五月が終わりに近づいていた。開け放した窓から流れ込む夜気は生ぬるく、雨を待つ土の匂いを含んでいる。降りきらない雨の気配が喉の奥に貼りつき、息を吸うたびに肺が重たく沈む。梅雨入りを目前にした湿った空気が、壱知のマンションの広いリビングに澱んでいた。絞った間接照明の下、ローテーブルには空き缶が不揃いに並んでいる。飲み残しのビールが放つ麦の匂いが、甘く饐えて鼻先にまとわりついた。溶けた氷がグラスの内側に触れ、硬く澄んだ響きが静けさを一瞬だけ震わせる。 グラスの隣には、裏返しの写真と釣書が伏せて置いてあった。厚手の和紙が薄暗がりの中で白く浮かび、テーブルの上のどの物よりも重たげに見える。この部屋に集まってから三時間、僕の視線はずっと写真の縁で止まったままだ。そこに写っている顔が誰であれ、僕にとっては壱知を奪いに来る恋敵だった。 明日の午後、東雲壱知(しののめ いち)はお見合いの席に座る。大企業の次期社長を約束された彼にとって、家柄と血統を繋ぐ見合いは仕事の延長にある。中高一貫校という閉じた温室を出たあとも、僕たち三人は時折こうして集まり、昔と同じように酒を酌み交わしてきた。ぬるま湯に浸かるような関係が、明日でひとつの区切りを迎える。「……で、明日って何時からだっけ。お姫様とのご対面は」 缶ビールを傾けながら、僕はわざと明るい声を作った。舌先に残る苦みが痺れに変わり、喉の奥へ広がっていく。痺れの正体が酒なのか、胸の奥で暴れる感情を押さえ込む力みなのか、僕自身にも判別がつきかねた。「午後から」 壱知は低く、静かな声で答えた。ワイシャツの襟元をくつろげた喉で、喉仏がゆっくりと上下する。「ふうん。相手、どんな人? 写真くらい見たんでしょ」「見たよ」「美人だった?」「さあ。気になるなら、歩純が見ればいい」 壱知の長い指が伏せた写真の縁に触れ、和紙の表面をなぞるように滑った。「やだよ。興味ないし」 僕は笑って、缶の飲み口に唇を押し当てた。ぬるくなったビールの苦みが、舌の上で重く広がる。グラスを見下ろす壱知の目は、いつもと同じ柔らかな垂れ目をしている。無造作に跳ねた黒髪の癖毛が、伏せた瞼の上に淡い影を落としていた。黒い瞳は瞳孔が大きく開き、照明の光を呑み込んだまま奥へ沈めている。底の見えない暗がりを覗くたび、胸の内側が冷たく締めつけられた。「そっか。じゃあ
最終更新日 : 2026-10-16 続きを読む