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いふや坂えみし
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Novels by いふや坂えみし

僕は僕が欲しいものなんて知らない 聖北学院大学演劇研究会 入学編

僕は僕が欲しいものなんて知らない 聖北学院大学演劇研究会 入学編

大学一年生の渡辺浩二は流されるままに演劇研究会に入部する。 人生の中で演劇に関わるなんて考えたこともなかった。 けれど一ヶ月後の公演を控えた演劇研究会での活動に徐々にのめり込んでいく。 自分の変化に戸惑いつつ、大学での日々は過ぎていく。
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Chapter: 第四十八話
 僕は着替えてから店をあとにした。とてもお腹が減った。きのう説明されたが、いまは時給が六三〇円で研修期間が終わったら時給六四〇円になるらしい。今日は二時間働いたので一二六〇円稼いだ。だいたいパン十個分くらいだ。でも携帯電話の契約をしたいので無駄づかいするわけにはいかない。携帯電話の月額利用料はだいたい四千円くらいだ。携帯端末の本体も購入する必要がある。月額利用料に含まれているプランもあるみたいだが、多めに考えておいたほうがいいだろう。 僕は週三日、午後五時から午後十時まで一日五時間働く予定だ。六四〇✕五で三二〇〇円、だいたい月十三日くらいの勤務なので、月四万円くらいの給料になる。まあ、携帯電話代くらいは払うのに問題はなさそうだ。「おかえり。どうだった?」 「うん、疲れた」 「二時間しか働いてないでしょ」 「そうだけど」 「まあ、がんばんなさいよ」 「うん」 帰宅して昼食を食べながら母とそんな会話をした。それから約一ヶ月のあいだで研修を終えた。だいたい仕事のやり方と流れは覚えることができた。 毎月の給料は翌月の上旬に銀行振込される。僕はアルバイト先で店長から給与明細を渡されたので、家に帰ると預金通帳とカードを財布の中に入れて近くのスーパーへいった。入口にATMが設置されているからだ。主婦が二人並んでいたので最後尾につき、早く自分の番にならないかとそわそわして待つ。 待機列が途切れたのでATMの前に行き、一万円だけ引き出す。預金通帳に印字された「コンビニ24 8ガツブンキユウヨ」という文字を見ながらニマニマした。研修期間中はだいたい一日の勤務が二時間とか三時間だったので、最初にもらった給料は二万円にもならなかった。けれどお年玉や小遣い以外で初めて自分で稼いだお金なので嬉しい。あまりむだづかいはできないが、スーパーでふだん買わないお菓子を買って帰った。 自分で使いたいけど、家族に何かプレゼントをしたほうがいいだろうな。初めてだから自分のためだけに使うのはもったいない気がする。お寿司の出前とかなら全員にプレゼントできるな。給料が出た次の日曜日、僕は寿司の出前をとることにした。日曜日のお昼にそのことを両親に伝えた。「いいんだよそんな。自分で使いなさい」 「そうだぞ。自分で働いたお金なんだから」 「いやまあ、初任給とかって親に感謝するものだからさ。
Last Updated: 2026-01-29
Chapter: 第四十七話
 店内に入ると、お客さんは数人いるくらいだった。篠原さんはモニターで込み具合を確認したのかもしれない。いままでレジの機械をじっくり見たことはなかったが、ボタンの多い計算機みたいだ。篠原さんから説明をしながら操作方法を教わる。一度聞いただけでは覚えきれないのでやりながら覚えていくしかなさそうだ。「それじゃ渡辺さん、レジ打ちしてみてください」 「はい」 お客さんが一人レジの前に来てカウンターにかごを置いていた。「いらっしゃいませ。一二〇円が一点、二三八円が一点、五〇円が一点、合計四〇八円のお買い上げになります」 お客さんは財布を取り出して五百円玉を出した。その間にレジ袋をカウンターから取り出して広げる。「五百円お預かりいたします。九二円のお返しになります。ありがとうございました。またお越しくださいませ」 お客さんに一礼する。「基本は大丈夫ですね。あとカウンターの下にはしとスプーンとフォークがあるので、必要そうな商品を買うお客様には確認してください」 「はい」 「それと、よくお客様からたばこないですかって聞かれることが多いんだけど、この店には置いてないです。理由を聞かれたら、近くにタバコ販売店があるからって答えてください」 「そんなルールがあるんですね」 「そうなんです。そこの交差点の向かいにタバコ屋あるのが見えるでしょう?」 「あー、ありますね」 「タバコがほしいお客さんにはあの店を案内してください」 「はい、わかりました」 「他にも、自動販売機が店を出て左に行くとすぐあるので、まあそっちの方が近いですね」 「了解です」 続けて、日付管理について教わった。おにぎり、パン、弁当、サンドイッチなどの食品には賞味期限が印字されている。商品が売れると売れた商品のスペースに隙間が生まれる。それを埋めるために奥の商品を前に出す必要がある。その時に日付を見て期限が近いものを前へ並べる。この仕事をフェイスアップと呼ぶらしい。「弁当のフェイスアップも、食欲を刺激するように工夫するんですよ。例えばそうですね」 篠原さんは弁当の陳列棚の弁当を並べる。全ての棚にいろいろな弁当が一段ずつ並べられた。弁当の数が少ないのでそうなる。「いまの時間帯は朝のラッシュが終わって昼の商品が届いていない状態なので、品数がありません。こんなふうに並べると弁当が少ないよう
Last Updated: 2026-01-29
Chapter: 第四十六話
 二日後。僕は朝七時すぎに目が覚めた。一応バイトの時間に寝坊したらいけないので目覚ましをかけていたが、それよりも早く目覚めた。「おはよう」 「おはよう、早いね」 母が朝食の準備をしている。父はその奥でヒゲをそっている。「うん、なんか起きた」 「浩ちゃん今日何時だっけ?」 「十時だよ。お父さんおはよう」 「おはよう。早いな」 父はT字かみそりを持ったまま振り向いた。口の周りにシェービングフォームがついている。朝食の準備ができるまで僕は新聞を読むことにした。居間のテレビではNHKのニュースが流れている。僕の家ではいつも朝はニュースだ。 新聞を読んでいると、ドタドタと哲ちゃんが階段をおりてきた。一番上の兄で、名前は哲也だ。「あんた、間に合うのかい?もっと早く起きなさいよ」 「大丈夫、間に合う」 台所でいつものように哲ちゃんが母に怒られている。父はすでに朝食を食べ始めていた。僕も立ち上がって手を洗いにいく。「浩ちゃん、淳ちゃん起こしてきて」 「ん」 次男の淳ちゃんはまだ寝ていた。いつものことだ。僕は手を洗ってからのろのろと階段を上がり、淳ちゃんに声をかける。それからごはんを食べ始めると、母も食卓についた。「淳ちゃん起きてた?」 「起きたよ」 少しすると淳ちゃんがおりてきて、父と哲ちゃんは食事を終えた。職場は違うが、二人とも同じバスに乗って出勤する。僕も朝食を食べ終わってテレビを見ていると、すぐにバイトの時間になった。 自転車をこいで三十分、コンビニ24地下鉄北二十条駅前店に到着する。コンビニの中へ入り、僕より少し年上の女性店員に声をかける。「おはようございます、今日からここで働かせていただくことになりました、渡辺浩二です」 「おはようございます、よろしくお願いします。それじゃあ、ついてきてください」 僕は女性店員のあとに続く。「店長、新人の渡辺さんがいらっしゃいました」 「はい。ああ、渡辺さん。おはようございます」 「おはようございます、本日からよろしくお願いします」 「ええ、よろしくお願いします。じゃあ、まずこれですね。制服を貸し出しますので、汚れてきたら洗濯して使ってください」 店長から制服を二着渡された。見覚えのある赤い制服だった。コンビニ24のロゴマークが入っている。「あと名札ですね」 安全ピンのついた透明
Last Updated: 2026-01-29
Chapter: 第四十五話
「どうも、よろしくお願いします。店長の斉木です」 店長は小太りで長めのスポーツ刈りをした三十代くらいのメガネをかけた男性だった。「渡辺浩二と申します。よろしくお願いします」 何回か面接を受けるうちに慣れてきたのかもしれない。それほど極端に緊張したりせず、受け答えすることができるようになっていた。けれどそれは家の近くのコンビニで面接を受けたときもそうだった。とくに気になるところもなく面接を終えたが、受かるかどうかわからない。落ちたことしかないので自信なんてなかった。 面接の四日後にコンビニから電話が来た。「先日は面接お疲れさまでした。店長の斉木です。面接の結果ですが、採用させていただきたいと思います」 うれしくて少し興奮した。「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」「雇用契約を結びたいので、今日もし暇なら来ていただきたいんですけど、大丈夫ですか?」「はい、大丈夫です」「いつごろ都合いいですか?」「いつでも大丈夫です」「そうですか。じゃあ、午後一時すぎくらいにシャチハタ以外の認印を持ってきてもらえますか?」「はい、わかりました」「それで、雇用契約書に保護者のサインも必要なので、それを書いてもらってまた今日か明日持ってきてください」「はい」「それで、初日の勤務なんですが、明後日の午前中とか大丈夫ですか」「はい、大丈夫です」「そうですか。それじゃあ、明後日の十時から、靴はスニーカー、ズボンはジーパンで来てください」「はい、わかりました。ありがとうございます」 あー、よかった。これで夏休みを無駄にしなくてすむ。スニーカーもジーパンもあるのでとくに用意しなければならないものはない。「お母さん、アルバイト決まったよ」「そう、おめでとう」「うんありがとう」「今日の午後一時すぎに雇用契約結んで、明後日から勤務だって」「そう。じゃあ、早めにお昼の準備しなきゃね」「ありがとう」 僕は階段を上がり、今日は家にいる二番目
Last Updated: 2026-01-28
Chapter: 第四十四話
 アルバイト情報誌をめくっていると、コンビニ店員の募集が多い。時給はだいたい六三〇円でほぼ最低時給だが、人が足りていないので募集しているのだろう。もうコンビニでいいかな。時給が安いってことは仕事も楽なのかもしれない。コンビニなら家の近くにもどこにでもたくさんある。 家から歩いて十分ほどの距離にあるコンビニで運よく店員を募集していたので応募してみたが、不採用だった。面接した結果、採用したいというレベルではなかったのかもしれないし、それともふだんから少年漫画誌を立ち読みしているからかもしれない。顔を覚えられていて迷惑客と思われ、というかまあ、迷惑客でしかないわけだが。コンビニの商品は割高だからあまり買わない。だから敬遠された可能性はある。実際のところは定かではないけれど。 早いところ働き始めなければ夏休みが終わってしまう。もう十日以上たってしまった。僕が夏休み中していたことと言えば小説や漫画を読んでいるかアニメを見ているかしかしていない。それはそれで不満ではないのだけれど。だけどこれからわりと居酒屋に行ったりカラオケに行ったりお金を使う機会は増えていく気がする。なにより携帯電話がほしい。すこし焦りを感じ始めていた。 僕は大学へ通うとき、自転車で三十分くらいのところにある地下鉄まで行く。その地下鉄駅の近くにあるコンビニで店員を募集していたので、そこへ面接の応募をした。そのコンビニはふだん僕が使っている地下鉄の入口から少しだけ離れていたので、ほとんど入ったことはないはずだ。ふだんはコンビニの前を自転車で通り過ぎているだけだったので、そこにあることは知っていた。 四日後、そのコンビニへ面接を受けに来た。モップがけをしていた店員に、面接に来たことを伝えると、店員はレジカウンターの奥にある扉の向こうへ入っていきすぐに戻ってきた。「お待たせしました。こちらから入ってください」 僕は店員の後へ続き、レジとは反対側にある冷凍庫の近くにあるドアを抜ける。中に入ると狭い通路に棚が設置してあり、棚にはいろいろなお菓子の段ボールが収納されていた。通路の奥にまたドアがあり、そこに入ると小さな事務室になっていた。「面接の方をお連れしました」 店員は事務室の奥にいた男
Last Updated: 2026-01-28
Chapter: 第四十三話
 三日後。自転車で寿司屋へ向かう。約束していた時間の十分くらい前に着き、店の中へ入る。いまは営業時間外らしく、客はいない。一人だけ午後の開店準備をしているらしい店員がいたので、面接に来たことを伝えると、バックヤードの方を示された。「店長は奥にいるので、入って待っててください」「はい、ありがとうございます。失礼します」 僕はバックヤードに入って中の通路を進む。奥にドアのない部屋の入口があり、光がもれていた。「失礼します、面接に来ました」 僕が声をかけて中に入ると、店長らしき中年男性のひざの上に、僕よりは年上の若い女性が座って密着していた。女性は僕に笑いかけ、ひらひらと手を振る。「……」「まだ時間じゃねえ!外で待ってろ!」「……失礼しました」 あまり人から怒鳴られたことがないので驚いたが、店長の人格には問題があるな。ええと、愛人か何かだろうか?僕はバックヤードの入口付近まで戻った。これは落ちたな、というよりここで働きたくないな。履歴書渡さずにもう帰りたい。というか、本当にこんなことがあるんだな。珍しいものを見た。 数分後、ひざの上に乗っていた女性が薄笑いを浮かべながら僕を呼びに来た。僕は事務室に入って座る。「言われるまで座んじゃねえよ、非常識だな」「あーはい、すいません」 全然気持ちがこもらない謝罪をする。勤務中にいちゃついてる人に常識をとやかく言われたくない。ひざの上なら勝手に座ってもいいのだろうか。気持ち悪いので座りたくないが。「じゃ、面接始めます」「はい」「志望動機は?」「はい、家から近いのと、時給がわりと高いからです」 なんだろう、ぜんぜん緊張しない。受かる気がまったくないからだろうな。早く面接終わらないかな。どうせ向こうも採用する気ないんだろうし。「それだけ?」「それだけです」「……長所と短所教えて」「長所は倫理観が高いところで、短所は正直すぎるところですね」
Last Updated: 2026-01-27
僕は僕が欲しいものなんて知らない 聖北学院大学演劇研究会 続編

僕は僕が欲しいものなんて知らない 聖北学院大学演劇研究会 続編

友人に誘われて入部した演劇研究会で、渡辺浩二は演劇にのめり込む。 演劇を通して成長していく姿を丹念に描いていく青春小説。 「僕は僕が欲しいものなんて知らない 聖北学院大学演劇研究会 入学編」 の続編になります。
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Chapter: 第五十一話
「戻りましたー」 午後十時半過ぎに僕が戻ると、稽古場にはすでに布団が敷かれていた。今日はもう寝るのだろうか。「おかえりナベ。お腹空いてない?」「うん、今日はコンビニで廃棄の弁当とパンを食べてきたからね」 裕子ちゃんの気遣いが嬉しい。「そうなんだ。えっとこれからね、せっかく合宿してるからそれぞれの役をみんなで深堀りすることになったんだよ」「あー……その役がどんな人間なのかみんなで考えるってこと?」「そうそう。いまはそれぞれで考えてたとこ」「そっか。えーと、もうみんなお風呂入ったの?」「うん」「じゃあちょっと、俺も風呂入りながら考えてくるよ」 合宿所の風呂は一階にあった。脱衣所の床は一見畳のようにも見える。だが足裏から伝わる感触は硬いので、竹か竹を模したプラスチックだろう。濡れる頻度が高い場所なので材質に気を配られているはずだ。 浴場は銭湯よりは小さいだろうか。テレビでしか見たことないけど。十人くらいまでなら一緒に入れそうだった。この時間、一人で入れてよかった。僕はアレの大きさに自信がないので、学生のノリで比べ合いとか始まったらどうしようかと心配していたからだ。 風呂は古いけどきれいだった。誰かが定期的に清掃しているんだろうか。ああいや、もうみんな役について考えているので、遅れている分を取り戻さないと。いやでも、稽古が始まってからずっと考えてるから、そうでもないのか。体を洗って浴槽に浸かりながら役について考える。あー……やばい、寝そうだ。上がったらコーヒー飲もうかな。自販機はたしか合宿所の廊下で見た気がする。もうすぐ冬だからちゃんと温まらないとな。廊下に暖房は入ってないからけっこう寒い。じゃなくて、役について考えないと。疲れた体に風呂が気持ちよくて集中できない。 十分温まってから上がり、廊下に出る。けっきょくほとんど考えられなかった。自販機でコーヒーを買って雑魚寝部屋に戻ると、暖かい空気が顔に当たる。「あ、戻ってきた。それじゃあ丸橋サトミから順番にやっていきます」 やっぱりもう始まるみたいだ。かばんから役作り用のノートを取り出して布団の上に座り、ペットボトルのフタを開けてコーヒーを飲む。少しだけ頭が冴えてきたような気がする。「お、ナベやる気だね」 手に持ったコーヒーにガジンが気づく。「いや、違うんだよ。風呂入ったら眠くなってさ」
Last Updated: 2026-03-31
Chapter: 第五十話
「はい、じゃあ頭からダメ出ししていきます。泥棒が財布盗んで立ち去るとこまでは、さっき止めてダメ出ししたことを注意してください。泥棒の声なんですけど、もうはっきり石山先生との違いはわかるんですが、もしできればのどが潰れない程度に高くしてみてください。のどがダメになりそうならいいです。結城スズが三上ショウの世話してるところ、もっと手慣れてください。何年もしてる仕事って感じがしないです。三上ショウが目覚めたあと、周りを見回すところ、何を考えて見回してるのか伝わってこないです。なんで見回してるんですか?」「んーと、目覚めたら知らない部屋で、頭も痛いしなんか病室っぽいなって思って、ナースコールあるんじゃないかって探してる感じ」「あー……っとですね、ナースコールはたまたま目に入って、あ、使えるって思ってください。それまでは別のこと考えるようお願いします」「はい」「えー、ダメ出しの後の良かった目が覚めたんですねはいまのでオッケーです。三上ショウの最後『俺が誰なのかわからない』だけいきなり混乱し始めたように見えるので、感情の流れが自然に流れるように見せてください」「はい」「はい、じゃあもっかいいきます」 そうして稽古は続いていき、午後四時すぎに僕はバイトに出かけた。外へ出ると、なんだか雨が降りそうな雲だった。「おはよう、早いね」「はい、今日はちょっと帰っても夕食がないので先に食べます」「あ、そう。廃棄弁当あるけど食べる?今日お客さん少なくてさ。雨の予報じゃなかったのに」「ありがとうございます、いただきます」 いまは小雨がぱらついていた。合宿所にいたのでわからなかったが、いつから降っていたのだろうか。店長の言う廃棄弁当というのは期限切れで売れなくなった弁当だ。たまにこんなことがあるので、弁当を買わずに事務所へ来たが狙い通りだ。制服を羽織り、お客さんがレジに並んでいないのを確認してから店のレンジで弁当を温める。「なに、ご両親が出かけてるの?」「いえ、大学で合宿中です」「合宿って途中で抜けていいの?」「ええまあ、体育会系のサークルじゃないですし」「ゆるいんだねぇ」「ってわけでもないんですけど。いる人でできるシーンの稽古すればいいので」「なるほどねぇ」 今日のペアは僕の教育係をしてくれた篠原さんだった。アルバイトを始めてからそろそろ三ヶ月くらいにな
Last Updated: 2026-03-31
Chapter: 第四十九話
 僕は上手へ戻りかけ、三上ショウを振り返る。「こいつは助けを呼んだ手間賃としてもらっとくぜ。悪く思うなよ」 そう言って僕は悠然と上手側へハケた。ピーポーピーポー、と骨折さんが救急車の効果音をラジカセから流す。「暗転します」 コロさんの合図で山口さんはうつ伏せから仰向けに向き直り、看護婦の結城スズ役の由美ちゃんが上手から出る。「明転します」 結城スズは仰向けの山口さんの顔をすでに心配そうに覗き込んでいる。それから体を転がし、背中を拭き始める。僕もジャージの上着を羽織って上手から出る。白衣という設定だ。稽古が進むにつれてこういう約束事は無数に増えている。結城スズが僕を振り返る。「石山先生」「検査の結果、目に見える外傷以外に重篤な症状はなさそうだよ」「そうですか。どうして意識を失くしたんでしょうね」「頭を打っているようだからね。じきに目を覚ますだろうから、今は安静にしておくべきだね。結城さん、彼が目覚めるまではこまめに様子を見ておいてね」「はい、わかりました」 僕と結城スズは上手側へ向かい、結城スズだけ立ち止まって心配そうに三上ショウを振り返った。「照明変化しました」「……っつ……」 コロさんの合図でゆっくりと三上ショウが上体を起こす。「どこだ、ここは。……病院?」 三上ショウはきょろきょろと周りを見回す。ゆっくり振り返って横に手を伸ばし、ナースコールをする。結城スズが上手から舞台へ出ていく。「良かった、目が覚めたんですね。お加減はいかがですか?」 ぱん、と手が鳴る。由美ちゃんは台本を取りに行く。「スズが喜んでるのはわかるんだけど、もっとオーバーにお願いします。あともっと慌てて駆けつけてください」「はい」「じゃあ、もっかい『良かった』から」 由美ちゃんが台本を置くと、ぱんと麻美さんの手が鳴る。ばたばたと結城スズが三上ショウに駆け寄る。「良かった!目が覚めたんですね。お加減はいかがですか?」「なんだか頭がぼうっとしています。ええと、ここは……」「ここは石山総合病院です。あなたが気を失って倒れていたところを救急車で運ばれてきたんです」「倒れていた……?」「名前を教えていただいてもよろしいですか?」「ああ、名前は——」 三上ショウは言葉に詰まり、片手で額を押さえる。骨折さんが操作するラジカセから洋楽がフェードインし、
Last Updated: 2026-03-31
Chapter: 第四十八話
 昼食を終えると裕子ちゃんとガジン、理恵ちゃんがアルバイトに出かけていった。夕食前には帰って来るらしい。その頃には由美ちゃんと久美子さんもバイトを終えて合流していた。由美ちゃんと久美子さんが食事を終えて洗い物をしてから稽古が再開された。「シーン2やります。準備してください」 僕の出番だ。シーン2のセリフは覚えたので台本を持たずに稽古をすることができる。他の二人もすでにセリフを覚えていた。「用意……」 ぱん、という中島さんの合図で役に入り込む。「お、おい!あんた、大丈夫か」 僕は麻美さんに背を向ける方向でぐったりと仰向けで倒れている三上ショウ役の山口さんに駆け寄る。最初に背を向けるようダメ出しを受けてからそう動いている。「おい!……おい!」 立ち上がって周囲を見渡し、三上ショウの胸ポケットに手を入れるともう一度周囲を見回す。素早く財布を自分のポケットに入れ、携帯電話を操作するフリをした。「もしもし、道の上で人が倒れています。すぐに来てください。場所は栗原公民館の……田んぼの農道で……はい、そうです。ええ、近くにあります。……いえ、すいません、急いでいるので……本当に時間がなくて……はい、失礼します。すいません」 ぱん、と手が鳴る。急いで舞台の外においた台本とペンを取る。「ナベさぁ、セリフ変わってるところはなにか意図したもの?」「いえ。言い間違いです」「わかった。じゃあそれはもっかい覚えてください。それとこれ何度か言ってるけど、電話の相手が何かしゃべってるように見えないから、もっと間を開けてください」「はい」「動きについては、最初駆け寄る前もっと驚いてください。動きが足りないです。財布取るとこは速すぎるので盗み慣れてない人に見えるので気をつけてください」「はい」「じゃあ続きから行きまーす」 急いでダメ出しをメモし、舞台外へ置く。中島さんが手を叩く。
Last Updated: 2026-03-31
Chapter: 第四十七話
 シーン4の稽古を終え、昼食をとることになった。全員並んで皿を持ってカレーをよそっていく。鍋もでかいが、炊飯器もでかかった。十六合炊けるらしい。十三合炊きあがっていて、それで合宿メンバー全員が二回ずつ以上食べられる。「うお、すげえ。これほんとに食べ切れんの?」 鍋の中のカレーを見てガジンが呆気にとられている。何人かカレーをよそっているが、たしかに鍋の中のカレーは減ったように見えない。「はい、じゃあ全員そろったね。作ったのは俺らなので、今の時間はおかわり自由ってことで。いただきます!」『いただきます!』 ケンさんの号令で昼食が始まった。カレーのルーはしゃばしゃばしたスープに近いものではなく、どろどろとしっかりとした重量感のあるものだった。僕はこっちのほうがうれしい。家で食べるカレーとは微妙に味が違ってこのカレーもおいしい。福神漬と酢漬けのらっきょも皿に盛られていた。食べられないことはないけど僕は酢の味はあまり得意ではなかった。「おいしいですよ、コロさん!」「ほんとう?ありがとう裕子ちゃん」「うん、まじでうまいわ。おかわりするね」「え、ちょ……ケンさん、早すぎっすよ」 食事が始まってからまだ五分も経っていない。ガジンが驚くのも無理がない。「うん、俺本気出したらカレー飲めるんだよね」「どこで本気出してんすか」 食堂室のドアが開く。「はよっす〜」「あー、めっちゃ腹減った。すげーカレーうまそう」 骨折さんと山口さんが入ってきた。バイトが終わったのだろう。「え、何お前ら。バイト先一緒だったっけ?」「違う違う。地下鉄で一緒になっただけ。ケンさん、食器は?」「お前の目の前にあんだろ」「あ、ほんとだ。山口、行こーぜ」「俺、手ぇ洗ってくる」「たしかにそれ先だな」 かばんを置いて骨折さんと山口さんは部屋を出ていった。「骨折はそうでもないけど、山口けっこう食うからな。本気出しとかないと」「骨折さんて、カレーは食べるんですね」「カレー嫌いな日本人いないでしょ」 裕子ちゃんの感想にケンさんがつっこむ。「いや、骨折さんならあり得るかなって」「あいつ偏食だからね」「ハンバーガーいつもピクルス抜いてるよね」「え?ピクルス抜きのお客さんはけっこういますよ」「あれ?瞳ちゃんどこで働いてるの?」「わたしSJです」 SJはスミス&ジョンソ
Last Updated: 2026-03-31
Chapter: 第四十六話
 飴色になった玉ねぎと火の通った豚肉、それとにんじんがフライパンから鍋に移される。「あとはアクをすくいながら煮てルーを溶かしたら完成だよ。あ、ケンさんルー割っといてくれる?」「ひまだからもうやっといたよ」「ありがとう。じゃあもうみんな稽古場戻って大丈夫だよ。理恵ちゃんもみずともも洗い物ありがとう」 そんなわけで稽古場へ戻る。ふすまを開けると目の前にガジンが立っていた。「あ、戻ってきた。呼びに行くとこだったよ。っていうか、なんかみんなうまそうな匂いしてる」「え、そう?」 服の袖を嗅いでみるが、よくわからない。鼻が慣れてしまっているのだろう。「もうできたの?」「いや、これから煮込んでルーを入れるところだよ。あ、手伝いはもういらないみたい」「最後に使ったフライパンとか洗うもの残ってるよ」 コロさんに戻るよう言われたので手伝いは残ってないと思っていたのだが、理恵ちゃんが指摘したようにまだ仕事はあった。ならまだ戻らずに手伝っていればよかったのではないだろうか。それともそろそろ交代時間になりそうだったので交代メンバーに任せることにしたということだろうか。「次はシーン4やるから余る人いないよ。私と裕子ちゃんは演出だし」 シーン4はメインで主人公の瞳ちゃんと三上の母のみずともが出る。それと通行人のモブ役として僕とガジンと理恵ちゃんも出る。主人公と三上の母が三上を探しに行くシーンだった。「なら先輩に任せて申し訳ないけど、やろっか」 理恵ちゃんは納得したようだ。「食後の後片付けはうちらでやろう」「そうだね」 稽古を続けているとケンさんとコロさんが上に上がってきた。完成したのだろう。
Last Updated: 2026-03-31
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