Masuk街角で小さな商売をしていたあの頃から、投資業界の風雲児と呼ばれるまで、深川綾人(ふかがわ あやと)は丸10年をかけて、ここまで這い上がってきた。 その10年間、私、荒木麻理子(あらき まりこ)はずっと彼の傍らで過ごしてきた。 どん底だったあの年、私はプライドをかなぐり捨てて、たった500円の食費を借りるためだけに、浮気をした父の前に膝をついた。 辛そうに私を見つめる綾人に対し、私はそれでもこう言った。 「会社がナスダックに上場する時は、私も連れて行ってね」 彼は頷いてくれた。 やがて会社は飛ぶ鳥を落とす勢いで成長し、私はもう一度その約束を口にした。 彼は顔も上げずに答えた。 「今は忙しいんだ。また今度な」 だから私も、それきり何も言わなくなった。 そんなある日、おすすめに流れてきたショート動画で、綾人の会社が上場を果たしたことを知った。 華やかな上場セレモニー。沸き起こる拍手。壇上で堂々と挨拶する綾人。 出張だと言っていたはずの彼は、ナスダックの壇上に立っていた。けれど隣にいたのは、私ではなかった。 異母妹――荒木桃子(あらき ももこ)だった。 綾人は桃子と並んで壇上に立ち、上場を祝う鐘を鳴らした。会場に拍手が沸き起こる。その瞬間、綾人は桃子をそっと抱き寄せた。その抱擁は、あくまで礼儀正しく、節度を保ったものに見えた。 「一番大切な瞬間に立ち会ってくれてありがとう。すごく幸せだ」 桃子はその抱擁に応えるように、そっと身を寄せた。「私も」 私はスマホの画面を消し、目元を拭うと、いつも通り買い物へ出かけ、夕飯の支度をした。 食事を終えてから、綾人にメッセージを送った。 【500円、貸してくれる?】 彼は理由も聞かず、迷いもせずに200万円を送金してきた。 私はそこから500円だけ抜き取り、残りのお金を送り返した。添えたのは、たった一行。 【多すぎよ】 その500円は、そのまま父に渡した。これで、全部終わりだ。 10年前、私はたった500円のために、プライドも見栄も捨てた。そして10年後、彼もまた、たった500円で、私たちの愛も未来も買い取った。 彼の上場という晴れ舞台に、私の居場所はなかった。それなら私のありふれた毎日にも、もう彼はいらない。
Lihat lebih banyakその後、SNSで綾人のニュースを目にするようになった。炎上は拡大する一方で、火消しが追いつかないほどだった。父が保有していた綾人の会社の株を一斉に売却し、綾人の会社の株価は、一時大暴落した。投資家たちも、潮が引くように株を手放していった。けれど、父も無傷では済まなかった。そもそも彼が綾人に出資したのは、綾人を見込んでのことではなく、ただ巨額の負債を抱えた自社から資産を移すためだった。それどころか、当初から綾人の会社に荒木家の後ろ盾になってもらうつもりでさえいた。綾人が以前言っていた言葉は、あながち間違いではなかった。ビジネスの世界に永遠の敵はいない。けれど、その続きの言葉もある。永遠の味方もいない、と。父の会社は、あっけなく倒産した。強制捜査が入り、父はそのまま逮捕された。桃子は行き場を失い、綾人に助けを求めに行った。けれど、かつて彼女が綾人の会社で持っていた顔パスは、すでに取り消されていた。受付で「アポイントがなければお通しできません」と、冷たくあしらわれるだけだった。落ちぶれた桃子の姿を見ても、私は少しも同情する気にはなれなかった。早々に弁護士を立てて、母の財産を守るための手続きまで済ませておいた。……1ヶ月後。G国でのあの大規模なケータリング案件が、シェフとしての私の名声を一気に高めてくれた。今では、私をメインシェフに指名する宴席の予約が、来年末までびっしり埋まっている。翔太は前金を数えながら、笑いが止まらない様子だった。「大儲けだな、まったく!」私は呆れたように彼を睨んだが、野菜を切る手は止めなかった。次のケータリングの依頼先が私の地元だったため、私はまた国内に戻ってきていた。料理を全部作り終えた頃、スタッフが声をかけてきた。「麻理子シェフ、お客様がお会いしたいそうです」私は頷いた。厨房の外に出ると、目の前に綾人が立っていた。頬はこけ、顎には無精髭が伸びていた。彼は私を見て微笑んだが、その瞳には悲しみしかなかった。「やっと、お前の作った料理を食べられた。でも、こんな形になるとは思わなかったよ」「お気に召したなら何よりです。他にご用がなければ、私はこれで」彼が私を呼び止めた。「会社を売却したんだ。いい値がついた」そう言って、1枚の書類を私の前に差し出した。その財
昼間のG国には、容赦ない真夏の陽射しが照りつけていた。ナナはエアコンの風が直撃する場所に寝そべり、ぴくりとも動かない。その様子を見て、隣に座る翔太は腹を抱えて笑いながら、ナナを指差してからかい続けていた。「あんなに外に出たがってたくせに、もうバテたのかよ。そんなに元気なら、もう一回外を走ってこいよ!」「わん!わんわん!」私は思わず首を振った。この2週間、ナナと翔太はまるで悪友のような関係になっていた。けれど、それはナナにとって、これまでで一番楽しい滞在でもあった。翔太が、砂塵の舞う荒野の中をナナと一緒に思い切り駆け回り、ナナの有り余るエネルギーを一緒に発散してくれるからだ。耳元に響くひとりと1匹のやり取りを聞きながら、私の口元は緩みっぱなしだった。その時、ホテルの部屋のドアがノックされた。ナナが尻尾を振りながらドアへ駆けていく。私も振り返った。そこに立っていたのは、綾人だった。目の下には濃い隈が浮かび、唇はひび割れ、あちこち皮がめくれていた。「麻理子、迎えに来た。家に帰ろう」私は顔を上げて彼を見た。そこで初めて気づいた。たった2週間の間に、彼はこんなにも痩せ、目の下には濃い隈まで浮かんでいた。ナスダックで鐘を鳴らしていたあの頃とは、まるで別人だった。翔太が立ち上がり、ナナにリードをつけた。「ナナを散歩に連れてくる。ふたりでゆっくり話せ」私は翔太の方を向き、軽く頷いた。「遠くまでは行かないでね。すぐ戻ってきてね」翔太が出て行くと、綾人が口を開いた。「あいつは誰だ」「あなたに関係あるの?」彼は私の前まで歩み寄り、瞬きもせずに私を見つめた。声はひどく掠れていた。「麻理子、俺たちは恋人同士だろ」私は首を振った。「もう別れたよ」「俺は別れた覚えはない」彼は唇を強く引き結んだ。まるで、何も変わっていないことを証明しようとするかのように、慌ててズボンのポケットから指輪を取り出した。あの日の、黄色いダイヤの指輪だった。陽の光を受けて、相変わらず息をのむほど美しく輝いていた。「麻理子、俺が間違ってたのはわかってる。でも、お前が思ってるようなことじゃない。お前たちの父さんが会社に出資してくれたから、彼女を連れてナスダックに行かざるを得なかったんだ」彼は片膝をつき、指輪を私
電話を切ったあと、綾人はその場に立ち尽くしていた。5年間住み慣れたこの家を、ぼんやりと見渡す。麻理子がいないだけで、これほどまでに見知らぬ場所のように感じるとは、思いもしなかった。家の中にはもう、麻理子の他愛のないおしゃべりは響かない。キッチンのコンロにも、もう火はつかない。うるさいとさえ思っていたはずの犬の鳴き声すら、今はもう聞こえない。自分が何をすればいいのかもわからず、まるでこの瞬間、家に帰る意味そのものを見失ってしまったかのようだった。その時、玄関先で足音がした。綾人ははっと振り返り、駆け寄って扉を開け放った。「麻理子、やっと帰ってきたのか……っ」そこに立っていたのが桃子だと気づいた瞬間、声が途切れた。桃子はドアの外に立ち、浮かべていた笑みが一瞬で固まった。「綾人さーん、こんばんは」綾人の声は素っ気なかった。「なんで来たんだ」桃子はテイクアウトの袋を提げ、目だけが笑っていない笑みを浮かべた。「もう遅い時間だし、ご飯まだかなと思って。わざわざ少し持ち帰ってきたの」綾人は彼女に目を向けた。かつての優しさは、その瞳から完全に消え失せていた。声は氷のように冷たかった。「出て行け」桃子は一瞬呆気に取られた。「え?」綾人は苛立たしげに眉をひそめた。「聞こえなかったのか。出て、行け、と言ったんだ」桃子の目にみるみる涙が浮かんだ。「どうしたの?今までこんな言い方しなかったじゃない。お姉ちゃんが私のことを何か悪く言ったの?お姉ちゃん、あなたを私に譲ってくれるって言ってたのに、まさかこんな……」綾人が鋭くその言葉を遮った。「今、何て言った?もう一度言ってみろ」桃子はびくりと固まった。彼は声を荒げた。「麻理子が何を言ったんだ、言え!」床に落ちたテイクアウトの袋から中身が散乱し、二人の間の決定的な溝を白日の下に晒した。桃子は目を泳がせ、彼と視線を合わせようとしなかった。「何のことか、わからない……」「わからない?それとも、思い出させてやろうか?」綾人は桃子をじっと見据えた。その瞳には、隠しようのない嫌悪が浮かんでいた。「6月21日、お前がわざわざあのタイミングでうちのドアを叩いたのは、麻理子に見せつけるためだったんだろう。何が狙いだったんだ」桃子は勢いよく
頭の中で、何かが弾け飛んだような衝撃が走った。彼の脳裏には、麻理子が去っていったあの日までのすべての光景が、次々と蘇っていった。今になってようやく、彼は気づいた。麻理子の別れには、前触れがなかったわけではない。ただ、彼自身が気づくのが遅すぎただけだった。いつからだろう、ナナの鳴き声が消えていたのは。思えば、彼がナナを蹴飛ばしたあの日からだった。家からは、麻理子のとりとめのないおしゃべりも消えていた。そして、彼女が見せていた、投げやりな態度や失望も思い出した。最後に麻理子が作ったあの1杯のうどんすら、彼は食べ残していた。何かを思い出したように、綾人は狂ったように寝室を漁り始めた。やがて、引き出しの一番奥から、麻理子が書き残した日記を見つけた。麻理子が昔から物覚えの悪い人間だということを彼は知っていた。だからこそ、彼女は日々の出来事を書き留めていた。そして、そこに綴られた一字一句は、彼女が彼のもとを去ろうと決意した確かな証だった。【4月11日。39度の熱が出た。綾人はまたM国へ出張し、私をひとり残した】【5月1日。彼が出張から戻ってきた。けれど、体に別の女の香水の匂いがついていた。誰の匂いなのか、私にはわからない】【6月15日。また出張。行き先はまたM国】【6月21日。彼がナスダックに上場した動画を偶然目にした。けれど、隣にいたのは私じゃなく、桃子だった。綾人は彼女に、一番大切な瞬間に立ち会ってくれてありがとう、すごく幸せだと言っていた】綾人は、その1行を呆然と見つめたまま、長い間動けなかった。彼はスマホを取り出し、秘書に電話をかけた。「上場の動画、なんでネットに出回ってるんだ。動画の拡散を止めろと、指示したはずだろうが!」電話の向こうから戸惑った声が返ってきた。「ええと、荒木桃子さんが、止めなくていいと……むしろ大々的に拡散するようにと言われました。社長のご意向だと伺っておりましたので。麻理子様が家を出られたのですか?調べましょうか?」スマホを握る手に、ギリッと力がこもった。「調べろ!」電話を切ったあと、綾人は続きのページをめくった。【6月25日。綾人は帰ってこなかった。父の誕生日会に出席したらしい。どんな立場で?私の恋人として?それとも、桃子の恋人として?】その瞬間、綾人は心臓を鷲掴
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