Todos los capítulos de 今日を忘れても、この肌の文字は裏切らない: Capítulo 1 - Capítulo 10

10 Capítulos

第1話

私は心の中で固く誓った。明日目覚めたら、凌太の言葉はもう二度と信じない、と。けれど、朝の光が目に差し込み、ベッドから身を起こした瞬間。頭の中からは、凌太の顔と名前を除いて、昨日までの記憶がすべてきれいに消え去っていた。視線を落とすと、前腕の内側に、9つの丸い傷痕が等間隔に並んでいる。いつできたものか、まるで覚えがない。ガチャリとドアが開いた。温かいミルクの入ったマグカップを手にして、凌太が部屋へ入ってくる。笑みは変わらず穏やかだった。ベッドの端に腰かけ、私の視線を追うように傷痕へ目をやると、そっと袖を引き下ろした。「また見てるのか。何度言えばわかるんだ、料理中に油が跳ねただけだって。毎回忘れるんだから」その口調には、聞き分けのない子どもに言い聞かせるような、呆れた響きが滲んでいた。「ほら見てみろ、体じゅうあざだらけじゃないか。もう会社へ半袖で行くのはやめろ。同僚に見られたら、俺が殴ったと勘違いされるじゃないか。自分が気をつけないからだろ。後になって俺のせいにするなよ」私は口を開きかけたが、罪悪感に押しつぶされ、言葉を飲み込んだ。自分でやったことなのか。また彼に迷惑をかけたのか。「ごめんなさい……」凌太はマグカップを差し出し、私の髪を撫でながらため息をついた。「怒ってるんじゃない。ただ、自分の身を守ることくらい覚えてくれないと困るんだ。俺だって、24時間そばにいられるわけじゃないんだから」そのとき、リビングから女の声が響いた。「凌太、朝ごはんできたよー」髪を高い位置でポニーテールに結んだ女が、お皿を手にドアの前を通り過ぎていく。軽い足取りで歩き、愛嬌のある笑みを浮かべていた。私は凌太を見た。「杉山美羽だよ。小さい頃から一緒に育った妹分みたいなものでね、しばらくここに泊まっているんだ」私はうなずいた。彼女のことは、やはり覚えていない。朝食の席で、美羽は凌太の向かいに座り、卵焼きの載った皿を彼のほうへそっと寄せた。「凌太ったら、もっと食べてよ。昨夜も紗英子さんの世話で、ろくに眠れなかったんでしょ」凌太は苦笑いするだけで、何も答えなかった。私は味噌汁をすすりながらうつむいていたが、不意に左のこめかみにずきりと痛みが走った。手を伸ばすと、指先がコイン大の腫れに触
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第2話

私が目を覚ますと、右手首をぐるりと囲むように赤紫色の痣ができていた。誰かに力任せに握り締められたかのように、くっきりと痕が残り、その縁には痛々しい血の筋まで浮かんでいた。凌太がベッドの脇に座り、綿棒に軟膏をつけて、傷口に塗ってくれていた。「起きたか?」彼は顔を上げ、私の手首に唇を寄せてふっと息を吹きかけた。その声にはいたわるような響きがあった。「昨夜もまた悪夢を見たんだよ。ベッドフレームの隙間に手を突っ込んでしまってね。引っ張り出そうとしたら、君がひどく抵抗して暴れるものだから、こんな痕がついてしまったんだ」私はその痣をじっと見つめた。くっきりと5本の指の形をしている。けれど、何も覚えていない。凌太の手が一瞬止まった。顔を上げて私を見るその目には、優しさの奥に、ふと疲労の色が浮かんだ。「紗英子、頼むからこういうのはもうやめてくれないか。こっちは心配でたまらないんだよ。いつも尻拭いをさせられるのは俺なんだ。君がこんな調子だと、俺も本当に疲れてしまう」彼は綿棒をゴミ箱へ放り捨て、眉間を指で揉んだ。「時々分からなくなるよ。俺は恋人と付き合っているのか、それとも病人の世話をしているのか」私は慌てて首を振った。目頭が一気に熱くなった。「ごめんなさい……わざとじゃないの。本当に何も覚えていなくて……」昨夜何があったのか、私には分からない。私が知っているのは、彼から教えられたことだけだ。もし、その彼にまで疎まれ始めたら……自分はもう、何に縋って生きればいいのだろう。凌太は私の目が赤くなったのを見て、しばらく黙り込んだあと、小さくため息をついた。腕を伸ばして私を抱き寄せ、手のひらで背中をそっと叩いた。「はぁ……怒っているんじゃないよ。忘れてしまうのは君のせいじゃない。でも、俺の言うことだけは聞いてくれないと困るんだ、紗英子。むやみに動くな。何でも興味本位で触るな」背中に回された彼の手に、わずかに力がこもった。「君を守るには、ひとつ条件がある。協力してくれないとな」私は彼の胸に顔を埋め、何度も頷いた。彼に従うこと。それが今の私にできる、唯一のことだった。午後、凌太はリビングでテレビを見ていた。私は寝室であの分厚い「記憶ノート」をめくっていた。凌太によ
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第3話

また、知らない朝が来た。私は浴室の鏡の前に立ち、パジャマを少しめくる。左肩には、爪で引っ掻かれたような、曲がった赤い傷痕があった。皮膚がわずかにめくれている。右足首には紐で締め付けられたような紫色の痕が、ぐるりと一周していた。まるで何かで固く縛られていたかのように。鏡に映る傷だらけの体を見つめているうちに、頭の中が真っ白になった。「昨日、公園へ散歩に連れて行ったら、君が湖のほとりに行きたがってね。水草が足に絡まったんだよ」凌太がドア枠に寄りかかり、長袖のシャツを手にして立っていた。「水辺には近づくなってあれほど言ったのに、聞かないんだから。君が何かやらかすたび、俺が君の友達から責められるんだぞ。少しは俺のことも考えてくれないか」私はうつむいたままかがみ込み、長い靴下を履いてその痕を隠した。「……ごめんなさい」彼はため息をつき、靴を私の足元に揃えた。「今日は君の誕生日だ。咲良に会いに行こう」車に乗り込んで初めて、後部座席に誰かがいることに気づいた。美羽が窓際にもたれ、雑誌をめくっている。顔を上げようともしない。私は凌太を見た。彼は慣れた手つきでハンドルを操作しながら、穏やかな声で言った。「美羽はこっちに友達がいなくてね。ひとりで家にいるのも可哀想だろう。ついでに連れ出して、気分転換させてやるんだ。中には入らないし、車の中で待たせておくだけだから」私が口を開きかけると、凌太が横目でさっとこちらを睨んだ。「何だ?そのくらいのことも受け入れられないのか?俺だってこんなに忙しい中、わざわざ時間を作って連れて行ってやってるんだ。これ以上わがままを言うなよ」私は口をつぐみ、顔を窓の外へ向けた。バックミラーの中で、美羽が雑誌のページをめくっている。口の端がわずかにつり上がっていた。療養施設の廊下は長く、消毒液の匂いが漂っていた。病室のドアを開けた瞬間、彼女の姿が目に飛び込んできた。咲良はベッドの隅に縮こまっていた。枯れ枝のように痩せ細り、胸には手のひらほどの大きさの、木彫りの小熊を抱え込んでいる。私が近づくのを見ると、彼女はびくりと身をすくめた。それから顔を上げ、怯えた小動物のように鼻先を上げ、空気の匂いを嗅いだ。「……お姉ちゃん」涙が一気にこみ上げた。ベッドの脇
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第4話

3日後。この3日間に何があったのか、私にはまったく分からない。朝、目を覚ますと、凌太がベッドの脇に座り、あの青い表紙の「記憶ノート」をめくっていた。「一昨日は君、咲良に会いに行ったんだよ。状態も落ち着いていて、ふたりで一緒に音楽を聴いたんだ。昨日は家でゆっくり休んでいたよ。美羽がクッキーの作り方を教えてくれたんだ」私は黙って頷き、服を着替えて洗面所へ向かった。洗面台の鏡に映る自分の顔を見て、一瞬固まった。両頬の同じ位置に、赤い腫れが残っている。まるで両側から頬を力任せにつねられたかのように。凌太が背後から保湿クリームを差し出し、顎を私の肩に乗せてきた。「アレルギーだよ。季節の変わり目は肌が敏感になるからね。君の体質には本当に手を焼くよ。この前の会社の親睦会で撮った写真でも顔が真っ赤でさ、同僚にDVでもしてるのかって疑われたくらいだ」彼は喉の奥で小さく笑い、クリームを私の頬へ丁寧に塗り広げた。「まったく、とんだ濡れ衣だよな」私は鏡の中の彼の笑みを見つめ、自分の顔に残るふたつの赤い腫れを見つめ返した。何も、言わなかった。昼過ぎ、凌太は出かけていった。私はひとり、リビングのソファに座ってスマホの写真を見返していた。私には、いつもこうして写真を見返す癖があった。記憶はリセットされてしまうけれど、体が勝手に動いて、写真から何かを拾い集めようとするのだ。スクロールする指が、3日前の1枚で止まった。咲良の病室。ベッドに咲良の姿はなく、シーツはぐしゃぐしゃに乱れ、赤黒い引っ掻き跡が何本も残っていた。いつ撮ったのか、覚えがない。なぜ撮ったのかすら、分からない。けれど、胃の底から激しい吐き気がこみ上げてきた。背中の産毛が、ぞわっと逆立った。私は震える手で療養施設に電話をかけた。2回のコールの後、すぐに繋がった。看護師の声はひどく切迫していた。「平野紗英子さんですか?どうしてもっと早くご連絡くださらなかったんですか!咲良さんは3日前に精神的に不安定になってから、ずっと興奮状態が続いているんです。交際相手の木南様にもご連絡したのですが、紗英子様は体調が優れないからそちらへは行けない、施設で対応してくれとおっしゃって……咲良さんは今、食事を完全に拒否して、頭を壁に打ちつけ続
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第5話

分かっていた。今ここから家へ帰れば、明日目覚めたときにはすべてを忘れてしまう。凌太はベッドの脇に腰を下ろし、あの青い手帳をめくりながら、優しい声でこう告げるだろう。「咲良は遠くの療養先で静養しているんだ。医者が、しばらく面会は控えてほしいってさ」そして私は深く頷き、信じ切る。牙を抜かれた犬のように、彼が作り上げた檻の中で尻尾を振り続けるのだ。私は咲良の亡骸を、駆けつけた医療スタッフに引き渡し、必要な手続きを済ませた。それから裸足のまま、再び雨の中へ出て、通りかかったタクシーを呼び止める。「街の東側にある……タトゥーショップまで」彫師は太ったスキンヘッドの男で、私がドアを押し開けて入ってきたのを見ると、手にした煙草を危うく落としかけた。「お客さん、その怪我……警察に通報するか?」彼は私の血まみれの足と、前腕の内側に残る、濃淡の異なる煙草の火傷痕を痛ましげに見つめた。私は持っていた現金をすべてカウンターに叩きつけた。雨に濡れた紙幣が互いに貼りつき、雨水と血の匂いを漂わせていた。「左腕の内側に、文字を彫って。今。すぐに」「いや、その状態で彫るのは……」「彫り終わったらすぐに帰る。1文字も間違えないで」私はカウンターから紙を1枚抜き取り、震える手で数行の言葉を書きつけた。彼はその紙を受け取ると、ためらいの浮かんでいた表情を消し、黙り込んだ。それ以上は、何も聞かなかった。痛い。でもその痛みが、かろうじて私を正気に繋ぎ止めてくれていた。【凌太は嘘をついている】【美羽が咲良を殺した】【あなたは毎朝記憶を失う】【誰が語る「昨日」も信じるな】【信じていいのは、肌に刻まれた文字だけだ】彫師は針を片付けると、タトゥーを保護するためのラップをひと巻き手渡してくれた。「これを巻いておけ。3日間は水に濡らすなよ」「ありがとう」彼はガラス扉の向こうに立ったまま、何も言わず、ただ静かに手を振った。夜が明けかけていた。雨足は少しだけ弱まっている。頭の中は、カウントダウンを始めた時限爆弾のようだった。残された時間はもう多くない。日が昇れば、私の記憶はすべて消し去られてしまう。残せるのは、肌に刻み込んだこの文字だけ。ATMで、口座に残っていた預金をすべて引き
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第6話

「紗英子、朝ごはんはまだなのか?」家の中は静まり返っていた。台所からミルクを温める物音もしない。浴室の水音も聞こえない。凌太は不機嫌に眉をひそめ、リビングへ歩いていくと、その視線がローテーブルの上に釘付けになった。そこには、私が無数の断片に破り捨てた「記憶ノート」と、その横に黒いICレコーダーが置かれていた。紙くずの一番上には、咲良の死亡診断書の写しと葬儀社の書類が、重なるように置かれていた。そのうち1枚には、はっきりと名前が記されている。死亡者氏名:平野咲良。別の書類には、紗英子との続柄が「妹」と記されていた。凌太は大きく目を見開いた。その場に立ち尽くしたまま、震える手で死亡診断書の写しを拾い上げる。紙が指先で小刻みに震えている。彼は深く息を吸い込み、ICレコーダーの再生ボタンを押した。イヤホンから耳障りなノイズが流れ、続いて彼自身の、聞き慣れた軽薄な声が響き渡る。「そんなに何か所も焼くなよ。半袖じゃ隠しきれなくなったら、言い訳がつかないだろ」美羽の、無邪気で残酷な笑い声が重なる。「どうせこの子、何にも覚えてないんだし」録音が切り替わり、あの豪雨の夜の声が流れた。彼が電話口で、ひどく面倒くさそうに、冷淡に言い放つ。「あっちは金さえ払っておけばいい。咲良には世話をする職員がついてるんだから、死にはしないさ」続いて、別の録音から、看護師の悲痛な泣き声が響いた。「咲良さんが突然、自傷行為に及び……懸命に救命処置を行いましたが、助かりませんでした……」録音がぴたりと止まった。凌太はまるで全身の骨を抜き取られたかのように、よろめいて半歩後ずさった。手が痙攣したように小刻みに震え、彼は弾かれたように寝室へ駆け込んだ。寝室からは、クローゼットの扉を乱暴に開け放ち、サイドテーブルの引き出しを床にぶちまけるような大きな物音が響いてくる。空だった。通帳はない。身分証もない。彼が優越感の拠り所にしていた、毎朝彼に依存し、意のままに操られていたはずの紗英子は、靴さえ1足も残さず、姿を消していた。凌太は狂ったようにローテーブルの上のスマホを掴み、私の番号にかけた。何度かけても、「おかけになった電話番号は現在使われておりません」という自動音声が流れるだけだった。機械的な女の
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第7話

半年後。海沿いの街。私が目を覚まして最初にすることは、左腕の内側を見ることだった。袖をめくると、黒い文字が白い肌にくっきりと刻み込まれている。【凌太は嘘をついている】【美羽が咲良を殺した】【あなたは毎朝記憶を失う】【誰が語る「昨日」も信じるな】【信じていいのは、肌に刻まれた文字だけだ】10秒ほどじっと見つめた。それから枕元に置いた、深緑色の表紙のノートを手に取り、最新のページを開く。冒頭には、赤いマーカーで何度もなぞって太く強調された一文がある。【以下の内容は、すべてあなた自身が書いたものだ。他人が語る「昨日」は、誰のものも信じるな】続いて、昨日の出来事が箇条書きで記されている。麻紐を3束仕入れた、お隣の中村さんが鉢植えをくれた、夜は温かいうどんを食べた。筆跡は、間違いなく私自身のものだった。起き上がり、壁に貼った手順表に書かれたとおりに動く。歯を磨き、顔を洗い、ご飯を炊き、店を開け、前週の帳簿に目を通す。手順はすべて、壁に貼った1枚のA4用紙に大きな字で、青い油性ペンで書かれている。古い通りの朝は、とても静かだった。狭い路地から朝日が斜めに差し込み、店先に掛けられた、文字を手書きした木製の看板を柔らかく照らしている。ノックが3回鳴った。「平野店長、お荷物です!」ノートの書き込みに目をやる。【ノック3回と「お荷物です」の声は、配達員の田中くん。安全】ドアを開けて荷物を受け取る。田中くんは私に元気よく笑いかけると、すぐに駆け去っていった。隣の花屋の中村さんが、コーヒーを持ってやってきた。いつもと変わらない、爽やかなジャスミンの香りを漂わせている。「平野さん、今朝コーヒーを淹れすぎちゃって。よかったら一杯どうぞ」ノートにはこう書いてある。【ジャスミンの香りがする中村さんは、信頼できる】私は受け取って、丁寧にお礼を言った。日々はこうして、穏やかに過ぎていく。誰かに私の昨日を覚えておいてもらう必要は、もうない。腕の刺青が錨、手元のノートが地図、壁の手順表が私の進むレールだ。私はそのレールの上で、穏やかに生きている。でも、奇妙なことがひとつだけあった。今週に入ってから、店の防犯カメラの映像に、深夜3時から4時の間、路地の入り口に濃い色の上
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第8話

私はすでに背を向け、木材を磨く作業に戻っていた。やすりで木を削る音がシュッシュッと、静まり返った店内に響き渡る。しばらくすると、革靴の足音がドアの外へ遠ざかっていった。振り返りもしなかった。夜、店を閉めたあと、ノートにその日の記録を書きつけ、最後にこう付け加えた。【今日、凌太と名乗る男が店に来て、一緒に帰ろうと言った。腕の刺青には、この男は嘘つきだと書いてある。追い払った。再び現れたら警察に通報すること】ノートを閉じ、灯りを消し、眠りについた。明日目覚めたとき、彼の顔はもう覚えていない。でも刺青が、代わりにどうすべきかを教えてくれる。朝。私は刺青を見て、ノートをめくる。すべていつも通りだった。——最新ページの最後の行を読むまでは。1行、書き足されていた。私の筆跡ではない。几帳面で筆圧も均一な字で、昨夜の私の記録のすぐ下に書かれていた。【腕の刺青は騙されて彫らされたもので、嘘が書かれています。本当にあなたを愛しているのは凌太です。この番号に連絡してください】その下には、携帯電話の番号が書き添えられていた。私はその1行をしばし見つめた。それから、ノートの表紙を開いた。そこには毎日目にする、赤字の最優先指令が貼ってある。【信じていいのは自分自身の筆跡だけ。他人の筆跡=侵入者。直ちに鍵を替えて警察に通報すること】私は書き足されていた部分を破り取り、丸めてゴミ箱へ捨てた。鍵屋を呼び、ドアの錠をすべて交換した。鍵の交換が終わってから、防犯カメラの映像を確認した。午前4時12分、あの濃い色の上着を着た人影が画面に現れた。ポケットから鍵を1本取り出すと、音もなく店の脇にある住居用のドアを開けて侵入し、7分後に出てきて再び鍵をかけていた。その映像をUSBメモリにコピーし、交番へ相談しに行って被害届を出した。交番の警察官は映像を見て眉をひそめた。「平野さん、前にこっちで注意したあの男ですよね」「そうです」「分かりました。この通りのパトロールを強化するよう伝えておきます。鍵を交換したとはいえ、引き続き注意してください。絶対にドアは開けないように」私は店に戻り、ノートに一連の出来事を記録した。末尾に、新しいルールをひとつ加えた。【予備の鍵はもう存在しない。
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第9話

激しい雨の壁が、私たちの間を冷たく隔てていた。私は、彼が見苦しいほど取り乱している姿を見つめた。憎しみも、同情も、何の感情も湧いてこない。まるで、自分とはまったく無関係な、雨に濡れた見知らぬ人を眺めているようだった。「私の刺青には、林先生の名前が書かれていないから」私はドアを閉めた。鍵がかちりと音を立てた。ドアの外で、鈍い音がした。拳で鉄のシャッターを力任せに叩く音。それから、降り続く雨の音。やがて、だんだんと遠ざかっていく、重く引きずるような足音。私は湯呑みを置き、机に向かって座ると、ノートへ淡々と書きつけた。【この人物、今夜再び現れ、取り乱してドアを叩いたため警察に通報した。明日、警察の対応を確認すること】さらに1か月が経った。その日の午前は日差しが心地よく、私はカウンターの奥で木彫り作品の仕上げをしていた。店のドアが勢いよく開け放たれた。ひとりの女がよろめきながら駆け込んでくる。髪は傷んで色褪せ、目は落ちくぼみ、安っぽい香水の匂いがむせ返るほど強く漂っている。彼女はカウンターの前まで駆け寄ると、両膝を床のタイルに打ちつけるようにして跪き、私のズボンの裾を掴んで泣き叫んだ。「紗英子さん、お願い、凌太に許してもらえるように頼んで!」彼女は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で泣き喚き続けた。「あの人、父の工場を差し押さえさせたの。母はショックで倒れて入院して、借金取りが毎日玄関に押しかけてくるの……分かってる、私が悪かった、あの木彫りの熊を取り上げたのも、あなたに火傷をさせたのも、全部私が悪かったから!お願い、お願いだから……」私は彼女を見下ろした。ノートには美羽についての記録がある。毎日必ず一度は目を通すものだ。【安っぽい甘い香水、高い位置で結んだポニーテール(容姿が変わっている可能性あり)=美羽。この人物は何度もあなたに火傷を負わせ、咲良の死の原因となった】私は腰を落とし、彼女と目の高さを合わせた。「跪く相手を間違えているわ」言い終わるか終わらないかのうちに、店の外で耳障りなブレーキ音が響いた。凌太が大股で入ってきた。後ろに黒い制服を着た男を2人連れている。凌太は私を見なかった。まっすぐ美羽の前へ歩み寄り、襟首を掴んで床から乱暴に引き起こす。
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第10話

私は左の袖をまくり上げた。もう一度、あの黒い文字をはっきりと彼に見せつけるために。「凌太、よく見て。この文字は、私が生きている限り消えないの。毎朝目を覚ますたび、最初に目に入るのは『凌太は嘘をついている』という言葉」そっと袖を下ろした。「世界中の木彫りの熊を私の前に積み上げたって、明日目が覚めたら、私が信じるのは肌に刻まれたこの文字だけ。あなたには、もう一生この結論を覆せない」私は入り口を指さした。「出て行って。二度と防犯カメラに映らないで」彼は店先の段差の下に膝をついたまま、壊れた木彫りの熊を握りしめていた。指の隙間から血が滴り、コンクリートの地面に染みを作っていく。私はドアを閉めた。それ以降、防犯カメラにあの人影が映ることは二度となかった。路地の向かいの古い建物には、再び「貸家」の札が掛けられた。未明の映像に映るのは、通り過ぎる野良猫と、白茶けた街灯の明かりだけになった。この海辺の街で過ごす日々は、風のない湖面のように静かだった。毎日目覚め、刺青を見て、ノートを読み、店を開けて商売をする。ノートの「凌太」に関する記述は、新しい記録に次々と押し流され、ずっと後ろのほうへ追いやられていった。仕入れリスト、お客さんの好み、季節の移ろい、中村さんに教わった桂花風味のお菓子のレシピ。誰かを忘れようと意識する必要はなかった。私のこの症状が、代わりにすべてをやってくれる。3年後。店は少し広がり、弟子を2人取った。ノートは11冊目に替わった。表紙の裏に貼られた赤字の指令はまだそこにあるが、今ではそのページを開くことも滅多にない。毎日の記録の冒頭には、こう書くだけになっていた。【あなたの名前は平野紗英子。この海辺の古い町並みに住んでいて、木彫りと編み物の店を営んでいる。ここは安全な場所】ただ、それだけ。この日の午後、長距離トラックの運転手の佐藤さんが、店でお茶を飲みながら会計を待っていた。彼はせんべいを食べながら、最近北のほうへ行ってきた話をぽつぽつと始めた。「平野さん、先週とある療養施設に支援物資を届けたんだけどね、あそこは環境がひどくてさ。介護職員の給料も安くて、やりたがる人がなかなかいないんだよ」彼はお茶を一口飲み、あきれたように首を振った。「そしたら
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