リゼット・ベルナールは契約書を最後の一行まで読む女である。春の午後の光が、ベルナール子爵家の古い応接間に斜めに差しこんでいた。色の褪せた絨毯の上で細かなほこりがゆっくりと舞い、窓の外では父が手入れを欠かさない薔薇のつぼみが、まだ固く口を閉じている。「――というわけだ、リゼット。お前はドナン男爵の後妻に入る。期限は一か月。それで兄さんの借金は帳消しになる」叔父のロジェは上等な外套の襟を指先で直しながら、天気の話でもするように言った。整えすぎた口ひげが、得意げに持ち上がる。向かいの長椅子では、父のジェラールが両手を膝に置いたまま、うつむいていた。日に焼けた手の甲に、細かな土が残っている。今朝も庭に出ていたのだろう。この人は困ったことがあると、決まって土に触れに行く。「ドナン男爵というと、金貸しの」「そうとも。王都でも指折りの資産家だ。六十を過ぎて独り身でな、若い妻を望んでおられる。お前にはもったいない話だぞ」リゼットは膝の上で組んだ指に、少しだけ力をこめた。泣くべき場面なのだろう、と頭の片隅で思う。けれど涙より先に浮かんできたのは、我ながらあきれるほど事務的な問いだった。「叔父様。その借金の、借用契約書を見せていただけますか」叔父の眉が、ぴくりと動いた。叔父は昔から、真顔で見上げてくる姪の黒い瞳が苦手だった。三白眼の猫目は本人にそのつもりがなくても、相手を値踏みしているように見えるらしい。「なに? ……その目つきはやめろ。相変わらず可愛げのない」「父の名前で借りたお金なのでしょう。いくらを、いつまでに、どういう条件で返すのか。読まずに決めることはできません」父が顔を上げ、困ったように娘と弟を見比べた。その目には、どちらの味方をすればいいのか分からないという迷いが浮かんでいる。「リゼット、ロジェは私たちのために、男爵と話をつけてくれたんだよ。ロジェの事業のことで、何度か書類に名前を書いたからね。そのどれかなんだろう」「どれか、ですか」「どれだったかなあ……」父は本当に分からないという顔で、首をかしげた。リゼットは胸の内で、そっとため息をついた。父は書類を渡されれば読まずに名前を書く人だ。相手が弟ならなおさらで、読むことなど思いつきもしない。そのたびに損をして、そのたびに笑って許してきた。
Last Updated : 2026-10-26 Read more