夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に本物と見抜かれ溺愛される

夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に本物と見抜かれ溺愛される

last updateLast Updated : 2026-09-14
By:  悠・A・ロッサUpdated just now
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夫はメイドに私の服を着せ、私の名前を呼んで抱いた。息子も家も研究も奪われ、追い出された元医療研究者・灯里。けれど冷徹社長・鷺宮燎だけは、一目で偽物を見抜いた。 「君を守る。その代わり、君のすべてを俺に寄越せ」 支配する男は、もう愛さない。そう決めたはずなのに。燎は灯里を誰にも渡さず、逃げようとするたび激しく抱き、彼女のためだけに自らの権力も冷徹な掟も壊していく。

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Chapter 1

第1話 誰がお前の主人か、答えろ

「昨日の奥様は、ご機嫌でしたね」

 朝食の花を替えていた使用人に言われ、私は手を止めた。

「昨日の私?」

「はい。先月、正臣様が買ってくださったばかりの、あのGUCCIの青いワンピースを。旦那様とお出かけになるときに」

 私は昨日、一歩も屋敷を出ていない。

 桐谷きりたに 灯里あかり、三十一歳。この家で「奥様」と呼ばれるのは、私一人のはずだった。

「人違いじゃない?」

「ですが、お顔も……。申し訳ありません」

 気味が悪い。

 そう感じたけれど、思い当たることがあった。

 先月、友人に「銀座でそっくりな人を見た」と言われた。

 先週は、青いワンピースと白いコートがクローゼットから消えた。

 三日前には、夫の久条正臣から贈られた香水が、鏡台から瓶ごとなくなった。

 住み込みのハウスキーパー、相良莉乃は、知らないと言った。

 けれど、にんまりと笑う莉乃の顔が浮かんだ。

* * *

 食堂へ入ろうとして、足を止めた。

 八歳の息子、奏汰の甘えるような笑い声が聞こえる。

 このごろ、私にはあんなふうに笑わない。

 扉の隙間から見ると、奏汰は莉乃の腰に抱きついていた。

「奏汰。やめなさい」

 私が呼んでも、奏汰は腕を離さない。

 莉乃が振り向いた瞬間、薔薇を包む温かな木の香りが届いた。

「……その香水」

 ヴァレーヌの限定香水〈サンタル・ロザ〉。

 結婚した年、正臣が私に選んだ香りだ。

「薔薇なんて、君の前ではただの花だ。美しくて、賢明で、何ひとつ間違えない。君は僕の女神だ」

 正臣は香水をつけた私の手首へ唇を押し当てた。

「君を信じていれば、僕も間違えない」

 私はそれを、愛だと思っていた。

 その香りが、今は莉乃の首筋から立っている。

 胃の奥が縮んだ。私のために選ばれた香りを、この女の体温で嗅がされている。

「その香水、私の部屋から盗んだの?」

「お借りしただけです。正臣様が、少しくらい構わないと」

「瓶ごと持ち出して?」

 莉乃は首筋へ指を触れ、香りを誇るように顔を傾けた。

「正臣様は、私にもよく似合うと」

「『少しくらい』って、あなたが決めることじゃない。それは私のものよ」

「正臣様がお許しくださったので」

「今すぐ洗い流して」

 声が低くなった。

「このママ、怖い。昨日のママがいい」

 奏汰が莉乃へしがみついた。

「昨日のママ?」

「パパが、莉乃さんは『もう一人のママ』だって。昨日は三人で出かけた」

「昨日は塾だったでしょう」

「パパが、たまには息抜きだって」

 昨日、奏汰は塾のあと疲れて眠ったと聞かされた。

 私は額に触れ、枕元の水を替えただけだった。

「莉乃さんのほうが、優しい。ゲーム、もう少ししてもいいって言うし、チョコも食べていいって言う」

 奏汰は私を見ずに言った。

 息を吸おうとしても、うまく入ってこなかった。

 奏汰は、私と同じ体質を持っている。甘いものも、寝る前のゲームも、積み重なると検査の数値に出る。

 全部、奏汰のためだった。けれど八歳の子にとっては、私が取り上げる母で、莉乃がくれる母なのだ。

 責める相手は、この子ではない。

 私は奥歯を噛み、言葉を飲み込んだ。

 朝食のあと、正臣へ「今夜、話があります」と送った。

 既読はついたが、返事はなかった。

 正臣に、何から聞けばいい?

 青いワンピースのこと? 香水のこと? それとも、奏汰にもう一人のママだと教えたこと?

 正臣には、何か説明があるのかもしれない。

 莉乃が勝手にやっただけかもしれない。

 奏汰を甘やかしただけかもしれない。

 正臣には、何か説明があるのかもしれない。

 そう思わなければ、椅子に座っていられなかった。

 夜十一時を過ぎて、正臣の車が屋敷へ入った。

 私は書斎へ向かった。朝のことを確かめるつもりだった。

 けれど書斎は暗い。

 寝室へ続く廊下から、女の声が聞こえた。

「あっ……正臣さま……だめ、そんな……」

 莉乃の声だった。途切れるたび、ベッドがきしむ音がした。

 寝室の扉は半分開いていた。

 床には、昨日の「奥様」が着ていた青いワンピースが脱ぎ捨てられている。

 ベッドの上では、裸の二人が抱き合っていた。

 正臣の背中に莉乃の脚が巻きつき、汗に濡れた肌が私のシーツの上で擦れている。

 正臣が裸の腰を引き寄せると、莉乃がのけぞった。

「あ、あっ……!」

 膝から力が抜けた。壁に手をつく。壁の冷たさもわからなかった。

 ここは私たちの寝室だ。私のシーツ。私の夫。

 なのに、どうして莉乃が裸で正臣に脚を絡めているのか、頭が追いつかなかった。

 朝に嗅いだ香水が、寝室いっぱいに満ちている。

「灯里。こっちを見ろ」

 耳の奥で音が止まった。

 今、誰の名前を呼んだの。

「んっ……正臣さま……」

 莉乃が甘く喘ぎ、正臣の胸へ頬を寄せた。

「灯里」

 正臣はもう一度、裸の莉乃を私の名前で呼んだ。

 その目が、莉乃の視線を辿って、扉の前の私を見た。

 正臣は莉乃の腰を抱いたまま、少しも慌てなかった。

 見せつけるように、莉乃の顎をつかむ。

「灯里。こっちを見ろ」

 正臣が呼んでいるのは私の名前。

 なのに、呼ばれているのは、莉乃だった。

「誰がお前の主人か、答えろ」

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第1話 誰がお前の主人か、答えろ
「昨日の奥様は、ご機嫌でしたね」 朝食の花を替えていた使用人に言われ、私は手を止めた。「昨日の私?」「はい。先月、正臣様が買ってくださったばかりの、あのGUCCIの青いワンピースを。旦那様とお出かけになるときに」 私は昨日、一歩も屋敷を出ていない。 桐谷 灯里、三十一歳。この家で「奥様」と呼ばれるのは、私一人のはずだった。「人違いじゃない?」「ですが、お顔も……。申し訳ありません」 気味が悪い。 そう感じたけれど、思い当たることがあった。 先月、友人に「銀座でそっくりな人を見た」と言われた。 先週は、青いワンピースと白いコートがクローゼットから消えた。 三日前には、夫の久条正臣から贈られた香水が、鏡台から瓶ごとなくなった。 住み込みのハウスキーパー、相良莉乃は、知らないと言った。 けれど、にんまりと笑う莉乃の顔が浮かんだ。* * * 食堂へ入ろうとして、足を止めた。 八歳の息子、奏汰の甘えるような笑い声が聞こえる。 このごろ、私にはあんなふうに笑わない。 扉の隙間から見ると、奏汰は莉乃の腰に抱きついていた。「奏汰。やめなさい」 私が呼んでも、奏汰は腕を離さない。 莉乃が振り向いた瞬間、薔薇を包む温かな木の香りが届いた。「……その香水」 ヴァレーヌの限定香水〈サンタル・ロザ〉。 結婚した年、正臣が私に選んだ香りだ。「薔薇なんて、君の前ではただの花だ。美しくて、賢明で、何ひとつ間違えない。君は僕の女神だ」 正臣は香水をつけた私の手首へ唇を押し当てた。「君を信じていれば、僕も間違えない」 私はそれを、愛だと思っていた。 その香りが、今は莉乃の首筋から立っている。 胃の奥が縮んだ。私のために選ばれた香りを、この女の体温で嗅がされている。「その香水、私の部屋から盗んだの?」「お借りしただけです。正臣様が、少しくらい構わないと」「瓶ごと持ち出して?」 莉乃は首筋へ指を触れ、香りを誇るように顔を傾けた。「正臣様は、私にもよく似合うと」「『少しくらい』って、あなたが決めることじゃない。それは私のものよ」「正臣様がお許しくださったので」「今すぐ洗い流して」 声が低くなった。「このママ、怖い。昨日のママがいい」 奏汰が莉乃へしがみついた。「昨日のママ?」「パパが、莉乃さん
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第2話 僕が愛する灯里は、彼女のほうだ
「誰がお前の主人か、答えろ」 正臣の声が、寝室に落ちた。 莉乃はシーツの上で頬を赤くし、正臣の胸に指を置いた。「正臣さまです」「そうだ、灯里。いい子だ」 正臣が満足そうに莉乃の髪を撫でた。 莉乃はその手に頬を寄せ、正臣の首に両腕を回した。正臣が彼女の腰を引き寄せる。シーツがずれ、二人の唇が重なった。「正臣さま、もっと……もっとください」 莉乃が息の混じる声でねだった。 その瞬間、足が動いた。 考えたわけじゃない。 怒るべきだとか、確かめるべきだとか、そう思う前に身体が動いていた。 私は寝室へ踏み込んだ。「やめなさい!!」 声が震えた。 でも止まらなかった。「その名前で、その女を呼ばないで」 莉乃がびくりと肩を揺らした。胸まで引き上げていたシーツがずれ、裸の肩が見えた。 見たくなかった。 なのに目が離せなかった。 私の寝室。 私のベッド。 私の香水。 私のシーツ。 私の名前まで。 全部、莉乃が奪っていた。 莉乃は私より頬が丸く、目元も甘い。 けれど髪を低くまとめ、眉を細く整え、薄いローズの口紅を引くと、不気味なほど私に似ていた。 背筋を伸ばし、顎を少し引く癖まで真似ている。 私の顔まで、この女の上で作られていた。 私はベッドへ近づき、莉乃の腕をつかもうとした。「どきなさい」「奥様……」「ここは私の場所よ」 指先が莉乃の袖に触れる前に、正臣が私の手首をつかんだ。 強い力で、手首の骨がきしんだ。「痛っ……」「灯里」「離して」「騒ぐな」 正臣は見たこともないような顔をしていた。 支配欲に満ちた傲慢な顔。 いつものような、私を崇拝する顔じゃない。 これが、この人の素顔なのだろうと直感した。 正臣が手を振った。 私はよろけ、鏡台に肩をぶつけた。 ガシャン。 香水の瓶が一本、倒れた。 私が三日前から探していた瓶だった。 琥珀色の細い瓶。 サンタル・ロザ。 結婚した年、正臣が私に選んだ香り。 盗んだの。 私の部屋から。 そして身にまとったの。 莉乃の首筋から、その香りが濃く立っていた。「あなたたち、おかしいわ」 怒りで声が震えた。 喉がひきつれて、息がうまく吸えなかった。 視界の端が赤くにじむ。「こんなの……普通じゃない」 言いたいことが多すぎて、言葉がつかえ
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第3話 水に沈む証拠
「僕が愛する灯里は、彼女のほうだ」 正臣の言葉が、まだ耳に残っていた。 莉乃はシーツを胸まで引き上げ、私を見た。「奥様、怒らないでください。私、奥様に近づきたくて頑張っているんです」「人の服を盗んで、人の香水をつけて、人の名前を呼ばれて喘ぐことが?」 莉乃の顔が赤くなった。恥じたのではなく、怒っていた。「盗むなんて人聞きが悪い。正臣様が、私だからいいとおっしゃったんです」「私のものよ」「奥様はお持ちのものを大事にしないから」 本気で怒る私を、みっともないものでも見るような声だった。「服も、香水も、部屋も、名前も。奥様が持っているより、私がもらったほうが、みんな幸せになれるでしょう?」「奏汰まで奪うつもり?」 正臣が私の前に立った。「奪うんじゃない。奏汰には、彼女のほうがいい母親だ」「あなたは一度でも病院についてきた?」 声が低くなった。「薬の量を覚えてる? 検査前に何を控えるか知ってる? 夜に痛がった時、どこを温めるか知ってる?」 正臣は答えなかった。「私なら、奏汰様を普通の子みたいにしてあげられます」 莉乃が、胸元のシーツを直しながら言った。「何も知らないなら黙りなさい」「奥様は怖いです。奏汰様も、私のほうが好きだって」 怒るだけでは、この二人に私が悪いことにされる。どうすれば、この異常さをわかってもらえる? その時、ポケットの中のスマートフォンに気づいた。 そうだ。カメラを使えばいい。 この二人はおかしい。ちゃんと見れば、誰かにわかってもらえるはずだ。 震える指で、カメラアプリを立ち上げ、録画のボタンを押そうとした。 親指が画面に触れた。「何をしている! 撮ったのか!」 正臣の声が飛んだ。 押せたのか、わからない。 でも私はスマートフォンを背中へ隠した。「何も」「見せろ」「嫌よ」 正臣が近づいてきた。 私は一歩下がったが、鏡台に腰がぶつかった。「灯里」「来ないで」「渡せ」 正臣の手が伸びた。 私はスマートフォンを胸に抱え込み、両腕で押さえた。「触らないで」「渡せ。灯里の裸を、外の人間に見せる気か」「その女は灯里じゃない」 正臣が私の手首をつかみ、胸元から引き剥がした。「二度と言うな!」 鏡台に背中がぶつかった。顔のすぐ前で、正臣が歯を食いしばっていた。乱れた前髪の下か
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第4話 奥様の席
 私は寝室を出て、衣装部屋へ向かった。 小さなバッグに着替えと財布、薬を詰めた。震える手でファスナーを閉じる。 奏汰の服も要る。薬と、保険証も。 あの子を連れて、ここを出る。 バッグを抱え、奏汰の部屋へ向かった。 ドアノブを回したが、開かなかった。「奏汰。ママよ」 ドアを叩いても、返事はない。「そこにはいない」「ひっ」 すぐ後ろに、正臣が立っていた。 視線が私のバッグへ落ちた。「奏汰は?」「母さんに預けた」「……いつ」「君が荷物を詰めている間に」 バッグの持ち手を握り締めた。 私が服を選んでいる間に。奏汰と出ていくつもりで、薬を確かめている間に。「迎えに行く」 横を通ろうとすると、腕をつかまれた。 さっき指を一本ずつ剥がされた痛みに、息が詰まった。「会わせるなと言ってある」「私は母親よ。あなたが勝手に——」 正臣の手が上がった。 思わず頬をかばった。 何も当たらなかった。 目を開けると、正臣は私の顔を見ていた。 その口元が、わずかに緩んだ。「おとなしくしていろ」 低い声だった。「また痛い思いをしたいのか」 私は首を振りかけ、止めた。「奏汰を返して」 正臣は私の腕を離した。「バッグを戻してこい」 それだけ言って、廊下を戻っていった。*** 夕方、親族の食事会が始まった。 食堂へ入ると、奏汰がいた。 駆け寄ろうとして、その隣の女が目に入った。 私が奥様として座るべき席に、莉乃が座っていた。 八年間、私が座ってきた正臣の隣の席。 食器の位置も、ナプキンの折り方も、私が決めたままだ。 私は莉乃の椅子へ向かった。「そこをどきなさい」 莉乃は膝の上のナプキンを撫でたが、立たなかった。「正臣様が、今日はここへ座るようにと」「そこは私の席よ」「灯里、遅い」 正臣は当然のように私を見た。 奏汰は莉乃の隣に立っていた。私と目が合うと、すぐ莉乃の袖を握った。「奏汰、こっちへ」「莉乃さんの隣がいい」 親族の誰かが小さく笑った。「まあ、すっかり懐いて。莉乃さんのほうが久条家の奥様らしいわ」 胸の前を押されたように、息が止まった。 知らないだけだと思っていた。昨夜のことも、奏汰へもう一人のママだと教えたことも、正臣が説明すれば、この人たちだって異常だとわかるはずだった。 私は正臣
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第5話 危険なお母様には、しばらく会わせられません
 頬の傷は、朝になっても熱を持っていた。 昨夜は、父が昔の会社の近くに残した小さな部屋で夜を明かした。 研究室に泊まり込むための部屋だった。結婚するとき、正臣は「もう、ここへ泊まりに戻る必要はない。これからはあの屋敷が君の家だ。何も心配しなくていい。僕が一生、大切にする」と笑った。 あの頃は、もうここへ戻る日は来ないと思っていた。 けれど、父と机を並べて夜を明かした部屋だ。鍵を手放すことだけは、できなかった。 バッグの底に残したまま、八年が過ぎた。 一生大切にすると言った正臣に追い出されて、私はその鍵でドアを開けた。 鍵がなければ、門の前で朝を待っていた。 鏡を見ると、細い赤い線が斜めに残っていた。指で触れると、まだ痛い。 それでも私は、先に奏汰の学校へ向かった。 今日は初等部の発表会だった。 奏汰は舞台で、恐竜の研究発表をする。スライドの順番を一緒に確認したのは、私だ。緊張すると早口になるから、最初の一文だけゆっくり読む練習もした。 受付で名前を告げると、事務員が困った顔をした。「久条奏汰くんの保護者席は、もうご家族様がお入りです」「母です」「ですが、こちらには……」 彼女が名簿を隠す。 その先に、莉乃の名前が見えた。 体育館へ入ると、正臣が最前列にいた。その隣に莉乃。奏汰の予備のカーディガンと、青い恐竜の飾りがついた薬袋を膝に置いている。 奏汰が五歳の時に選び、私が袋へ縫いつけた飾りだった。 莉乃が、自分のもののように薬袋を開けている。「奏汰」 舞台袖にいた奏汰が振り返る。 私を見ると、一瞬だけ表情が揺れた。すぐに正臣のほうを見る。「ママ、来ないで」 周りの保護者がこちらを見た。「莉乃さんがママでいい」 細い声だった。 けれど、よく通った。 私は唇を噛んだ。 奏汰を責めてはいけない。八歳の子どもが、父親と家の大人に囲まれている。ゲームを許してくれる人、チョコをくれる人、病院を忘れさせてくれる人。その人を優しいと思うのは、子どもなら自然だ。 でも、自然だから痛くないわけではない。「奏汰。今日は終わったら、薬の確認を」「莉乃さんがやってくれる」 莉乃が立ち上がった。「奥様、奏汰様は今日は緊張しています。刺激しないであげてください」「その薬袋に触らないで」「正臣様からお預かりしています」「奏
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第6話 彼女は、もうすぐ来る
 警察を呼ぶ。 正臣の声が、発表会のあとも耳に残っていた。 奏汰へ近づけば、学校で騒いだ母親にされる。 私は体育館を出た。正臣の言い分を増やすわけにはいかなかった。 病院へ向かった。 頬の傷を診た医師が、何があったのかと聞いた。「夫に、皿を投げられました」 口にすると、声が震えた。 医師が頬の傷を洗ってくれた。 病院を出て、父の部屋へ戻った。 狭い部屋には、古い机と父の白衣が残っていた。 父は夜遅くまでここで数字を見ていた。私も学生の頃、隣で論文を読んだ。 正臣は結婚するとき、この部屋を見て笑った。「もう、君が泊まり込む必要はない。研究より、久条の妻でいるほうが大事だろう」 私はその言葉を愛されている証拠だと思おうとした。 仕事を減らし、家の予定を優先した。久条家の奥様として間違えないように。 でも、何を渡しても足りなかった。 妻の席も、母の席も、名前も。 正臣は、私を追い出して、別の女をそこへ入れた。 午後、研究室時代の後輩からメッセージが届いた。 ――桐谷さん、会社がまた動き出すんですってね。SENOVAと組むとか。でも今日の面談、桐谷さんじゃなくて相良さんが出るって本当ですか? 会社が、また動き出す。知らなかった。 父から継いだ、小さな医療データの会社だ。 奏汰の病気を少しでも楽にしたくて、私は食事、薬、睡眠、検査値を一つにつなぐ仕組みを作った。小さな試験で腹痛の前ぶれを拾えたとき、正臣は笑って言った。「これで久条の事業になる」 外へ売り出す頃から正臣が会社の表に立ち、私は作った本人なのに遠ざけられた。 共同開発の話は、しばらく止めると聞かされていた。 奏汰のことが落ち着くまで待て、と。 相良さん。 莉乃の名字に指が止まった。あの女が、父から継いだ会社まで? 続けて、短い動画が送られてきた。 本番前の控室だった。 莉乃が私と同じように髪をまとめ、久条側の数人へ説明していた。 久条側の男たちが、当然のように頷く。「大切なのは、食事だけではありません。睡眠と薬の時間を一緒に見れば、腹痛が起きる前に変化へ気づけます」 その言葉は、私が考えたものだった。 五歳の冬、奏汰が夜中に腹を痛がった。私は朝まで背中をさすりながら、前日に食べたものと薬を飲んだ時間を何度も思い出した。「お腹が痛いの、僕だけ
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第7話 俺は、そのプロジェクトが欲しい。それと、君も
 面談室の扉が開いた。  莉乃がいると思っていた。  けれど、中にいたのは一人の男だけだった。  濃紺のスーツに包まれた肩が広い。厚い胸板から腰へ落ちる線が、仕立てのいい布越しにも分かった。立っているだけで、広い部屋が急に狭く見える。  男は窓際から振り返り、傲慢そうに笑った。  切れ長の目と、すっと通った鼻筋。腹が立つほど整った顔だった。  自分が勝つことも、私がここへ来ることも、最初から疑っていない。世界のほうが彼の決断についてくると信じている男の顔だ。  むかつく。  この男、ベッドでも自信満々に女を従わせるに違いない。  それでも、自信に満ちた顔から目を離せなかった。 「桐谷灯里です」 「鷺宮燎だ」  医療スタートアップ、SENOVA Medicalの創業者。  世界を相手にする男は、私の名にも驚かない。  写真より若い。自信に満ちた目が、こちらの迷いまで先に読む。  莉乃がこの男と何を話したのか、私にはまだ分からない。 「お待ちしておりました」  案内してきた秘書の真鍋が言った。 「私が来ると、どうして知っていたんですか」 「来ると思った」  燎は答えにならない答えを返し、真鍋を外へ出した。  扉が閉じる。 「莉乃はどこですか」 「隣だ。久条側の人間と一緒にいる」  テーブルには、莉乃が使っていた画面が残っていた。  正常値を示す緑の印。その端に、小さく「説明用・架空患者」とある。 「相良は、この数値を提携病院から受け取ったと言った」 「架空の患者なのに?」 「病院名も答えられなかった」  少しだけ、ほっとした。  家では、誰も私を信じてくれなかった。  けれど、この男は、私がこれを作ったと見抜いているようだった。 「それで、私を待っていたんですか」 「俺は、そのプロジェクトが欲しい」  燎が近づいた。  一歩、もう一歩。長い指が画面を閉じ、その手が私のすぐ横のテーブルについた。  顔を上げると、息がかかりそうな距離に彼がいた。  触れてもいないのに、燎は私の反応を楽しむように笑った。 「それと、君も」  呼吸が浅くなる。 「どういう意味ですか」 「顔に出ている」 「何が」 「俺から目を離せない」  頬が熱くなった。 「自信過剰です」 「よく言われる」  笑いを
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第8話 選ぶのは私
 私は頬のガーゼに触れかけ、手を下ろした。  正臣に追い出されたから、次の男の言うとおりにするのでは意味がない。  奏汰を守りたい。父の会社を取り戻したい。  そのどちらも、私の身体を渡す理由にはしない。 「断ります」  燎の目を見て言った。 「私の仕事を守るために、私を差し出すつもりはありません」  沈黙のあと、燎の口元が少し上がった。 「そうか」  怒らない。そのことが、かえって不気味だった。 「隣の会議に入ります」  私が言うと、燎はテーブルへ片手をついた。 「俺の話を聞いていたか」 「聞きました。正臣は私を悪者にして、莉乃を開発者にするつもりなんでしょう」 「なら、ここにいろ」 「嫌です」  燎の目が細くなる。 「あなたの後ろに隠れたら、正臣は私が浮気相手に頼ったと言う。私が自分で話します」 「連中は君の話を聞くために集まったんじゃない」 「それでも、黙って会社を渡す気はありません」  頬の傷が熱を持った。  怖くないわけではない。正臣が手を上げれば、身体は先に顔をかばうだろう。  それでも、ここまで来たのは私だ。 「莉乃を信用していないのでしょう。あの人をどう扱うかは、あなたが決めてください」 「俺に任せるのか」 「莉乃の答えがおかしいと見抜いたのは、あなたです。私は、私の仕事について話します」  バッグを持ち、扉へ向かった。 「そのうち泣きながら、俺に助けを求めることになる」  足を止めた。  正臣なら、ここで振り返るまで同じ言葉を重ねた。燎は待っているだけだった。 「そうしたら、代償に抱くんですか」 「そうだ」 「そうはなりません」  燎の横を通り過ぎる。  手首をつかまれると思った。  正臣なら、そうした。  言うことを聞くまで扉の前へ立ち、私の行き先を決めただろう。  燎の腕は動かなかった。 「止めないんですか」 「止めれば、君は俺も同じ男だと思う」 「違うんですか」 「それを決めるのは、会議が終わってからにしろ」  戸惑った。  この人は、正臣とは違うのだろうか。  いや、そんなわけはない。私を欲しいと言い、従わせようとする。男はみんな同じだ。  私は強く扉を引いた。  廊下では真鍋が待っていた。 「隣の会議室へ行きます」 「社長は」 「置いてきま
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第9話 夫の指の血
 きれいに結ばれたネクタイ。陰のある目元。私を学校から追い払った男とは思えないほど、穏やかに微笑んでいる。 「灯里。遅かったね」  父の代からいる役員が、私を見るなり顔をしかめた。  研究室が狭かった頃、夜食を差し入れてくれた人だ。 「今さら、何をしに来たんです」 「私が作ったものの話をしに来ました」 「会社を放り出したのは、あなたでしょう。これ以上、現場を混乱させないでください」  ほかの役員たちも、私から目をそらさない。懐かしさはなく、迷惑な人間を見る目だった。  正臣は、私について何を言ったのだろう。  私が自分から研究も会社も捨てたとでも?  莉乃が立ち上がった。 「桐谷さん、こちらは関係者だけの会議です」 「なら、私がいないほうがおかしいでしょう。私が作ったプロダクトなのだから」  壁の画面には、CARE-LINKの名と、その下に相良莉乃の名前があった。  私が最初につけた製品名。  奏汰が眠ったあと、父と何度も候補を出し合った。人と医療をつなぐ。その意味だけは変えたくないと決めた名前だ。  その下に、莉乃の名前がある。  胸が痛むより先に、足が前へ出た。 「その名前を消して」 「正臣様が認めてくださったんです」 「私が認めていない」  正臣は頬杖をつき、私たちを見ていた。  離婚届への署名を拒んだ夜と同じ目だった。  あの時、私が「嫌」と言うほど、彼の笑みは深くなった。  離婚したいはずなのに、どうしてあんなふうに笑ったの。  私を遠ざけたいのか、追いかけさせたいのか。  長く一緒にいたはずなのに、正臣が何を考えているのか、もう分からない。  背中が冷えた。 「灯里」  正臣が、甘く呼んだ。  椅子から立ち上がり、テーブルを回ってくる。仕立てのいいスーツが長身によく似合っていた。  穏やかな笑みのまま、陰のある目だけが私を逃がさない。 「鷺宮とは、ずいぶん楽しそうだったね。まさか、抱かれる気はないだろう?」  息が止まった。 * * *  少し前。  隣室で、正臣は片耳のイヤホンを外した。  鷺宮燎の「君が欲しい」という声が、まだ耳に残っている。  正臣はイヤホンを床へ落とし、革靴の踵で踏んだ。  小さな破片が散る。 「社長」  久条家の秘書、榊が足元を見た。 「それを
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第10話 それは私じゃない
 その笑みで、私は椅子から離れた。  八年前なら、その笑顔を見られただけで嬉しかった。  私が必要なのだと思えたから。  今は違う。正臣は、私の心配まで、自分のもとへ戻る証拠に変えようとしている。 「床に血を落とさないで。他社の会議室でしょう」  正臣の笑みが消えた。 「家に帰ろう、灯里。今回のことは許す」 「何を許すというの?」 「他の男に、自分が欲しいと言わせたことだ」 「あなたは盗み聞きしたの?」 「夫が妻を心配して、何が悪い」 「心配なら、どうして私を呼ばずに莉乃を連れてきたの」  正臣は答えなかった。  指の血を榊が差し出したハンカチで拭いながら、私だけを見ている。  莉乃が正臣の袖へ手を添えた。 「正臣様、桐谷さんは混乱しているだけです」  正臣はその手を見もしなかった。 「私を追い出したのはあなたよ。莉乃を私の名前で抱いたのも、私の仕事を渡したのも」 「君には罰が必要だった」  一瞬、室内がざわめいた。  父の代からいる役員が、正臣と私を見比べた。株主の一人が、隣の男と目を合わせる。  さっきまで私を責めていた顔に、初めて迷いが浮かんだ。  ざわめきを切るように、正臣の声がさらに低くなった。 「君は、僕より仕事を選んだ。奏汰の母親なのに、家の外ばかり見ていた」 「だから、私の代わりを作ったの?」 「僕が愛しているのは灯里だけだ」  莉乃の指が、正臣の袖から落ちた。  莉乃は正臣を見上げた。  自分だけに向けられていると信じていた笑顔が、少しずつ崩れていく。  それでも、かわいそうだとは思えなかった。  私の名前も仕事も奪ったまま、被害者の顔をするのは許せない。 「では、私は何ですか」  莉乃の声が震えた。  正臣は顔を向けなかった。 「君は灯里だ。余計なことを言うな」  莉乃の顔から血の気が引く。  本物の私が目の前にいるのに、正臣は二人へ同じ名前を押しつける。どちらの気持ちも見ていない。  愛していると言いながら、正臣が見ているのは、自分に従う灯里だけだ。  私でも、莉乃でもない。  料理も、仕事を休んでそばにいることも、昔の私は自分で選んだ。  正臣を愛していたからだ。  それを妻の役目に変え、従わなくなった私を罰したのは、正臣だ。 「それは私じゃない」  私は
last updateLast Updated : 2026-09-14
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