LOGIN交通事故に遭ってから、私、平野紗英子(ひらの さえこ)の記憶は、事故に遭ったあの日から先へ進まなくなった。 毎朝目覚めるたびに、前日までの出来事をすべて忘れてしまう。 恋人の木南凌太(きなみ りょうた)は言った。 「これからは、俺が君の記憶になる。俺のことさえ覚えていればいい。あとは全部教えてあげるから」 そんなある日、彼の幼なじみである杉山美羽(すぎやま みゆ)が、私たちの家に住むようになった。 毎朝目覚めると、私の頬には、指の跡のような赤い腫れが残っている。 凌太は頬を撫でながら言った。 「少し肌が荒れただけだよ。薬を塗っておこう」 前腕の内側には、丸い火傷の痕がいくつも残っている。 凌太は痛ましげに火傷の痕に口づけしながら言った。 「料理中に油が跳ねたんだろう。また忘れたのか」 ある真夜中、ひどい痛みで目が覚めた。 美羽がベッドの脇に座り、指に煙草を挟んでいた。 彼女はくすくす笑いながら、その煙草の火のついた先端を私の前腕に押し当てた。 「ねえ凌太、見て。これで9つ目。明日になったらまた『これ何?』って聞いてくるんだから」 そう言って、彼女は腹を抱えて笑った。 凌太はドア枠に寄りかかり、困ったような、それでいてどこか甘やかすような声で言った。 「そんなに何か所も焼くなよ。半袖じゃ隠しきれなくなったら、言い訳がつかないだろ。 『料理中に油が跳ねた』って言い訳はもう使ったからな。次の言い訳は俺が考えておく」 美羽は甘えたような声を出した。 「だって楽しいんだもん。どうせこの子、何にも覚えてないんだし。 ほら、私の勝ちでしょ。この子、本当におめでたいよね。あなたの言うことなら何でも信じるんだから。明日、ご飯奢る約束、忘れないでね?」 凌太は甘やかすような口調で、ため息交じりに言った。 「はいはい、好きにしろよ。あんまり遅くまで遊ぶなよ」 私は目を閉じ、歯を食いしばりながら眠ったふりをした。 誰かに縋るということは、こんなにも重い代償を払うことだったのか。 私のこの症状は、ふたりにとっての単なる遊びだったのだ。 今度こそ、自分だけを信じる。
View More私は左の袖をまくり上げた。もう一度、あの黒い文字をはっきりと彼に見せつけるために。「凌太、よく見て。この文字は、私が生きている限り消えないの。毎朝目を覚ますたび、最初に目に入るのは『凌太は嘘をついている』という言葉」そっと袖を下ろした。「世界中の木彫りの熊を私の前に積み上げたって、明日目が覚めたら、私が信じるのは肌に刻まれたこの文字だけ。あなたには、もう一生この結論を覆せない」私は入り口を指さした。「出て行って。二度と防犯カメラに映らないで」彼は店先の段差の下に膝をついたまま、壊れた木彫りの熊を握りしめていた。指の隙間から血が滴り、コンクリートの地面に染みを作っていく。私はドアを閉めた。それ以降、防犯カメラにあの人影が映ることは二度となかった。路地の向かいの古い建物には、再び「貸家」の札が掛けられた。未明の映像に映るのは、通り過ぎる野良猫と、白茶けた街灯の明かりだけになった。この海辺の街で過ごす日々は、風のない湖面のように静かだった。毎日目覚め、刺青を見て、ノートを読み、店を開けて商売をする。ノートの「凌太」に関する記述は、新しい記録に次々と押し流され、ずっと後ろのほうへ追いやられていった。仕入れリスト、お客さんの好み、季節の移ろい、中村さんに教わった桂花風味のお菓子のレシピ。誰かを忘れようと意識する必要はなかった。私のこの症状が、代わりにすべてをやってくれる。3年後。店は少し広がり、弟子を2人取った。ノートは11冊目に替わった。表紙の裏に貼られた赤字の指令はまだそこにあるが、今ではそのページを開くことも滅多にない。毎日の記録の冒頭には、こう書くだけになっていた。【あなたの名前は平野紗英子。この海辺の古い町並みに住んでいて、木彫りと編み物の店を営んでいる。ここは安全な場所】ただ、それだけ。この日の午後、長距離トラックの運転手の佐藤さんが、店でお茶を飲みながら会計を待っていた。彼はせんべいを食べながら、最近北のほうへ行ってきた話をぽつぽつと始めた。「平野さん、先週とある療養施設に支援物資を届けたんだけどね、あそこは環境がひどくてさ。介護職員の給料も安くて、やりたがる人がなかなかいないんだよ」彼はお茶を一口飲み、あきれたように首を振った。「そしたら
激しい雨の壁が、私たちの間を冷たく隔てていた。私は、彼が見苦しいほど取り乱している姿を見つめた。憎しみも、同情も、何の感情も湧いてこない。まるで、自分とはまったく無関係な、雨に濡れた見知らぬ人を眺めているようだった。「私の刺青には、林先生の名前が書かれていないから」私はドアを閉めた。鍵がかちりと音を立てた。ドアの外で、鈍い音がした。拳で鉄のシャッターを力任せに叩く音。それから、降り続く雨の音。やがて、だんだんと遠ざかっていく、重く引きずるような足音。私は湯呑みを置き、机に向かって座ると、ノートへ淡々と書きつけた。【この人物、今夜再び現れ、取り乱してドアを叩いたため警察に通報した。明日、警察の対応を確認すること】さらに1か月が経った。その日の午前は日差しが心地よく、私はカウンターの奥で木彫り作品の仕上げをしていた。店のドアが勢いよく開け放たれた。ひとりの女がよろめきながら駆け込んでくる。髪は傷んで色褪せ、目は落ちくぼみ、安っぽい香水の匂いがむせ返るほど強く漂っている。彼女はカウンターの前まで駆け寄ると、両膝を床のタイルに打ちつけるようにして跪き、私のズボンの裾を掴んで泣き叫んだ。「紗英子さん、お願い、凌太に許してもらえるように頼んで!」彼女は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で泣き喚き続けた。「あの人、父の工場を差し押さえさせたの。母はショックで倒れて入院して、借金取りが毎日玄関に押しかけてくるの……分かってる、私が悪かった、あの木彫りの熊を取り上げたのも、あなたに火傷をさせたのも、全部私が悪かったから!お願い、お願いだから……」私は彼女を見下ろした。ノートには美羽についての記録がある。毎日必ず一度は目を通すものだ。【安っぽい甘い香水、高い位置で結んだポニーテール(容姿が変わっている可能性あり)=美羽。この人物は何度もあなたに火傷を負わせ、咲良の死の原因となった】私は腰を落とし、彼女と目の高さを合わせた。「跪く相手を間違えているわ」言い終わるか終わらないかのうちに、店の外で耳障りなブレーキ音が響いた。凌太が大股で入ってきた。後ろに黒い制服を着た男を2人連れている。凌太は私を見なかった。まっすぐ美羽の前へ歩み寄り、襟首を掴んで床から乱暴に引き起こす。
私はすでに背を向け、木材を磨く作業に戻っていた。やすりで木を削る音がシュッシュッと、静まり返った店内に響き渡る。しばらくすると、革靴の足音がドアの外へ遠ざかっていった。振り返りもしなかった。夜、店を閉めたあと、ノートにその日の記録を書きつけ、最後にこう付け加えた。【今日、凌太と名乗る男が店に来て、一緒に帰ろうと言った。腕の刺青には、この男は嘘つきだと書いてある。追い払った。再び現れたら警察に通報すること】ノートを閉じ、灯りを消し、眠りについた。明日目覚めたとき、彼の顔はもう覚えていない。でも刺青が、代わりにどうすべきかを教えてくれる。朝。私は刺青を見て、ノートをめくる。すべていつも通りだった。——最新ページの最後の行を読むまでは。1行、書き足されていた。私の筆跡ではない。几帳面で筆圧も均一な字で、昨夜の私の記録のすぐ下に書かれていた。【腕の刺青は騙されて彫らされたもので、嘘が書かれています。本当にあなたを愛しているのは凌太です。この番号に連絡してください】その下には、携帯電話の番号が書き添えられていた。私はその1行をしばし見つめた。それから、ノートの表紙を開いた。そこには毎日目にする、赤字の最優先指令が貼ってある。【信じていいのは自分自身の筆跡だけ。他人の筆跡=侵入者。直ちに鍵を替えて警察に通報すること】私は書き足されていた部分を破り取り、丸めてゴミ箱へ捨てた。鍵屋を呼び、ドアの錠をすべて交換した。鍵の交換が終わってから、防犯カメラの映像を確認した。午前4時12分、あの濃い色の上着を着た人影が画面に現れた。ポケットから鍵を1本取り出すと、音もなく店の脇にある住居用のドアを開けて侵入し、7分後に出てきて再び鍵をかけていた。その映像をUSBメモリにコピーし、交番へ相談しに行って被害届を出した。交番の警察官は映像を見て眉をひそめた。「平野さん、前にこっちで注意したあの男ですよね」「そうです」「分かりました。この通りのパトロールを強化するよう伝えておきます。鍵を交換したとはいえ、引き続き注意してください。絶対にドアは開けないように」私は店に戻り、ノートに一連の出来事を記録した。末尾に、新しいルールをひとつ加えた。【予備の鍵はもう存在しない。
半年後。海沿いの街。私が目を覚まして最初にすることは、左腕の内側を見ることだった。袖をめくると、黒い文字が白い肌にくっきりと刻み込まれている。【凌太は嘘をついている】【美羽が咲良を殺した】【あなたは毎朝記憶を失う】【誰が語る「昨日」も信じるな】【信じていいのは、肌に刻まれた文字だけだ】10秒ほどじっと見つめた。それから枕元に置いた、深緑色の表紙のノートを手に取り、最新のページを開く。冒頭には、赤いマーカーで何度もなぞって太く強調された一文がある。【以下の内容は、すべてあなた自身が書いたものだ。他人が語る「昨日」は、誰のものも信じるな】続いて、昨日の出来事が箇条書きで記されている。麻紐を3束仕入れた、お隣の中村さんが鉢植えをくれた、夜は温かいうどんを食べた。筆跡は、間違いなく私自身のものだった。起き上がり、壁に貼った手順表に書かれたとおりに動く。歯を磨き、顔を洗い、ご飯を炊き、店を開け、前週の帳簿に目を通す。手順はすべて、壁に貼った1枚のA4用紙に大きな字で、青い油性ペンで書かれている。古い通りの朝は、とても静かだった。狭い路地から朝日が斜めに差し込み、店先に掛けられた、文字を手書きした木製の看板を柔らかく照らしている。ノックが3回鳴った。「平野店長、お荷物です!」ノートの書き込みに目をやる。【ノック3回と「お荷物です」の声は、配達員の田中くん。安全】ドアを開けて荷物を受け取る。田中くんは私に元気よく笑いかけると、すぐに駆け去っていった。隣の花屋の中村さんが、コーヒーを持ってやってきた。いつもと変わらない、爽やかなジャスミンの香りを漂わせている。「平野さん、今朝コーヒーを淹れすぎちゃって。よかったら一杯どうぞ」ノートにはこう書いてある。【ジャスミンの香りがする中村さんは、信頼できる】私は受け取って、丁寧にお礼を言った。日々はこうして、穏やかに過ぎていく。誰かに私の昨日を覚えておいてもらう必要は、もうない。腕の刺青が錨、手元のノートが地図、壁の手順表が私の進むレールだ。私はそのレールの上で、穏やかに生きている。でも、奇妙なことがひとつだけあった。今週に入ってから、店の防犯カメラの映像に、深夜3時から4時の間、路地の入り口に濃い色の上