Tous les chapitres de : Chapitre 21 - Chapitre 24

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第十六章 壊される信頼

 研究所の総務部に一通の匿名メールが届いたのは、朝のことだった。 件名には「内部告発」とある。そこに記されていたのは、宮坂澪に関する複数の告発だった。 ――実験データの改ざんに関与しているのではないか。 ――特定の企業と不適切な関係を持っている。 ――主任という立場を利用し、私的な利益を得ている可能性がある。 いずれも、研究者としての信用を根底から揺るがしかねない内容だった。具体的な証拠は添付されていない。 それでも、新薬開発の入札を間近に控えたこの時期では、単なる悪戯として片づけるわけにはいかなかった。 総務から連絡を受けた神代は、重い表情で澪を呼び出した。「この内容を確認してほしい」 差し出されたタブレットの画面を見て、澪は静かに息を吐いた。驚きよりも先に、疲労感が押し寄せる。 またか――。 そんな言葉が、胸の奥に浮かんだ。「身に覚えはありません」「分かっている」 神代は即座に答えた。「だが、研究所として正式に調査する必要がある。入札を控えている以上、疑惑を残すわけにはいかない」「構いません」 澪は画面から目を離した。「必要なものは、すべて提出します」「助かる」 それからの数日間――澪は通常業務をこなしながら、過去の実験ログ、試薬の管理記録、データの更新履歴、外部とのやり取りに至るまで、求められた資料を一つずつ提出していった。 曖昧な記憶に頼ることはしない。 記録を確認して日時を照合し、数字を一つずつ追っていく。研究者として、当たり前のことを当たり前に積み重ねる。 その姿勢は、普段と何も変わらなかった。 そして、調査の中で重要な意味を持ったのが、先日の培養データ異常に関する記録だった。 急激に数値が変動した際、澪は原因を特定し、使用していた試薬のロットまで遡って確認している。 その判断から対応完了までの過程は、実験ログに時刻とともに残されていた。 データを書き換えたのなら、これほど一貫した記録が残るはずがない。むしろ、そのログは澪が異常をいち早く発見し、プロジェクトへの影響を最小限に抑えたことを示していた。 さらに、他の実験データや試薬管理記録との照合でも、不正を示す痕跡は見つからなかった。 調査開始から数日。神代は研究室に集まった研究員たちの前で、はっきりと告げた。「調査の結果、宮坂主任によるデータ
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第十七章 支える人

 研究所の会議室に、東条悠臣の姿があった。広い部屋は午前の陽光がブラインドの隙間から、細い光の筋を落としている。 神代を含む幹部陣が揃う中、悠臣は静かに資料を広げる。 黒いスーツの生地が陽光を柔らかく受け止め、切れ長の目が資料の文字を冷静に追っている。「東条グループとして、正式に支援を申し出ます」 告げられた言葉に場の空気が、わずかに引き締まった。椅子が軋む小さな音や、誰かが息をのむ気配が広がる。「今回の抗がん剤プロジェクトは、社会的意義が大変大きい。設備の増強と、研究環境の安定化に協力したいと考えています」 具体的な内容は、最新分析装置の導入支援と、共同研究枠の拡充。どちらも研究所全体の研究基盤を強化するものであり、宮坂澪個人に利益を与えるものではない。 提示された金額と規模も、研究所にとって大きな後押しになる提案だった。 神代は資料を確認すると、深く頷いた。眼鏡の位置を直し、指先でページをめくる仕草が慎重だった。「ありがたい申し出だ。前向きに検討させてもらう」「よろしくお願いします」 悠臣は静かに頭を下げた。その動作は控えめでありながら、確かな意志を感じさせるものだった。 会議は、その後いくつかの確認事項を残して終了した。*** 会議室を出たところで、澪は悠臣の姿を見つけた。白衣の袖を整え、澪は足を止める。「東条社長」 呼びかけると、悠臣が振り返る。切れ長の目が穏やかに澪を捉えた。「宮坂主任」 澪は背筋を伸ばしてから、深く頭を下げた。廊下の蛍光灯が彼女の横顔を青白く照らし、白衣の襟元がわずかに揺れる。「本当に、ありがとうございます」「礼を言われる筋合いのものではありません」「それでも……」 澪は一度言葉を切った。そして、慎重に言葉を選ぶ。指先が白衣の裾を軽く握り、視線を逸らさずに続ける。「特別扱いは困ります。私個人への便宜として受け取られるのは、本意ではありません」 やんわりとした拒否する。けれど、その意志は明確だった。 自分だけが特別に扱われることで、周囲から余計な誤解を受けることは避けたい。 何より研究者としての評価を、誰かの後ろ盾によって得たものだと思われたくなかった。 そんな澪の考えを、悠臣はすぐに理解したようだった。「もちろんです」 悠臣は穏やかに答えた。声は低く、しかしはっきりと廊下に響く。
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第十八章 知らなかった妻

 仕事から帰宅して、智也は自宅の書斎でパソコンの画面を睨んでいた。 部屋はほとんど灯りを落とし、デスクランプの光だけが円を描いて机と壁を照らしている。 検索窓に文字を打ち込む――宮坂澪 研究所。 キーボードを叩く音が静かな部屋に小さく響き、画面に次々と検索結果が並ぶ。表示された検索結果を、上から順に確認していく。 所属する研究機関。一般向けに公開されている研究分野の紹介。研究所が発表しているニュース――どれも、表面的な情報ばかりだった。 画面をスクロールする指先が微かに震え、ランプの光がキーボードのキーに影を落としている。「……名前が出てこないな」 智也は眉を寄せた。額に薄い皺が寄り、椅子の背もたれに体を預け直す。 さらに検索条件を変えてみる。けれど、結果は大きく変わらなかった。 妻の名前を検索しているはずなのに、出てくるのは澪が所属している研究所の情報ばかり。(――いったい、どういうことだ?) これまで智也は、澪の仕事に興味を持ったことなどなかった。 研究所で働いている、ただそれだけ――自分の会社のように、経営に関わる仕事をしているわけでもない。ましてや、研究者として何か大きな成果を上げているなどとは考えもしなかった。 だから白衣を着ることもない澪を見て、勝手に事務職のような仕事だと思い込んでいた。 実際は、どんな研究をしているのか。どんな立場にいるのか。どれほどの責任を背負っているのか、聞いたことすらない。 なのに今、東条悠臣が澪の働く研究所へ支援を申し出ている。その事実だけが、智也の中に重く残っていた。「俺は……」 智也は、画面を見つめたまま呟く。声が静かな部屋に溶け、画面の光が彼の瞳に映る。 「澪の何を知っていたんだ」 結婚して三年。同じ家で暮らし、同じ食卓を囲んできた。 それなのに妻が毎日どんな場所で、何をしているのか。自分は何も知らなかった。 いや、知らなかったのではない。知ろうとしなかったのだ。その事実に気づいた瞬間、胸の奥に妙な重さが広がった。 後悔――なのだろうか。けれど、まだそれを認めることはできない。自分が悪かったと素直に認めるほど、智也の中の何かが崩れ始めているわけではなかった。 ただ、これまで当たり前だと思っていた妻への認識が、少しずつ崩れている。そのことが、落ち着かなかった。 椅子が軋む小
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第十九章 始まる攻防

 新薬の入札まで、残り一ヶ月。研究所の空気は、日を追うごとに張り詰めていた。 白い壁に囲まれた実験フロアは、天井の蛍光灯が冷たい青白い光を満遍なく投げ、ガラスのパーティション越しに培養器の数字が規則正しく点滅している。 データ検証、最終調整、報告書の精査。どれもが気の抜けない作業ばかりだった。 キーボードを叩く音が各所から響き、機械の低い駆動音が背景に流れ続けている。澪はその中心で、淡々と業務をこなしている。 事務職を中断して白衣の袖を通し、モニターに映し出された数値を確認する。一つひとつのデータに目を通し、わずかな違和感も見逃さない。 感情を挟む余地など、今の自分にはなかった。指先がマウスを正確に動かし、過去のログと現在の数値を頭の中で照合していく。 同時に、もう一つの準備も着実に進めている。 弁護士とのやり取りと証拠の整理。それと、財産分与に向けた資料作成――帰宅後、智也がいない時間を見計らって、少しずつ形にしていく。 リビングのテーブルランプの黄色い光だけが円を描く静かな夜に、ファイルを開いて紙を一枚ずつ並べる。 誰にも気づかれないように、静かに確実に仕事と離婚準備。その両方を並行して進められる自分が、少しだけ遠く感じられた。 以前の自分なら、夫のことだけで頭がいっぱいになっていたはずなのに、今は違う。 自分の未来を、自分の手で決めようとしている。*** 東条悠臣との連絡は、以前より増えていた。 研究データの確認。次のフェーズに向けた意見交換。研究環境についての情報共有――どれも業務上の範囲を出ない。 メールの画面に表示される文字は簡潔で、余計な装飾がない。それでも悠臣は澪の判断を尊重し、余計な私情を挟まなかった。「必要な支援があれば、遠慮なく言ってください。ただし、あなたの判断を最優先します」 その言葉が、澪にとっては何よりありがたかった。 仕事上の最大の理解者。そう位置づけてしまう自分に、違和感はなかった。恋愛でも、依存でもない。 ただ、研究者として真っ直ぐに向き合ってくれる存在。それだけで十分だった。*** 一方、智也は初めて、はっきりとした焦りを自覚していた。 家に帰っても、澪の笑顔はない。相変わらず会話は最小限。結婚指輪は、もう二度とつけられていない。 どんなに優しく接しても、澪との距離は縮まらなかった
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