Chapter: 第十四話 香織はどうにかして、結衣から司の心を取り戻すために、彼女のような「献身的な妻」を演じることを決めた。「お姉様には敵わないのは分かってます……。でも、一生懸命頑張ります! だから、私にチャンスを下さい、司さん……」 健気に自分に縋ってくる香織の姿を思わず、あの頃の結衣と重ねてしまい、司は「好きにすればいい」と答えた。 彼の言葉に、香織は内心結衣に対する嫉妬心でいっぱいだった。 以前の彼はこんな風に冷たくなかった。もっと愛おしい瞳で私を見つめ、妊娠したときには嬉しそうにお腹を撫でてくれていた。 それが今は自分と居ても上の空。どんなに話しかけても適当な返事しかしてくれなくなっている。 理由は分かっていた。司の妻である結衣のせいだ。 司はまだ自分の感情に気付いてはいないようだが、自覚されては困る。そうなってしまったら、今度こそ私の居場所がなくなってしまう。 だが、香織にはお腹の子という最大の切り札がある。正直子供は好きじゃない。しかし、神谷家の跡取りを孕んでいる自分は大事な存在に変わりは無いはずだ。 ――子供がいないお姉様より私の方が上よ! 香織は奥歯を噛みしめながら、やりたくない家事をこなす。 家事をする香織を見ながら、司は小さくため息をつく。 結衣と比べたら雑な掃除、下手な料理。香織が何をしても、すべて結衣と比べてしまっていた。 だが、健気に頑張る香織があの頃の結衣のようで、なぜか邪険に扱うことが出来なかった。「司さん、少しお腹が張ってきたので少し休みますね……。本当にすみません……」「いや、お腹の子が大事だからな。……あの時は心にも無いことを言ってしまって悪かったな、愛してるよ、香織」 司は香織に虚偽の愛を囁き、そっと抱きしめる。 香織は嬉しそうに司にもたれ掛かるが、心の中で悪態をついた。 ――気持ちがこもってないこと、気付かないとでも思っているのね……。 それでも、司の意識を自分に向け
Last Updated: 2026-08-31
Chapter: 第十三話あれから結衣達は律の別荘で穏やかに過ごしていた。 こんな穏やかな気持ちで過ごしたのは、いつ以来だろうか? 結衣はそんなことを思っていた。 遊んでいる奏太を微笑みながら見つめる結衣に、冴が急にニヤニヤとしながらこう話しかける。 「ねぇ、結衣。律さんの結衣を見る目が完全に恋する男だと思うんだけど!」 冴にそんなことを言われ、結衣は慌てる。 「な、何言ってるの! 律さんは私と利害一致してるから協力してくれてるだけよ!」 結衣は少し顔を赤らめながら必死に否定するが、そんな彼女の姿に冴はますますニヤニヤと笑うだけだった。 助けを求めるように、結衣は薫を見るも、彼も笑うだけで助けてはくれなかった。 「もう、二人して揶揄わないで!」 「何の話ですか?」 律が急に現れ、結衣はますます慌てる。 そんな結衣を知ってか知らずか、冴が律に尋ねる。 「ねぇ、律さんって結衣のことどう思ってるの?」 突拍子もない質問に、律は目を丸める。 しかしすぐに爽やかな笑みを浮かべる。 「……とても素敵な人だと思ってますよ」 律は結衣を真っ直ぐ見つめながらそう言う。そんな彼に結衣はとても照れてしまった。 律はいつも真っ直ぐ結衣を褒めてくれる。そんな彼に結衣は毎回ドギマギしてしまう。 ずっと尽くしていた司には、労るような言葉も、日本画修復師としての功績を褒めてくれることさえ無かった。 こんなに自分のことを認めてくれる存在が親友達以外でいるとは、思いもしなかった。 司が私を認めてくれないのは、自分の力不足だと思っていた。 だが、そうじゃなかったのだと改めて実感させられる。 「そろそろ朝食を食べましょうか」 律の言葉に、結衣達はテーブルへと着き、みんなで食事を楽しんだ。 その後、奏太を子供部屋に向かわせ、大人だけで今後の話を始める。 「しばらくは何かしらの行動を起こすのは危険です」 律が静かにそう告げる。まだまだ証拠が不十分であること、神谷家がもみ消しを始めていることなどが説明された。 「でも、これだけの証拠を一気にもみ消すことが出来るのか?」 薫が疑問をぶつける。 「神谷家には容易いことです。もっと確実にことを進めるためには慎重になるしかない」 律の言葉に薫が悔しそうに唇を噛む。 「ですが
Last Updated: 2026-08-30
Chapter: 第十二話 司の言葉に香織はワナワナと震え出す。 ――あの女さえ居なければ……! そしたら私は今頃……! 司からの寵愛を受けていた香織には、こんな扱いをされることがとても耐えられなく、そして納得できなかった。 香織は司からの言葉が信じられなくて、放心してしまう。 ――ずっと愛していると伝えてくれていたのに……! あの言葉は全部嘘だったの? 香織は悔しさで涙をこぼす。ハラハラと涙をこぼす彼女を、司は冷え切った瞳で睨み付けた。 通話越しにそんなやり取りを聞いていた律は、ほくそ笑みながら司に話しかけた。「さよなら、兄さん。良い夜を」 それだけ告げると、律は通話を切る。そして大きく笑った。やっとあの鉄仮面を崩してやったと歓喜した。 司は放心している香織に「早く出て行け」と告げ、力が抜けている彼女を外へと追い出した。 ドアの外では香織がか細い声で司に縋るように「待って、司さん、開けて……」と声を上げている。 ――くそ、なんで俺がこんな目に遭わなければならないんだ! 司はギリギリと奥歯を噛みしめ、部下に電話をかける。「おい、頼んでおいた件は分かったのか」 苛立ちを滲ませた声色に部下は怯えながら、言葉を発した。「は、はい……。あの子供は神谷様と結衣さんのお子さんのようです」 その言葉に司は目を見開く。 ――なんだと、俺の子? 俺の子だと……! その時司は、前に無理矢理結衣を抱いたことを思い出す。あの時出来ていたのが写真の子供の正体だったとは……。 跡取りを孕んだのは、香織だけだと思い、大事にしていたがもうその必要はない。 元々跡取りを産んだ後に捨てる予定だった女だ。すでに跡取りがいる以上、もう香織に用はなかった。 ますます結衣を取り戻す理由が出来た。なんとしてでも、跡取りである子供と天才日本画修復の結衣をこの手に入れなければ……。 司は焦りに身を焦がす
Last Updated: 2026-08-15
Chapter: 第十一話 不安そうに律を見つめる結衣。そんな結衣が安心するように、律は微笑みながら「問題ないですよ」と告げる。 司からの脅しに不安を感じていた結衣だったが、彼の言葉に少し安堵する。 なぜだか律の笑顔を見ていると、結衣は心の底が安心感に包まれる感覚があった。 なぜそんな感覚を感じるのかは、結衣には分からなかったが、彼といると本当の自分でいられるような気がしたのだ。 なんだか離れたくない様な気持ちになりながら、結衣は律に何か話そうと頭をひねる。 しかし、何も言葉が浮かばなくて、結衣はただただ無言で下を向くことしか出来なかった。 そんな結衣を見て、律は微笑みながら彼女にこう告げた。「そろそろ結衣さんを奏太君に返してあげなくちゃね。お母さんを取られて拗ねているかもしれない」 律はクスクスと笑いながら、結衣にそう言い、部屋へと送る。 部屋に戻る間も会話はほとんど無く、結衣は困ってしまう。 あっという間に部屋に着いてしまい、結衣は慌てたように律に声をかけた。「あの! 律さん、本当にありがとうございます」「……お礼を言われることなんて何もしてませんよ。それではおやすみなさい」 律が去って行く後ろ姿を見ながら、結衣は彼が言いかけた言葉のことを思い出す。 律は一体何を言うつもりだったのだろうか? しかし、そのうち話してくれるだろう。そう思い、結衣は奏太の元へ戻った。「奏太、お待たせ」「ママ、僕、もう眠いよぉ……」 眠そうな奏太に微笑みながら、結衣は奏太をパジャマに着替えさせ、一緒のベッドに入り込む。 隣で眠そうにしがみついてくる奏太がとても愛おしく感じながら、結衣は「早く寝ようね」と声をかける。 眠るのがおしいのか、奏太はイヤイヤと首を振る。そんな奏太がとても可愛らしかった。 奏太のお腹をトントンと一定のリズムで叩きながら、寝かしつけ、結衣は奏太の寝顔を見つめた。 ――今後
Last Updated: 2026-08-14
Chapter: 第十話 律は結衣達を車へ案内し、運転手に出すよう告げる。 初めて乗る高級車に、奏太は何処か興奮気味だ。そんな奏太を微笑ましく見つめる結衣。 向かった先は、律が神谷家から与えられている別荘だった。 与えられているというよりは、本家から隔離されているような物だ。 臭いものに蓋をするというような形で、それでいてみすぼらしい物は神谷家の恥になる。 その結果、こんな離れた土地にこんな豪華な家を建て、律に与えていたようだ。 初めて見る凄く豪華な家に、奏太はますますはしゃぐ。そんな奏太のよそに結衣達は、あまりの豪華さに唖然としていた。「しばらくはここが家だと思って、ゆっくり過ごしてください」 律にそう言われ、結衣達はそれぞれ案内された部屋に荷物を運んだ。 結衣は奏太と同じ部屋に案内される。その部屋には、子供が喜びそうなおもちゃなども用意してあった。 律の気遣いに結衣は感謝しながら、荷解きを始める。奏太の洋服や持ってきていたお気に入りのおもちゃなども置いていく。「今日からママとずっと一緒なの?」 奏太にそう言われ、結衣はハッとする。こんな風に奏太と二人きりで過ごすのは初めてだと気付いた。「えぇそうよ。これからはずっとママと一緒だよ!」 結衣の言葉に奏太はとても嬉しそうに笑い、抱きつく。親子二人きりの時間に、結衣は思わず涙ぐんでしまった。 そんな結衣に、奏太は自慢のおもちゃなどを彼女に見せ、子供らしい可愛らしさで甘えた。 今までの奏太は、どこか結衣に遠慮をしているようなところがあった。 だが、今は年齢に合った甘え方をしてくれている。それが結衣にとってとても嬉しかった。 しばらく奏太との二人きりの時間を楽しんでいたところ、コンコンとドアをノックされる。 ドアを開けると、そこには律の姿があった。こんな時間にどうしたのだろうか? 結衣は不思議に思いながらも、律を迎え入れようとする。「結衣さん、少し
Last Updated: 2026-08-13
Chapter: 第九話 香織のせいで結衣が出て行ったことに、司は激しい苛立ちを覚えた。 こいつがいきなり家に来なければ、結衣が逃げ出すことは無かったというのに……! しかし、結衣に行く当てなんか無い。実家に売られ、帰る家はここだけなのだ。 帰ってくるのは時間の問題だ。司はそう考え、苛立ちを押さえる。 帰ってこないということは、自ら親友を裏切ることにもなる。彼女にそんなことは出来ないだろう。 司は泣いて詫びを入れながら帰ってくる結衣の姿を思い浮かべ、ほくそ笑む。 隠していた子供のことも、彼女から聞かずとも調べれば分かることだ。子供の正体も結衣を追い詰める鍵になるだろう。 とにかく今は、この女をどうにかするべきだ。そう思い、怒り狂う香織にむき直した。「司さん! なんで、あの女を止めるの?! 私さえ居ればいいじゃない!」 キンキン声で叫ぶ香織に嫌気がさしながらも、司は彼女の頭を撫でる。「すまない。まだあいつは利用価値があるんだ。――愛しているのは香織だけだよ」 優しげに笑う司。そんな彼の姿に機嫌を直したのか、香織は嬉しそうに彼に抱きついた。「そんなにはしゃぐな、お腹の子がびっくりするぞ」 司は優しい手つきで香織のお腹を撫でる。そんな彼に、香織はそっと顔を近づけてキスを強請る。 香織とキスなんて何度もしてきている。だが、先程の結衣と交わしたキスを上書きされるような気がして、司は心の中がモヤモヤとした不快感に襲われた。 ――だが、ここで断ると余計に機嫌を損ねてしまうな……。 司は不快感を押さえながら、香織にキスを落とした。 先程の結衣とのキスとは全く違う感触。夢中になる香織と反対に司は上の空だった。 律と結衣を乗せた車は、薫と冴の元にたどり着いていた。 インターフォンを押すと、目を腫らした冴がドアを開け、結衣の姿を見た瞬間涙を溢れさせ、彼女に抱きついた。「結衣、結衣ぃ……! 本当にごめん、ごめんね……!」 泣きじゃくる冴を宥めながら、結衣は薫の姿を探す。 「冴、私は大丈夫だから……。ところで薫は?」 「薫は、奥にいるよ……。それより、結衣その人は?」 冴は律を睨みながら尋ねる。結衣は少し困りながらも「彼は、味方よ。詳しくは中で話すから」と説明する。 中に入り、奥に向かうとうなだれている薫の姿があった。その顔は少しやつれているように見える。「薫
Last Updated: 2026-08-12
Chapter: 愛を強いる指先翌朝、気だるい体を引きずるように、私は洗面所へと向かう。鏡を見ると、蓮から付けられた無数のキスマークの中に赤黒い指の形をした痣が残っていた。痛々しいその痣を呆然と見つめていると、後ろから蓮が現れ、私を抱きしめる。私に付いた指の痣を撫でながら、耳に口を寄せる。「僕の跡がくっきりと残ってるね」綺麗に微笑みながら、蕩けた声を出す蓮。私はなんて返していいか分からず、顔に笑みを作る。そんな私に、蓮はキスを落とし、寝癖の付いた私の髪をブラシで整え始めた。鏡越しに私の瞳を見つめ続ける蓮。私は逸らさずにそのまま見つめ返す。抵抗しなくなった私にご満悦な様子で、蓮は私の顔に化粧を施し始めた。ファンデーションが私の素肌を覆い隠していく。それが私を消されていくような感覚に感じた。私の好みでない化粧。私の好みでない洋服。すべて蓮の好みで包み込まれ、『私』はどこにも居なくなってしまった。「とても綺麗だよ、紬」蓮が微笑みながら、私を撫でる。その指先はどこまでも冷たかった。鏡の中には嬉しそうに微笑む蓮と綺麗に着飾った私がいる。笑う蓮と対称に私の顔には一切の感情が無かった。手を引かれながら、リビングに向かい、私を椅子に座らせる。いつもならここで蓮が朝食を用意するのだが、今日は違った。「ねぇ、紬の作ったご飯が食べてみたいな」蓮の無邪気な声に、私の心は一気に黒く塗りつぶされる。私が思い出さないようにしている思い出すら、塗りつぶそうというのか。湧いて出た怒りを無理やり押し込み、私は口だけ笑みをかたどる。「私、そんなに料理が上手くなくて……。蓮くんの口に合うかどうか……」「大丈夫、紬が作ってくれたものならなんでも美味しいよ」「……そっか、わかったよ」私はキッチンに立ち、冷蔵庫から適当に材料を出す。料理を作る私の姿を、ニコニコと見つめる蓮に殺意が湧きそうになる。包丁を持つ手に力が入る。これを使えば、あの人から逃げられるのでは……?そんな考えを頭から振り払い、無言で料理を続けた。卵焼きと鮭の塩焼き、味噌汁を作り、私は陽の所で食べたものを無意識に作ってしまったことに気が付く。ますます心が黒く染まる。どうして、この人はこんな酷いことを私に強いるのだろうか?私がいったい何をしたのだろうか……。蓮は出来た料理を眺め、スマホを取り出すと、カシ
Last Updated: 2026-06-07
Chapter: 飼育箱への帰還陽の姿がどんどん遠ざかり見えなくなる。蓮は黙ったまま、私の手を握っている。その冷たい手が、陽の暖かい温もりを奪っていくようだった。「紬、もう大丈夫だよ。佐倉が失礼なことをしたみたいだね……。彼女には言い聞かせといたからこんなことは二度と起こらないよ」蓮は、愛おしそうに私の頭を撫でる。私は黙ったまま窓の外を呆然と眺めていた。これからどうなるのだろうか。私は私で無くなってしまうのだろうか……。陽が思い出させてくれた温かな日常を思いながら、私はそっと目を閉じた。車は豪華なマンションへと停り、蓮に連れられて最上階の部屋に戻る。無機質で煌びやかな部屋。私は再びこの檻に帰ってきてしまったのだと実感させられる。「紬、体が冷えてるね。一緒にお風呂に入ろうか」そう言う蓮に連れられ、バスルームへと足を運ぶ。蓮が私の服を脱がせるが、私は無抵抗なまま受け入れた。そんな私に気を良くしたのか、蓮は私のおでこにキスを落とし、自分の服も脱ぎ始める。お湯が張られたバスタブに、姫抱きで入れられる。温かいお湯とは裏腹に、私の心は冷え切る一方だった。蓮は私から陽の香りが消えるようにと、念入りに私の体を洗う。されるがままの私に疑問すら抱かないようだった。本当にこの人は、私ではなく、自分好みの『お人形さん』が欲しいだけなのだと再確認させられる。私の意思なんか興味ないのだろう。辛いはずなのに、もう心は動かなかった。お風呂から上がると、蓮は私の体を柔らかなバスタオルで拭き、彼好みの服を着せる。髪も蓮が丁寧に乾かしてくれた。リビングに連れて行かれ、蓮は私の足に付いたアンクレットを確認する。「ちゃんと外さないで付けていてくれたんだね。いい子だ……」蓮は私の足の甲にキスを落とし、熱の篭った瞳で見上げてくる。私は無感情でその瞳を見つめた。真っ黒に染まってる私の瞳に、蓮は嬉しそうに微笑む。ギュッと私を抱きしめて、蓮は「やっと僕の匂いに戻ったね」と惚けた声で言う。その言葉に、私は自分から温かな日常の香りが消えてしまったことに悲しさを覚えた。「紬、もうどこにも行かないでね? 愛してるよ」蓮からの愛の囁きを受ける。ほかの蓮に夢中になってる女性なら、どんなに嬉しい言葉だろうか。しかし、今の私には何一つ心に響かない言葉だった。その日の夜は、蓮に抱かれた。激し
Last Updated: 2026-06-06
Chapter: 再会の序曲は冷たくアパートの下に陽と降りると、そこには真っ黒な車が停まっていた。運転席から蓮のマネージャーが降りて、後部座席のドアを開ける。そこには蓮がにこやかに座っていた。「探したよ、紬」彼がそう言いながら私に手を差し出す。その手を取るべきか、私は一瞬戸惑ってしまった。その戸惑いを察したように、陽が私と蓮の間に入る。「あんた、紬のなんなんだ? 俺には紬が怯えてるように見える」蓮の目がスっと細められる。「君が彼女を保護してくれた方かな? 僕は紬の恋人だよ」恋人、とっくの昔に終わったと思っていた関係。彼にとってはずっと私は恋人(所有物)のままだったのだ。「……恋人? 本当か、紬?」ここで何と答えれば正解なのだろうか……。私は蓮の向ける冷たい視線を受けながら、微かに体を震わせた。「……あ、その、蓮くんは」蓮が私の次の言葉を待っている。そのプレッシャーに、油汗が吹き出した。カタカタと震える私の様子に、陽は鋭い瞳で彼を睨む。「……この際、どんな関係だとかどうでもいい。紬があんたを怖がってる。あんたに紬を渡せない」陽は、私を背後に隠すように前に出た。蓮の微笑みは崩れない。だが、私に差し出していた手の指先が、ほんの少しだけピクリと動く。彼の纏う雰囲気がとても冷たいものへと変わった。「君こそ紬の何なのかな? これは僕と紬の問題だよ。部外者が入っていいものじゃない」蓮の言葉に、陽はギュッと拳が白くなるほど握りしめた。「俺は、紬の幼なじみだよ。兄貴分みたいなもんだ」「それなら、尚更彼女の幸せのために引き渡すべきじゃないのかい?」蓮の言葉に陽は眼光がますます鋭くなる。「幸せのため? こんな状態で幸せなわけあるかよ!」陽は彼の胸ぐらを掴んだ。「こんな苦しそうな顔してんのに、幸せなわけないだろ! お前は紬の何を見てるんだ?!」陽が悲痛な声で伝えるが、蓮に視線の先には私しか映っていない。私を見つめる彼の瞳は、どこまでも闇だ。その闇が何かを思い付いたように、光ったことに私は気付いてしまう。このままだと陽の人生が壊される、私はそう察してしまった。「陽、やめて! 私は大丈夫だから……!」私は蓮の胸ぐらを掴む、陽の腕を止める。「ごめんなさい、蓮くん……。ちゃんと帰るから……」「いいんだよ、紬。僕の方こそ迎えに来るのが遅くなって
Last Updated: 2026-05-13
Chapter: 涙の味を覚えてる住む場所の無い私を、陽は家に置いてくれた。私は少しでも役に立ちたくて、久方ぶりに料理を作る。見栄えの悪い料理だったが、陽は「凄く美味い!」と喜ぶ。私の料理を本当に美味しそうに、そして嬉しそうに彼は完食してくれた。一体いつぶりだろう。誰かに手料理を振る舞うのは。人と食事を共にするのは。蓮は基本私と共にご飯は食べなかった。私のご飯を用意し、食べさせ、片付ける。蓮は一切私に何もさせてはくれなかった。本当にただのペットのような扱い。陽は私を一人の「人間」として扱ってくれる。それが今の私にとって、とてつもない救いだった。陽との食事は、本当に暖かくて、人間味があって、私が忘れていた日常そのものだ。蓮との歪な日々が、どこまでも不気味で、無機質なものだったのかを痛感させらる。「紬? ︎︎食べないのか?」物思いに耽っていたのか、私は箸を動かすのを忘れていたようだ。「あっ、ごめん。考え事してた」慌ててご飯を口に入れる。白米の旨みと甘みが口の中に広がり、久しぶりに美味しいという感情が湧いた。蓮に与えられていた食べ物は、どれも味気なかったというのに、陽と食べる不格好な食事は、今まで食べた物よりも遥かに美味しく感じられた。「ゆっくりでいいからな」陽はニカッと笑いながら、自分の食べ終えた食器を片付ける。私はゆっくり、ゆっくりと美味しいご飯を噛み締めた。味噌汁の出汁の味。少し焦げてしまった卵焼き。全部、全部美味しくて、涙が滲んだ。カチャカチャと食器を洗う音と陽の陽気な鼻歌が聞こえてくる。あぁ、私はここに居てもいいんだと、余計に涙が溢れた。ありふれた日常、私はそれが恋しかったのかもしれない。涙を拭いながら私は陽の後ろ姿を見た。一緒に育ってきた幼なじみ、彼になら心を開き直しても大丈夫ではないか。そう思い、全てを打ち明けようと立ち上がるが、足首に付いているアンクレットが目に入り、私は動きを止めた。冷たく繊細な模様のアンクレットは、酷く美しい『一ノ瀬蓮』を私に思い出させる。私が居なくなって蓮はどうしているのだろうか?彼に渡されたスマホは電源を落としたままで、真っ黒に染まっている。その黒さがまだ私の心の闇を現しているようで、私はゆっくりと座り直した。太陽のような陽に、こんな真っ黒で汚れた私を知られたくない。私はギュッと手を握り
Last Updated: 2026-05-12
Chapter: ココアの湯気の向こう側目を覚ますと、知らない部屋にいた。 蓮の部屋よりも質素で、清潔感のある部屋だ。 見渡すと、見覚えのあるポスターやギターなどが置いてある。 「紬、起きたのか」 声のする方に顔を向けると、そこには陽が心配そうな表情で私を見つめていた。 「……陽、ここは?」 「ここは俺の住んでるアパートだ。とりあえず、俺のジャージ着せたんだが、中は濡れた服のままだから着替えた方がいいかもな」 陽は私が追い出されたときに持っていた段ボールを手渡す。 小さな段ボールはところどころ濡れてはいるが、中身は無事だった。 中からは数着の服と親友との写真、幼い頃に陽と買ったキーホルダーなどが入っている。 懐かしい品物に私の瞳には涙が滲み出す。 泣きそうになっている私に気付いた陽は、そっと頭を撫でてくれた。 「何があったか知らねぇけど、もう大丈夫だからな」 彼の優しい声に、とうとう涙腺が決壊してしまう。 泣きじゃくる私の背中をそっと撫でる陽。 何があったのかを聞いたりせず、ただ黙って泣き止むまで傍に居てくれた。 「落ち着いたか? 俺、隣の部屋に行くから着替えたら呼んでくれ」 陽はフカフカのタオルを私に手渡すと、部屋から出て行く。 段ボールの中から適当に服を取り、彼が着せてくれたジャージを脱ぐ。 ジャージからは干したてのお布団のようなお日様の香りがした。 暖かい香りに心が落ち着くようだった。 濡れた服を脱ぐ。すると、ポケットから蓮から渡されていたスマホが落ちた。 画面には蓮からの着信の通知が入っている。 私はそのスマホの電源を落とし、机にそっと置いた。 スマホから手を離すと、微かに指先が震えていることに気が付く。 蓮という世界から放り出されたことへの恐怖なのか、はたまた、解放された喜びなのか。 混沌とした感情を誤魔化すように、私は陽に着替えたことを告げた。 私の声を聞いて、陽が部屋に戻ってくる。 彼の手には湯気が出ているカップが握られていた。 「体、冷えてるだろ? ココア入れてきたんだ」 手渡されたカップに口を付けると、甘くて温かいココアの味が口の中に広がっていく。 「私……陽になんて言えばいいか……」 「無理に話さなくていいって! まぁ、大変なことがあったんだろ? 話したくなったら聞かせてくれよ」 太陽を思わせるような笑みを浮かべ、陽は
Last Updated: 2026-05-10
Chapter: 拾われた人形マネージャーと名乗った彼女に追い出されて、私は雨の中、行く宛ても無く彷徨っていた。 もうこの世界で蓮しか居場所がなかった私は、捨てられた子猫のように震えながら歩くことしか出来ない。 これからどうしようか? ぼーっとした頭で考えながら、歩く。 蓮に助けられた時のように、体が芯から凍え、髪からはぽたぽたと雫が落ちる。 頬から伝っているのが涙なのか、雨の雫なのか。 それすらも分からなくなっていた。 あれからどのくらい歩いているのだろうか。 足に力も入りずらくなり、私はとうとう道端に座り込んでしまった。 人形でもいいから蓮の元へ帰りたい。 でも。 マネージャーから言われた言葉が頭の中で反響する。 私がいたら、蓮は夢であった人気俳優という仕事を捨ててしまうかもしれない。 図書室で話していた日々が思い浮かぶ。 『いつかまた、俳優として陽の目を浴びたいんだ』 寂しそうに語っていた幼さを残す蓮の姿が脳裏にこびり付く。 あの頃の蓮が、私はとにかく好きだった。 夢を追いかけ、悩み、努力していた蓮が、本当に大好きだった。 今の蓮には、その頃の面影は何一つとして残ってはいない。 輝いていて、誰もが羨む人気俳優。 でも、あの頃と違って瞳の中には闇しか見えなくなっていた。 そんな事を思いながら、私は小さく蹲る。 道行く人々は、私を見てヒソヒソと話しながら見なかったものとして通り過ぎていく。 このまま誰も知らずに私は消えていくのだろうか。 何もかも諦めた時だった。 「紬?」 蓮よりも低く、少しかすれたハスキーな声が私の名を呼んだ。 顔を上げると、そこにはとても驚いた表情をしたガタイのいい、褐色肌の男性が立っていた。 私はその人物を深く知っている。 「……陽」 幼い頃からずっと一緒に育ってきた、私の初恋の男の子。 「おまっ、大丈夫か!? ︎︎立てる? ︎︎とりあえず、俺の背中に乗れ!」 傘を放り出し、陽は慌てて私を背負う。 自分も雨に濡れてしまうというのに、そんな事お構いなしで陽は走り出す。 蓮よりも大きく逞しい背中に身を預けながら、太陽のような暖かい匂いに、私は激しく安堵した。 心地よい揺れと暖かさに、私はそのまま瞳を閉じる。 そして、そのまま
Last Updated: 2026-05-10