LOGIN幼馴染・壱知のお見合い前夜。歩純は粗悪な誘発剤を打ち、「初めてのヒート」を偽装した。理性を飛ばした壱知に抱かれ、うなじを噛まれ――責任をとる形で二人は結婚する。 けれど壱知は歩純を「保護」するだけで、愛の言葉はひとつもない。義務で触れてくる夫に「愛してないなら抱かないで」と告げ、当てつけに誘惑した男たちは、なぜか次々と職場から消えていく。 「あいつはもう普通じゃない。僕が逃がしてあげる」――手を差し伸べたのは、もう一人の幼馴染で主治医の理士。 偽りのヒートから始まった結婚。監視、薬、そして嘘。鳥籠の鍵を握っていたのは、いったい誰なのか。 三つの狂愛が交錯する、歪なオメガバースBL。
View More五月が終わりに近づいていた。開け放した窓から流れ込む夜気は生ぬるく、雨を待つ土の匂いを含んでいる。降りきらない雨の気配が喉の奥に貼りつき、息を吸うたびに肺が重たく沈む。梅雨入りを目前にした湿った空気が、壱知のマンションの広いリビングに澱んでいた。絞った間接照明の下、ローテーブルには空き缶が不揃いに並んでいる。飲み残しのビールが放つ麦の匂いが、甘く饐えて鼻先にまとわりついた。溶けた氷がグラスの内側に触れ、硬く澄んだ響きが静けさを一瞬だけ震わせる。
グラスの隣には、裏返しの写真と釣書が伏せて置いてあった。厚手の和紙が薄暗がりの中で白く浮かび、テーブルの上のどの物よりも重たげに見える。この部屋に集まってから三時間、僕の視線はずっと写真の縁で止まったままだ。そこに写っている顔が誰であれ、僕にとっては壱知を奪いに来る恋敵だった。
明日の午後、東雲壱知(しののめ いち)はお見合いの席に座る。大企業の次期社長を約束された彼にとって、家柄と血統を繋ぐ見合いは仕事の延長にある。中高一貫校という閉じた温室を出たあとも、僕たち三人は時折こうして集まり、昔と同じように酒を酌み交わしてきた。ぬるま湯に浸かるような関係が、明日でひとつの区切りを迎える。
「……で、明日って何時からだっけ。お姫様とのご対面は」
缶ビールを傾けながら、僕はわざと明るい声を作った。舌先に残る苦みが痺れに変わり、喉の奥へ広がっていく。痺れの正体が酒なのか、胸の奥で暴れる感情を押さえ込む力みなのか、僕自身にも判別がつきかねた。
「午後から」
壱知は低く、静かな声で答えた。ワイシャツの襟元をくつろげた喉で、喉仏がゆっくりと上下する。
「ふうん。相手、どんな人? 写真くらい見たんでしょ」
「見たよ」
「美人だった?」
「さあ。気になるなら、歩純が見ればいい」
壱知の長い指が伏せた写真の縁に触れ、和紙の表面をなぞるように滑った。
「やだよ。興味ないし」
僕は笑って、缶の飲み口に唇を押し当てた。ぬるくなったビールの苦みが、舌の上で重く広がる。グラスを見下ろす壱知の目は、いつもと同じ柔らかな垂れ目をしている。無造作に跳ねた黒髪の癖毛が、伏せた瞼の上に淡い影を落としていた。黒い瞳は瞳孔が大きく開き、照明の光を呑み込んだまま奥へ沈めている。底の見えない暗がりを覗くたび、胸の内側が冷たく締めつけられた。
「そっか。じゃあ、ちゃんと言っとかないとね」
口角を持ち上げ、僕は笑顔の形を作った。
「おめでとう。幸せになってよ」
軽口のつもりで放った祝福が、自分の鼓膜に刃物のような冷たさで突き刺さった。心臓が肋骨の裏側で痛いほど暴れている。呼吸は浅く速くなり、指先が細かく震えだす。震えを隠すため、僕は手の中のアルミ缶を強く握りしめた。薄い金属が掌の中でたわみ、結露の冷たさが指の間に染みていく。
壱知はグラスの氷を揺らし、しばらく黙っていた。
「……歩純は、それでいいの?」
「何それ。いいに決まってるじゃん。僕たち、ただの幼馴染でしょ」
「……そうだね」
短い相槌のあと、重たい沈黙が二人のあいだに降り積もる。壁掛け時計の秒針が刻む乾いた振動が、耳の奥にまで這い込んでくる。ソファのほうから、規則正しい寝息が聞こえてきた。
「ん……壱知、もう一杯……」
寝言を零したのは、赤城理士(あかぎ りお)だ。オメガ専門医として多忙な日々を送る彼は、早々に酔い潰れ、クッションを抱え込んで眠っている。癖のない真っ直ぐな赤毛がクッションの上に散らばり、薄暗い部屋の中でそこだけが鮮やかな色を灯していた。理士の白いシャツから漂う微かな消毒液の匂いが、酒の甘い匂いに混じって鼻先を掠める。
「理士、完全に潰れてるね」
「昨日は明け方まで病院にいたらしいから」
幼馴染三人で過ごす、昔から変わらない夜だった。理士が眠りに落ちたいま、リビングには壱知と僕だけが向かい合う密室の空気が生まれている。氷がまた、グラスの内側で澄んだ音を響かせた。喉元までせり上がった熱が、限界を告げていた。
「……ごめん、ちょっとトイレ」
「歩純」
呼び止める声に、背中が強張る。
「顔色、悪いよ」
「飲みすぎただけ。すぐ戻る」
僕は背を向けたまま、注がれる視線から逃げるように廊下へ出た。フローリングの冷たさが、靴下越しに足の裏へ伝わってくる。洗面所の扉を閉め、後ろ手に鍵をかける。金属の留め具が噛み合う硬い感触が、指先に小さく跳ね返った。扉一枚を隔てただけで、リビングの気配が遠く霞んでいく。
羽織っていた上着を脱いで洗濯機の上に置き、震える手で内ポケットを探る。指が掴んだのは、掌に収まる小さな紙の箱だった。数日前に届いて以来、箱はずっと上着の内側で僕の体温を吸い続けてきた。中身は、ネットの奥底で匿名の売り手から手に入れた、名前も素性も伏せられた薬だ。オメガの身体を無理やり揺さぶる危険な代物だと、頭では理解している。
蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく陶器のボウルを打ち、荒い呼吸の音を掻き消した。跳ねた飛沫が手首を濡らし、肌の熱を一瞬だけ奪っていく。白い蛍光灯の光が網膜を鋭く刺し、目の奥が鈍く痛む。ガラスのアンプルの首を折ると、薄い切り口が指の腹を掠めた。無色透明の液体を、細い注射器へゆっくりと吸い上げる。鼻を突く薬品の匂いが、湿った空気の中に薄く広がった。
冷たい洗面台の縁に片手をつき、僕は鏡の中の自分を一度だけ正面から見据えた。陸上部で鍛えた頃から健康な血色を保ってきた頬が、いまは紙のように白く褪せている。泣きぼくろの上の目元が赤く潤み、追い詰められた獣のような光を宿していた。口元の小さなほくろまで、青ざめた肌の上でひどく浮いて見える。
注射器を握る指に、汗がにじむ。息を詰めると、自分の鼓動が耳の奥で低く響く。ここで踏みとどまれば、明日、壱知は見知らぬ誰かのものになる。針先が、蛍光灯の光を受けて細く光った。
(壱知は、誰にも渡さない)
理士がタブレットから視線を外し、僕の顔を正面から見た。切れ長の目が細められ、学生の頃から見慣れた呆れ混じりの心配が目元に滲む。「うん……熱が引いたあとに、必ず来る。夜になると、息をするのも苦しくて」 丸椅子に浅く腰掛けたまま、僕は膝の上で両手を固く握り合わせた。指先は冷えきっているのに、腹の底は焼けるように熱い。あの夜、壱知に番の印を刻まれてから、熱の波は日を追うごとに重くなっていた。(壱知に抱かれたいって、身体が訴えてくる) 身体の芯が溶け崩れるような熱と、全身の肌を粟立たせる悪寒が、交互に押し寄せてくる。関節には濡れた砂を詰めたような重さが溜まり、腕を持ち上げるだけで息が切れた。何より怖いのは、ふとした瞬間に自分の肌から立ちのぼる匂いだ。熟れすぎて崩れかけた果実のような甘さが鼻の奥にへばりつき、胃の底がせり上がる。「今も匂ってる?」「少しね。窓、開けるほどじゃないよ」 理士は鼻先で短く空気を吸い、カルテに何かを打ち込んだ。爪が画面を叩く乾いた響きが、白い部屋に小さく散っていく。「壱知はさ、心配して、完璧な環境を整えてくれるんだ。でも、そういうことじゃなくて……」 言いかけた喉の奥に、惨めさが苦くこみ上げた。下唇を強く噛むと、薄い鉄の味が舌先に広がる。「そういうことじゃなくて、何?」「……なんでもない」「歩純の『なんでもない』は、昔から何かある顔だよ」 理士の声は柔らかいまま、逃げ道をひとつずつ塞いでいく。僕は膝に視線を落とし、握り合わせた指の関節が白く浮くのを見つめた。(壱知は生真面目で、優しい奴だから) タワーマンションの最上階で、僕は壱知に守られて暮らしている。肌に吸いつく上質な寝具も、二十四度に保たれた空調も、家政婦が栄養を計算して作る食事も、壱知が用意してくれた。総務課には、熱が落ち着くまで出社しなくていいように話を通し、休職の手続きまで済ませてくれた。 壊れかけたオメガの身体が求めているのは、整えられた部屋の快適さとは別のものだ。番になったアルファの体温と、理性を脱ぎ捨てた熱に、細胞のひとつひとつが飢えている。「総務、休んでどれくらい?」「三週間。……席、なくなってたらどうしよう」「壱知の嫁の席を外す度胸がある人、あの会社にいる?」 軽い口調に、強張っていた肩から少しだけ力が抜けた。 理士の前では、張りつめ
理士のクリニックの重い扉を押し開けると、消毒液の澄んだ匂いが鼻の奥を細く刺した。 壱知を見送ってから一時間ほど、僕はリビングの絨毯の上で身体を丸め、押し寄せる熱の波に耐えていた。波が引いた隙に、汗で湿った指でクリニックに電話をかけた。予約の空きを尋ねる前に、理士は『すぐおいで』と短く告げた。後部座席に身体を預けている間も、背中を這う悪寒が骨の奥で震え続けていた。 扉を背後で閉めると、外の喧騒が分厚い壁の向こうへ遠のいていく。ひんやりとした静けさが、雨に湿った肌を包み込んだ。さっきまでビニール傘を打ちつけていた梅雨の雨の響きも、ここまでは届かない。 都内の一等地にひっそりと看板を掲げる理士のクリニックは、完全予約制でプライバシーを徹底している。政財界の人間がお忍びで通うと噂されるほどだ。待合室の革張りのソファは身体が沈むほど柔らかく、天井から低く流れる環境音楽が耳の表面をなぞっていく。ほかの患者の姿は、どこにもなかった。受付のカウンターに置かれた白い蘭の鉢から、湿った土の匂いがかすかに立ちのぼっている。 看護師に案内された診察室は、白一色で統一されている。壁紙も大理石の床も、装飾のないデスクも、ガラス棚に並ぶ医療器具も、神経質なほど白い。天井の照明が白さを跳ね返し、目の奥が鈍く痛んだ。空調の低い唸りが、部屋の隅で耳鳴りのように続いている。 白い部屋の中で、デスクに向かう理士の赤い髪だけが鮮やかな色を放っていた。癖のない真っ直ぐな赤毛が、白衣の肩に流れ落ちている。雪の上に落ちた血の雫のように、赤が網膜に焼きついた。「よく来たね、歩純。顔色、あまり良くないみたいだけど」 キャスター付きのレザーチェアが床を滑る低い響きとともに、理士がこちらへ振り返った。白衣の下には、細身の黒いシャツを着ている。切れ長の目が、穏やかな弧を描いて細められた。 あの夜、ソファの上で開いた目と同じ形をしている。刃のように冷たい色が脳裏をよぎり、うなじの噛み痕が小さく疼いた。「電話の声、ひどかったよ。座って」「ごめん、急に。……朝から、熱の波が止まらなくて」 勧められた丸椅子に腰を下ろすと、硬い座面の冷たさがズボン越しに太腿へ伝わってくる。理士の白衣から、薬品の匂いと微かな苦みが漂ってきた。「壱知は? 今日ここに来ること、知ってるの?」「……言ってない。心配させたくない
閉じた扉の前で、僕はしばらく立ち尽くしていた。押し返した掌を握り込むと、壱知の鼓動の響きがまだ皮膚の内側に残っている。 磨かれた大理石の三和土に、壱知の革靴の跡が薄く浮かんでいる。玄関に漂っていたシトラスの香りも、空調の風に溶けて消えかけていた。 素足のままリビングへ戻ると、絨毯の柔らかな毛足が足の裏を包んだ。広い部屋に、空調の低い唸りだけが耳鳴りのように満ちている。窓の外では雨脚が強まり、灰色の街がガラスの向こうで滲んでいた。 右手が、無意識のうちにうなじへ伸びる。 髪の生え際の、わずかに盛り上がった皮膚を指先でなぞった。今朝、壱知が甘く噛んだ場所が、まだ熱を持っている。指先に移った自分の体温が、壱知の唇の温度を呼び起こした。あの夜に刻まれた歯の痕は、とうに塞がって薄い桃色の筋になった。触れるたびに、皮膚の奥で小さな疼きが脈打つ。壱知が僕の持ち主だと告げる印が、指の腹の下で息づいていた。(――これでいいんだ) ふざけ合って笑い転げた昔の二人は、遠い記憶の中に置き去りになった。あの夜から、壱知の唇が紡ぐのは体調を気遣う短い言葉ばかりだ。壱知の左手の薬指には、僕と揃いの指輪が嵌まっている。(愛されなくてもいい。そばにいられるなら) 下腹部の奥で、重く濁った熱が頭をもたげた。「っ……また……」(まだ、朝なのに) 血の気が引き、窓の外の景色が大きく傾く。膝から力が抜け、僕は窓ガラスにすがりつくようにして崩れ落ちた。額がガラスに当たり、鈍い衝撃が頭蓋の奥まで響く。外の雨に冷やされたガラスが、火照りはじめた額にひんやりと吸いついた。内側から燃え上がる熱は、ガラスの冷たさを一瞬で呑み込んでいく。床に近い視界の中で、ソファの脚とダイニングチェアの脚が斜めに傾いて見えた。飲み残した紅茶の渋い香りが、甘ったるい自分の匂いに押し流されていく。 壁の時計は、壱知が出ていってから四十分ほど進んでいた。部屋着のポケットで、スマートフォンが震える。 太腿に伝わる細かな振動に、心臓が跳ねた。震える指で画面を見ると、壱知の名前が光っている。荒い呼吸を喉の奥へ押し込み、通話のボタンを押した。「……もしもし」『体調はどう?』「大丈夫だよ。さっき出社したばっかでしょう? 心配しすぎだよ」『声、どうした?』 受話口から届く低い声が、わずかに硬くなる。壱知の背後で、
「壱知、もう出るの?」「ああ。もう車が下に来てる」 壱知は腕時計に目を落とし、短く答えた。背中を包んでいた腕がほどけ、肩甲骨に残った温もりが空調の風に冷やされていく。「今日も雨だね」「梅雨だから。外に出るなら、傘を持って」「出ないよ。どこにも」 窓の外へ目をやると、ガラスを伝う雨の筋が灰色の空を細かく裂いていた。振り返ると、手を伸ばせば届く場所に壱知が立っていた。僕は声の震えを喉の奥で押し殺し、幼馴染らしい軽い笑みを口元に貼りつける。唇の端を引き上げる頬の筋肉が、こわばって小さく痙攣していた。壱知にとっての『面倒な義務』が、これ以上増えていくのが怖い。 糊の利いたシャツの襟元から、洗い立ての布の匂いが届く。シトラスの奥に潜む冷えた森の匂いに、噛まれたばかりのうなじが甘く疼いた。 壱知の手が、ゆっくりと僕の顔へ伸びてくる。長い指が前髪を払い、掌が額に重なった。壱知の体温は、いつも僕より少し高い。冷水にくぐらせたあとのようにひんやりとした掌が、額の一点だけを正確に押さえている。「熱はないね」 熱を確かめ終えた掌は、触れたときと同じ静けさで離れていった。額に残った冷たさを追いかけそうになり、僕は太腿の横で指を握りしめる。「だから、平気だって言ったでしょ」「うなじは? まだ痛む?」「少しだけ。……さっき、壱知が噛んだから」「そうだね」 壱知の目元が、悪戯を認めるようにかすかに緩んだ。「昨日の夜、少しうなされてた」「……そうだった? 覚えてないや」「水、飲ませたよ。それも覚えてない?」 記憶の底を探っても、夜の時間は黒く塗りつぶされたままだ。喉に残る微かな渇きだけが、壱知の手から水を受け取った名残のように張りついていた。「……ごめん」「謝ることじゃない」 壱知の指が、乱れた僕の前髪を耳にかけた。耳殻をかすめる指先が、ひんやりと冷たい。「……僕、寝ながら何か言ってた?」「名前を呼んでた」「誰の?」「俺の」「……恥ずかしい」「なんで。嬉しかったよ」 頬に熱がのぼり、耳の先まで火照っていく。壱知の声は、天気を告げるときと同じ平坦な温度を保っていた。「何かあったら、すぐ連絡して。誰から電話が来ても、出なくていいから」「……誰かって?」「会社の人とか。理士とか」 理士の名前に、あの夜ソファで開いた切れ長の目が瞼の裏によ