啓司はわずかに表情を曇らせた。
「彼女がそう言うなら、牡丹別荘で彼女の世話をしておけばいい」
鈴がどうなろうと構わない。紗枝が余計な情をかけるつもりなら、面倒ごとごと押し付けてやればいい。そんな思いが、啓司の中にあった。
一瞬、鈴は言い淀みかけたが、すぐに思い至った。牡丹別荘に行くということは、間接的に啓司と同じ敷地で暮らすことになる。口元が自然とほころんだ。
「はい。すぐに牡丹別荘へ向かいます」
まさかこんなにあっさり事が運ぶとは。鈴は思わず足早になった。
そのころ紗枝は、啓司がまた「厄介者」を自分に押し付けたことなど知る由もなかった。昨夜修正した楽譜を持って出かけており、鈴が牡丹別荘へ到着した時には、すでに不在だった。
屋敷の使用人たちは鈴を知らず、玄関で家政婦が逸之に尋ねると、少年は即座に首を振った。
「すずって誰?僕、知らないよ」
家政婦は眉をひそめると、すぐに入口の警備員に伝えた。
「また社長に頼みごとをする類の人か、あるいは社長に取り入ろうとしてるんでしょう。追い返しなさい」
彼女はいつも、紗枝と逸之の味方だった。ひとりの女性として、愛情には誠実さが何より大切だと知っていたし、啓司のような男には、そういう「寄ってくる女」も珍しくないこともよく理解していた。
「おばさん、すごいね!ママが帰ってきたら言うよ、きっと褒めてくれるよ!」
逸之は目を細めて、にこっと笑った。
「褒めなくてもいいから、給料が上がればそれでいいんだけどね」
家政婦は肩をすくめて笑った。
「任せてってば!」と少年は胸を張り、ぽんっと彼女の肩を軽く叩いた。
「はいはい、期待してるわよ」
この一年あまり、逸之の世話を任されてからというもの、家政婦は地道に給料を貯め続けていた。おかげで今では、桃洲の郊外に家を買う頭金に手が届くほどになっていた。ちなみに、桃洲でも最も安いエリアですら、坪単価は80万円以上。黒木家の給与は、その分、破格だった。
一方その頃、牡丹別荘の門前では、鈴は着替える暇もなく、傘を差してはいたものの、全身が冷えきっていた。風に煽られ、衣服の裾が濡れ、唇は紫に染まっている。
「お願いです。開けてください......啓司さんが、私にここで働くようにって......」
その甘えた声に、警備員は一瞬、心を揺らしたが、職務は職務だ。
「申し訳