深雪は目を赤くし、興奮したように何度も頷いた。
「うん!伸と結婚するなら、喜んで!」
周囲の撮影チームが一斉に騒ぎ始めた。
「付き合っちゃえ!付き合っちゃえ!」
車の中で、鹿乃は冷たい表情でその光景を見つめていた。
全身が冷たくなっていく。
5年前、
伸が彼女にプロポーズしたときも、同じように真剣で情熱的だった。
彼もまた、きちんとした黒いスーツを身にまとい、鮮やかなバラを抱え、用意した指輪を差し出していた。
あの時、彼は涙を流しながら言ったのだ。
「俺は鹿乃だけを愛する。ほかの女なんて心に入らない」
「お願いだ、俺と結婚してくれ」
「誓うよ、この俺、小笹伸が浮気したら、万死に値するよ」
全部、全部嘘だった。
鹿乃は冷たく笑った。笑いながら、ふと涙が頬を伝った。
誓いなんて全部嘘。
本気なんてものも、結局はその場限りで消えてしまうもの。
隣で絵美が心配そうに彼女を見つめ、優しく声をかけた。
「二人は行っちゃったよ......追うの?」
「うん」
鹿乃は伏せたまつ毛をゆっくり上げ、窓の外を見やった。
このあと、伸たちがどこに行くのか、確かめたい。
1時間後、ベンツはある高級料理店の前に停まった。
そのレストランは林能城で最も賑わう場所にあり、窓際の席は予約困難で有名だ。
食事の時間ではないため、店内はまばらにしか客がいない。
テーブル同士の間はパーテーションでしっかり区切られており、プライバシーが守られていた。
さすがに用意周到だ。
鹿乃は、伸たちが店に入るのを見届けると、近くの店で少し大人びた服装を買い、マスクと帽子を被ってからゆっくり店内に入った。
絵美はすでに準備万端だった。
金を積み、伸たちの真後ろの席を予約してくれていた。
二人が席に着くと、間もなく中年夫婦が店員に案内されて伸のテーブルに座った。
夫婦は五十代くらいで、一見普通の人に見える。
しかし、女性の顔立ちはよく見ると深雪とかなり似ていた。
「まさか、伸は深雪の両親に会ってるの?」
絵美が思わず声を上げた。
鹿乃は無表情でスマホを取り出し、絶妙な角度を見つけ、パーテーションの隙間から写真を何枚か素早く撮った。
タイミングは完璧だった。
伸が深雪の母親にブラックカードを渡している瞬間もバッチリ押さえた。
「クソ野郎、気前いいじゃん」
絵美が小声で毒づいた。
鹿乃は少し視線を落とし、スマホをゆっくりしまった。
昔、伸が自分の両親に初めて挨拶に来たときも、誠意を見せようとして同じようにブラックカードを差し出していた。
しかし、両親はそれを断った。
彼らは娘を「売る」つもりなんてなかったから。
それなのに今、同じ光景を目の当たりにすることになるなんて。
「......行こう」
もう、ここに一秒もいたくない。
一階に降りると、絵美が家まで送ろうかと聞いてきたが、鹿乃は首を振った。
「絵美......私、今は頭がぐちゃぐちゃで。ひとりにしてくれる?」
絵美はそれ以上何も言わず、ただ「気をつけて」と何度も繰り返した。
絵美が立ち去ったあと、鹿乃はひとり街を歩いた。
外は気温が氷点下一度まで下がっていて、薄い上着だけでは寒すぎた。
だけど、その冷たさなんて、心の寒さに比べたらなんでもなかった。
どれだけ歩いたのか、自分でも分からない。
そんな時、スマホが震えた。
伸からのメッセージだった。
画面を開くと、目に飛び込んできたのは三枚のウェディングフォト。
一枚目、深雪が伸の肩にもたれ、恋人同士のように親密な姿。
二枚目、二人が甘く口づけを交わしている写真。
三枚目、伸が片膝をつき、花束を差し出しているところに、深雪が誇らしげに笑っている写真。
さらにメッセージが届いていた。
「今日はウェディングフォトを撮ったの。彼は人前で私にプロポーズしてくれたのよ。すごく感動した」
「彼のほうから私の両親に会いたいって言ってくれてね。籍こそ入れられないけど、結婚に必要なことは全部済ませたよ」
「一夫多妻は何が悪いというの?私は受け入れられるよ。あなたはどうかな?まあ、私は損しないし」
鹿乃はその挑発的な言葉を黙って読み終え、何も返信しなかった。
三枚の写真を秘書に送り、自分が撮影した伸と深雪の家族との食事写真、そして全てのチャット記録をまとめて送信した。
「結婚式当日、全部流して」
全ての操作を終えると、鹿乃はスマホをポケットに戻した。
ぼんやりと街を歩く。
まるで魂が抜けたように。
そのとき。
急に黒い車がコントロールを失い、ものすごいスピードで彼女の方に突っ込んできた。
ドンッ!
避ける間もなく、鹿乃の体は空中に投げ出され、2メートル先の地面に叩きつけられた。
どれだけの時間が過ぎただろう。
鹿乃はゆっくり目を開けた。
消毒液のツンとした臭い。
目の前には真っ白な病室の天井。
伸がすぐに駆け寄ってきた。
その目は赤くなり、不安と後悔が入り混じった表情。
「目が覚めた?どこか痛いところはない?」
鹿乃は視線をゆっくり動かし、彼に向けた。
男は必死な顔で彼女を見つめている。
まるで、代わりに傷つきたいとでも思っているように。
吐き気がこみ上げた。
あのウェディングフォトの光景が頭をよぎり、胃がひっくり返るようだった。
伸。
いったいどれが本当のあなたなの?
「どうして黙ってるんだ?苦しい?医者を呼んでくる!」
伸が立ち上がろうとした瞬間、鹿乃は彼の手を掴んだ。
掠れる声で、静かに問うた。
「どうして伸がここに?」