Chapter: 12ー9「彼は|繊細《せんさい》なんだ。気を付けてくれよ」 リーさんはそう言って、その場を去ろうとする。僕は隣にいるハーヴィーの瞳を見つめる。彼の目は|伏《ふ》せられ、とても――悲しげだった。僕はその瞳を見て、初めて彼と出会ったときのことを思い出す。 ハーヴィー……。『オリバー、君は優しくしてくれる?』 彼が初めて、僕の心に|訊《たず》ねたあの日と、今の彼の瞳は、表情は、あの日と同じだ。僕はごくり、と|唾《つば》を飲む。それから、|拳《こぶし》を握り、気を|奮《ふる》い立たせて駆け出した。「リーさん……っ、リーさん!」 ここで引き下がるわけにはいかない。ハーヴィーを守ると、もう何度も心に誓った。僕はそれだけでここまで来たのだ。襲い来る恐怖と不安を断ち切り、懸命にリーさんを追いかける。「リーさん! 待ってください!」「……なんだね」「あの、僕は……、この数ヶ月間、ずっと彼と……、スノーケルピーと一緒に過ごしてきました。彼の世話をして、家族以上に|密《みつ》に、接してきました。僕は彼が好きだし、彼も僕を|好《す》いてくれているんです。たぶん……、この乗馬クラブの誰よりも、です……」「ほう」「これは自慢とか、あなたへの当てつけじゃない。本当のことなんです。僕たちはすごく相性がよくて、今や彼は僕にとって、なくてはならない存在になりました。パートナーなんです。だから、その……」「だから?」「スノーケルピーを、僕に|譲《ゆず》っていただけないでしょうか……!」「君に?」「お金なら払います! お願いします! 必ず、必ず彼を幸せにするので……」 リーさんは目をぱちくりさせたあと、今度はその目をゆっくりと細めた。そうして、|訊《たず》ねる。「オリバーくんといったかな。君の月収はいくらだね」「千……五百ポンド、くらいです……」「そうか。この馬の値段はね、五万ポンドだ」「五万ポンド……」 五万ポンド。それは僕の月収どころではない。年収をはるかに超える額だった。僕は息を|呑《の》む。「私と君が値段交渉をするということになれば、それ以上にはなるだろう。そして馬は生きている。生涯かかる金はその何十倍、いや……何百倍にもなる」「はい……」「わかったかな? 残念だが、そういうことだ」 そう言って、リーさんは去っていく。その細い背中を、僕は見つめた。あまり
Last Updated: 2025-10-22
Chapter: 12ー8「スノーケルピー! 大丈夫だよ、落ち着いて……!」 「まったく……。ちょっとまともに走ったかと思えばこれだからな」 やって来たのは、案の定、デクスター・リーさんだ。彼は急に暴れ出したハーヴィーを見て、鼻で笑った。彼の態度は、自分の愛馬に対してのそれとはとても思えない。僕は|苛立《いらだ》ったが、ここで自分まで感情的になってもどうしようもないことは理解していた。込み上げてくる|苛立《いらだ》ちを必死にこらえる。今は|堪《た》えなければ。まだ――と。「暴れ馬は健在ということか」 「……さっきまでは大人しかったんですが、おかしいですね」 ぼそり、と。そう言ったのはライルさんだった。僕は彼の言葉に、皮肉が隠されているのを感じる。「そうか。相当な気分屋なのだろうな。あるいは私への嫌がらせか」 「デクスター、この馬はそんなことはしないよ。とても立派な馬だ。それに、さっきのレースを見ただろう? 点数を見てくれ。ほぼ満点だ!」 「もちろん。スノーケルピーには価値がある。おかげで気持ちが決まったよ」 ふと見ると、リーさんのそばには一人の見知らぬ男性が立っている。その男性の姿を見た途端、僕はたちまち不安を感じ、胸はざわざわと騒いだ。おそらく、その場にいた誰もがその嫌な胸騒ぎを感じただろう。「……彼は?」 「ブランドン・エバンス。私の友人だ。申し訳ないが、スノーケルピーは今後、彼の手に任せようと思っている」 「えぇ……っ!」 裏返った声で驚いたのはトーマスさんだった。僕はあまりのことに声が出ない。「来週末に、迎えを出すよ。彼はウェールズで農場をやっていてね、経験も豊富だし、自分の農場で面倒を見れるということだから、安心だ」 「じゃあ、来週には……」 「君らには迷惑ばかりかけてしまったが、これで安心だ。万事、丸く収まる」 「そんな……、デクスター……! この前と話が違うじゃないか。君は今回の大会の結果次第で、スノーケルピーのことは考え直すと、そう言ってただろ?」 「考え直したさ。だからこんな辺境の地まで、わざわざ時間を|割《さ》いて、足を運んだんじゃないか。これは考え直した結果の答えだよ。今日、あの馬はやはり価値があるとわかった。だが今後、私にとってよりふさわしく、従順な馬にしていくためには、より厳しい調教をさせなければならない」 「だが……、だがな…
Last Updated: 2025-10-21
Chapter: 12ー7 爽やかな風を受け、ハーヴィーは心の中で感嘆の声を上げていた。僕はハーヴィーが下り坂を走りやすいように、重心をやや後方へ下げ、体を安定させる。ハーヴィーは下りの勢いを殺さず、そのまま平地に入り、駆けていく。彼の荒い呼吸の音は僕のそれと重なり、リズムを刻む。ドクドクと高鳴る心臓の鼓動、地を蹴る四つの|蹄《ひづめ》の音がそこに混じっていく。 ハーヴィーと僕、本当に風になってるみたいだ……。 この感覚は、いつかふたりでボウネスに行った、あの夜のようだった。僕とハーヴィーは今、ひとつになり、風となって飛ぶように草原を駆けていた。 ゴール地点はもう、すぐそこにある。僕は体を浮かし、ハーヴィーにすべてを|委《ゆだ》ねて目を閉じた。体は自分自身の力でのみ支え、彼に負担のないように立ち上がる。すると、ハーヴィーはさらにスピードを上げる。 行って……、ハーヴィー!「よおし!」 不意にトーマスさんの声が聞こえて、僕はハッとして目を開けた。周囲には大勢の観客がいて、拍手を送ってくれている。ハーヴィーは徐々にスピードを落としながら、芝の上をゆったりと走っていく。僕はハーヴィーに方向を変えさせ、トーマスさんたちの姿を探した。「トーマスさん! ライルさん!」 大勢の観戦客の中から、やっとの思いで彼らを探し出し、声をかける。トーマスさんとライルさんはガッツポーズをしたり、拍手をしたり、人差し指を天へ|掲《かか》げたり、忙しく駆け寄ってきた。「君たちは最高だ! ベストパートナーだ! いやぁ、実に素晴らしかった!」「ありがとうございます!」「点数を見たかい?」「いえ、まだ――」「あれをごらんよ!」 そう言って、トーマスさんは運営係や審査員たちがいるテントを指差している。そこへ目を向けると、そこには電光掲示板があって、その一番上に僕の番号と名前が光っていた。「一位だ……」「すごいぞ、オリバー!」 ハーヴィーの背から降りると、すぐにライルさんが僕を抱きしめ、トーマスさんもそこに加わった。僕たちは三人で団子のようになって、互いに抱きしめ合った。「よくやった、本当によくやったよ!」 もちろん、現段階での一位。つまり暫定に過ぎず、このあとの出走者の点数次第では、僕の順位は下がってしまう可能性もある。だが、二位、三位との点数の開きは大きかった。まだ何十人と出走者は残ってい
Last Updated: 2025-10-20
Chapter: 12ー6 きっと気のせいだろう。祖父母とは、大会の直前まで手紙でやり取りをし、電話でも話をしている。だが、彼らは応援に来るとは話していなかった。ロンドンからだと、トラウトベックはかなり距離があるので控えたのかもしれない。老齢のふたりにとって、遠方への旅は|酷《こく》だ。それをわかっている僕も、彼らに見にきてほしいとは言わなかったし、手紙で「頑張れ」と書かれているだけで、本当に十分だった。 きっと、おじいちゃんとおばあちゃんは、ロンドンで祈っててくれる。天国の父さんや、母さんや、弟のエリオットも……。 次の瞬間――。ピーッ! と音が鳴る。僕はハッとして|手綱《たづな》を強く握った。 ――ハーヴィー、行こう! スタートの笛だ。僕は心の中でハーヴィーに呼びかける。直後、ハーヴィーはそれに|応《こた》えるように芝を蹴り、勢いよく駆け出した。出だしは悪くない。「いい感じだ!」 始めは平坦な芝のコースが続く。ハーヴィーは全速力で駆け、まず、植木で作られた障害を越えた。さらにその先の丸太の障害を越え、次の障害へ走る。どうということはない。これくらいの障害はもう散々、練習してきたのだ。道の先は林の中へ続いていく。「ハーヴィー、道が細くなってる……」 昨夜のミーティングで、記憶したコースの|全貌《ぜんぼう》を思い出す。僕とハーヴィーが行くのはダイレクトルートだ。林の先は一本道。しかし、その先は想像よりもはるかに、とても細くなっている。しかも、その先にも当然のごとく障害が設置されているのかと思うと、このまま全速力で駆けていくのには不安になった。ところが、不意にハーヴィーの声が脳内に響く。 ――オリバー、このまま行こう! ぼくを信じて! ドキドキしながら|手綱《たづな》を握り、しっかりと頷いた。ハーヴィーはスピードを落とさずに、そのまま林の中へ入っていく。歓声は遠のいていき、人の姿はまばらになった。 木々の間をすり抜け、ただ前だけを見て、僕とハーヴィーは林の中を駆ける。荒いハーヴィーの呼吸が聞こえて、僕は自然とそのリズムに自分の呼吸を合わせていく。ふと前方を見れば、障害が見えた。脇へ|避《よ》けるすき間はあるが、僕とハーヴィーにある選択肢はひとつだ。「ハーヴィー!」 ハーヴィーの名前を呼ぶ。それが合図だと、彼には自然と伝わる。僕にはそれがわかっている。さっきよりも明ら
Last Updated: 2025-10-19
Chapter: 12ー5「リーさんのことは好きじゃないけど、あなたたちのことは好きだから、応援するわ」 「ありがとう。僕も君たちの健闘を祈ってるよ」 「ありがとう。お互い頑張りましょ。じゃあね」 そう言って、マーサとウェンズデイは去っていく。僕は彼女たちを見送り、ハーヴィーに言った。「あの子、僕よりずっと年下みたいだった。あんな子も試合に出るんだね」 ――彼女はたぶん、実力者だよ。ウェンズデイが言ってた。「ウェンズデイ? あの馬と話したの?」 ――うん。今日の優勝を飾るのは間違いなく彼女だってさ。悪いけど、格が違うって。 ハーヴィーは面白くなさそうにそう言った。どうやらあのウェンズデイという馬は、かなり気の強い馬だったようだ。もっともマーサも同様ではあった。パートナーという関係性ゆえか、彼女たちはきっと似た者同士なのだろう。「ハーヴィー、気にしないんだよ。僕たちは僕たちのできる限りのことをすればいいんだから」 ――わかってるさ。 首のあたりをぽんぽん、と撫でてやって――ふと、ライルさんのいる方に目をやる。いつの間にか、リーさんはいなくなっていて、そこには代わりにトーマスさんの姿があった。しかし、彼は別の男性と話している。そこにマーサが近づいていく。どうやら、トーマスさんに|挨拶《あいさつ》をしているようだ。「トーマスさん、あの子を知ってるのかな」 ――さあね。 僕は|眉《まゆ》を上げる。ハーヴィーはあのマーサという子の乗るウェンズデイに挑戦的な態度を取られたので、少し|拗《す》ねている。仕方なく、僕はハーヴィーに再び|駆歩《かけあし》を出すように指示を出して、ウォームアップを再開し、三十分ほどでハーヴィーとともに、ライルさんたちのそばへ戻った。「やぁ、お疲れ様。調子はよさそうだね」 「はい。トーマスさん、さっき|挨拶《あいさつ》してた女の子、知ってる子ですか?」 「あぁ、彼女は友人の娘さんだよ」 「ご友人の……」 「友人はグラスミアの方で牧場をやってるんだ。引退した競走馬の面倒を見たり、羊を飼ってる。大牧場でね、あの子はそこの娘さんなんだよ。オリバー、彼女を知ってるのかい?」 「あぁ、いえ……。ちょっとさっき話をしたので……」 グラスミアは、ウィンダミアの近くにある湖の名前であり、そこに隣接する村の名前でもあった。ウィンダミア湖よりは少し小さい湖
Last Updated: 2025-10-17
Chapter: 12ー4 僕はホッとして、再び|常歩《なみあし》を指示し、放牧地の中をラウンドする。柵の外で見守っているライルさんも、親指をぐっと立てて見せている。きっとこの安定感が彼の目にも見えているのだ。僕は彼に返すように、親指を立てて、手を挙げた。しかし、その時だ。「やぁ! しばらくだね、ライル君」 ひとりの男がライルさんに近づき、声をかけているのが視界の|端《はし》に見えた。聞き覚えのある声にビクッと体が震える。全身から冷や汗が|滲《にじ》み出る。この低い声は間違いない。あの男だ。 デクスター・リー……。 動揺しながらも、その名前を思い浮かべる。|手綱《たづな》を握る手もじっとりと汗ばんでいく。すると、|常歩《なみあし》でゆったりと歩いていたハーヴィーが突如、|駆歩《かけあし》を出した。僕は驚いて、慌てて|手綱《たづな》を引く。だが、彼は首を振って、まるで言うことを聞かない。「スノーケルピー、待って……! 落ち着いて……!」 ――嫌だ。あの人が来てるよ。「大丈夫だよ、あの人は君になにもしないさ。僕が一緒にいるんだから、大丈夫」 ――嫌だ。会いたくない。あの人の顔なんか見たくもないよ。「ハーヴィー……っ」 ――わかるだろ、オリバー。あの人は、ぼくたちを引き裂こうとしてるんだ。 彼は足を止めず、放牧地の|端《はし》まで一気に駆けていく。まるで、リーさんから逃げるかのように。もうライルさんもリーさんも、とても小さくなって、声は当然聞こえない。そこでようやく、ハーヴィーは止まった。「ハーヴィー、だめだよ。僕たちは特別の相性なんだってところを、彼に見せなくちゃ。そうすれば大丈夫だって、そう話していたのは君じゃないか」 ――もちろん、わかってるよ。でも、今は本当に会いたくないんだ。せっかく、いい気分だったのに、ここであの人に会ったりなんかしたら全部台無しにされる。 ごもっともだった。僕だってあの男には会いたくない。しかし、騎手としては|馬主《ばぬし》が来ているのに、|挨拶《あいさつ》をしないわけにもいかないのだ。「でも……、|挨拶《あいさつ》しなくちゃ」 僕はそう言って、首のあたりを撫でる。すると、そこへ。不意に一頭の|人馬《じんば》が近づいてきて、騎手が僕に声をかけた。「こんにちは」「あ――……。こ、こんにちは……」「いい馬ね。とても賢そう。それに綺麗
Last Updated: 2025-10-16