み干した。「お前の父さんの誕生日に、電話一本くらいかけてやれよ。お前が拗ねてるからって、俺まで一緒になって意地を張らなきゃいけないのか?」その声には疲労が滲んでいた。「あの時、お前が素直に父親に頭を下げていれば、俺だって10年も苦労せずに済んだかもしれないんだぞ。はあ……麻理子、俺はもう、本当に疲れた」彼
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第4話

その場の空気は、しばらく気まずいものになった。綾人は私を一瞥すると、すぐに桃子のために場を取り繕った。「会社でちょっとトラブルがあって、桃子に頼み事をしていたんだ。だから俺が車で迎えに行った。頼み事をする側なら、それなりの態度を見せないとな」親たちからどっと笑い声が上がった。彼らはまた、和やかな家族団らんに戻っていく。私だけを除いているけれど。食事の席で、話題は綾人が起業してからの苦労話に移った。由加里がグラスを掲げた。「清蔵さん、綾人がいつもお世話になっています」そう言って、私の父に酒を注いだ。「綾人から全部聞いてますよ。あの子が一番苦しかった時、あなたが目をかけてくださったおかげで、なんとか乗り越えられたって」私の箸が止まった。私の努力と犠牲が、父の恩情にすり替えられていた。父は得意げな顔をした。「たいしたことじゃないですよ」父は桃子の手をぽんと叩いた。「綾人くんには本当に世話になったからな。桃子がM国にいた3年間も、何度も会いに行ってくれただろ。俺がそばにいてやれない時も、ずいぶん支えてもらった。今日は俺から一杯注がせてくれ」由加里は嬉しそうに顔をほころばせ、しきりに言った。「まあ、当然のことをしたまでですよ」綾人と桃子は目を合わせ、微笑み合った。私が一度も見たことのない、二人にしかわからない空気の中で。私は黙って箸を伸ばし、目の前の料理を少しだけ口に運んだ。けれど、何を口にしても、ひどく苦く感じた。3年間で、彼は78回出張していた。そのうち51回が、M国行きだった。一度、私が高熱で寝込んでいた時があった。今回だけは行かないでほしい、と私は頼んだが、彼はただ「悪いな」とひと言だけ言い残し、そのままM国行きの飛行機に乗った。私はてっきり、彼が仕事のために飛び回っているのだと思っていた。けれど本当は、その飛行機の向こう側に、桃子がいただけだった。私は箸を置き、口元を拭って、席を立とうとしたとその時、桃子の声が響いた。「お姉ちゃん、こんなに長い間、恥ずかしいと思わないの?」私の足が止まった。「何が?」「もう我慢できないから全部言うね。お姉ちゃんだって大卒なのに、どうして働きに出ないの?綾人さんだって人間なんだから、疲れることもあるんだよ」私を責めるその
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第5話

翌朝目を覚ますと、綾人はすでに食卓につき、私を待っていた。「麻理子、昨日のお前の態度に、母はひどく腹を立ててるぞ」私はコップにぬるま湯を注ぎ、数口飲んだ。「それで?」「少しは反省しないのか」「何を反省するの?」「遅刻したこと。場の空気を読まなかったこと。それに、桃子に対する態度もだ」私はコップを置き、彼を見た。「それで、何が言いたいの?」彼は私の視線を受け止め、不満げに言った。「麻理子、俺の我慢にも限度がある。本当に別れることになってから泣きついてきても、俺はもう慰めたりしないからな」私はふいに顔を上げた。「泣いたりしない。慰めてもらう必要もないわ」彼は思わず失笑した。「ふっ……あれだけ長い年月が経っても、相変わらず意地っ張りだな。俺が別れを切り出すはずがないって、そう決めつけてるんだろ」私は目を逸らさず、彼の心の奥まで見透かすように見つめた。「じゃあ聞くけど、あなたは切り出すの?」彼は私の視線を避け、声を落とした。「……わからない」わからない、というのは本当だろうか。それとも、単に言う勇気がないだけなのか。けれど、もうどちらでもよかった。私は彼の横を通り過ぎ、キッチンに入った。「ご飯、食べた?」彼は一瞬、意表を突かれたような顔をした。「まだだ」「じゃあ、一緒に食べよう」私はうどんを茹で、卵を半熟に仕上げ、刻んだねぎを添えた。食卓に出す前には、器の縁についたつゆまで丁寧に拭き取った。彼はうどんをひと口すすり、しみじみと息をついた。「昨日もこんな態度だったら、指輪、もう渡してたかもな」私は一瞬、彼の言葉の意味がわからず戸惑った。「昨夜、本当はお前にプロポーズするつもりだったんだ。指輪も、もう買ってあった」そう言って、彼は黒いベルベットの小箱を私の前に押し出した。そっと開けると、中には指輪が入っていた。バラをかたどった台座に、大粒の黄色いダイヤモンドが埋め込まれている。綺麗だった。私はそれを手に取り、指にはめようとしたが、どうしても入らなかった。どう見ても、私のサイズじゃない。自分がまだ彼に、ほんの少しでも期待していたことに、私はふっと笑った。10年も一緒にいて、彼が買ってくれた指輪すら、私の指には入らないなんて。「それで、
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第6話

飛行機を降りた瞬間、G国の熱風が顔に吹きつけてきた。並木翔太(なみき しょうた)がナナを連れて、到着ロビーで私を待っていた。ナナは大きく口を開け、舌を出し、よだれを垂らしながら勢いよく駆け寄ってきた。「わん!わん!わん!」顔中を舐め回され、私は思わず笑ってしまった。「はいはい、ママはちゃんと来たよ!」翔太が歩み寄ってきた。「来たか」私は頷いた。「うん、久しぶり」彼はそっと私を抱き寄せた。「おかえり」「お待たせ」短い挨拶を交わしたあと、私は車に乗り込み、そのままデゲル砂漠へ向かった。野外ケータリングの準備は時間が限られていて、悲しみに浸る余裕すら与えてはくれなかった。翔太はシェフ帽を私に放って寄越した。「ほら」私は一瞬呆気に取られ、それからじわじわと口元が緩んでいくのを感じた。「これ、前から用意してたの?」彼は大きく頷いた。「君が逃げ出さないように、あらかじめ用意しておいたんだ」「絶対逃げないよ!」「絶対にな。逃げたら見損なうぞ」翔太はG国名物の馬乳酒のグラスを手に取ると、私のグラスと軽く合わせた。私はそれを一気に飲み干した後、グラスを置き、辺りを見回す。鍋や釜の触れ合う音、油が熱く爆ぜる音、そしてさまざまな香りが入り混じる厨房の熱気。活気あふれる厨房の空気が、たちまち私の揺れ動く心をしっかりと繋ぎ止めてくれた。もう、200平方メートルもある広い家で、帰る場所だとすら思っていない男を、ひたすら待ち続ける必要はないのだ。……2週間ほど忙しく働いたころ、翔太はようやく満天の星の下で、私が去ったあとの綾人のここ数日の話を切り出した。私はグラスを片手に、まるで他人の冗談話でも聞くような気持ちで耳を傾けた。私が去った日、綾人は桃子を連れて、有名なカップル向けレストランへ行ったらしい。ステーキをひと口頬張った瞬間、彼は無意識に眉をひそめ、思わず吐き出してしまった。それも意外なことではなかった。長年、出張の時を除けば、綾人は外食をほとんどしない人間だった。別に、家庭を愛してのことではない。ただ、私が彼の舌を肥えさせてしまっただけのことだ。事情が呑み込めない桃子は、慌ててナプキンを差し出した。「どうしたの?」綾人は口元を拭いながら、無意識にこう言った。
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第7話

頭の中で、何かが弾け飛んだような衝撃が走った。彼の脳裏には、麻理子が去っていったあの日までのすべての光景が、次々と蘇っていった。今になってようやく、彼は気づいた。麻理子の別れには、前触れがなかったわけではない。ただ、彼自身が気づくのが遅すぎただけだった。いつからだろう、ナナの鳴き声が消えていたのは。思えば、彼がナナを蹴飛ばしたあの日からだった。家からは、麻理子のとりとめのないおしゃべりも消えていた。そして、彼女が見せていた、投げやりな態度や失望も思い出した。最後に麻理子が作ったあの1杯のうどんすら、彼は食べ残していた。何かを思い出したように、綾人は狂ったように寝室を漁り始めた。やがて、引き出しの一番奥から、麻理子が書き残した日記を見つけた。麻理子が昔から物覚えの悪い人間だということを彼は知っていた。だからこそ、彼女は日々の出来事を書き留めていた。そして、そこに綴られた一字一句は、彼女が彼のもとを去ろうと決意した確かな証だった。【4月11日。39度の熱が出た。綾人はまたM国へ出張し、私をひとり残した】【5月1日。彼が出張から戻ってきた。けれど、体に別の女の香水の匂いがついていた。誰の匂いなのか、私にはわからない】【6月15日。また出張。行き先はまたM国】【6月21日。彼がナスダックに上場した動画を偶然目にした。けれど、隣にいたのは私じゃなく、桃子だった。綾人は彼女に、一番大切な瞬間に立ち会ってくれてありがとう、すごく幸せだと言っていた】綾人は、その1行を呆然と見つめたまま、長い間動けなかった。彼はスマホを取り出し、秘書に電話をかけた。「上場の動画、なんでネットに出回ってるんだ。動画の拡散を止めろと、指示したはずだろうが!」電話の向こうから戸惑った声が返ってきた。「ええと、荒木桃子さんが、止めなくていいと……むしろ大々的に拡散するようにと言われました。社長のご意向だと伺っておりましたので。麻理子様が家を出られたのですか?調べましょうか?」スマホを握る手に、ギリッと力がこもった。「調べろ!」電話を切ったあと、綾人は続きのページをめくった。【6月25日。綾人は帰ってこなかった。父の誕生日会に出席したらしい。どんな立場で?私の恋人として?それとも、桃子の恋人として?】その瞬間、綾人は心臓を鷲掴
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第8話

電話を切ったあと、綾人はその場に立ち尽くしていた。5年間住み慣れたこの家を、ぼんやりと見渡す。麻理子がいないだけで、これほどまでに見知らぬ場所のように感じるとは、思いもしなかった。家の中にはもう、麻理子の他愛のないおしゃべりは響かない。キッチンのコンロにも、もう火はつかない。うるさいとさえ思っていたはずの犬の鳴き声すら、今はもう聞こえない。自分が何をすればいいのかもわからず、まるでこの瞬間、家に帰る意味そのものを見失ってしまったかのようだった。その時、玄関先で足音がした。綾人ははっと振り返り、駆け寄って扉を開け放った。「麻理子、やっと帰ってきたのか……っ」そこに立っていたのが桃子だと気づいた瞬間、声が途切れた。桃子はドアの外に立ち、浮かべていた笑みが一瞬で固まった。「綾人さーん、こんばんは」綾人の声は素っ気なかった。「なんで来たんだ」桃子はテイクアウトの袋を提げ、目だけが笑っていない笑みを浮かべた。「もう遅い時間だし、ご飯まだかなと思って。わざわざ少し持ち帰ってきたの」綾人は彼女に目を向けた。かつての優しさは、その瞳から完全に消え失せていた。声は氷のように冷たかった。「出て行け」桃子は一瞬呆気に取られた。「え?」綾人は苛立たしげに眉をひそめた。「聞こえなかったのか。出て、行け、と言ったんだ」桃子の目にみるみる涙が浮かんだ。「どうしたの?今までこんな言い方しなかったじゃない。お姉ちゃんが私のことを何か悪く言ったの?お姉ちゃん、あなたを私に譲ってくれるって言ってたのに、まさかこんな……」綾人が鋭くその言葉を遮った。「今、何て言った?もう一度言ってみろ」桃子はびくりと固まった。彼は声を荒げた。「麻理子が何を言ったんだ、言え!」床に落ちたテイクアウトの袋から中身が散乱し、二人の間の決定的な溝を白日の下に晒した。桃子は目を泳がせ、彼と視線を合わせようとしなかった。「何のことか、わからない……」「わからない?それとも、思い出させてやろうか?」綾人は桃子をじっと見据えた。その瞳には、隠しようのない嫌悪が浮かんでいた。「6月21日、お前がわざわざあのタイミングでうちのドアを叩いたのは、麻理子に見せつけるためだったんだろう。何が狙いだったんだ」桃子は勢いよく
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第9話

昼間のG国には、容赦ない真夏の陽射しが照りつけていた。ナナはエアコンの風が直撃する場所に寝そべり、ぴくりとも動かない。その様子を見て、隣に座る翔太は腹を抱えて笑いながら、ナナを指差してからかい続けていた。「あんなに外に出たがってたくせに、もうバテたのかよ。そんなに元気なら、もう一回外を走ってこいよ!」「わん!わんわん!」私は思わず首を振った。この2週間、ナナと翔太はまるで悪友のような関係になっていた。けれど、それはナナにとって、これまでで一番楽しい滞在でもあった。翔太が、砂塵の舞う荒野の中をナナと一緒に思い切り駆け回り、ナナの有り余るエネルギーを一緒に発散してくれるからだ。耳元に響くひとりと1匹のやり取りを聞きながら、私の口元は緩みっぱなしだった。その時、ホテルの部屋のドアがノックされた。ナナが尻尾を振りながらドアへ駆けていく。私も振り返った。そこに立っていたのは、綾人だった。目の下には濃い隈が浮かび、唇はひび割れ、あちこち皮がめくれていた。「麻理子、迎えに来た。家に帰ろう」私は顔を上げて彼を見た。そこで初めて気づいた。たった2週間の間に、彼はこんなにも痩せ、目の下には濃い隈まで浮かんでいた。ナスダックで鐘を鳴らしていたあの頃とは、まるで別人だった。翔太が立ち上がり、ナナにリードをつけた。「ナナを散歩に連れてくる。ふたりでゆっくり話せ」私は翔太の方を向き、軽く頷いた。「遠くまでは行かないでね。すぐ戻ってきてね」翔太が出て行くと、綾人が口を開いた。「あいつは誰だ」「あなたに関係あるの?」彼は私の前まで歩み寄り、瞬きもせずに私を見つめた。声はひどく掠れていた。「麻理子、俺たちは恋人同士だろ」私は首を振った。「もう別れたよ」「俺は別れた覚えはない」彼は唇を強く引き結んだ。まるで、何も変わっていないことを証明しようとするかのように、慌ててズボンのポケットから指輪を取り出した。あの日の、黄色いダイヤの指輪だった。陽の光を受けて、相変わらず息をのむほど美しく輝いていた。「麻理子、俺が間違ってたのはわかってる。でも、お前が思ってるようなことじゃない。お前たちの父さんが会社に出資してくれたから、彼女を連れてナスダックに行かざるを得なかったんだ」彼は片膝をつき、指輪を私
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第10話

その後、SNSで綾人のニュースを目にするようになった。炎上は拡大する一方で、火消しが追いつかないほどだった。父が保有していた綾人の会社の株を一斉に売却し、綾人の会社の株価は、一時大暴落した。投資家たちも、潮が引くように株を手放していった。けれど、父も無傷では済まなかった。そもそも彼が綾人に出資したのは、綾人を見込んでのことではなく、ただ巨額の負債を抱えた自社から資産を移すためだった。それどころか、当初から綾人の会社に荒木家の後ろ盾になってもらうつもりでさえいた。綾人が以前言っていた言葉は、あながち間違いではなかった。ビジネスの世界に永遠の敵はいない。けれど、その続きの言葉もある。永遠の味方もいない、と。父の会社は、あっけなく倒産した。強制捜査が入り、父はそのまま逮捕された。桃子は行き場を失い、綾人に助けを求めに行った。けれど、かつて彼女が綾人の会社で持っていた顔パスは、すでに取り消されていた。受付で「アポイントがなければお通しできません」と、冷たくあしらわれるだけだった。落ちぶれた桃子の姿を見ても、私は少しも同情する気にはなれなかった。早々に弁護士を立てて、母の財産を守るための手続きまで済ませておいた。……1ヶ月後。G国でのあの大規模なケータリング案件が、シェフとしての私の名声を一気に高めてくれた。今では、私をメインシェフに指名する宴席の予約が、来年末までびっしり埋まっている。翔太は前金を数えながら、笑いが止まらない様子だった。「大儲けだな、まったく!」私は呆れたように彼を睨んだが、野菜を切る手は止めなかった。次のケータリングの依頼先が私の地元だったため、私はまた国内に戻ってきていた。料理を全部作り終えた頃、スタッフが声をかけてきた。「麻理子シェフ、お客様がお会いしたいそうです」私は頷いた。厨房の外に出ると、目の前に綾人が立っていた。頬はこけ、顎には無精髭が伸びていた。彼は私を見て微笑んだが、その瞳には悲しみしかなかった。「やっと、お前の作った料理を食べられた。でも、こんな形になるとは思わなかったよ」「お気に召したなら何よりです。他にご用がなければ、私はこれで」彼が私を呼び止めた。「会社を売却したんだ。いい値がついた」そう言って、1枚の書類を私の前に差し出した。その財
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