花魁の雪乃が、その男の前で初めて「あたし」と口にしたのは、行方知れずの妹の簪を見せられたときだった。その夜も、花霞楼は賑わっていた。格子の向こうから三味線の音が流れ、廊下には白檀の香りが漂う。赤い行灯に照らされた座敷で、雪乃は馴染みの客に酒を注いでいた。「雪乃殿。今宵も美しいな」「まあ。旦那さまは、お上手でございますこと」雪乃は微笑んだ。目の前の男は、名の知れた商家の主人だった。身なりがよく、言葉遣いも穏やかで、女をぞんざいに扱うことはない。花霞楼の中でも、雪乃は客に恵まれているほうだった。けれど、どれほど優しくされても、心が動くことはなかった。男というものが、雪乃は好きではない。彼らの褒め言葉も、熱のこもった眼差しも、朝になれば消えていく。そこに永遠の約束などないと、とうに知っていた。それでよかった。雪乃が欲しいのは、恋ではない。金だ。妹を捜すために使う、金だった。「……雪乃殿?」呼ばれて、雪乃は顔を上げた。「失礼いたしました。わらわ、少し考え事を」「珍しいな。何か悩みでも?」「いいえ。旦那さまにお聞かせするほどのことではございません」微笑みを返す。それだけで、男は満足したようだった。雪乃は二十二歳。花霞楼の花魁として、客が何を求めているのかを見抜くことには長けていた。優しくしてほしい男には、優しく。話を聞いてほしい男には、聞き役に。美しい女を自慢したい男には、誰よりも美しい花魁として。求められる姿を演じることは、難しくなかった。ただ、そのどれもが、本当の雪乃ではなかった。「雪乃」襖の向こうから、女将の声がした。「次のお客さまだよ」雪乃はわずかに眉を動かした。「次、でございますか?」「おまえをご指名だ。どうしても今夜、会いたいとおっしゃる」「ですが、旦那さまが――」「構わんよ」商家の主人が笑った。「今夜は十分楽しませてもらった。また来るとしよう」雪乃は深く頭を下げた。「ありがとう存じます」客を見送り、廊下に出る。女将は珍しく、落ち着かない様子だった。「雪乃。今からお会いする方には、失礼のないようにおし」「……いつも失礼などいたしません」「そういう意味じゃないんだよ」女将は声を潜めた。「おまえのお座敷を、言い値で買うとおっしゃった」「まあ」それは、ずいぶんと羽振りのよ
Última atualização : 2026-09-25 Ler mais