雪華ー妖狐に嫁いだ花魁ー

雪華ー妖狐に嫁いだ花魁ー

last updateLast Updated : 2026-09-27
By:  天咲琴乃Updated just now
Language: Japanese
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『雪華 ― 妖狐に嫁いだ花魁 ―』 男を愛さず、金のために生きてきた花魁・雪乃。そんな彼女の前に、行方不明の妹の手がかりを持つ美貌の武士・朔夜が現れる。 彼の正体は、千年を生きる九尾の妖狐。 初めて知った恋に溺れ、雪乃は花魁として生きられなくなっていく。だが、二人が結ばれた夜、雪乃の肌に不吉な紋様が浮かび上がった。 「百夜目、おまえは俺の前から消える」 過去に命を落とした花嫁たち。妹の失踪。そして、妖狐にかけられた呪い。 それでも雪乃は、朔夜の手を離さない。 「あたしは、あなたと生きたい」 人の世を捨てても、愛する人の隣へ――。 これは、運命に抗う花魁と九尾の妖狐の、禁断の恋物語。

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Chapter 1

第1話 雪の簪

花魁の雪乃が、その男の前で初めて「あたし」と口にしたのは、行方知れずの妹の簪を見せられたときだった。

その夜も、花霞楼は賑わっていた。

格子の向こうから三味線の音が流れ、廊下には白檀の香りが漂う。赤い行灯に照らされた座敷で、雪乃は馴染みの客に酒を注いでいた。

「雪乃殿。今宵も美しいな」

「まあ。旦那さまは、お上手でございますこと」

雪乃は微笑んだ。

目の前の男は、名の知れた商家の主人だった。身なりがよく、言葉遣いも穏やかで、女をぞんざいに扱うことはない。

花霞楼の中でも、雪乃は客に恵まれているほうだった。

けれど、どれほど優しくされても、心が動くことはなかった。

男というものが、雪乃は好きではない。

彼らの褒め言葉も、熱のこもった眼差しも、朝になれば消えていく。そこに永遠の約束などないと、とうに知っていた。

それでよかった。

雪乃が欲しいのは、恋ではない。

金だ。

妹を捜すために使う、金だった。

「……雪乃殿?」

呼ばれて、雪乃は顔を上げた。

「失礼いたしました。わらわ、少し考え事を」

「珍しいな。何か悩みでも?」

「いいえ。旦那さまにお聞かせするほどのことではございません」

微笑みを返す。

それだけで、男は満足したようだった。

雪乃は二十二歳。

花霞楼の花魁として、客が何を求めているのかを見抜くことには長けていた。

優しくしてほしい男には、優しく。

話を聞いてほしい男には、聞き役に。

美しい女を自慢したい男には、誰よりも美しい花魁として。

求められる姿を演じることは、難しくなかった。

ただ、そのどれもが、本当の雪乃ではなかった。

「雪乃」

襖の向こうから、女将の声がした。

「次のお客さまだよ」

雪乃はわずかに眉を動かした。

「次、でございますか?」

「おまえをご指名だ。どうしても今夜、会いたいとおっしゃる」

「ですが、旦那さまが――」

「構わんよ」

商家の主人が笑った。

「今夜は十分楽しませてもらった。また来るとしよう」

雪乃は深く頭を下げた。

「ありがとう存じます」

客を見送り、廊下に出る。

女将は珍しく、落ち着かない様子だった。

「雪乃。今からお会いする方には、失礼のないようにおし」

「……いつも失礼などいたしません」

「そういう意味じゃないんだよ」

女将は声を潜めた。

「おまえのお座敷を、言い値で買うとおっしゃった」

「まあ」

それは、ずいぶんと羽振りのよい客だ。

雪乃はさほど驚かなかった。

金を持つ男が、気に入った花魁のために大金を使うことは珍しくない。

けれど、女将はさらに続けた。

「ただし、酒も料理もいらない。おまえと二人で話したいそうだ」

「……話を?」

妙な客だった。

女将が頷く。

「名は、黒羽朔夜さま」

その名に、覚えはなかった。

雪乃は襟元を正し、座敷へ向かった。

襖を開けた瞬間、息を呑む。

窓辺に、一人の男が座っていた。

白銀の髪を後ろで束ね、黒い羽織をまとっている。端正な横顔には、どこか人を寄せつけない冷たさがあった。

男がゆっくりと振り返る。

金色の瞳。

その眼差しが雪乃を捉えた途端、なぜか胸の奥がざわついた。

「……お待たせいたしました」

雪乃は膝をつく。

「花霞楼の雪乃と申します。今宵は、わらわをご指名いただき――」

「雪乃」

男が名を呼んだ。

低く、静かな声だった。

「顔を上げろ」

雪乃は微笑みを崩さず、視線を上げる。

「はい。朔夜さま」

「……そうか」

男は、それきり黙った。

何だというのだろう。

雪乃は小さく首を傾げた。

「わらわの顔に、何か?」

「いや」

朔夜は、苦しげにも見える表情を浮かべた。

「よく似ていると思っただけだ」

「どなたに?」

「……昔、知っていた女に」

雪乃の胸に、わずかな警戒が生まれた。

花魁を誰かの代わりにしようとする客はいる。

亡くした妻。

別れた恋人。

手に入らなかった女。

けれど、雪乃は誰かの代わりになるために、ここにいるわけではなかった。

「お望みでしたら、その方のお話をお聞きいたしましょうか」

「必要ない」

朔夜は答えた。

「俺は、おまえに会いに来た」

その言葉に、雪乃は目を瞬いた。

「……わらわに?」

「ああ」

男は懐へ手を入れた。

取り出したのは、小さな包みだった。

紫色の布。

その色を見た瞬間、雪乃の心臓が跳ねた。

朔夜は包みを開く。

銀細工の簪が、行灯の光を受けて輝いた。

雪の結晶をかたどった飾り。

六つあるはずの先端の一つが欠け、そこだけ白い糸が巻かれている。

「……え?」

雪乃の声が震えた。

見間違えるはずがない。

その白い糸を巻いたのは、雪乃自身だった。

幼い妹が、簪を落として泣いた夜。

「お姉ちゃん、壊れちゃった」

「大丈夫。あたしが直してあげる」

小さな指で糸を結びながら、雪乃は妹に約束した。

いつか、もっと綺麗なものを買ってあげる。

だから、それまで大切にしていてね、と。

妹は嬉しそうに笑った。

その笑顔を、雪乃は今でも覚えている。

「……どうして」

膝の上で、指が震えた。

「どうして、それを……」

「見覚えがあるか」

雪乃は答えなかった。

答えられなかった。

朔夜の手から目を離せない。

「それ、は……」

喉が詰まる。

「……あたしの、妹の……」

言ってしまってから、雪乃ははっとした。

「あたし」。

花霞楼では、決して使わない一人称。

けれど、今は取り繕うことなどできなかった。

雪乃は、朔夜へ身を乗り出した。

「どこで手に入れたの!?」

朔夜は動じない。

「落ち着け」

「答えて!」

雪乃は男の袖を掴んだ。

「それは小雪のものなの! あの子、ずっと持ってたのよ! どこにいたの? 今どこにいるの!?」

「雪乃」

「お願い……!」

声が裏返った。

花魁としての作り笑いなど、とうに消えていた。

「お願いだから、教えて……!」

朔夜は、雪乃の手に視線を落とした。

それから簪を彼女の前に置く。

「持っていけ」

雪乃は息を止めた。

「……いいの?」

「もともと、おまえの妹のものだろう」

雪乃は両手で簪を拾い上げた。

冷たい銀の感触。

あの日、妹の髪に挿してやったものと、何も変わっていない。

涙が落ちそうになり、雪乃は唇を噛んだ。

「小雪は……」

怖かった。

尋ねて、もし最悪の答えが返ってきたら。

今まで何のために、花魁として生きてきたのか分からなくなる。

それでも、聞かなければならなかった。

「……生きて、いるの?」

朔夜は、しばらく雪乃を見つめた。

やがて、低い声で答える。

「生きている」

雪乃の目から、一粒の涙がこぼれた。

「……よかった」

何年も、聞きたかった言葉だった。

「よかった……!」

胸に簪を押し当てる。

その姿を見て、朔夜は一度だけ目を伏せた。

「だが、安心するのは早い」

雪乃が顔を上げる。

「どういう、こと……?」

「小雪を迎えに行くには、条件がある」

「条件?」

「ああ」

朔夜は窓の外へ目を向けた。

庭には、春の桜が咲いている。

「まず、おまえはこの花霞楼を出なければならない」

雪乃は眉をひそめた。

「……どうして?」

「ここにいては、あの娘には会えない」

「だったら、あたしが出ていけばいいんでしょう」

雪乃は簪を握りしめた。

「でも、あなたについていくかは別よ。小雪がどこにいるのか、先に教えて」

朔夜の口元が、わずかに緩んだ。

「……変わらないな」

「何が?」

「いや」

男は立ち上がった。

「今夜は、そこまでだ」

「待って!」

雪乃も立ち上がる。

「勝手に話を終わらせないで!」

朔夜が足を止めた。

雪乃は真正面から彼を見た。

「あたしには、あの子しかいないの」

声は震えていた。

けれど、目は逸らさなかった。

「お金なら払う。足りなければ、いくらでも稼ぐ。だから、お願い。小雪に会わせて」

朔夜の表情から、微かな笑みが消えた。

「……金の問題ではない」

「じゃあ、何なのよ」

「おまえには、まだ信じられないだろう」

男は静かに言った。

「小雪を連れ去ったのは、人ではない」

その瞬間。

ふわり、と冷たい風が吹き込んだ。

閉じていたはずの窓が、音もなく開いていた。

雪乃は振り返る。

庭の桜が揺れている。

その花びらの間に、白いものが混じっていた。

「……雪?」

春だというのに。

雪が降っていた。

背後から、朔夜の声がした。

「雪乃」

振り返ると、男の金色の瞳が、暗闇の中で不思議な光を帯びていた。

「おまえの妹は、もう人間の世にはいない」

雪乃は簪を握りしめた。

「……それ、どういう意味?」

朔夜は答えなかった。

ただ、襖の向こうへ歩き出す。

「明日の夜、迎えに来る」

「待って! 朔夜!」

男が振り返る。

「……次に会うときは、わらわではなく、あたしとして話せ」

雪乃が言葉を失った、その一瞬。

行灯が揺れた。

屏風に映る朔夜の影が、奇妙に伸びる。

人の背には、あるはずのないものが揺れていた。

長く、白い――尾のような影。

「……え?」

雪乃が瞬きをすると、影は消えていた。

廊下に、もう男の姿はない。

残されたのは、妹の簪だけ。

雪乃は窓辺へ駆け寄った。

桜の枝に、雪が積もり始めていた。

「……小雪」

胸に抱いた簪は、氷のように冷たかった。

そのとき、背後で誰かが囁いた。

「見つけた」

雪乃は振り返る。

誰もいない。

ただ、誰も触れていないはずの襖に、細い爪で引っ掻いたような傷が刻まれていた。

一本。

二本。

そして、三本。

傷の隙間から、黒い煙がゆっくりと滲み出す。

「……なに、これ」

煙の奥で、何かが笑った。

「次の花嫁は、おまえか」

雪乃は、声も出せずに立ち尽くした。

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第1話 雪の簪
花魁の雪乃が、その男の前で初めて「あたし」と口にしたのは、行方知れずの妹の簪を見せられたときだった。その夜も、花霞楼は賑わっていた。格子の向こうから三味線の音が流れ、廊下には白檀の香りが漂う。赤い行灯に照らされた座敷で、雪乃は馴染みの客に酒を注いでいた。「雪乃殿。今宵も美しいな」「まあ。旦那さまは、お上手でございますこと」雪乃は微笑んだ。目の前の男は、名の知れた商家の主人だった。身なりがよく、言葉遣いも穏やかで、女をぞんざいに扱うことはない。花霞楼の中でも、雪乃は客に恵まれているほうだった。けれど、どれほど優しくされても、心が動くことはなかった。男というものが、雪乃は好きではない。彼らの褒め言葉も、熱のこもった眼差しも、朝になれば消えていく。そこに永遠の約束などないと、とうに知っていた。それでよかった。雪乃が欲しいのは、恋ではない。金だ。妹を捜すために使う、金だった。「……雪乃殿?」呼ばれて、雪乃は顔を上げた。「失礼いたしました。わらわ、少し考え事を」「珍しいな。何か悩みでも?」「いいえ。旦那さまにお聞かせするほどのことではございません」微笑みを返す。それだけで、男は満足したようだった。雪乃は二十二歳。花霞楼の花魁として、客が何を求めているのかを見抜くことには長けていた。優しくしてほしい男には、優しく。話を聞いてほしい男には、聞き役に。美しい女を自慢したい男には、誰よりも美しい花魁として。求められる姿を演じることは、難しくなかった。ただ、そのどれもが、本当の雪乃ではなかった。「雪乃」襖の向こうから、女将の声がした。「次のお客さまだよ」雪乃はわずかに眉を動かした。「次、でございますか?」「おまえをご指名だ。どうしても今夜、会いたいとおっしゃる」「ですが、旦那さまが――」「構わんよ」商家の主人が笑った。「今夜は十分楽しませてもらった。また来るとしよう」雪乃は深く頭を下げた。「ありがとう存じます」客を見送り、廊下に出る。女将は珍しく、落ち着かない様子だった。「雪乃。今からお会いする方には、失礼のないようにおし」「……いつも失礼などいたしません」「そういう意味じゃないんだよ」女将は声を潜めた。「おまえのお座敷を、言い値で買うとおっしゃった」「まあ」それは、ずいぶんと羽振りのよ
last updateLast Updated : 2026-09-25
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第2話 恩返しの男
翌朝、雪乃は妹の簪を握ったまま目を覚ました。障子の向こうから、遊女たちの話し声が聞こえる。昨夜、花霞楼に現れた黒羽朔夜。あの男の金色の瞳が、頭から離れなかった。「……小雪は、無事なのよね」雪乃は簪に問いかけた。昨夜、朔夜は妹が生きていると告げた。けれど、それ以上のことは何も話さなかった。小雪は今、どこで暮らしているのか。どうして、姉が贈った簪を朔夜が持っていたのか。それに、あの奇妙な言葉。「おまえの妹は、もう人間の世にはいない」あれは、いったいどういう意味だったのだろう。雪乃は深く息を吐いた。小雪が暮らす町へは、毎月、仕送りをしていた。家族の借金を背負ったあの日、雪乃は妹を守るため、花霞楼へ入った。本来、売られるはずだったのは小雪だった。まだ幼かった妹を、あのような場所へ行かせるわけにはいかなかった。だから、雪乃が代わった。男は嫌いだった。それでも、妹が衣食住に困ることなく暮らせるのなら、それでよかった。小雪から届く手紙には、いつも同じ言葉が書かれていた。『お姉ちゃん、ありがとう』その文字を見るたび、雪乃は翌日も働こうと思えた。しかし、朔夜は知っているようだった。雪乃の知らない、小雪の何かを。「……今夜、ちゃんと聞かなきゃ」簪を懐にしまい、雪乃は立ち上がった。いつまでも、わけの分からない男に振り回されている場合ではなかった。昼を過ぎた頃、女将が雪乃の部屋を訪れた。「雪乃。黒羽さまがお見えだよ」「……もう?」「おまえに渡したいものがあるそうだ」雪乃は眉をひそめた。昨夜は迎えに来ると言っていたくせに、まだ昼間ではないか。「ずいぶんと気の早いお方ですね」「口の利き方に気をつけな」「はいはい」「雪乃」「……かしこまりました」雪乃はため息をつき、髪を整えた。昨夜のように取り乱すつもりはない。相手がどれほど美しい男でも、花霞楼では自分のほうが場数を踏んでいる。いつもどおりに微笑み、話を聞き出せばいい。そう思っていた。座敷の襖を開けるまでは。「お待たせいたしました。わらわに、ご用でございましょうか」朔夜は昨日と同じ場所に座っていた。白銀の髪。黒い羽織。そして、相変わらず何を考えているのか分からない顔。雪乃を見ると、短く答えた。「ああ」「本日は、どのようなお話を?」「座れ」
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第3話 白狐の恩返し
雪が降っていた。まだ雪乃が幼かった頃。山道の奥から、か細い鳴き声が聞こえた。「……なに?」雪乃は足を止めた。家へ帰る途中だった。母には、暗くなる前に戻りなさいと言われていた。それでも、その声を無視することができなかった。木々の間を進む。そこで見つけたのは、一匹の白い狐だった。真っ白な毛並み。金色の瞳。そして、後ろ脚には鉄の罠が食い込んでいる。「かわいそう……」雪乃は狐のそばにしゃがみこんだ。狐が牙を剥く。「大丈夫。何もしないよ」もう一度、低く唸る。「怖いよね」雪乃は自分の羽織を脱いだ。「でも、このままだと死んじゃうよ」狐はじっと雪乃を見ていた。雪乃は震える指で、鉄の罠に手をかけた。硬い。子どもの力では簡単には開かない。何度も指を挟みそうになりながら、雪乃は必死に力を込めた。「……もうちょっとだから」ようやく罠が外れる。白狐は飛び退いた。その脚から、赤い血が雪へ落ちた。雪乃は羽織を裂き、狐の脚に巻いた。「これで少しはいいかな」狐は逃げなかった。ただ、金色の瞳で雪乃を見つめている。「もう、人間に捕まっちゃ駄目だよ」雪乃は笑った。「今度会ったら、ちゃんと逃げるんだからね」狐は一度だけ、雪乃の手に鼻先を寄せた。そして雪の中へ消えていった。それが、雪乃の記憶に残る白狐だった。「……あの狐が、朔夜?」翌朝。雪乃は布団の上で天井を見つめていた。眠れなかった。黒羽朔夜。白銀の髪。金色の瞳。言われてみれば、あの日の狐と同じ色だった。「いやいや……」雪乃は起き上がった。「狐が男になるわけないじゃない」口に出してから、昨夜見たものを思い出す。屏風に映った、白い尾。「……いや、なるの?」自分で問いかけても、答えてくれる者はいない。雪乃は頭を抱えた。花霞楼には、怪談好きの客も来る。狐が人に化ける話。狸が旅人を騙す話。山には人ならざる者が棲むという昔話。それを本気で信じたことなどなかった。なのに。朔夜だけは。「……人間じゃないっていうの?」襖の向こうから声がした。「雪乃姉さん。黒羽さまがお見えです」雪乃は顔を上げた。「また!?」昨日、明日来ると言っていた。確かに来るとは聞いていた。それでも早すぎる。「朝から何なのよ、あの男……」文句を言いながら、雪乃
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第4話 悪代官と百夜の花嫁
「お姉ちゃん、もう少し食べて」 「小雪こそ食べなさい。細すぎるわよ」 「お姉ちゃんだって!」 「私はいいの」 「よくない!」 小さな膳を挟み、雪乃と小雪は向かい合っていた。 再会してから、まだ一刻も経っていない。 それなのに雪乃は、小雪が何を食べているのか、夜は眠れているのか、着物は足りているのかと、聞きたいことが尽きなかった。 「本当に、困ってることはない?」 「ないよ」 「お金は?」 「黒羽さまが、取り返してくれたから」 小雪はそう言って、ちらりと朔夜を見る。 少し離れた場所で、朔夜は静かに茶を飲んでいた。 まるで姉妹のやり取りなど聞いていないような顔をしている。 雪乃は眉を寄せた。 「ねえ、朔夜」 「なんだ」 「あなた、小雪に何をしてくれたの?」 「必要なことをしただけだ」 「それじゃ分からないのよ」 小雪がくすりと笑った。 「黒羽さまね、怖そうだけど優しいよ」 「怖そうは余計だ」 「あ、ごめんなさい」 「別にいい」 雪乃は朔夜をじっと見た。 「……小雪には優しいのね」 「おまえの妹だからな」 「それだけ?」 「ああ」 あまりにも迷いなく答えるので、雪乃は少し拍子抜けした。 小雪は首を傾げる。 「黒羽さま、お姉ちゃんのこと本当に好きなんですね」 雪乃がむせた。 「ちょ、小雪!」 「だって、お姉ちゃんの話をするときだけ、少し声が優しいもん」 「そうなの?」 雪乃が朔夜を見る。 朔夜は平然としていた。 「知らん」 「知らんって何よ!」 「自分の声など聞かん」 「そういう話じゃないでしょ!」 小雪がまた笑う。 その笑顔を見て、雪乃の胸が緩んだ。 ああ。 この子が笑っている。 それだけでいい。 花霞楼で過ごした年月が無駄ではなかったと思える。 雪乃はそっと小雪の手を握った。 「……元気でいてくれて、本当によかった」 「お姉ちゃん」 「もう二度と、あんな男に近づかせないから」 小雪の表情が曇る。 「鷹司さま……?」 「そうよ」 雪乃の声が低くなった。 「借金は返し終わってたんでしょう。それなのに私の金を取って、小雪にまで手を出そうとするなんて」 「でも――」 「許さない」 雪乃はきっぱりと言った。 花魁として客の前にいるときとは違う。 姉として
last updateLast Updated : 2026-09-26
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第5話 百夜の呪い
「百夜目まで、生きた花嫁はいない」 鷹司蓮の言葉が、部屋に残った。 雪乃は朔夜を見つめた。 いつもと変わらない顔。 静かな金色の瞳。 だからこそ、怖かった。 「……朔夜」 返事はない。 「嘘だって言って」 小雪が雪乃の袖を握る。 朔夜は、ゆっくり目を伏せた。 「嘘ではない」 雪乃の胸が冷えた。 「じゃあ、本当なの?」 「ああ」 「九尾の妖狐に嫁いだ人間は、百日で死ぬ?」 「正確には違う」 鷹司が鼻で笑った。 「大差あるまい」 朔夜の視線が鷹司へ向く。 「黙れ」 声は低かった。 怒鳴ったわけではない。 それなのに、空気が凍ったように感じた。 鷹司も笑みを消す。 雪乃は立ち上がった。 「二人とも、あたしを置いて話を進めないで」 朔夜を見る。 「説明して」 「ああ」 「最初から全部」 「分かった」 朔夜は座り直した。 雪乃も、その正面へ座る。 小雪は姉の隣から離れなかった。 鷹司だけが柱に寄りかかり、腕を組んでいる。 朔夜が口を開いた。 「九尾の一族には、古い契りがある」 「契り?」 「人の女を伴侶として妖の領域へ迎えると、百夜の間に、その女の命が妖気に侵される」 雪乃は黙って聞いた。 「身体が耐えられなければ、百夜を迎える前に死ぬ」 小雪の指が、雪乃の袖を強く掴む。 「じゃあ……お姉ちゃんが黒羽さまと結婚したら……」 「必ず死ぬわけではない」 朔夜が言った。 「助かる方法はある」 鷹司が薄く笑う。 「成功した者はいないがな」 「鷹司さま!」 小雪が睨んだ。 蓮が眉を上げる。 「何だ」 「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか」 「事実を言っただけだ」 「でも、お姉ちゃんが怖がるでしょう」 「怖いなら嫁がなければいい」 「それはそうですけど」 小雪は少し考えてから、 「……鷹司さまって、言い方が嫌な人ですね」 と言った。 「…………」 蓮の眉間に皺が寄る。 「おまえにだけは言われたくない」 「どうしてですか?」 「もういい」 「そうですか」 小雪は `( '꒳' )すんっ` と姉のほうを向いた。 蓮が何か言いたそうに口を開き、やめる。 雪乃はこんなときなのに、少しだけ笑いそうになった。 だが、すぐに朔夜へ視線を戻した。 「助かる
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第6話 花魁・雪乃の最後の夜
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第7話 初めて恋をした夜
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last updateLast Updated : 2026-09-27
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第8話 百夜目の花嫁
百夜が始まった。朔夜の言葉を聞いても、雪乃にはすぐ意味が理解できなかった。左肩に浮かんだ白銀の紋様。雪の結晶にも、狐の尾にも見えるその印は、淡い光を放っている。「……消えない」雪乃は指先で触れようとした。「触るな」朔夜がその手を止める。いつもの淡々とした声。けれど、手に込められた力が少し強い。雪乃は朔夜を見た。「痛くはないよ」「今はな」「今は?」朔夜は答えなかった。「朔夜」「……朝になったら話す」「今聞きたい」「雪乃」「百日後に死ぬかもしれないって言われて、眠れると思う?」朔夜が黙る。雪乃は彼の手を振りほどかなかった。「隠さないで」「…………」「もう、あたしの人生なんだから」その言葉に、朔夜の目が僅かに動いた。やがて。「分かった」朔夜は雪乃の前に座った。「百夜の印が現れた者は、一夜ごとに妖の気を受ける」「妖の気?」「俺の力だ」「それが、あたしの身体に入ってくるってこと?」「ああ」「それで人間の身体が耐えられなくなる」「そうだ」雪乃は肩の印を見る。「じゃあ、百日経つ前に半妖になればいいんでしょう?」「それほど簡単ではない」「どうして?」「人としての身体が、妖の力を拒む」朔夜の声が低くなる。「過去の花嫁たちも、それで死んだ」雪乃は息を止めた。「……何人?」朔夜は答えない。「朔夜」「七人」雪乃の表情が固まる。「七人……」「俺だけの花嫁ではない」「え?」「黒羽の一族全体だ」雪乃は少しだけ息を吐いた。けれど。胸の中に生まれた違和感は消えなかった。「それでも……あなたも、花嫁を迎えたことがあるの?」沈黙。雪乃の胸がざわつく。自分でも驚いた。百夜の呪いより。その質問の答えを聞くほうが怖い。朔夜は首を横に振った。「ない」「……本当に?」「ああ」「じゃあ、あたしが初めて?」「そうだ」雪乃は思わず胸を撫で下ろした。そして。すぐに我に返る。「って、何安心してるのよ、あたし」「嫉妬か?」「違う!」「そうか」「ちょっとくらい否定させなさいよ!」朔夜の表情は変わらない。雪乃はむっとして、布団へ座り直した。「でも、変ね」「何がだ」「あなたは千年生きてるんでしょう?」「ああ」「その間、一度も好きな人がいなかったの?」「いなかった」
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