All Chapters of 妻の100万円の願いは拒否、初恋相手には5000万円⁉ 離婚後の天才妻は御曹司に溺愛される: Chapter 11 - Chapter 20

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第六章 差し出された手

 ホテルのエントランスから出てきた智也と琴葉の姿が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。 夜の街灯が淡いオレンジ色の光を路面に落とし、黒いアスファルトが湿ったように艶めいている。回転ドアがゆっくりと開く音とともに、二人が姿を現した。 ふらつく琴葉を支える智也の腕。恋人のように密着した距離。優しく傾ける顔。 琴葉の長い髪が、夜風にわずかに揺れて智也のスーツの肩に触れる。 智也の手が彼女の腰に回り、指先が布地の上をそっと押さえる仕草まで、ありありと蘇る。 あの光景を思い出すたび、胸の奥がざわりと音を立てた。(……もう、いい) あれが何を意味するのか、考えることにも疲れた。説明を求める言葉も、問い詰める勇気も、もうどこにも残っていない。 研究所のエントランスを出ると、澪は深く息を吐いた。夜気は冷たく、コンクリートの壁に染み込んだ消毒液の匂いと、遠くの高速道路を走る車のエンジン音が混じっている。 ガラス張りのファサードが、街灯の光を鈍く反射し、建物全体が静かに息を潜めているように見えた。 袖口から覗く腕時計の針が、深夜を指している。 「少し、よろしいですか」 背後から、落ち着いた声がした。振り返ると、先ほど研究所内で見かけた長身の男性が立っていた。 上質なスーツと切れ長の目。静かな余裕をまとった佇まい。黒い生地が夜の闇に溶け込み、シャツの白だけがくっきりと浮かび上がる。 先日、病院で立ちくらみを支えてくれた人と同一人物だった。「……あのときのお礼を、まだきちんとできていませんでした」 澪は軽く頭を下げる。髪が肩に触れ、夜風が頰を撫でていく。 「こちらこそ。無理をされていないかと気になっていました」 男性は穏やかに微笑んだ。口元の柔らかさと、目の奥の澄んだ光が対照的だ。周囲には秘書らしき人物が少し離れて控えている。 黒いコートの裾が風に揺れ、足元の石畳に長い影を落としていた。「実は本日、この研究所の視察で伺いました。東条と申します」 「東条……?」 「東条グループの東条悠臣です」 その名前に、澪はわずかに目を見開いた。 東条グループ――この研究所の大株主であり、業界でも指折りの存在だ。高層ビル群の向こうに、彼らが手がける巨大な本社ビルが夜空に浮かんでいるのを、澪は知っていた。「宮坂澪と申します。先日はありがとうございました」
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第七章 変わり始めた妻

 これまでも、智也が帰宅すれば澪は待っていた。 玄関の扉が開くと同時に、キッチンから温かい料理の匂いがふわりと漂い、リビングの照明が柔らかく灯っていた。 テーブルにはすでに食器が並び、湯気の立つ味噌汁の香りが部屋全体を包み込む。 智也が疲れた顔で靴を脱ぐと、澪はエプロンを外しながら「お疲れさま」と笑い、ソファに座るように優しく促してくれた。 けれど、今夜の澪は違った。    玄関の扉が開く音が、暗い廊下に乾いた響きを残す。 いつものように智也が靴を脱ぎ、リビングに足を踏み入れると、部屋は温かさを失っていた。 天井のメインライトは消され、キッチンの手元灯だけが冷たい白い光を投げている。 テーブルの上には確かに食事が並んでいたが、湯気はすでに消え、皿の縁に薄い影が落ちていた。 帰宅した智也が声をかけても、澪の返事は短くなった。「飯、まだか?」 「もう用意してある」 「今日の帰り、遅くなる」 「分かった」 今までのやり取りが、残像として智也の脳内に流れる。 漂う空気は重く、ソファのクッションに沈み込む音が、妙に大きく聞こえた。 テーブルランプの黄色い光が壁に長い影を落とし、時計の秒針が規則正しく時を刻む音だけが、静まり返った部屋に響いている。 智也はソファに深く座り、ネクタイを緩めながら小さく息を吐いた。 ネクタイを外した指先が、無意識に左手の薬指を撫でた。結婚指輪の冷たい感触が、皮膚にしっかりと残っている。(――まだ、あの一件を引きずってるのか) 琴葉を助けに行ったこと。妊娠していなかったこと。指輪を外していたこと。 確かに澪の様子はおかしい。指輪を外すほど怒っているのは分かっていた。 テーブルの上に置かれたままの小さな銀の輪が、ランプの光を受けて鈍く輝いているのが目に留まる。 あの指輪が、澪の指から離れてここに転がっている事実が、部屋の空気をさらに重くしていた。それでも、本気で離婚を考えているとは思っていなかった。 けれど智也は、そこまで深刻には考えていなかった。 ソファの背もたれに頭を預け、天井を見上げる。「まぁ時間が経てば、元に戻るさ」 独り言のように呟き、テレビのリモコンを手に取る。画面が点灯し、ニュースの映像が部屋に青白い光を投げる。 キャスターの声が低く流れ、画面の中で街の夜景が流れていく。智也はそ
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第八章 秘めた決意

 昼休みの時報と共に研究所のガラス張りの建物を出ると、午後の陽射しが白いコンクリートの路面にまぶしく反射していた。 近くのカフェは小さな路地に面した静かな店で、大きな窓から柔らかい日差しが差し込み、木製のテーブルに薄い影を落としている。 店内はコーヒー豆を挽く香ばしい匂いと、微かに焼きたてのパンの香りが漂い、低い話し声とカップがソーサーに触れる小さな音だけが、穏やかに流れた。 澪は窓際の席に座り、ノートパソコンを開く。いくつかの法律事務所のサイトを比較し、離婚問題を専門に扱う事務所の無料相談フォームを開いた。 名前は伏せたまま、匿名での問い合わせをする。指先が、わずかに震えた。『離婚を考えています。相手に不貞の可能性がある場合、どのような証拠が必要でしょうか。また、財産分与についても教えてください』 送信ボタンを押すと、予想より早く返信が返ってきた。 画面に文字が静かに浮かび上がり、カフェのエアコンの低い音が背景に溶けていく。 ――不貞の証拠は、写真やメッセージ、振込記録など客観的なものが有効です。同時に、婚姻期間中の財産の流れも確認しておく必要があります。 ――離婚を進める場合、共有財産の把握と整理が重要になります。感情的に動く前に、冷静な準備を推奨します。 澪は画面を見つめたまま、静かに息を吐いた。(――証拠と財産整理か) これまで「離婚したい」と心で思っても、具体的な手段までは考えていなかった。 けれど今は違う。もう、曖昧なままではいられない。 カフェの壁にかかった時計の針が、静かに時間を刻んでいる。 その夜。智也が遅く帰宅する前に、澪は寝室のクローゼットを開けた。部屋は薄暗く、カーテンの隙間から街灯の光が細い筋となって床に落ちている。 クローゼットの奥にしまった小さな箱を取り出し、中身を確認する。 箱の木目が指先に冷たく伝わり、蓋を開ける音が静まり返った部屋に小さく響いた。 過去の通帳のコピーと智也の名刺や、昔のメールの印刷。そして、あの振込控え。一つひとつを丁寧に、ファイルへ移していく。 紙の擦れる音を最小限に抑え、感情を殺すように。 ふと手が止まった。箱の一番下に、まだ新しい封筒が入っている。 白い封筒が、ランプの光を受けて鈍く光っていた。*** 同じ日の夜、いきつけの高級ホテルのラウンジで、智也はグラスを
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第九章 認められる実力

 深夜の研究室に、緊張した空気が流れていた。 天井の蛍光灯が青白い光を満遍なく投げ、白い壁と磨かれたタイル床を冷たく照らしている。 ガラス越しの培養室では、無数の培養器が規則正しく並び、青いデジタル表示が静かに明滅を繰り返していた。 消毒液とわずかな薬品の匂いが空気に溶け、機械の低い駆動音だけが規則正しく響いている。「主任! 培養データの数値が急変しています!」 後輩の一人が慌てた声を上げる。 モニターの画面が突然、赤く点滅し始め、警告音が短い電子音を繰り返した。 周囲の研究員たちが椅子から身を乗り出し、ざわめきがフロアに広がる。白い白衣の裾が慌ただしく揺れ、キーボードを叩く音が乱れたリズムを刻み始める。 モニターには、本来安定しているはずの数値が赤く点滅していた。 グラフの線が急激に上昇し、警告の赤い帯が画面全体を覆い尽くそうとしていた。「原因は?」「分かりません。試薬も機器も問題ないはずなのに……」 周囲の研究員たちがざわつく。 誰かが培養器の蓋を開け、別の誰かがログをスクロールする音が重なる。 このデータが崩れれば、来月の入札そのものに影響する。その大事な時期に、トラブルは致命的だった。 フロア全体の空気が、一気に重く沈んでいく。 澪は静かに、モニターへ歩み寄った。そして白衣の袖を軽く整え、感情を排し、画面に表示された数値とログを素早く追い始める。 指先がマウスを正確に動かし、過去のデータと現在の数値を頭の中で照合していく。 周囲のざわめきが、彼女の集中を邪魔することはなかった。「……このロットです」「え?」「前回と組成が微妙に違います。マニュアル通りに調整すると、今回の条件では数値がずれるはずです。先週補充した試薬の一覧を出してください」 後輩が慌ててデータを呼び出す。 キーボードを叩く音が慌ただしく響き、画面に試薬のリストが次々と表示される。 澪はそれを一瞥し、すぐに口を開いた。「これです。このロットはマニュアル通りに調整すると、逆に数値が狂います」「そんな……」「すぐに、調整値を変更してください。この数値で再設定すれば戻ります」 指示を受けた研究員たちが素早く動く。白衣の人影が培養室へと流れ込み、機器の設定パネルが次々と操作される。 数字を入力する指先、確認の声、機械が再起動する低い音が重なり合
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第十章 夫の知らない顔

 午前中の研究所は、いつもより張り詰めた空気に包まれていた。 白い壁に囲まれた実験フロアは、天井の蛍光灯が冷たい光を満遍なく投げ、ガラスのパーティション越しに培養器の青い数字が規則正しく点滅している。 消毒液とわずかな薬品の匂いが空気に溶け、研究員たちの白衣が行き交うたびに、乾いた足音がタイル床に響いた。 東条グループからの正式な研究の打ち合わせ。相手は社長自らだという情報に、周囲の研究員たちも緊張を隠せない。 誰もが声をひそめ、キーボードを叩く音さえが普段より慎重に聞こえた。「宮坂主任、東条社長がお見えです」 案内を受け、澪は会議室へ向かった。 長い廊下を進むと、両側の壁に並ぶポスターやデータグラフが、午前の光を受けて淡く輝いている。 会議室のドアを開けたら、東条悠臣がすでに席についていた。部屋全体が静かで、空調の低い音だけが背景に溶け込む。 上質なスーツを完璧に着こなし、静かな余裕を漂わせている。病院で初めて会ったときと同じ、落ち着いた眼差しだった。 黒い生地が陽光を柔らかく受け止め、切れ長の目が澪をまっすぐ捉える。 テーブルの上には整然と並べられた資料と、開かれたノートだけが置かれていた。「改めて、よろしくお願いします」「こちらこそ。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」 挨拶を交わしたあと、すぐに本題へ入る。 紙の擦れる音が小さく響き、二人の声が会議室の静けさに溶けていく。 培養データの解釈。次相試験に向けたリスク評価。競合他社の動向を踏まえた開発戦略。専門用語を交えながらも、会話は滞りなく進んだ。 澪が指摘をすれば、悠臣は即座に意図を汲み取る。悠臣が疑問を投げかければ、澪は根拠を明確に示して返す。 モニターに映し出されたグラフが二人の視線を交互に捉え、指先が資料の端を軽く押さえる仕草が交錯する。 空気は緊張しながらも、どこか澄んでいた。「……なるほど」 打ち合わせが一段落したとき、悠臣は静かに資料を閉じた。表紙が閉まる小さな音が、部屋に残る。「宮坂主任の視点は鋭い。現場を熟知している人間でなければ出せない意見です」「東条さんの質問も的確でした。経営と研究、双方のバランスを考えた視点だと感じます」 お互いを高く評価する言葉が、自然と交わされる。そこには上下関係も、必要以上の遠慮もなかった。 ただ、専
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第十一章 妻に求めるもの

 東条グループ本社・社長室――高層階の広い空間は、床から天井まで続く大きな窓に囲まれ、夜の都市を一望できる。 東条悠臣は窓の外を見ながら、静かに口を開いた。「宮坂主任は、必ず守るべき人材だ」 後ろで待機していた秘書が、メモを取る手を止める。「研究能力だけでなく、判断力と現場をまとめる力がある。ああいう人材は、簡単に手放すべきではない」「承知しました。今後の対応方針について、整理しておきましょうか」「ああ。過度に引き抜きを匂わせる必要はない。ただ正当に評価し、彼女が実力を発揮できる環境を整えること。余計な圧力はかけない。それだけでいい」 悠臣の声は落ち着いていた。感情を煽るでもなく、利益だけを優先するでもない。ただ、実力を正しく見極めた者の言葉だった。*** 一方、智也の会社では、活気が溢れていた。大口の契約が決まり、社内は祝賀ムードに包まれている。 広いオフィスフロアにはシャンパンの栓を抜く音が響き、グラスが触れ合う軽やかな音が重なる。 部下たちが笑顔で集まり、テーブルの上には花束や祝いの菓子が並び、達成感の匂いが空気に満ちていた。 智也自身も、達成感を隠さなかった。黒いスーツの襟元を緩め、グラスを高く掲げて部下たちに声をかける。「やはり営業力がすべてだ」 部下たちにそう言い切り、グラスを傾ける。 琥珀色の液体が喉を通り、部屋中に笑い声が広がる。しかし、家に戻った瞬間、その満足感は薄れていった。 マンションの玄関を開けると、いつもの温かい光はなく、リビングの照明は必要最低限のものだけが点いている。 カーテンは半開きのままで、窓の外の街灯が細い光の筋を床に落としていた。 空気はひんやりと冷え、時計の秒針が規則正しく時を刻む音だけが響いている。 リビングにいる澪は、以前のように笑顔で迎えてくれない。必要最低限の会話を交わし、食事を済ませれば、すぐに自分の部屋へ戻ってしまう。 テーブルの上には湯気の消えた食器が並び、キッチンの手元灯が白い光を投げているだけだった。「今日も遅かったな」「ええ」「少しは機嫌を直せばいいのに」 澪は黙って食器を下げた。反論も、言い訳もしない。その静けさが、かえって智也の神経を逆撫でした。 皿が触れる小さな音が、冷えたリビングに不自然に大きく響く。(――昔はもっと、俺に甘えていたのに) 智也
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第十二章 心を揺らす言葉

 美佐子は澪の家を出ると、車に乗り込むなりスマートフォンを取り出した。呼び出し音が数回鳴ったあと、相手が出る。「もしもし琴葉さん?」『はい、美佐子様』「いい知らせよ」 美佐子の声は弾んでいて、どこか満足げだった。「あの女はもう、智也の隣にいる資格がない。あなたしか、智也にはいないわ」 電話の向こうで、小さく息を呑む音がした。『……本当ですか』「ええ。あの女を追い出せば、あなたが御子柴家の嫁になるのよ」 琴葉は、受話器を握る手に力を込めた。頰に抑えきれない笑みが浮かぶ。「ありがとうございます。必ず、ご期待に応えます」 通話が切れたあと、琴葉は窓の外を見つめた。(やっと……) 自分が御子柴家に認められたも同然だという実感が、胸の奥で熱く広がる。同時に、邪魔な存在をどう排除するか。その計算が頭の中で、静かに回り始めていた。*** 翌日――研究所の近くの通りを歩いていた澪は、背後から名前を呼ばれて足を止めた。「宮坂先輩」 振り返ると、白石琴葉が立っていた。上品なワンピースの裾を風になびかせて、余裕のある笑みを浮かべる。まるで、偶然を装っているようだった。「……白石さん?」「こんなところでお会いするなんて、本当に奇遇ですね」 言いながら一歩近づき、声を少し潜めた。琴葉は、以前から澪の勤務先を調べていた。「智也さん、本当は誰を大切にしているか……宮坂先輩は知っています?」 その言葉は柔らかく、しかし確実に刃を含んでいた。 それでも澪は、表情を変えなかった。驚きも動揺も、表にはけして出さない。「知りませんね」 短く答え、軽く会釈をしてその場を離れる。背後で琴葉が小さく笑う気配がしたが、振り返らなかった。(――知っている。もう、知っている) 歩きながら、澪は自分に言い聞かせる。 今さら言われて、驚くことなど何もない。なのに、胸の奥に残った小さな痛みが、容易に消えなかった。*** その夜。研究所の執務室でデータを確認していた澪のスマートフォンが鳴った。表示された名前を見て、少しだけ眉を寄せる。「東条さん?」『夜分に失礼します。宮坂主任』 スマホ越しに聞こえたのは、落ち着いた声だった。『先日の打ち合わせ以降、社内でもあなたの評価は非常に高い。東条グループとして、今後も研究面で深く関わりたいと考えています』「……
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第十三章 芽生え始めた感情

 東条グループの研究部門にある応接室。 向かい合って座る悠臣を前に、澪は先日の電話について改めて耳を傾けていた。「宮坂主任、私からの申し出について、誤解のないようにお伝えしておきます」 悠臣の口調は穏やかだった。「私は、宮坂主任を一人の研究者として高く評価しています。それだけです」「……研究者として、ですか?」「はい」 それは、迷いのない返事だった。「優秀な研究者が、自分の能力を十分に発揮できる環境を整える。それを積極的におこなうのは、経営を預かる者の責務だと私は考えています」 悠臣は膝の上に置いていた両手を組んで、淡々と続ける。「宮坂主任ほどの能力を持つ研究者が、正当に評価されない環境にいるのなら、それを見過ごす理由はありません」 澪は何も言えなかった。自分の仕事をここまで正面から評価してくれる人が、これまでいただろうか。 智也は、澪が何を研究しているのかさえ知らない。研究所でどんな仕事をしているのかと聞かれたことも、ほとんどなかった。 智也にとっての澪は、ただ家にいて自分を支える妻――せいぜい会社勤めをしている、どこにでもいる事務員程度の認識だった。 義母からは、仕事よりも家庭を優先しろと言われる。 琴葉からは、智也が本当に大切にしているのは自分だと告げられた。 そんな中で、悠臣だけは違った。澪の肩書きや夫の存在でもなく、ただ目の前にいる一人の研究者として、自分を見てくれている。「……ありがとうございます」 ようやく出た言葉は、それだけだった。「礼を言われることではありません」 悠臣は、小さく首を横に振った。「宮坂主任が積み重ねてきたものを、私は正当に評価しているだけです」 その言葉が凍っていた胸の奥に、ほんの少しだけ温度を戻してくれた。 誰かに認めてもらいたかったわけではない。自分の仕事に誇りを持っていたし、研究そのものが好きだった。 それでも今の澪にとって、自分の努力を正しく見てくれる人がいることは、大きな支えになっていた。「もし今後、環境を変える必要が生じたときには、遠慮なく相談してください」「……はい」 澪は静かに頷いた。 まだ、何かを決めるつもりはない。けれど、自分にはここ以外にも道がある。 そう思えただけで、少しだけ呼吸が楽になった。 ***  同じ頃、御子柴の会社では、数人の社員が資料
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第十四章 積み重なる真実

 弁護士事務所の個室は、静かで落ち着いた空気に包まれていた。 厚いカーペットが足音を吸い込み、壁際の間接照明が淡い琥珀色の光を落としている。 テーブルの上には、澪が少しずつ集めてきた資料が並んでいる。 通帳のコピーと振込記録。過去のメッセージの写し。そして――三年前の日付が印字された、一枚の銀行振込受付票。 白い紙が照明を受けて鈍く光り、角がわずかに折れた跡が、長い時間を経てきたことを物語っていた。 担当弁護士は眼鏡の奥でそれを見つめ、銀行振込受付表を取り上げる。指先で丁寧に縁を押さえ、文字をゆっくりと追いながら、静かに口を開く。「この五千万円の送金についてです」 送り主は御子柴智也。受取人は白石琴葉――金額は五千万円。 紙の上に印字された数字が、部屋の静けさの中で異様なほど大きく感じられた。「離婚調停や財産分与の場では、この送金理由も重要になります。贈与なのか、貸付なのか。それとも、別の関係性を示すものなのか」「……はい」 澪は静かに頷いた。椅子の背もたれに軽く体を預け、両手を膝の上で重ねる。「本人に確認します」 弁護士は資料を閉じると、澪をまっすぐ見た。眼鏡の奥の視線は冷静なのに、不思議と優しさを含んでいた。「感情的に詰め寄る必要はありません。ただ、事実を確認するだけで十分です」「分かりました」 澪は短く答えた。 もう、感情に任せて何かをぶつけるつもりはない。知りたいのは、事実だけだった。 部屋の空気がわずかに動き、ブラインドが夜の光を細く切り取っている。*** 弁護士事務所を出ると、夜の冷たい風が頬を撫でた。 高層ビルの谷間を吹き抜ける風は、昼間の熱をすっかり奪い、アスファルトの表面を冷たく湿らせている。 澪は不意に足を止め、小さく息を吐く。吐いた息が白い煙となって、夜気の中にすぐに溶けていった。 これまでなら、知ることが怖かった。事実を知れば傷つく。知れば、今まで信じてきたものが壊れてしまう。そう思っていた。 けれど――もう違う。どれだけ残酷な真実でも、知らなければ前には進めない。「大丈夫。私はもう逃げない……」 小さく呟き、澪は歩き出した。ヒールの音が冷たい石畳に規則正しく響き、街灯の光が彼女の横顔を優しく照らす。 知るべきことは、すべて知るその先にある未来を自分で選ぶために。*** その夜。智也
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第十五章 すれ違う想い

 智也の態度が、明らかに変わっていた。 以前ならほとんど顔を合わせることのなかった朝食の席で、智也は澪の様子を伺うように視線を向け、口を開く。「今日は早く帰れる。何か食べたいものがあるか?」「疲れてないか? 無理するなよ」 顔を合わせるたびに、決して口にしなかったような言葉を澪にかける。 それだけじゃなく、食事の時間を合わせようとする。帰宅時間を早める。澪が疲れているように見えれば、積極的に声をかける。 どれも、少し前の智也なら考えもしなかったことだった。 妻を気に掛ける智也に対し、澪の反応は驚くほど薄かった。「大丈夫」「もう食べたから」「ありがとう」 短い言葉を返しては、それ以上の会話を続けようとはしない。 当然、笑顔もない。智也を気遣う様子もない。必要なことだけを告げると、自分の部屋へさっさと戻っていく。 ドアが閉まる音がリビングに乾いて響き、彼女の足音が廊下に消えていく。 その背中を、智也は何度も目で追った。 ソファに深く座り、閉じられたドアを見つめる。「……澪」 呼び止めようとして、やめる。 何を言えばいいのか、自分でも分からなかった。ただ、以前とは何かが違う。それだけは、はっきりと分かる。 部屋の空気が重く沈み、時計の秒針が異常なほど大きく聞こえる。ソファに座ったまま、智也は閉じられたドアを見つめた。(まだ怒っているのか……) 五千万円の送金について問いただされた夜から、澪との間にある距離が、明らかに感じられるようになった。 あのとき見た、澪の静かな目。責めるわけでもなく、泣くわけでもなく。ただ、自分を見つめていた。 あの視線が、なぜか頭から離れない。 テーブルの上には何も残っておらず、ランプの黄色い光だけが円を描いて何もない空間を照らし続けている。智也は小さく息を吐いた。 吐いた息が、ひんやりとした空気に溶けていく。(――きっと俺が変わればいい) そうすれば、いつか澪も元に戻る。以前のように笑って自分を頼って、妻として自分の隣にいてくれる。 そう信じていた。 その考えが、どれほど自分勝手なものなのか。智也は、まだ気づいていなかった。*** 一方――琴葉は、智也からの連絡が減っていることに気づいていた。 以前なら、夜遅くでも近況を聞いてくるメッセージが届いた。会う約束も、智也のほうから持ちか
last updateLast Updated : 2026-09-14
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