Chapter: 第百六十話百六十「ケンさんとコロさんは今何してるんですか?」「俺は老人ホームで介護の仕事してるよ」「わたしはフリーターだよ」 注文したハンバーガーを待つ間、席について会話が続いていた。理恵の質問に二人が答える。ケンは福祉関係の資格を持っている。だから老人ホームで働いていることに驚きはなかった。ちなみにナベも福祉学部心理学科を卒業しているので福祉系の資格を持っている。「理恵ちゃん、俺には聞かないの?」 ガジンの問いにはナベが代わりに質問を返すことにする。気になっていたからだ。「ガジンはフリーター続けてるんじゃないの?」「そうだよ」「いまはなにやってんの?」「卒業してからずっとインターネットのテクニカルサポート……困ったときの対応をしてるよ」「あ、じゃあみんなおおまかには電話応対の仕事なんだな」 そこで注文したハンバーガーが運ばれてきて、全員で食べ始める。「これからなんだけどさ」 食べながらケンが話し出す。旗揚げの話が始まったな、とナベは居住まいを正した。「まずは旗揚げ公演を目指して脚本を決めようと思うんだよね。で、役者はここにいる五人は出たほうがいいと思うんだよ」「え、でもそしたら……」 ガジンが不安を口にする。ナベも全員が役者をすると音響や照明の操作スタッフが足りていないことに気づいていた。「うん、スタッフやってくれる人を探さないといけないよね。お金で雇う選択肢もあるけど、そんなお金はないから知り合いのつてでなんとか見つけられればいいよね」「既成の台本ではダメなんですか?」 ジュースを飲みながら理恵が尋ねる。「旗揚げ公演だからさ、俺らのカラーを出したいなーって思うんだよ。俺も脚本書いてみるし、コロも書くって言ってる。だから最初は、期限決めてプロット書いて、脚本をきめるところからやりたいなーって思うんだよね」「劇団の名前も決めないとですね」 旗揚げをするなら名前が必要だ。ナベは楽しみで会議の
Last Updated: 2026-08-25
Chapter: 第百五十九話百五十九 演劇研究会の先輩、ケンからのメールだった。『ナベ、ひさしぶり。元気?じつは大学のOBで劇団を旗揚げしようと思ってさ。もし興味あったら旗揚げメンバーになってもらえないかなってことで、誘ってみた。まあちょっと考えてみてよ。よろしく〜』 ケンのメールはそんな内容だった。ナベにとっては渡りに船というか、願ってもない誘いだった。『お久しぶりです、連絡ありがとうございます!ちょうど就職先を退職してフリーターしてて、どこかの劇団に入団しようかなって探してるところでした。ぜひ一緒にやらせてください!』 ナベはケンと一緒ならおもしろい劇団を作れそうだと信頼できたので、すぐにそう返信した。『まじで!?会社辞めたんだ、それは演劇やって大丈夫なの?いやでも嬉しいよ!それじゃあ近いうちに旗揚げ会議やるから、バイトのシフト予定教えてくれる?』 ケンからの返信メールもすぐに届き、ナベは予定を返信した。ナベはこれから何か起こりそうな期待に胸が膨らんだ。 翌々週の土曜日の夜、ナベはケンに呼び出されてハンバーガーショップにやってきた。自転車で店に向かう間、どうしようもなく顔がにやけてくるので真面目な顔を作るのに苦労した。店の前につくと、ケンとコロが立っていたので、あっけなく破顔する。ケンと会うのは三年、コロと会うのは二年ぶりくらいだった。「久しぶり、ナベ!」 ケンは少し痩せたかもしれない。「ナベ〜、元気ー?」 コロは昔と変わらずふわふわと笑っている。「やー、お久しぶりっす!二人とも元気そうですね!」 ナベは二人に挨拶して、心からの笑顔でこんなにテンション高く話すのは久しぶりだな、と思った。自転車を駐輪場に停めて鍵をかけ、店の前に戻る。「えーと、これで全員ですか?」「いや、あと二人来るよ」「あいかわらず、ナベは時間にきっちりしてるね〜」 約束の時間まであと十分ある。ナベはいつも五分から十分前に来るようにしていた。時間はタダではない、という意識があったからだ。「いえいえ、普通ですよ。あと誰が来るんで
Last Updated: 2026-08-25
Chapter: 第百五十八話百五十八 ナベは就職先の新入社員研修に参加したが、仕事内容が面接時に聞いていた話とは違っていた。総合職と聞いていたのでいろいろな仕事をするのかと思っていたが、実際はトラックに乗ってレストランなどへ食材を届ける配送業のような仕事だった。勤務時間は朝六時から夜の七時すぎまで。出退勤は公共交通機関を使うつもりだったが、出勤時間に間に合わせるには自家用車を使うしかなかったので、父の車を借りることになった。 会社では出勤してからまずその日の配送先へ届ける食材をトラックに積み込む準備をする。配送トラックは六台あり、それぞれのトラックに先輩社員が割り当てられている。ナベはトラックの助手席に乗って先輩社員を手伝いながら仕事を学んでいた。 倉庫は常温・冷蔵・冷凍に分かれており、冷凍庫の気温はマイナス二十度だ。食材は段ボール箱に入っているが、卸先に合わせて段ボールから中身を取り出す。食用油は一缶二十キロ、業務用トマトのホール缶も一箱二十キロあった。先輩社員は油を一度に四缶、トマトの段ボールを三箱運んだりしていたが、ナベは油二缶、トマト二箱が限界だった。 午前八時ころまでに品出しが終わり、朝礼を受ける。それから午前九時ころまでにトラックに食材を詰め込み、午後五時すぎまで配送する。配送しなければならない食材は、配送先に人がいれば直接渡し、いなければ店舗前に食材と伝票を置くか鍵がかかっていなければ店舗内まで運ぶ。走らなければ配り終わらない量を詰め込んでいるので、基本的に階段も含めて走って移動する。会社には六時ころまでに戻り、洗車する。午後七時ころまで倉庫に届いた食材の段ボールを所定の位置にしまい、一日の仕事が終わる。 面接時に週休二日制という説明を受けていたが、働き始めてみると週休一日で、先輩に話を聞いてみると「休んでも仕事が回るなら休んでいい」ということらしく、実質的に週休一日が常態化していた。 毎日体力を使う仕事で夕食を食べ終わると起きていることが出来ない。会社と家を往復するだけの状態だった。勤務中、たまにトラックに乗らず社内に残って食材の受け取りと倉庫整理をする日があった。そんな時に同期入社の同僚と話す機会があり、仕事がきついから辞めようかという話をしていた。それからほどなくして、ナベがいつも
Last Updated: 2026-08-24
Chapter: 第百五十七話百五十七 ナベが主役を務めた公演は幕を閉じ、日常が始まった。その年の十二月、演劇研究会ではまた公演が行われた。今度はガジンが主役を務め、ナベは脇役と大道具を担当した。大道具の主任はまゆがつとめ、ナベは主役ではなかったのでわりとしっかりめに大道具として働いた。 就職活動をしなければならない時期にはなっていたが、ナベの中の演劇から離れがたい気持ちが勝っていた。部員が少ないのでやってほしいと言われて心が傾いたのが決め手になった。 三月になり卒業式を迎えた。たくさんいた四年生はみんな卒業してしまった。在校生たちで骨折を胴上げして雪の上に投げ飛ばした。骨折は着地を失敗し、骨折の危機を迎えたが運よくそれは回避できた。ブラザーはまた留年し、四度目の四年生になった。来年はもう卒業か中退かどちらかしかない。 ナベは大学四年生になった。演劇研究会の新部長はまゆに決まっていた。新一年生は男子二人、女子二人が入部した。いまの二・三年生は三人ずつだ。四年生たちは就職活動が始まるので戦力としてあまり期待できない。公演を行うにはギリギリの人数なので、もう少し部員が増えた方がいいのだが、入部しなかったものは仕方がない。卒論と就職活動を控えたナベは下級生たちに任せるしかなかった。 ナベの卒論はアンケートに回答してもらい、それを集計して分析し、論文を書くことにした。実験をしてもよかったが、被験者を集めるのが大変で母数が少なくなりがちで統計として分析するのが難しそうだった。アンケートは大学の授業後に講師から時間をもらい、学生に配って回答してもらう。マイクを使って大勢の前で依頼をするのだが、ナベは全く緊張しなかった。演劇を続けていたおかげだろう。 就職活動も始まった。大学の内外で開催されている合同説明会に参加し、就職サイトで手当たり次第、さまざまな企業にエントリーシートを提出する。時代は就職氷河期真っ只中だった。何十社も応募するが内定はもらえていない。 大学四年時点でのナベの授業は卒論とゼミだけだったので、授業のために大学へ行く必要があるのは週二回だった。それ以外は卒論の執筆と就職活動で必要があれば行く程度だ。それも定期のほうが交通費が高くつくのでできるだけ授業の日に合わせて行くようにしている
Last Updated: 2026-08-24
Chapter: 第百五十六話百五十六 打ち上げの一次会が終わり、二次会へ行く者と帰宅する者に分かれた。そのまえにナベは裕子を引き止めていた。「裕子ちゃん、そんなに時間はかからないんだけど、少しだけ時間をもらっていい?」「うん、いいよ」「ありがとう」 以前、裕子から告白された公園にナベは裕子をいざなった。「あー……最初に言っておくと、よりを戻してほしいとかそういう話をしに来たわけじゃないんだ。この公園に来るとそんな思惑がありそうな感じはするけど」「うん。懐かしいね」 裕子は憂いを帯びた表情で公園を眺める。「僕はずっと自分の中に閉じこもってて、演劇を始めてから表に出てきたって話を少し前に打ち明けたけど。そうだな。やっぱりすこし浮かれてたみたいだ。人を好きになったら付き合うものだってなんとなく思ってた。この年齢になって人を好きになったら、『普通は』付き合うんだろうなって。僕は自分がイレギュラーだってことを都合よく忘れてた」 裕子はナベのことを見ている。ナベも裕子を見つめた。「裕子ちゃんのことは演劇研究会に入って接するうちに、いつも元気だな、とか自分の意見をはっきり持ってるな、とか、自分自身に責任を持ってるな、とかそういう面が見えてきて、そういうところをすごく尊敬してた。表情がよく変わるところもなんか、嘘がなくて魅力的だと思った。……ああいや、過去形じゃないな。いまもそういうところが好きだ」 裕子は怪訝そうな表情に変わる。よりを戻したいという話に聞こえそうだとナベは苦笑する。そういう話じゃないと言っておいて正解だったな、とナベは思う。「僕は裕子ちゃんのことが好きだ。けどそれは、付き合いたいってことじゃなかったみたいだ。そもそも僕は人と付き合いたいって思うような人間じゃなかった。演劇研究会のみんなと接するようになって、人と一緒にいるのも悪くないと思うようにはなったけど、どうしたって僕は、一人の時間が大切だ。一人で居続けることが苦にならない。本さえあれば満足できる。……人を好きになったからって、ずっと一緒にいたいわけじゃなか
Last Updated: 2026-08-23
Chapter: 第百五十五話百五十五 本番の二日目と三日目も些細なミスはあったが集中して演じることができた。次の公演が十月になるのかもっと遅いのかわからないが、そのころには就職活動も本格化してくるので演劇に全力を尽くせるのはこの公演が最後になるのだろうとナベは考えていた。だからラストステージのカーテンコールで見た客席の眺めはしっかり目に焼き付けておいた。「打ち上げの時間あるんで、とっととバラすよー!」 舞監の山口が張り切って指示を出す。打ち上げの幹事も山口だった。ナベは大道具のパネルを分解しながらまゆに話しかける。「いやー、今回俺ほとんど大道具に関わってなかった気がするけど、ちゃんといいものができてすごいよ」「いえいえ、ナベさんにいろいろ助言もらえたので、助かりました。それに暇そうな人つかまえていろいろ手伝ってもらったので」「あー、それはまゆのいいところだね」「ナベさん、人に頼るの下手ですもんね」「全くおっしゃるとおりで」 ナベが苦笑しているとデカも会話に加わる。「ナベさん、俺もがんばりましたよ」「うん、そうだね。役者やりながらスタッフやるって大変だよね」「主役のナベさんに比べたらそんな大変ではないですけど」「俺そんなに手伝えてないからどっちもがんばったって胸を張って言えないなあ。けど大道具は成功してるわけだから、やっぱりデカもよくやったんだよ」「ありがとうございます」 作業を続けていたナベの耳に届いたデカの声は喜んでいるように聞こえた。 バラシを終え、いつものように居酒屋の俺ん家゛(おれんじ)で打ち上げが行われていた。打ち上げには全員が参加していた。「まあでも、俺が大学で初めて友だちになったのがガジンで良かったよ」「何だよナベ、そんなこと言っても何も出ないぞ」 ガジンはそう言いつつ、ナベのコップにビールを注いで取り皿に唐揚げを取り分けた。「いろいろ出てきたな。……いやでもまあ、そうなんだよ。人生の転機っていうか。俺はガジンに会うまで絶対人前で演技するようなことはしないって思ってた
Last Updated: 2026-08-23
Chapter: 第四十八話 僕は着替えてから店をあとにした。とてもお腹が減った。きのう説明されたが、いまは時給が六三〇円で研修期間が終わったら時給六四〇円になるらしい。今日は二時間働いたので一二六〇円稼いだ。だいたいパン十個分くらいだ。でも携帯電話の契約をしたいので無駄づかいするわけにはいかない。携帯電話の月額利用料はだいたい四千円くらいだ。携帯端末の本体も購入する必要がある。月額利用料に含まれているプランもあるみたいだが、多めに考えておいたほうがいいだろう。 僕は週三日、午後五時から午後十時まで一日五時間働く予定だ。六四〇✕五で三二〇〇円、だいたい月十三日くらいの勤務なので、月四万円くらいの給料になる。まあ、携帯電話代くらいは払うのに問題はなさそうだ。「おかえり。どうだった?」 「うん、疲れた」 「二時間しか働いてないでしょ」 「そうだけど」 「まあ、がんばんなさいよ」 「うん」 帰宅して昼食を食べながら母とそんな会話をした。それから約一ヶ月のあいだで研修を終えた。だいたい仕事のやり方と流れは覚えることができた。 毎月の給料は翌月の上旬に銀行振込される。僕はアルバイト先で店長から給与明細を渡されたので、家に帰ると預金通帳とカードを財布の中に入れて近くのスーパーへいった。入口にATMが設置されているからだ。主婦が二人並んでいたので最後尾につき、早く自分の番にならないかとそわそわして待つ。 待機列が途切れたのでATMの前に行き、一万円だけ引き出す。預金通帳に印字された「コンビニ24 8ガツブンキユウヨ」という文字を見ながらニマニマした。研修期間中はだいたい一日の勤務が二時間とか三時間だったので、最初にもらった給料は二万円にもならなかった。けれどお年玉や小遣い以外で初めて自分で稼いだお金なので嬉しい。あまりむだづかいはできないが、スーパーでふだん買わないお菓子を買って帰った。 自分で使いたいけど、家族に何かプレゼントをしたほうがいいだろうな。初めてだから自分のためだけに使うのはもったいない気がする。お寿司の出前とかなら全員にプレゼントできるな。給料が出た次の日曜日、僕は寿司の出前をとることにした。日曜日のお昼にそのことを両親に伝えた。「いいんだよそんな。自分で使いなさい」 「そうだぞ。自分で働いたお金なんだから」 「いやまあ、初任給とかって親に感謝するものだからさ。
Last Updated: 2026-01-29
Chapter: 第四十七話 店内に入ると、お客さんは数人いるくらいだった。篠原さんはモニターで込み具合を確認したのかもしれない。いままでレジの機械をじっくり見たことはなかったが、ボタンの多い計算機みたいだ。篠原さんから説明をしながら操作方法を教わる。一度聞いただけでは覚えきれないのでやりながら覚えていくしかなさそうだ。「それじゃ渡辺さん、レジ打ちしてみてください」 「はい」 お客さんが一人レジの前に来てカウンターにかごを置いていた。「いらっしゃいませ。一二〇円が一点、二三八円が一点、五〇円が一点、合計四〇八円のお買い上げになります」 お客さんは財布を取り出して五百円玉を出した。その間にレジ袋をカウンターから取り出して広げる。「五百円お預かりいたします。九二円のお返しになります。ありがとうございました。またお越しくださいませ」 お客さんに一礼する。「基本は大丈夫ですね。あとカウンターの下にはしとスプーンとフォークがあるので、必要そうな商品を買うお客様には確認してください」 「はい」 「それと、よくお客様からたばこないですかって聞かれることが多いんだけど、この店には置いてないです。理由を聞かれたら、近くにタバコ販売店があるからって答えてください」 「そんなルールがあるんですね」 「そうなんです。そこの交差点の向かいにタバコ屋あるのが見えるでしょう?」 「あー、ありますね」 「タバコがほしいお客さんにはあの店を案内してください」 「はい、わかりました」 「他にも、自動販売機が店を出て左に行くとすぐあるので、まあそっちの方が近いですね」 「了解です」 続けて、日付管理について教わった。おにぎり、パン、弁当、サンドイッチなどの食品には賞味期限が印字されている。商品が売れると売れた商品のスペースに隙間が生まれる。それを埋めるために奥の商品を前に出す必要がある。その時に日付を見て期限が近いものを前へ並べる。この仕事をフェイスアップと呼ぶらしい。「弁当のフェイスアップも、食欲を刺激するように工夫するんですよ。例えばそうですね」 篠原さんは弁当の陳列棚の弁当を並べる。全ての棚にいろいろな弁当が一段ずつ並べられた。弁当の数が少ないのでそうなる。「いまの時間帯は朝のラッシュが終わって昼の商品が届いていない状態なので、品数がありません。こんなふうに並べると弁当が少ないよう
Last Updated: 2026-01-29
Chapter: 第四十六話 二日後。僕は朝七時すぎに目が覚めた。一応バイトの時間に寝坊したらいけないので目覚ましをかけていたが、それよりも早く目覚めた。「おはよう」 「おはよう、早いね」 母が朝食の準備をしている。父はその奥でヒゲをそっている。「うん、なんか起きた」 「浩ちゃん今日何時だっけ?」 「十時だよ。お父さんおはよう」 「おはよう。早いな」 父はT字かみそりを持ったまま振り向いた。口の周りにシェービングフォームがついている。朝食の準備ができるまで僕は新聞を読むことにした。居間のテレビではNHKのニュースが流れている。僕の家ではいつも朝はニュースだ。 新聞を読んでいると、ドタドタと哲ちゃんが階段をおりてきた。一番上の兄で、名前は哲也だ。「あんた、間に合うのかい?もっと早く起きなさいよ」 「大丈夫、間に合う」 台所でいつものように哲ちゃんが母に怒られている。父はすでに朝食を食べ始めていた。僕も立ち上がって手を洗いにいく。「浩ちゃん、淳ちゃん起こしてきて」 「ん」 次男の淳ちゃんはまだ寝ていた。いつものことだ。僕は手を洗ってからのろのろと階段を上がり、淳ちゃんに声をかける。それからごはんを食べ始めると、母も食卓についた。「淳ちゃん起きてた?」 「起きたよ」 少しすると淳ちゃんがおりてきて、父と哲ちゃんは食事を終えた。職場は違うが、二人とも同じバスに乗って出勤する。僕も朝食を食べ終わってテレビを見ていると、すぐにバイトの時間になった。 自転車をこいで三十分、コンビニ24地下鉄北二十条駅前店に到着する。コンビニの中へ入り、僕より少し年上の女性店員に声をかける。「おはようございます、今日からここで働かせていただくことになりました、渡辺浩二です」 「おはようございます、よろしくお願いします。それじゃあ、ついてきてください」 僕は女性店員のあとに続く。「店長、新人の渡辺さんがいらっしゃいました」 「はい。ああ、渡辺さん。おはようございます」 「おはようございます、本日からよろしくお願いします」 「ええ、よろしくお願いします。じゃあ、まずこれですね。制服を貸し出しますので、汚れてきたら洗濯して使ってください」 店長から制服を二着渡された。見覚えのある赤い制服だった。コンビニ24のロゴマークが入っている。「あと名札ですね」 安全ピンのついた透明
Last Updated: 2026-01-29
Chapter: 第四十五話「どうも、よろしくお願いします。店長の斉木です」 店長は小太りで長めのスポーツ刈りをした三十代くらいのメガネをかけた男性だった。「渡辺浩二と申します。よろしくお願いします」 何回か面接を受けるうちに慣れてきたのかもしれない。それほど極端に緊張したりせず、受け答えすることができるようになっていた。けれどそれは家の近くのコンビニで面接を受けたときもそうだった。とくに気になるところもなく面接を終えたが、受かるかどうかわからない。落ちたことしかないので自信なんてなかった。 面接の四日後にコンビニから電話が来た。「先日は面接お疲れさまでした。店長の斉木です。面接の結果ですが、採用させていただきたいと思います」 うれしくて少し興奮した。「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」「雇用契約を結びたいので、今日もし暇なら来ていただきたいんですけど、大丈夫ですか?」「はい、大丈夫です」「いつごろ都合いいですか?」「いつでも大丈夫です」「そうですか。じゃあ、午後一時すぎくらいにシャチハタ以外の認印を持ってきてもらえますか?」「はい、わかりました」「それで、雇用契約書に保護者のサインも必要なので、それを書いてもらってまた今日か明日持ってきてください」「はい」「それで、初日の勤務なんですが、明後日の午前中とか大丈夫ですか」「はい、大丈夫です」「そうですか。それじゃあ、明後日の十時から、靴はスニーカー、ズボンはジーパンで来てください」「はい、わかりました。ありがとうございます」 あー、よかった。これで夏休みを無駄にしなくてすむ。スニーカーもジーパンもあるのでとくに用意しなければならないものはない。「お母さん、アルバイト決まったよ」「そう、おめでとう」「うんありがとう」「今日の午後一時すぎに雇用契約結んで、明後日から勤務だって」「そう。じゃあ、早めにお昼の準備しなきゃね」「ありがとう」 僕は階段を上がり、今日は家にいる二番目
Last Updated: 2026-01-28
Chapter: 第四十四話 アルバイト情報誌をめくっていると、コンビニ店員の募集が多い。時給はだいたい六三〇円でほぼ最低時給だが、人が足りていないので募集しているのだろう。もうコンビニでいいかな。時給が安いってことは仕事も楽なのかもしれない。コンビニなら家の近くにもどこにでもたくさんある。 家から歩いて十分ほどの距離にあるコンビニで運よく店員を募集していたので応募してみたが、不採用だった。面接した結果、採用したいというレベルではなかったのかもしれないし、それともふだんから少年漫画誌を立ち読みしているからかもしれない。顔を覚えられていて迷惑客と思われ、というかまあ、迷惑客でしかないわけだが。コンビニの商品は割高だからあまり買わない。だから敬遠された可能性はある。実際のところは定かではないけれど。 早いところ働き始めなければ夏休みが終わってしまう。もう十日以上たってしまった。僕が夏休み中していたことと言えば小説や漫画を読んでいるかアニメを見ているかしかしていない。それはそれで不満ではないのだけれど。だけどこれからわりと居酒屋に行ったりカラオケに行ったりお金を使う機会は増えていく気がする。なにより携帯電話がほしい。すこし焦りを感じ始めていた。 僕は大学へ通うとき、自転車で三十分くらいのところにある地下鉄まで行く。その地下鉄駅の近くにあるコンビニで店員を募集していたので、そこへ面接の応募をした。そのコンビニはふだん僕が使っている地下鉄の入口から少しだけ離れていたので、ほとんど入ったことはないはずだ。ふだんはコンビニの前を自転車で通り過ぎているだけだったので、そこにあることは知っていた。 四日後、そのコンビニへ面接を受けに来た。モップがけをしていた店員に、面接に来たことを伝えると、店員はレジカウンターの奥にある扉の向こうへ入っていきすぐに戻ってきた。「お待たせしました。こちらから入ってください」 僕は店員の後へ続き、レジとは反対側にある冷凍庫の近くにあるドアを抜ける。中に入ると狭い通路に棚が設置してあり、棚にはいろいろなお菓子の段ボールが収納されていた。通路の奥にまたドアがあり、そこに入ると小さな事務室になっていた。「面接の方をお連れしました」 店員は事務室の奥にいた男
Last Updated: 2026-01-28
Chapter: 第四十三話 三日後。自転車で寿司屋へ向かう。約束していた時間の十分くらい前に着き、店の中へ入る。いまは営業時間外らしく、客はいない。一人だけ午後の開店準備をしているらしい店員がいたので、面接に来たことを伝えると、バックヤードの方を示された。「店長は奥にいるので、入って待っててください」「はい、ありがとうございます。失礼します」 僕はバックヤードに入って中の通路を進む。奥にドアのない部屋の入口があり、光がもれていた。「失礼します、面接に来ました」 僕が声をかけて中に入ると、店長らしき中年男性のひざの上に、僕よりは年上の若い女性が座って密着していた。女性は僕に笑いかけ、ひらひらと手を振る。「……」「まだ時間じゃねえ!外で待ってろ!」「……失礼しました」 あまり人から怒鳴られたことがないので驚いたが、店長の人格には問題があるな。ええと、愛人か何かだろうか?僕はバックヤードの入口付近まで戻った。これは落ちたな、というよりここで働きたくないな。履歴書渡さずにもう帰りたい。というか、本当にこんなことがあるんだな。珍しいものを見た。 数分後、ひざの上に乗っていた女性が薄笑いを浮かべながら僕を呼びに来た。僕は事務室に入って座る。「言われるまで座んじゃねえよ、非常識だな」「あーはい、すいません」 全然気持ちがこもらない謝罪をする。勤務中にいちゃついてる人に常識をとやかく言われたくない。ひざの上なら勝手に座ってもいいのだろうか。気持ち悪いので座りたくないが。「じゃ、面接始めます」「はい」「志望動機は?」「はい、家から近いのと、時給がわりと高いからです」 なんだろう、ぜんぜん緊張しない。受かる気がまったくないからだろうな。早く面接終わらないかな。どうせ向こうも採用する気ないんだろうし。「それだけ?」「それだけです」「……長所と短所教えて」「長所は倫理観が高いところで、短所は正直すぎるところですね」
Last Updated: 2026-01-27