All Chapters of 妻の100万円の願いは拒否、初恋相手には5000万円⁉ 離婚後の天才妻は御曹司に溺愛される: Chapter 21 - Chapter 30

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第十六章 壊される信頼

 研究所の総務部に一通の匿名メールが届いたのは、朝のことだった。 件名には「内部告発」とある。そこに記されていたのは、宮坂澪に関する複数の告発だった。 ――実験データの改ざんに関与しているのではないか。 ――特定の企業と不適切な関係を持っている。 ――主任という立場を利用し、私的な利益を得ている可能性がある。 いずれも、研究者としての信用を根底から揺るがしかねない内容だった。具体的な証拠は添付されていない。 それでも、新薬開発の入札を間近に控えたこの時期では、単なる悪戯として片づけるわけにはいかなかった。 総務から連絡を受けた神代は、重い表情で澪を呼び出した。「この内容を確認してほしい」 差し出されたタブレットの画面を見て、澪は静かに息を吐いた。驚きよりも先に、疲労感が押し寄せる。 またか――。 そんな言葉が、胸の奥に浮かんだ。「身に覚えはありません」「分かっている」 神代は即座に答えた。「だが、研究所として正式に調査する必要がある。入札を控えている以上、疑惑を残すわけにはいかない」「構いません」 澪は画面から目を離した。「必要なものは、すべて提出します」「助かる」 それからの数日間――澪は通常業務をこなしながら、過去の実験ログ、試薬の管理記録、データの更新履歴、外部とのやり取りに至るまで、求められた資料を一つずつ提出していった。 曖昧な記憶に頼ることはしない。 記録を確認して日時を照合し、数字を一つずつ追っていく。研究者として、当たり前のことを当たり前に積み重ねる。 その姿勢は、普段と何も変わらなかった。 そして、調査の中で重要な意味を持ったのが、先日の培養データ異常に関する記録だった。 急激に数値が変動した際、澪は原因を特定し、使用していた試薬のロットまで遡って確認している。 その判断から対応完了までの過程は、実験ログに時刻とともに残されていた。 データを書き換えたのなら、これほど一貫した記録が残るはずがない。むしろ、そのログは澪が異常をいち早く発見し、プロジェクトへの影響を最小限に抑えたことを示していた。 さらに、他の実験データや試薬管理記録との照合でも、不正を示す痕跡は見つからなかった。 調査開始から数日。神代は研究室に集まった研究員たちの前で、はっきりと告げた。「調査の結果、宮坂主任によるデータ
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第十七章 支える人

 研究所の会議室に、東条悠臣の姿があった。 広い部屋には午前の陽光が差し込み、ブラインドの隙間から細い光の筋を落としている。 神代を含む幹部陣が揃う中、悠臣は静かに資料を広げた。 黒いスーツの生地が柔らかな光を受け、切れ長の目が資料の文字を冷静に追っている。「東条グループとして、正式に支援を申し出ます」 告げられた言葉に、場の空気がわずかに引き締まった。 椅子が軋む小さな音と誰かが息をのむ気配。幹部たちの視線が、一斉に悠臣へ集まる。「今回の抗がん剤プロジェクトは、社会的意義が大きい。設備の増強と、研究環境の安定化に協力したいと考えています」 具体的な内容は、最新分析装置の導入支援と、共同研究枠の拡充。 どちらも研究所全体の研究基盤を強化するものであり、宮坂澪個人に利益を与えるものではない。 提示された金額と規模も、研究所にとって大きな後押しになる提案だった。 神代は資料を確認すると、眼鏡の位置を直しながら、慎重にページをめくった。「ありがたい申し出だ。前向きに検討させてもらう」 「よろしくお願いします」 悠臣は静かに頭を下げた。その動作は控えめでありながら、そこに迷いはなかった。 会議は、その後いくつかの確認事項を残して終了した。 ***  会議室を出たところで、澪は悠臣の姿を見つけた。白衣の袖を整えながら足を止める。「東条社長」 呼びかけると、悠臣が振り返った。「宮坂主任」 澪は背筋を伸ばし、深く頭を下げた。「本当に、ありがとうございます」 「礼を言われる筋合いのものではありません」 「それでも……」 澪は一度言葉を切った。 廊下には研究員たちが行き交い、遠くから実験室の扉が開閉する音が聞こえてくる。 澪は指先で白衣の裾を軽く握った。「特別扱いは困ります。私個人への便宜として受け取られるのは、本意ではありません」 やんわりと拒んでいる。けれど、その意志は明確だった。 自分だけが特別に扱われれば、周囲から余計な誤解を受ける。 何より研究者としての評価を、誰かの後ろ盾によって得たものだと思われたくなかった。 そんな澪の考えを、悠臣はすぐに理解したようだった。「もちろんです」 低く穏やかな声が、静かな廊下に響く。「今回の支援は、宮坂主任だけのためのものではありません」 「……はい」 「導入する設備
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第十八章 知らなかった妻

 仕事から帰宅すると、智也は自宅の書斎に入った。 部屋はほとんど灯りを落とし、デスクランプの光だけが円を描いて机と壁を照らしている。 ネクタイを緩めることも忘れ、智也はパソコンの画面を睨んでいた。 検索窓に文字を打ち込む。 ――宮坂澪 研究所。 キーボードを叩く音が、静かな部屋に小さく響いた。画面に次々と検索結果が並ぶ。 所属する研究機関。一般向けに公開されている研究分野の紹介。研究所が発表しているニュース。 けれど、どれだけページを開いても、澪本人につながる情報はほとんど出てこない。「……名前が出てこないな」 智也は眉を寄せた。 さらに検索条件を変える。 宮坂澪 主任。 宮坂澪 抗がん剤。 宮坂澪 研究者。 それでも結果は、大きく変わらなかった。表示されるのは、研究所そのものの情報ばかりだった。(――いったい、どういうことだ?) 智也は画面をスクロールする指を止めた。 昨日、研究所で見た白衣の女性。 東条悠臣と話していた、あの女性。 顔を見たときには、どこかで見たことがあるような気がした。それなのに、なぜか澪とは結びつかなかった。 家にいる澪と、研究所にいたあの女性――智也の中では、まるで別人だった。 これまで智也は、澪の仕事に興味を持ったことなどなかった。 研究所で働いている。 それだけだと思っていた。 自分の会社のように、経営に関わる仕事をしているわけでもない。 ましてや、研究者として何か大きな成果を上げているなどとは、まったく考えもしなかった。 だから、白衣を着て研究員たちの中を歩く澪を見ても、それが妻だとは気づかなかった。 実際、澪がどんな研究をしているのか。 どんな立場にいるのか。 どれほどの責任を背負っているのか。 智也は、聞いたことすらなかった。 そのことに気づいた途端、胸の奥がざわついた。「……俺は」 智也は画面を見つめたまま呟く。「澪の何を知っていたんだ」 結婚して三年。同じ家で暮らし、同じ食卓を囲んできた。それなのに、妻が毎日どんな場所で、何をしているのか。 自分は何も知らない。 いや、知らなかったのではない。知ろうとしなかったのだ。 その事実を認めた瞬間、智也は椅子の背にもたれた。 後悔――なのだろうか。けれど、まだ素直にそう認めることはできない。 自分が悪かった
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第十九章 始まる攻防

 新薬の入札まで、残りわずか。研究所の空気は、日を追うごとに張り詰めていた。 白い壁に囲まれた実験フロアには、天井の蛍光灯が冷たい青白い光を満遍なく投げかけている。 ガラスのパーティション越しに見える培養器の数字が、規則正しく点滅していた。 データ検証、最終調整、報告書の精査――どれもが気の抜けない作業ばかりだった。 キーボードを叩く音が各所から響き、機械の低い駆動音が絶え間なく背景に流れている。 その中心で、澪は淡々と業務をこなしていた。 夫の前では見せることのなかった白衣に袖を通し、モニターに映し出された数値を確認する。 一つひとつのデータに目を通し、わずかな違和感も見逃さない。感情を挟む余地など、今の自分にはなかった。 指先がマウスを正確に動かし、過去のログと現在の数値を頭の中で照合していく。 けれど、研究の合間にも、もう一つの準備は着実に進めていた。 弁護士とのやり取りと証拠の整理。それと、財産分与に向けた資料作成。 帰宅後、智也がいない時間を見計らって、少しずつ形にしている。 リビングのテーブルランプが黄色い光を落とす静かな夜。 ファイルを開き、紙を一枚ずつ並べていく。 研究のこと。 離婚のこと。 どちらも、もう誰かに任せるつもりはなかった。 以前の自分なら、夫のことだけで頭がいっぱいになっていたはずだった。 智也が何を思っているのか。どうすれば機嫌を損ねないのか。 そんなことばかりを考えていた。 けれど、今は違う。 自分の未来を、自分の手で決めようとしている。 その感覚だけが、静かに胸の奥に残っていた。 ***  東条悠臣との連絡は、以前より増えていた。 研究データの確認。次のフェーズに向けた意見交換。研究環境についての情報共有。 どれも業務上の範囲を出ない。 メールの画面に表示される文字は簡潔で、余計な装飾もない。 それでも悠臣は澪の判断を尊重し、必要以上に踏み込もうとはしなかった。『必要な支援があれば、遠慮なく言ってください。ただし、あなたの判断を最優先します』 その言葉が、澪にとっては何よりありがたかった。 誰かに守られることではない。 自分の意思を尊重してもらえること。 それが、今の澪には大切だった。 仕事上の最大の理解者。 そう位置づけることに、違和感はなかった。 恋愛でも
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第二十章 仕掛けられた罠

翌朝、研究所では、前夜に届いた匿名の写真について内部確認が始まっていた。 写真には、澪が担当する研究データの一部が写っている。 一見すると、都合の悪い数値を改ざんしたようにも見える内容だった。 神代は写真を手に取り、慎重に目を通す。「うーん。前回の匿名告発とは違うな」 低い声に、澪が顔を上げた。「はい」 「今回は、実際の研究資料を知る人間でなければ作れない精密さがある」 澪は写真を受け取り、じっと眺めた。しばらくして、指で一点を示す。「ここです」 「何か分かったか?」 「よく見てください。この部分だけ、実験記録と一致していません」 加工された写真では、意図的に一部分が切り取られている。そのため、本来なら問題のないデータが、まるで不正に操作されたかのように見える。「文脈を、意図的に歪めています」 澪の声は冷静だった。 つまり、犯人は澪の研究内容をある程度把握している。 神代は表情を曇らせた。「残念だが、内部の人間が関わっている可能性もある。警戒が必要だ」 「分かりました」 澪は短く頷いた。 琴葉の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。けれど、すぐにその考えを頭の隅へ追いやった。 証拠のない段階で、誰かを犯人と決めつけることはできない。 今は、事実を積み重ねるしかなかった。 その頃、研究所内では匿名告発の噂が、じわじわと広がり始めていた。「宮坂主任がデータを操作したらしい」 「本当に?」 「匿名で告発されたって聞いたけど……」 根も葉もない話が、一部の職員の間で囁かれる。 廊下を歩けば、会話が途切れる。 意味深な視線を向けられることも増えた。 そのことで、空気がわずかに濁っていくのを、澪は肌で感じていた。 それでも、動揺を表には出さない。説明を求められるのを待つのではなく、自ら動く。 実験ログ。 データの更新履歴。 試薬の管理記録。 必要な資料をすべて時系列で整理し、第三者が見ても検証できる状態にして提出する。 感情で反論するのではない。事実を積み重ねればいい。 その姿勢に、神代は改めて澪の研究者としての強さを感じていた。 感情に流されず、証拠で事実を示す。 それが、彼女のやり方だった。 *** 同じ頃。琴葉は智也の近くで、心配するような声を作っていた。「最近、澪さんのことで研究所が騒がしい
last updateLast Updated : 2026-09-18
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第二十一章 揺さぶり

新薬入札まで、残り二週間余り。研究所では、前回の匿名写真騒動が完全には収まっていなかった。 澪が提出した実験ログとデータ更新履歴によって、不正を裏付ける事実は確認されていない。 それでも、噂だけは消えなかった。「宮坂主任がデータを操作したって、本当なのかな」 「匿名で写真まで出てきたんでしょう?」 「でも、神代先生は問題ないって言ってたらしいよ」 廊下を歩けば、そんな声が耳に入る。澪の姿を見た途端、会話が途切れることもあった。 以前なら気にならなかったはずの視線が、今は一つひとつ胸に突き刺さる。 それでも、足を止めることはなかった。 余計なことを気にしている暇などない。今は自分の研究と、研究所で積み重ねてきたものを守ることが先だった。 そんな中、澪の研究チームに突然、過去の研究データについて追加確認を求める連絡が入った。 文面は丁寧で、正式な確認手続きに見える。けれど、澪はすぐに違和感を覚えた。 確認対象になっているデータが、先日の匿名写真に使われたものと非常に近い。(また……?) 偶然とは思えなかった。 それでも、澪は慌てない。まずは依頼内容を一つひとつ確認していく。 すると、正式な依頼の中に、本来なら確認する必要のない情報まで含まれていることに気づいた。 過去の所属先。 研究所に入った経緯。 これまでの研究歴。 実際のところ、研究データの確認に、そこまでの情報は必要ない。 澪は画面を見つめたまま、静かに息を吐いた。 研究内容だけを調べているのではない。誰かが、澪個人を狙っている。 その意図が、少しずつ見えてきていた。 澪は資料をまとめると、神代の研究室へ向かった。「先生、失礼します。依頼元と、情報の流れを確認していただけますか」 澪が資料を差し出すと、神代は黙って目を通した。「……妙だな」 「はい。表向きは正式な確認ですが、必要以上に私個人の情報が含まれています」 神代は重い表情で頷いた。「分かった。安易に動かず、痕跡を残す方向で進めよう」「お願いします」 澪は静かに頭を下げた。 また一つ、見えないところで糸が動き始めている。 それでも、澪は研究室へ戻った。 やるべきことは変わらない。 データを確認しつつ記録をきちんと残し、事実を積み重ねる。 ただ、それだけだった。 *** 一方
last updateLast Updated : 2026-09-20
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第二十二章 疑惑の影

 次の日。研究所の執務室で、澪は画面に向き直っていた。 強化したアクセス記録を静かに確認するために、ログを時系列で追っていく。 匿名写真が届いた時間。 写真に使われたデータが閲覧された時間。 そして、追加確認の依頼が出された時間。 それぞれを照らし合わせていくと、ある人物の名前が何度も浮上した。 しかも本来の業務範囲を明らかに超えて、複数の研究データを閲覧している。閲覧時刻も、匿名写真が届く前後と重なっていた。(……この人か) 澪は画面を見つめた。 偶然とは考えにくい。けれど、その人物が琴葉と直接つながっている証拠は、まだない。 だからこそ、推測だけで動くわけにはいかなかった。 澪は神代の研究室を再び訪れ、記録を見せた。「先生……これだけでは、まだ動けません」 神代は画面を見つめ、重い息を吐いた。「そうだな。だが、ようやく相手の尻尾が見えてきた」 「はい」 澪は頷いた。「相手が分かったタイミングで、制限を強化するのは逆効果だと思います」 「どういう意味だ?」 「相手が次に、どのデータへ触れるのか。それを確認したいんです」 神代は少し考え、静かに頷く。「分かった。このまま監視を続けろ。痕跡はすべて残すように」 「承知しました」 澪は記録を厳重に保存した。 アクセス制限は、あえて変更しない。ここで制限をかければ、相手に警戒される。 まだ自分たちが気づいていないと思わせたまま、次の動きを待つことにした。 それが、今の最善手だった。 ***  同じ頃。琴葉は自宅でスマートフォンを見つめていた。画面には、追加確認が進んでいることを知らせる連絡が表示されている。「ふふっ。これで、少しは困るでしょうね」 琴葉は満足そうに微笑んだ。 自分が直接手を下さなくてもいい。少しずつ外堀を埋めていけば、澪は研究所にいられなくなる。 澪が仕事も居場所も失えば、智也だって、いつまでもあの女に構ってはいられない。最後には、自分のところへ戻ってくる。そうに決まっている。 琴葉は、そう信じていた。 ***  皆が退勤した研究所で、澪は最後にログ画面を見つめた。 相手は、まだ自分が気づいていないと思っている。 だから、次も必ず動く。 静かな執務室に、空調の音だけが響く。 澪は記録を保存し、ゆっくりと画面を閉じた。「次に動くの
last updateLast Updated : 2026-09-21
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第二十三話 突きつけられた立場

 新薬入札まで、残り一週間弱。研究所では、前日に発見された不自然なアクセスについて、神代と澪が引き続き調査を続けていた。 しかし、実際に手を動かした人物については、すでにいくつかの手掛かりが浮かんでいる。ただ、それだけでは動機までは分からない。 まして、その人物が単独で動いているのか、背後に誰かいるのか――そこまで特定できる証拠は、まだ揃っていなかった。 そんな中、澪は突然、研究所の上層部から呼び出された。 会議室に通されると告げられたのは、今回の新薬入札に関する利益相反の確認だった。「今回の新薬入札には、御子柴さんの会社も参加を予定しています」 担当者は、手元の資料を確認しながら淡々と続ける。「入札に参加する企業の一つに、宮坂主任のご主人が経営される会社が含まれています。主任研究員である宮坂澪さんが、入札参加企業の代表者と婚姻関係にある以上、研究情報の取り扱いに問題がなかったか、確認する必要があります」 澪は一瞬だけ息を止めた。 だが、すぐに落ち着いた声で答える。「私は、夫に研究情報を伝えたことは一度もありません」 「それは承知しています。今回の確認は、宮坂主任個人を疑うものではありません。入札の公平性を保つために、必要な手続きです」 場合によっては澪が入札に関わる最終判断から、一時的に外れる可能性もあるという。「分かりました。必要な手続きであれば、それに従います」 澪は感情的になることなく受け入れた。ただし、はっきりと付け加える。「お願いがあります。私が外れることで、研究チームに不利益が出るのであれば、別の方法を検討していただきたいです」 自分の立場ではなく、研究そのものへの影響を考えた言葉だった。 神代は隣でそれを聞きながら、改めて彼女の責任感の強さを感じていた。「承知しました。こちらでも検討します」 会議はそこで終わった。 部屋を出た澪は、静かに息を吐く。 問題が一つ増えた。けれど、やるべきことは変わらない。 入札まであと一週間――澪は研究室へ戻ると、再びデータの確認に取りかかった。 ***  その日の午後。智也のスマートフォンに、琴葉から連絡が入った。『少しお話したいことがあるんです。今日の夜、お時間いただけませんか?』 仕事の予定を確認すると、時間を作ることはできた。『分かった』 短く返す。 指定
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第二十四章 仮初めの安らぎ

「主任研究員・宮坂澪」という写真を見た夜。玄関から澪が帰ってきた気配がした。 しばらく迷った末に、智也は自室の扉を開けた。 目に留まったのは、ソファに座り、テーブルの上に広げた研究資料のファイルへ淡々と目を通している澪の姿だった。 「澪、帰ったのか」 「……ただいま」 短い返事のみ。しかも、その視線は資料からほとんど動かない。 智也はネクタイを緩めながら、声をかけようとした。 (――仕事、大変なのか) その言葉が、喉まで出かかる。 『主任研究員だったのか』 そう切り出すことも、頭をよぎった。けれど、結局何も言えなかった。 これまで自分の妻を「事務員程度」と思い込んでいた。 その事実が、今となってはあまりにも恥ずかしい。 軽んじていた。それどころか、興味すら持とうとしなかった。 胸の奥に、じわりと熱を持つものがあった。 澪はそんな智也の様子に、わずかな異変を感じたらしい。資料から目を上げ、静かに訊ねる。 「何かありましたか?」 心配というより、事務的な確認に近い声だった。 智也は首を横に振った。 「いや……何でもない」 「そうですか」 澪はそれだけ答えると、再び資料へ視線を戻した。 冷たく突き放されたわけではない。それなのに智也には、その距離が以前よりずっと遠く感じられた。 澪が好きそうな物をプレゼントしても反応はなく、何を言っても何を聞いても、澪はもう以前のようには心を動かしてくれない。 同じ家にいる。 同じ空間にいる。 それなのに、まるで他人のようだった。 妻の本当の顔を、自分は今まで何も知らなかった。 智也はソファに深く腰を沈め、天井を見上げた。 (俺は、この女のことを……何も知らない) その実感だけが、静かに胸の奥へ沈んでいく。澪の隣にいるはずなのに――。 その夜、智也は初めて、自分のほうが妻から遠く離れているような気がした。 *** 翌日、事務所で仕事をしていると智也のスマートフォンに、琴葉から連絡が入った。 『智也さん大丈夫?昨日のこと、気になっています。もしよければ、少しお話しませんか?』 最初、智也は断ろうとした。 指が返信画面の上で止まる。その直後、もう一通届いた。 『無理にとは言いません。ただ……今の智也さんを一人にしておくのが心配なんです』 その一文を見た瞬間、昨夜のこと
last updateLast Updated : 2026-09-23
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第二十五章 知らなかった妻の実力

 朝帰りをした日は有休を使い、次の日から智也は仕事に戻った。しかし、どうしても集中できない。 ホテルで自分を優しく包み込んでくれた琴葉の言葉と、その体温が時折ふと蘇る。 一時だけ、満たされたような感覚があった。けれど、それは朝になれば消えてしまうはずのものだった。 なのに、それ以上に頭から離れないものがある。資料の中で見た――「主任研究員・宮坂澪」という文字だった。 ショックを受けた智也に対し、澪が告げた言葉。『私が話そうとしたことが、一度でもありましたか?』 静かな問いが、何度も耳の奥で繰り返される。 智也が無理やり意識を書類に戻したとき、部下が入室してきた。「社長、新薬入札についての報告です。研究所側から、宮坂主任について利益相反の確認が入っています」 智也は一瞬、反応できなかった。「……宮坂主任?」 「はい。主任研究員の宮坂澪氏です」 部下は当然のように続ける。「今回の入札案件でも、研究側のキーパーソンとされています。研究所内での評価も高いようです」 智也は資料を握る手に、わずかに力を込めた。「……そうか」 それだけを返すのが精一杯だった。 流暢に語られる部下の言葉を聞いているだけなのに、智也の中で何かが軋む。(実際、俺の妻のことだというのに……) その感覚自体が、今となっては苦かった。 妻だから、なんでも知っていると思い込んでいた。現実では会社の人間のほうが、澪のことを正しく知っている。 自分がどれほど無知だったのか。 その事実が静かに、しかし確実に突きつけられていく。 ***  会議が終わったあと、智也は一人でパソコンに向かった。 会社の内部資料だけでなく、研究所の公開情報や過去の論文、研究実績を一つひとつ辿る。 澪が複数の研究プロジェクトに関わっていたこと。 若手研究員を指導していること。 新薬開発に関する実績があること。 神代から高く評価されていること。 そして、研究所内で責任ある立場を任されていること。 画面に並ぶ事実を追いながら、智也は小さく呟いた。「……こんなに、やっていたのか」 目に映るものは、今まで知らなかった事実ばかりだった。 だが、それらは突然現れたものではない。澪がずっと積み重ねてきたものだ。 ただ、自分が知らなかっただけだった。 同じ家で暮らし、同じ食卓を囲みな
last updateLast Updated : 2026-09-24
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