愛してないなら抱かないで〜交錯する三つの狂愛。幼馴染たちが落ちた歪な鳥籠〜 のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 8

8 チャプター

第1話 運命を偽装する注射器

 五月が終わりに近づいていた。開け放した窓から流れ込む夜気は生ぬるく、雨を待つ土の匂いを含んでいる。降りきらない雨の気配が喉の奥に貼りつき、息を吸うたびに肺が重たく沈む。梅雨入りを目前にした湿った空気が、壱知のマンションの広いリビングに澱んでいた。絞った間接照明の下、ローテーブルには空き缶が不揃いに並んでいる。飲み残しのビールが放つ麦の匂いが、甘く饐えて鼻先にまとわりついた。溶けた氷がグラスの内側に触れ、硬く澄んだ響きが静けさを一瞬だけ震わせる。 グラスの隣には、裏返しの写真と釣書が伏せて置いてあった。厚手の和紙が薄暗がりの中で白く浮かび、テーブルの上のどの物よりも重たげに見える。この部屋に集まってから三時間、僕の視線はずっと写真の縁で止まったままだ。そこに写っている顔が誰であれ、僕にとっては壱知を奪いに来る恋敵だった。 明日の午後、東雲壱知(しののめ いち)はお見合いの席に座る。大企業の次期社長を約束された彼にとって、家柄と血統を繋ぐ見合いは仕事の延長にある。中高一貫校という閉じた温室を出たあとも、僕たち三人は時折こうして集まり、昔と同じように酒を酌み交わしてきた。ぬるま湯に浸かるような関係が、明日でひとつの区切りを迎える。「……で、明日って何時からだっけ。お姫様とのご対面は」 缶ビールを傾けながら、僕はわざと明るい声を作った。舌先に残る苦みが痺れに変わり、喉の奥へ広がっていく。痺れの正体が酒なのか、胸の奥で暴れる感情を押さえ込む力みなのか、僕自身にも判別がつきかねた。「午後から」 壱知は低く、静かな声で答えた。ワイシャツの襟元をくつろげた喉で、喉仏がゆっくりと上下する。「ふうん。相手、どんな人? 写真くらい見たんでしょ」「見たよ」「美人だった?」「さあ。気になるなら、歩純が見ればいい」 壱知の長い指が伏せた写真の縁に触れ、和紙の表面をなぞるように滑った。「やだよ。興味ないし」 僕は笑って、缶の飲み口に唇を押し当てた。ぬるくなったビールの苦みが、舌の上で重く広がる。グラスを見下ろす壱知の目は、いつもと同じ柔らかな垂れ目をしている。無造作に跳ねた黒髪の癖毛が、伏せた瞼の上に淡い影を落としていた。黒い瞳は瞳孔が大きく開き、照明の光を呑み込んだまま奥へ沈めている。底の見えない暗がりを覗くたび、胸の内側が冷たく締めつけられた。「そっか。じゃあ
last update最終更新日 : 2026-10-16
続きを読む

第2話 暴走する熱と捕食者の瞳

(このまま明日を迎えれば、壱知は誰かのものになる) 胸の奥が、軋むように痛んだ。流しっぱなしの水が、陶器のボウルを低く打ち続けている。僕の身体に足りないものは、この一本で補えばいい。 左腕の袖をまくり上げ、白い肘の内側に針先を当てる。皮膚を破る鋭い痛みのあと、冷たい液体が腕の奥へ押し込まれていった。針を抜いた跡に、小さな赤い粒が浮かぶ。 空になったアンプルと注射器を透明な袋に入れ、上着の内ポケットへ押し込んだ。流水で手を洗い、濡れた指先で火照った頬を叩く。深く息を吸い、上着を腕に掛けて洗面所の鍵を外した。 廊下の先で、間接照明の橙色がにじんでいる。壁越しに、壱知がグラスをテーブルへ置く硬い響きが伝わってくる。リビングへ一歩踏み入れた瞬間、足首から力が抜けた。 視界が大きく傾き、床が斜めに迫ってくる。壁に手をついて身体を支えたとき、腹の底で熱が弾けた。腕から滑り落ちた上着が、足元の絨毯に柔らかく沈む。「……っ、ぁ……」 喉の奥から、甘く掠れた声が勝手にこぼれる。足の指先から下腹部へ、さらに頭の芯へと、灼けつくような波が駆け上がった。血が煮え立ち、関節という関節が溶け崩れていく。重たい倦怠感と疼きが、骨の内側にまで染みわたっていた。(こんなに強いなんて、聞いてない) 計画は単純だった。欠陥オメガの僕に、壱知の目の前で初めてのヒートが訪れる。少し火照った顔で「ヒートきたみたい」と甘え、フェロモンに流された壱知と一夜の過ちを犯す。薬はそのための小道具にすぎなかった。鏡の前で何度も練習した台詞が、熱に溶けて形を失っていく。(――なんだ、これ……っ) 暴力的な熱が、理性を根こそぎ攫っていく。身体の内側から、熟れすぎた果実のような甘い匂いが立ちのぼった。自分の肌から溢れる匂いに、頭の奥が痺れる。「歩純?」 壱知の低い声が、熱に霞んだ耳に届いた。ソファの軋む響きのあと、絨毯を踏む重い足音が近づいてくる。僕は膝から崩れ落ち、潤んだ目で彼を見上げた。「い、ち……壱知、熱い……っ、からだ、おかしい……」「どうした。飲みすぎた?」「わかんない……っ、急に、なんか……」 壱知が目の前に片膝をついた。ベストとワイシャツに包まれた広い肩が、視界を塞ぐ。大きな手が僕の額に触れた。指先のひんやりとした温度が、燃えるような肌に心地よく染みていく。「すごい熱だ。理士
last update最終更新日 : 2026-10-16
続きを読む

第3話 番の契りと、暗闇に光る視線

 叫んだ声の余韻が、まだ喉の奥で震えている。身体を裂くような痛みが走り、その痛みを一息に呑み込むほどの快感が背骨を駆け上がった。「歩純、息して。……ゆっくりでいいよ」 耳元に落ちる声は低く、穏やかに凪いでいる。「むり……っ、壱知、おっきい……」「うん。ちゃんと入ってるから、大丈夫だよ」 向かい合ったまま、深く重い律動が始まった。壱知の掠れた吐息が頭上から降るたび、背筋を痺れが駆け抜けていく。「壱知っ、あ、ぁっ……!」 僕は彼の首に腕を回し、ワイシャツの背を掴んで爪を立てた。薄い生地越しに、硬く張りつめた背中の筋肉が波打つ。汗と、熟れすぎた果実の匂いと、壱知の濃いフェロモンが、湿った夜気の中で混ざり合っていた。絨毯の毛足が背中を擦り、肌の上に熱い線を引いていく。揺さぶられるたび、視界の縁が白く滲んだ。「壱知、もう……っ、だめ、とんじゃう……」「まだ」 短い一言とともに、さらに奥を押し上げられる。喉が引きつり、浅い呼吸が細く掠れていく。肺に入る空気が薄くなり、指先まで痺れが広がった。激しく打ちつけていた壱知の腰が、そこで動きを止めた。「一旦、休憩ね」 囁きは、ひどく落ち着いていた。熱に浮かされた獣の声とは別人のような、静かで冷えた響きが鼓膜を撫でる。問い返そうと開いた唇から、言葉の代わりに震える息だけがこぼれた。「……きゅう、けい……?」「そう。少しだけね」 壱知の大きな手が僕の肩と腰を掴み、強い力で身体を裏返す。頬が絨毯に押しつけられ、埃と酒の染みた匂いが鼻を突いた。汗で湿った襟足を指先でかき上げられ、無防備なうなじが冷たい空気に晒される。うなじに熱い息がかかり、肌が粟立った。「ここ、噛んでいい?」「……いい……噛んで。壱知に、噛んでほしい……」「歩純。俺のものになって」 背中に覆いかぶさる体温が、耳朶に唇を寄せて囁いた。「なる……っ、壱知の、ものに……なる……」 答え終わるより早く、うなじに鋭い痛みが突き刺さった。「――ぁっ、あぁっ!」 壱知の歯が、うなじの肉に深く食い込んでいく。皮膚が裂ける熱さと、骨の奥まで響く痛みが、全身を硬直させた。番の契りを交わしているのだと、焼けるような痛みが告げている。痛みはすぐに形を変え、頭の芯を溶かすほどの甘い痺れになって広がっていった。「痛い?」 歯を離した壱知が、噛み痕に唇を押
last update最終更新日 : 2026-10-16
続きを読む

第4話 愛なき新居と冷たい義務

 見合い前夜、僕のヒートに巻き込まれた壱知が僕を抱き、うなじを噛んだ。一夜の過ちから、三週間が過ぎた。 翌日の見合いは、壱知の側から断りを入れたと聞いている。番の印を刻んだ責任を取ると、壱知は両家の親の前で静かに告げた。東雲の家と僕の家の間で、話はあっという間にまとまった。一週間後には区役所に婚姻届を出し、僕たちは夫婦になった。 いまは都心にそびえるタワーマンションの最上階で、二人で暮らしている。初めてのヒートのあとから微熱と倦怠感が続き、僕は壱知の会社の総務課を休んだままだ。デスクに置いてきた卓上カレンダーは、五月の頁を開いたまま埃をかぶっているはずだ。 浴室から、シャワーの湯が床を打つ低い響きが伝わってきた。壱知が朝の支度をしている間に、僕はダイニングで一人きりの朝食を済ませた。トーストを半分齧り、温かい紅茶で喉の奥へ流し込む。カップの縁に残る渋い香りが、鼻の奥で薄く揺れていた。バターの濃い匂いが胃の底を重く押し上げ、残りのパンを皿に戻した。コンロの上の小鍋では、家政婦が作り置きしてくれた野菜スープが静かに冷めていく。 椅子から立ち上がると、膝が頼りなく揺れる。テーブルの縁に手をつき、ふらつく足でリビングの窓辺へ向かう。 分厚いペアガラスの向こうで、梅雨の雨が街を濡らしていた。鉛色の空から落ちる雨粒が、ガラスに幾筋もの線を描いて流れ落ちていく。額をガラスに寄せると、ひんやりとした硬さが皮膚に伝わり、雨粒の打ちつける微かな振動が骨の奥に響いた。空調で二十四度に保たれた部屋の中に、雨の匂いはガラスの外側に閉じこめられている。 大理石の床が間接照明を冷たく跳ね返し、毛足の長い絨毯が足音を吸い込んでいく。花瓶に生けた白い百合が、甘く冷たい香りを漂わせていた。眼下では、灰色に煙る街を車のヘッドライトが細い光の川となって流れている。 地上から遠く切り離されたこの部屋で、僕は壱知の伴侶として暮らしている。薬で偽りのヒートを起こし、壱知をこの暮らしに縛りつけたのは僕だ。真実を知っているのは、世界で僕ひとりだった。 背後で扉の開く気配がし、絨毯を踏む柔らかな足音が近づいてきた。振り返るより早く、温かい腕が後ろから僕の身体を包み込む。背中に広い胸が重なり、湿った髪から石鹸の匂いが降ってきた。シトラスの香水の奥から、冷えた森を思わせる壱知のフェロモンが立ちのぼる。
last update最終更新日 : 2026-10-16
続きを読む

第5話 硝子の手錠と拭えぬ罪悪感

「壱知、もう出るの?」「ああ。もう車が下に来てる」 壱知は腕時計に目を落とし、短く答えた。背中を包んでいた腕がほどけ、肩甲骨に残った温もりが空調の風に冷やされていく。「今日も雨だね」「梅雨だから。外に出るなら、傘を持って」「出ないよ。どこにも」 窓の外へ目をやると、ガラスを伝う雨の筋が灰色の空を細かく裂いていた。振り返ると、手を伸ばせば届く場所に壱知が立っていた。僕は声の震えを喉の奥で押し殺し、幼馴染らしい軽い笑みを口元に貼りつける。唇の端を引き上げる頬の筋肉が、こわばって小さく痙攣していた。壱知にとっての『面倒な義務』が、これ以上増えていくのが怖い。 糊の利いたシャツの襟元から、洗い立ての布の匂いが届く。シトラスの奥に潜む冷えた森の匂いに、噛まれたばかりのうなじが甘く疼いた。 壱知の手が、ゆっくりと僕の顔へ伸びてくる。長い指が前髪を払い、掌が額に重なった。壱知の体温は、いつも僕より少し高い。冷水にくぐらせたあとのようにひんやりとした掌が、額の一点だけを正確に押さえている。「熱はないね」 熱を確かめ終えた掌は、触れたときと同じ静けさで離れていった。額に残った冷たさを追いかけそうになり、僕は太腿の横で指を握りしめる。「だから、平気だって言ったでしょ」「うなじは? まだ痛む?」「少しだけ。……さっき、壱知が噛んだから」「そうだね」 壱知の目元が、悪戯を認めるようにかすかに緩んだ。「昨日の夜、少しうなされてた」「……そうだった? 覚えてないや」「水、飲ませたよ。それも覚えてない?」 記憶の底を探っても、夜の時間は黒く塗りつぶされたままだ。喉に残る微かな渇きだけが、壱知の手から水を受け取った名残のように張りついていた。「……ごめん」「謝ることじゃない」 壱知の指が、乱れた僕の前髪を耳にかけた。耳殻をかすめる指先が、ひんやりと冷たい。「……僕、寝ながら何か言ってた?」「名前を呼んでた」「誰の?」「俺の」「……恥ずかしい」「なんで。嬉しかったよ」 頬に熱がのぼり、耳の先まで火照っていく。壱知の声は、天気を告げるときと同じ平坦な温度を保っていた。「何かあったら、すぐ連絡して。誰から電話が来ても、出なくていいから」「……誰かって?」「会社の人とか。理士とか」 理士の名前に、あの夜ソファで開いた切れ長の目が瞼の裏によ
last update最終更新日 : 2026-10-18
続きを読む

第6話 届かない熱と果てなき疼き

 閉じた扉の前で、僕はしばらく立ち尽くしていた。押し返した掌を握り込むと、壱知の鼓動の響きがまだ皮膚の内側に残っている。 磨かれた大理石の三和土に、壱知の革靴の跡が薄く浮かんでいる。玄関に漂っていたシトラスの香りも、空調の風に溶けて消えかけていた。 素足のままリビングへ戻ると、絨毯の柔らかな毛足が足の裏を包んだ。広い部屋に、空調の低い唸りだけが耳鳴りのように満ちている。窓の外では雨脚が強まり、灰色の街がガラスの向こうで滲んでいた。 右手が、無意識のうちにうなじへ伸びる。 髪の生え際の、わずかに盛り上がった皮膚を指先でなぞった。今朝、壱知が甘く噛んだ場所が、まだ熱を持っている。指先に移った自分の体温が、壱知の唇の温度を呼び起こした。あの夜に刻まれた歯の痕は、とうに塞がって薄い桃色の筋になった。触れるたびに、皮膚の奥で小さな疼きが脈打つ。壱知が僕の持ち主だと告げる印が、指の腹の下で息づいていた。(――これでいいんだ) ふざけ合って笑い転げた昔の二人は、遠い記憶の中に置き去りになった。あの夜から、壱知の唇が紡ぐのは体調を気遣う短い言葉ばかりだ。壱知の左手の薬指には、僕と揃いの指輪が嵌まっている。(愛されなくてもいい。そばにいられるなら) 下腹部の奥で、重く濁った熱が頭をもたげた。「っ……また……」(まだ、朝なのに) 血の気が引き、窓の外の景色が大きく傾く。膝から力が抜け、僕は窓ガラスにすがりつくようにして崩れ落ちた。額がガラスに当たり、鈍い衝撃が頭蓋の奥まで響く。外の雨に冷やされたガラスが、火照りはじめた額にひんやりと吸いついた。内側から燃え上がる熱は、ガラスの冷たさを一瞬で呑み込んでいく。床に近い視界の中で、ソファの脚とダイニングチェアの脚が斜めに傾いて見えた。飲み残した紅茶の渋い香りが、甘ったるい自分の匂いに押し流されていく。 壁の時計は、壱知が出ていってから四十分ほど進んでいた。部屋着のポケットで、スマートフォンが震える。 太腿に伝わる細かな振動に、心臓が跳ねた。震える指で画面を見ると、壱知の名前が光っている。荒い呼吸を喉の奥へ押し込み、通話のボタンを押した。「……もしもし」『体調はどう?』「大丈夫だよ。さっき出社したばっかでしょう? 心配しすぎだよ」『声、どうした?』 受話口から届く低い声が、わずかに硬くなる。壱知の背後で、
last update最終更新日 : 2026-10-19
続きを読む

第7話 白い診察室の赤い影

 理士のクリニックの重い扉を押し開けると、消毒液の澄んだ匂いが鼻の奥を細く刺した。 壱知を見送ってから一時間ほど、僕はリビングの絨毯の上で身体を丸め、押し寄せる熱の波に耐えていた。波が引いた隙に、汗で湿った指でクリニックに電話をかけた。予約の空きを尋ねる前に、理士は『すぐおいで』と短く告げた。後部座席に身体を預けている間も、背中を這う悪寒が骨の奥で震え続けていた。 扉を背後で閉めると、外の喧騒が分厚い壁の向こうへ遠のいていく。ひんやりとした静けさが、雨に湿った肌を包み込んだ。さっきまでビニール傘を打ちつけていた梅雨の雨の響きも、ここまでは届かない。 都内の一等地にひっそりと看板を掲げる理士のクリニックは、完全予約制でプライバシーを徹底している。政財界の人間がお忍びで通うと噂されるほどだ。待合室の革張りのソファは身体が沈むほど柔らかく、天井から低く流れる環境音楽が耳の表面をなぞっていく。ほかの患者の姿は、どこにもなかった。受付のカウンターに置かれた白い蘭の鉢から、湿った土の匂いがかすかに立ちのぼっている。 看護師に案内された診察室は、白一色で統一されている。壁紙も大理石の床も、装飾のないデスクも、ガラス棚に並ぶ医療器具も、神経質なほど白い。天井の照明が白さを跳ね返し、目の奥が鈍く痛んだ。空調の低い唸りが、部屋の隅で耳鳴りのように続いている。 白い部屋の中で、デスクに向かう理士の赤い髪だけが鮮やかな色を放っていた。癖のない真っ直ぐな赤毛が、白衣の肩に流れ落ちている。雪の上に落ちた血の雫のように、赤が網膜に焼きついた。「よく来たね、歩純。顔色、あまり良くないみたいだけど」 キャスター付きのレザーチェアが床を滑る低い響きとともに、理士がこちらへ振り返った。白衣の下には、細身の黒いシャツを着ている。切れ長の目が、穏やかな弧を描いて細められた。 あの夜、ソファの上で開いた目と同じ形をしている。刃のように冷たい色が脳裏をよぎり、うなじの噛み痕が小さく疼いた。「電話の声、ひどかったよ。座って」「ごめん、急に。……朝から、熱の波が止まらなくて」 勧められた丸椅子に腰を下ろすと、硬い座面の冷たさがズボン越しに太腿へ伝わってくる。理士の白衣から、薬品の匂いと微かな苦みが漂ってきた。「壱知は? 今日ここに来ること、知ってるの?」「……言ってない。心配させたくない
last update最終更新日 : 2026-10-19
続きを読む

第8話 不出来な身体と嘘の告白

 理士がタブレットから視線を外し、僕の顔を正面から見た。切れ長の目が細められ、学生の頃から見慣れた呆れ混じりの心配が目元に滲む。「うん……熱が引いたあとに、必ず来る。夜になると、息をするのも苦しくて」 丸椅子に浅く腰掛けたまま、僕は膝の上で両手を固く握り合わせた。指先は冷えきっているのに、腹の底は焼けるように熱い。あの夜、壱知に番の印を刻まれてから、熱の波は日を追うごとに重くなっていた。(壱知に抱かれたいって、身体が訴えてくる) 身体の芯が溶け崩れるような熱と、全身の肌を粟立たせる悪寒が、交互に押し寄せてくる。関節には濡れた砂を詰めたような重さが溜まり、腕を持ち上げるだけで息が切れた。何より怖いのは、ふとした瞬間に自分の肌から立ちのぼる匂いだ。熟れすぎて崩れかけた果実のような甘さが鼻の奥にへばりつき、胃の底がせり上がる。「今も匂ってる?」「少しね。窓、開けるほどじゃないよ」 理士は鼻先で短く空気を吸い、カルテに何かを打ち込んだ。爪が画面を叩く乾いた響きが、白い部屋に小さく散っていく。「壱知はさ、心配して、完璧な環境を整えてくれるんだ。でも、そういうことじゃなくて……」 言いかけた喉の奥に、惨めさが苦くこみ上げた。下唇を強く噛むと、薄い鉄の味が舌先に広がる。「そういうことじゃなくて、何?」「……なんでもない」「歩純の『なんでもない』は、昔から何かある顔だよ」 理士の声は柔らかいまま、逃げ道をひとつずつ塞いでいく。僕は膝に視線を落とし、握り合わせた指の関節が白く浮くのを見つめた。(壱知は生真面目で、優しい奴だから) タワーマンションの最上階で、僕は壱知に守られて暮らしている。肌に吸いつく上質な寝具も、二十四度に保たれた空調も、家政婦が栄養を計算して作る食事も、壱知が用意してくれた。総務課には、熱が落ち着くまで出社しなくていいように話を通し、休職の手続きまで済ませてくれた。 壊れかけたオメガの身体が求めているのは、整えられた部屋の快適さとは別のものだ。番になったアルファの体温と、理性を脱ぎ捨てた熱に、細胞のひとつひとつが飢えている。「総務、休んでどれくらい?」「三週間。……席、なくなってたらどうしよう」「壱知の嫁の席を外す度胸がある人、あの会社にいる?」 軽い口調に、強張っていた肩から少しだけ力が抜けた。 理士の前では、張りつめ
last update最終更新日 : 2026-10-19
続きを読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status