《妻の100万円の願いは拒否、初恋相手には5000万円⁉ 離婚後の天才妻は御曹司に溺愛される》全部章節:第 1 章 - 第 10 章

24 章節

第一章 記念日のプレゼント2

*** 研究所に戻った澪は、無表情のまま自席に腰を下ろした。静まり返ったオフィスに、キーボードの音だけが響いている。「あれ、宮坂さん? 半休じゃなかったんですか?」「ええ……予定が変わってしまって」 無理に微笑むと、頰が引きつるのが自分でもわかった。 パソコンを立ち上げ、書類の入力作業を始める。いつもなら苦にならない作業が、今日は指が思うように動かない。 五千万円。白石琴葉。責任上の存在。「好きじゃない」――智也の声が、頭の中で何度もリピートされる。(……考えないで。今は仕事だけに集中しないと――) 気づけば窓の外は、夕暮れに染まっていた。机の上に置いたスマートフォンが震える。画面に表示された名前を見た瞬間、胸が痛んだ。(――智也さんからだ) 少し迷ってから、通話ボタンを押す。『今、ビルの下に着いた』 いつもと変わらない穏やかな声だった。ほんの数時間前までなら、その声を聞くだけで安心できたのに――。「ごめんなさい……今日は残業するから」『残業? 君が?』 智也の声に、わずかな驚きが混じる。『ただの事務職なのに、そんなに残る仕事なんてあるのか?』 ちくり、と胸が痛んだ。智也はすぐに自分の言葉に気づいたらしい。『……悪い。変な言い方になった』 少し困ったように笑う気配がした。『最近疲れてるんだ。……そうだ、ちょっと降りておいで。サプライズがある』 断りきれず、澪は一階へ降りた。 ロータリーに停まる見慣れた車。助手席の窓が開き、智也がいつもの笑顔を向ける。「お疲れ。乗って」 言われるままシートに座ると、智也は機嫌良く話し始めた。「前に、迎えに来なくても自分で運転できるって言ってたよな」「……うん」「だから、この車を君に譲ろうと思う」 澪は目を瞬かせた。「え……?」「新しく車を買ったんだ。取引先との付き合いも増えてきたし、それなりの車じゃないと格好がつかないからさ」 スマホを取り出し、黒く艶やかな高級車の写真を見せる。ナンバープレートが映る寸前で、なぜか画面は閉じられた。「来週納車なんだ。結構いいサプライズだろ?」 誇らしげな横顔に、澪は静かに訊ねた。「……この車、結婚記念日のプレゼントってこと?」 智也は少し照れくさそうに笑った。「まあ、そんなところかな」 澪は窓の外に視線を逸らした。数時間前な
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第二章 誰も知らない私

 後輩を駅で降ろし、家へ帰る頃には、夜の帳がすっかり街を包んでいた。駐車場へ車を停め、エントランスへ向かう足取りは重い。 つい数時間前まで、胸を弾ませながら歩いた同じ道とは思えなかった。 玄関の鍵を開ける。静まり返った部屋には、人の気配はない。「……ただいま」 返事がないことは分かっている。それでも長年の癖で、声が自然と漏れた。 靴を脱ぎ、リビングへ入る。智也はまだ帰っていない。そのことに安堵した自分がいた。 今、彼の顔を見たら、何を言ってしまうか分からない。 ソファへ腰を下ろし、大きく息を吐く。視線を上げた先で、寝室のドアが半開きになっていた。 昼間、慌てて飛び出したままの部屋を見て、澪はゆっくりと立ち上がる。 寝室へ入った瞬間、ベッドの上に置かれた紙袋が目に飛び込んできた。 淡いアイボリーのワンピース。三周年の記念写真を撮るために選んだ特別な一着。 そっと紙袋を抱き寄せる。そして柔らかな布地を指先で撫でると、胸の奥がじくりと痛んだ。 不意に、視線がクローゼットへ向いた。それは、あの振込明細を見つけた場所。たった一枚の紙が、自分の世界を変えてしまった。 五千万円。  私には貸してくれなかった、お金。 白石琴葉。 そして、智也の冷たい声。 ――『彼女は、ただ責任上の存在だ』「……っ」 胸を押さえ、澪はその場へしゃがみ込む。 息が苦しい。頭では忘れようとしているのに、あの言葉だけが何度も何度も蘇る。 それでも、信じたくなかった。「何か……理由があるんだよね?」 そう呟きながら、自分でも苦笑してしまう。(誰に問いかけているのだろう。返事をくれる人なんて、どこにもいないのに――) 瞼を閉じると、思い出したくもないほど幸せだった頃の記憶が、ゆっくりと蘇ってきた。 まだ大学生だった二人が初めてデートをした時、智也は笑顔で右側を歩き、車通りを遮ってくれた。 彼が付き合いでお酒を飲みに行った夜は、酒臭さで澪が不快にならないか心配して、帰ってくるといつも客室で寝ていた。 出会ってから結婚一年目まで、智也は澪に対して至れり尽くせりの優しさを見せた。だからこそ、今の現実が信じられない。「……全部、嘘だったの?」 ぽつりと零れた声と同時に、一粒の涙が頬を伝った。止めようとしても止まらない。涙は次から次へと溢れ、膝の上へ音もなく
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第二章 誰も知らない私2

 ホテルグランシアに着いたのは、それから三十分後のことだった。 吹き抜けの豪奢なロビー、輝くシャンデリア、磨き抜かれた大理石の床。澪は自分の仕事帰りの服装が、この空間にそぐわないことを痛いほど感じながら、レストランへと足を進めた。 窓際の席に、御子柴美佐子の姿があった。ブランド物のスーツを完璧に着こなし、背筋をぴんと伸ばして座っている。 澪に気づくと、美佐子は腕時計に視線を落とした。「遅かったわね」「申し訳ありません……」「座りなさい」 メニューを開く間もなく、美佐子はテーブルの上に封筒を滑らせた。「これを」 澪は封筒を受け取り、中身を取り出した。 ――離婚届。 その文字を見た瞬間、息が止まった。 美佐子は紅茶を優雅に一口飲み、静かに続けた。「あなたは、もう智也には相応しくありません」 澪は顔を上げた。「……どういう意味でしょうか」「言葉通りの意味です」 美佐子は冷ややかに澪を見つめた。「あなたはこの三年間、智也を縛り続けてきた。起業したばかりの息子を支えたという恩を盾に、離婚を引き延ばしているのでしょう?」「私は、そんなつもりでは……」「御子柴家の嫁としても、完全に失格です」 美佐子の声には、一切の感情がこもっていなかった。「子どもも作らない。家柄も釣り合わない。家事も仕事も中途半端。智也が情に流されて離婚を切り出せないだけです」 澪は膝の上で拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込むが、痛みはほとんど感じない。「結婚して三年です。もう十分でしょう?」 美佐子は静かに、しかしはっきりと言い放った。 その言葉が、澪の胸の奥に重く沈んだ。  智也が自分に差し出した”三年”という契約。美佐子が知る”三年”と、自分が知る”三年”は、決定的に違う。 それでも澪は、何も言い返さなかった。ただ、離婚届を静かに見つめながら、義母の冷たい視線を受け止め続ける。 美佐子に突きつけられた離婚届を見つめながら、澪の脳裏に、三年前の光景が鮮やかに蘇った。 まだ会社を立ち上げたばかりの頃の、小さな事務所。 夜遅く、誰もいなくなった部屋で、智也は初めて弱さを見せた。「……もう、駄目かもしれない」 自信家だった彼が、震える声でそう呟いた。「澪を、こんな生活に巻き込んでしまった」 その姿を見た瞬間、澪は迷わず通帳を取り出した。養父が
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第二章 誰も知らない私3

***(……違う) 澪は心の中で、静かに義母の言葉を否定した。 あの契約は、智也を縛るためのものじゃない。私を守ろうとしてくれた、智也の優しさだった。なのに美佐子は知らない。 息子がどんな想いで、あの紙にサインしたのかを。「私が恩を盾にして、智也を縛っている……と思っているのね」 澪は小さく呟いた。 誤解を解く気力は、もう残っていなかった。 なぜなら——三年前、私を守ろうとしてくれた人と。 今日、私を「責任上の存在」と呼んだ人。 その二人が、本当に同じ人物なのか。澪には、もう分からなくなっていたから。 美佐子は離婚届を一瞥すると、ゆっくりと立ち上がった。「話は以上です」 澪は顔を上げなかった。「あなたも分かったでしょう。智也の隣にいるべき人間が、誰なのか」 その言葉が胸に突き刺さる。 美佐子がバッグを手に取った、その時だった。「母さん?」 聞き慣れた声に、澪の身体が強張った。 ゆっくりと入口へ視線を向けると、そこに御子柴智也が立っていた。そして、その隣に——。「……智也くん、どうしたの?」 白石琴葉が、柔らかな笑顔で寄り添っていた。上品なワンピースに、優雅に揺れる巻き髪。大学時代から変わらない、誰もが振り返る華やかさ。 美佐子の表情が、わずかに緩んだ。 智也は美佐子と澪の二人を見て、表情を強張らせた。「どうして……ここに?」「あなたのために、話をしていたのよ」 美佐子が淡々と答える。 智也の視線が、澪に向けられた。一瞬の驚き、戸惑い、そして明確な警戒。 澪が何か言うのではないか——そう思っているのが、痛いほど伝わってきた。 琴葉は澪に気づき、ぱっと明るい顔になった。「宮坂先輩? こんなところで会うなんて、すごい偶然ですね!」 無邪気な笑顔が、今は胸に突き刺さる。 智也が素早く口を挟んだ。「あ……紹介するよ。こちらは白石琴葉。昔からの知り合いだ」 そして、澪を見てわずかに言葉を詰まらせた。「……仕事関係の、知人だ」 妻という言葉は、結局出なかった。澪の胸の奥が、静かに冷えていく。「初めまして」 琴葉が笑顔で頭を下げた。「宮坂先輩ですよね? 神代先生の一番のお弟子さんだったじゃないですか」 澪は小さく微笑んだ。「ええ……昔はそうでした。今は、ただの事務員です」 智也の態度は、冷静で落ち
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第三章 選ばれなかった妻

 マンションに戻ると、部屋は真っ暗だった。智也はまだ帰っていない。その事実に、わずかに安堵する。 今はまだ、彼の顔を見る勇気がなかった。 玄関に鞄を置き、リビングへ入る。何も変わらない部屋なのに、もう以前の「家」には見えない。(――ここは本当に、私の帰る場所なのかしら) ソファに腰を下ろした瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。「……疲れた」 誰に聞かせるでもない独り言を呟いたあと、今日一日を思い返す。 振込明細。 義母の離婚届。 琴葉との再会――そして、智也の「ただの事務員」という言葉。 一つひとつなら、耐えられたかもしれない。けれど、それが重なったとき、人の心はこんなにも簡単に壊れてしまうのだと、初めて知った。「私……何を頑張ってきたんだろう」 結婚して三年。朝早く起きて朝食を作り、夜は仕事を終えて帰宅した後に、家事を済ませる。 智也が安心して働けるように――ただそれだけを願って、これまで生きてきた。 研究所の仕事だって、国家機密だから誰にも言えない。 それでも「事務員」と言われたとき、笑って受け流した。夫だけは、いつか分かってくれると信じていたから。 でも――違った。 智也は知らない。知ろうともしなかった。「……はは」 乾いた笑いが漏れる。 涙は、もう出なかった。泣きすぎたのか。それとも、枯れてしまったのか。 ソファで膝を抱え、小さく身体を丸める。窓の外では、夜景が静かに輝いていた。 世界は何一つ変わらないのに、自分だけが取り残されたようだった。
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第三章 選ばれなかった妻2

*** 次の日、仕事を終えて帰宅し、いつもの時間に就寝した。 玄関のドアが開く音で、澪はゆっくりと目を覚ます。時計を見ると、午前一時半を回っていた。 リビングから物音がする。「……智也さん?」 ベッドを降り、寝室の扉を少しだけ開ける。 ネクタイを緩めた智也が、スーツの上着をソファに放り投げていた。ふわりとアルコールの匂いが漂う。「起きてたのか」 少し赤くなった顔で笑う。「飲み会だったの?」「ああ。付き合いだから仕方ない」 澪は静かに頷いた。 昨日までなら「お疲れさま」と自然に声をかけられた。けれど今は、その一言さえ喉につかえて出てこない。 空気の変化に気づいたのか、智也は困ったように笑った。「……まだ怒ってる?」 澪は答えない。 智也は小さく息をついた。「昨日のことだけどさ。琴葉のこと、誤解してるなら説明しておく」 椅子に腰を下ろし、真っ直ぐ澪を見る。「彼女は医薬コンサル会社に入った。業界アナリストとして期待されてる。うちの会社も、医薬メーカーとの取引が増えてるだろ? 人脈を作っておくのは大事なんだ」「……ええ」「俺が支援してるのは、友人として。仕事のため、それだけだ」 昨日、電話越しに聞いた言葉が蘇る。『俺が好きなのは、琴葉みたいな穢れのない女だから』 同じ口から出た言葉とは思えなかった。「そう……なんだ」 智也は、安心したように笑った。「分かってくれて良かった」 何も分かっていない。 そう思ったが、もう説明する気力は残っていなかった。 沈黙が流れる。その静けさを破るように、智也が明るい声を出した。「そうだ、澪。君の仕事のことなんだけど。今の事務職は正直、将来性ないだろ?」 その言葉に、心臓がゆっくり冷えていく。「私はそう思わないけど」「現実の話だよ。君は優秀なんだから、もっと体面のいい仕事に行ける。琴葉に頼めば紹介してもらえる。医薬業界は、横の繋がりが強いからさ」 澪はゆっくり首を横に振った。「ありがとう。でも私は、今の仕事が好きだから」「遠慮しなくていい。君は昔から、変なところで意地を張る」「違うの」 真顔で否定した澪は、静かに智也を見つめた。「私は、一人で生きていける」 智也が眉をひそめる。「誰かに頼らなくても、私は大丈夫」「どういう意味だ?」「そのままの意味。今の仕事
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第四章 もう、あなたのためには生きない

 早朝、玄関のドアが勢いよく閉まる音が、静かな住宅街に響いた。 澪は肩で息をしながら、その場から逃げるように歩き始める。(……もう限界) 智也の言葉が、何度も頭の中で反響する。『子どもができれば、夫婦は変わる。昨日のことも忘れられる』 まるで、自分の人生が最初から存在しなかったかのような言い方だった。 喉の奥が熱くなり、吐き気が込み上げる。 そして、もう一つ。(――もし、本当に妊娠していたら) その可能性が頭を離れなかった。このままでは何も考えられない。まずは、事実を知るために行動する。 澪はスマートフォンを取り出し、研究所へ短い連絡を送った。『体調不良のため、本日は休暇をいただきます』 返信を待つことなく、通りかかったタクシーを止める。「東条総合医療センターまでお願いします」 運転手が頷き、車が走り出した。窓の外を流れる景色を見ながら、澪は静かに目を閉じる。 智也の会社は、地域の医療機関とも提携が多い。人脈を使えば、何が起こるかわからなかった。だからこそ、この病院を選んだ。 東条グループが運営する総合病院。澪が所属する製薬会社の大株主でもあり、智也の会社とは一切業務提携がない。 ここなら、余計な心配をせずに済む。 受付を済ませ、産婦人科へ向かう途中だった。急に視界が白く霞む。(あ、まずい……) 朝からほとんど何も口にしていない。これまでの緊張も重なり、身体が思うように動かなかった。 足元がぐらりと揺れる。「危ない!」 低く落ち着いた声。次の瞬間、澪の身体は誰かに支えられていた。「大丈夫ですか?」 見上げると、長身の男性が心配そうにこちらを見ている。 三十代半ばほどだろうか。上質なスーツを隙なく着こなし、切れ長の瞳には知性と余裕が宿っているのが分かった。「……すみません。ありがとうございます」「顔色が悪い。救急へ案内しましょう」 男性が近くにいた職員へ、声を掛けようとする。だが澪は、小さく首を振った。「大丈夫です。立ちくらみです」 眉根を寄せる男性の様子は、納得していない感じだった。「無理をしてはいけません」 澪は深く息を整え、自分の体調を冷静に確認する。指先は少し冷たい。軽い頻脈に口の渇き、汗の量。「昨夜から十分な水分が取れていなかったので、軽度の脱水だと思います。少し補水すれば落ち着きます」
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第四章 もう、あなたのためには生きない2

*** 検査は思ったより早く終わった。診察室で医師から、一枚の検査結果を渡される。「妊娠反応は陰性です」 その一言を聞いた瞬間、澪の全身から力が抜けた。「……そうですか」 自然と涙が滲む。嬉しいわけではない。悲しいわけでもない。 ただ、救われた。まだ、自分の人生を取り戻せる。そう思えたからだった。 診察室を出てから、スマートフォンを見る。画面には、智也からのメッセージが並んでいた。『どこにいる? 今から病院へ迎えに行く』『もし妊娠していたら、仕事は辞めさせる』『家でゆっくり出産の準備をすればいい』『全部俺が面倒を見る』 澪は画面を見つめたまま、静かに笑った。(――何を勘違いしているの) 仕事を辞めるかどうか。子どもを産むかどうか。 それを決める権利は、最初から私にある。あなたじゃない。 返信画面を開くこともなく、スマートフォンをバッグへしまった。 そのときだった。「澪さん?」 聞き慣れた甲高い声。振り返ると、婦人科の診察室から出てきた義母――美佐子が立っていた。「あなた、産婦人科にいたの?」 美佐子の視線が、澪の手元へ向く。その手には、検査結果の用紙があった。「それ……」 美佐子の表情が一変した。「もしかして、妊娠したの?」 澪は否定しようと口を開く。しかし、美佐子は最後まで聞かなかった。「そういうことだったのね!」 待合室に大きな声が反響する。「離婚したくないから、子どもを利用する気なのね!」 周囲の視線が一斉に集まる。「違います」「黙りなさい!」 美佐子は鋭く言い放つ。「御子柴家にしがみつくために子どもを盾にするなんて、なんて浅ましい女なのかしら! その子は堕ろしなさい。御子柴家に、あなたの子どもなんて必要ありません」 その言葉を聞いた瞬間、澪の中で何かが音を立てて切れた。 もう、黙って傷つく妻ではない。誰にも人生を決めさせない。 澪はゆっくりと顔を上げ、美佐子をまっすぐ見据える。 その瞳には、これまで決して見せることのなかった静かな怒りが宿っていた。
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第五章 私はあなたを選ばない

 待合室に、張りつめた空気が流れる。「その子は堕ろしなさい」 美佐子の冷たい言葉が、静かな空間に響いた。 澪はゆっくりと息を吸い込み、手に持っていた検査結果を広げる。「残念でしたね」 紙を美佐子の前へ突き出した。「私は妊娠していません」 美佐子は怪訝そうに、検査結果へ目を落とす。【妊娠反応 陰性】 その文字を確認した瞬間、表情が険しくなった。「……紛らわしいことを」 「紛らわしいのは、お義母さんです」 澪は静かに言葉を続ける。「私は智也さんの子どもなんて、最初から産みたくありません」 美佐子の顔が、怒りで赤く染まった。「あなた……!」 今にも平手打ちをしそうな勢いだったが、その手は途中で止まる。 まだ息子に、離婚を迫ったことを話していない。ここで騒げば、知られてしまう。 美佐子は奥歯を噛み締め、睨みつけるだけ睨みつけると踵を返した。「覚えていなさい」 その背中を、澪は無表情で見送る。不思議なほど、胸は静かだった。 病院を出ると、スマートフォンが震えた。研究所の上司からメールだった。『体調不良なら無理をしなくていい。今日は休養を優先してくれ。こちらで対応する』 短く謝罪と礼を返信し、家へ向かう。 自宅の玄関を開けると、リビングから勢いよく智也がやって来た。「澪!」 その顔には、今まで見たことがないほどの焦りが浮かんでいる。「どこへ行っていたんだ!」 中に入ると、テーブルにはスマートフォンが何台も並び、親戚や友人へ連絡した形跡が残っていた。必死になって探していたのだろう。 智也が先に口を開いた。「……早く病院へ行こう」 澪は淡々と答える。「私は、一人で病院に行けない子どもじゃない」 「皮肉か?」 「違うわ」 「俺は、琴葉が体調を崩したから助けに行っただけなんだ」 説明する口調は、どこか焦っていた。 澪は無言で、検査結果を突き出した。智也は澪の手から検査結果を取り上げ、一瞬で顔色を変える。「陰性……?」 落胆が、そのまま表情に現れていた。 その反応を見た瞬間、澪の胸は冷え切った。(――そう。私の身体より、子どもの有無なんだ) 智也は慌てて笑顔を作る。「そ、そうだ。明日、大事なディナーがあるんだ。一緒に来ないか?」 澪は目を見開いた。 結婚して三年、澪は人前が苦手だからと、智也は社交
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