「やめて......お願い......殴らないで、やめて」
「痛いの......痛いの......」
涼川は男の襟首を掴んだ。「彼女に何をした?」
男は眼鏡を直しただけ。レンズが白い光を反射し、背筋が凍るような冷たさを放つ。
「涼川様、落ち着いてください」
医師は皺になった襟を整えながら言った。「夏目さんは協調性に欠けるもので。乱闘を起こした患者たちには、既に処分を下しました」
「患者?」その言葉を噛み締めるように言って、涼川の表情が和らいだ。
「若菜、子供の頃と変わらないな」
彼は疑うことさえしなかった。
だって私は昔から虐められ、どのクラスにも馴染めなかったから。
でも、姉が来る前は、私だって愛されていた子だったのに。
「これにサインしろ。
千夜が治ったら、また一からやり直そう」
彼は朱肉の押された書類を丁寧に差し出した。
白黒はっきりとした文面には、私が自発的に人体実験を引き受けると書かれていた。
強制も脅迫もない。ただの自発的な意思。
私は目の奥の熱さを必死に押し殺した。
やり直す?
かつて心を躍らせた彼の顔を見つめながら、私は名前を書いた。
正式な治験が始まる日。
病室が賑やかになった。
両親も、夫も、姉も来ていた。
八つの目が私を焼くように見つめる。
「若菜、何を躊躇っているの?お姉さんが薬を待っているのよ」
手首に鋭い痛みが走り、私は眉をひそめた。
父はそれを不満の表れだと思ったのか。
「若菜、いい加減にしなさい。お姉さんは妊娠してるんだ。待てないんだぞ」
妊娠?
だから涼川は焦っていたのね。
私が鬱病にもなっていないうちに、看護師たちに浴室で押さえつけられた。
冷たい水に浸かった体。手首から粘つく血が滴り。
浴槽の水を赤く染めていく。
フラッシュが目を刺す。失血で体が冷たくなり、血の流れが遅くなっていく。
乱暴に引き上げられ、手首を包帯で巻かれた時、
傷が深すぎて、もう二度と筆は持てないと告げられた。
最初、涼川は信じなかった。
私が痛がりだということを、知っていたから。
子供の頃、少し擦り傷をつくっただけでも泣きながら彼を探していた。
そんな私が、決然と自殺するなんて信じられなかったのだ。
でも今は信じるしかない。だって私はあんなに絵を描くのが好きだったから。
きっと本当に死にたかったのだろう、と。
彼の目が喜びに輝き、治験の日程は前倒しになった。
「若菜」
涼川が私を呼んだ。その目には強い警告が込められていた。
唇に血の味を感じながら、私はコップを手に取り、一気に飲み干した。
父は即座に手を叩いて喜んだ。
「匠、これからは千夜を頼むよ」
母は姉の手を取り、なだめるように言った。
「自分を責めないで。若菜は自分から望んだことなのよ」
姉は心を痛めるような表情を浮かべながら、私をまっすぐ見つめた。目の奥には見慣れた挑発が潜んでいる。
「お父さん、お母さん、私より妹のことを心配してあげて」
涼川は溜息をついた。「千夜、君は優しすぎる」
彼女は心配そうな顔で「若菜はしっかり休んで。お医者様にちゃんと診てもらわないと」
そう言いながら、手首の赤い紐を回す。
縁結びの古びた結び目は、彼女の華やかな姿とは不釣り合いだった。
「確かに、薬の副作用を確認しないとな」
涼川はそう言って、私を連れて行かせた。