「昨日の奥様は、ご機嫌でしたね」 朝食の花を替えていた使用人に言われ、私は手を止めた。「昨日の私?」「はい。先月、正臣様が買ってくださったばかりの、あのGUCCIの青いワンピースを。旦那様とお出かけになるときに」 私は昨日、一歩も屋敷を出ていない。 桐谷 灯里、三十一歳。この家で「奥様」と呼ばれるのは、私一人のはずだった。「人違いじゃない?」「ですが、お顔も……。申し訳ありません」 気味が悪い。 そう感じたけれど、思い当たることがあった。 先月、友人に「銀座でそっくりな人を見た」と言われた。 先週は、青いワンピースと白いコートがクローゼットから消えた。 三日前には、夫の久条正臣から贈られた香水が、鏡台から瓶ごとなくなった。 住み込みのハウスキーパー、相良莉乃は、知らないと言った。 けれど、にんまりと笑う莉乃の顔が浮かんだ。* * * 食堂へ入ろうとして、足を止めた。 八歳の息子、奏汰の甘えるような笑い声が聞こえる。 このごろ、私にはあんなふうに笑わない。 扉の隙間から見ると、奏汰は莉乃の腰に抱きついていた。「奏汰。やめなさい」 私が呼んでも、奏汰は腕を離さない。 莉乃が振り向いた瞬間、薔薇を包む温かな木の香りが届いた。「……その香水」 ヴァレーヌの限定香水〈サンタル・ロザ〉。 結婚した年、正臣が私に選んだ香りだ。「薔薇なんて、君の前ではただの花だ。美しくて、賢明で、何ひとつ間違えない。君は僕の女神だ」 正臣は香水をつけた私の手首へ唇を押し当てた。「君を信じていれば、僕も間違えない」 私はそれを、愛だと思っていた。 その香りが、今は莉乃の首筋から立っている。 胃の奥が縮んだ。私のために選ばれた香りを、この女の体温で嗅がされている。「その香水、私の部屋から盗んだの?」「お借りしただけです。正臣様が、少しくらい構わないと」「瓶ごと持ち出して?」 莉乃は首筋へ指を触れ、香りを誇るように顔を傾けた。「正臣様は、私にもよく似合うと」「『少しくらい』って、あなたが決めることじゃない。それは私のものよ」「正臣様がお許しくださったので」「今すぐ洗い流して」 声が低くなった。「このママ、怖い。昨日のママがいい」 奏汰が莉乃へしがみついた。「昨日のママ?」「パパが、莉乃さん
Terakhir Diperbarui : 2026-08-11 Baca selengkapnya