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いふや坂えみし
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Novels by いふや坂えみし

僕は僕が欲しいものなんて知らない 聖北学院大学演劇研究会 続編

僕は僕が欲しいものなんて知らない 聖北学院大学演劇研究会 続編

友人に誘われて入部した演劇研究会で、渡辺浩二は演劇にのめり込む。 演劇を通して成長していく姿を丹念に描いていく青春小説。 「僕は僕が欲しいものなんて知らない 聖北学院大学演劇研究会 入学編」 の続編になります。
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Chapter: 第百三十三話
百三十三 稽古前に瞳が来たので舞台案を持っていく。全員の合作なので大道具チームの三人で説明し、舞監と音響と照明の同意が得られれば舞台案は決定でよいという回答を得ることができた。ナベはひとまず安心する。「準備できたらシーン3やりまーす」 準備運動を終え、稽古の時間が来る。新人公演でナベは端役だったので稽古をしていない時間が多かった。だからその時間に台本を読んだり大道具の作業を進めることができていた。だが、今回は主役なので役作りのヒントは多いがほぼ休みがない。そこに不安を感じていたがやるしかない。「用意……」 瞳が手を叩き、稽古が始まる。「西暦2020年、高園技研工業と帝大基礎物理学研究所の共同研究によりタイムマシン試作機第一号が完成。その研究結果の公開により民間企業でのタイムマシン開発が加速。十年を待たずして、タイムマシンは民間レベルまで汎用性を拡大」「それと期を同じくして、時空の揺らぎを観測。歴史改変犯罪の発生と認知により歴史調停局が誕生。タイムマシンの民間利用は禁じられたが、不正利用や不正開発が後を絶たず歴史改変の犯罪認知件数は増加の一途を辿っている」 リヒト役のデカとマーサ役の裕子がそれぞれモノローグを語り終えて舞台を降り、入れ違いでジン役のガジンとジンの同僚役のしょうたが舞台に上がる。「ついに完成したな、ジン」「ああ、やったな」「世界が変わっちまうぜー……って、徹夜続きでもう限界だ。俺休んでくる」「ああ、お疲れ様」「お前も休めよー」 しょうたが舞台を降りると、ガジンはパソコンを操作するジェスチャーをする。「……これでようやく、僕の世界を変えられる」 ガジンは下手から上手へ移動し、携帯電話を取り出すジェスチャーをする。ジンの言動をタクヤは知らないので、頭には入れないようにする。ナベは出番が来たので台本を目で追いつつ、ガジンのセリフに耳を傾けた。「……僕だ。……ああ、そうだ
Last Updated: 2026-08-06
Chapter: 第百三十二話
百三十二 次の日の稽古前、部室に集まって大道具会議が開かれた。「これが俺の案です」 ナベが自分の案を説明した後、デカが出してきた舞台案は斬新だった。舞台がそのままタイムマシンのように見える。大道具の経験が少ないからか、発想が自由だった。「……おー……すごいな。おもしろい……けど、実現できるかぁ?」 とりあえずナベの中から出てきた言葉はそれだった。デカは満足げな顔をしている。「デカ、説明してもらっていい?出ハケ口とか全部」 まゆに促されてデカが話し始める。ナベは手を後ろに回して座っているパイプ椅子のパイプを掴む。金属の冷たさが気持ちよかった。「えーと、見たまんまタイムマシンをイメージして作りました。下手にタイムマシンを置いて、ここの出入りでタイムトラベルします。上手側でそれ以外の出入りをします。タイムマシンの曲線部分は、まあ糸と鉛筆結んで円を書く要領で線引いて、のこぎりで切ればできるかなって思います」「なるほど……。まあ、できなくもなさそうだけど演出プランが制限されるから、それ次第かな?」 ナベは言いながら制作工程を考える。勝手が違うので時間がかかるかもしれないが、二か月あればできそうな感じはした。「最後は私ですけど、ナベさんの案とけっこう似てるかもなんですが、引き戸じゃなくてタイムマシンに見えるような装飾をしたフレームを作って、そのフレームに布かなんかを張ります。その後ろからバックライトを当てて、フレームの後ろに役者が入ると布に役者の影が反射されてタイムマシンぽく見えるかな、と思いました」 舞台案が描かれた図にはフレームの絵がある。ペンキを塗るのか何かで彫るのかわからないが、フレームへの装飾だけだとタイムマシンというよりやはりフレームに見えた。「あー、なるほど。引き戸よりは作るコストは低そうかな?引き戸がうまく開かない可能性とかも考えなくていいか。そうだな……お客さんから役者が見切れちゃうからフレームの左右にパネル一枚ずつ
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第百三十一話
百三十一「すいません、相談なんですけど」 ナベはアルバイト先のコンビニで店長に相談を持ちかけた。「あ、だから早く来たの?」 店長の斉木がパソコンから目を離して振り向く。「はい、実は演劇研究会で主役をやることになりまして」 「おお、すごいじゃん」 「ありがとうございます。それで、いまシフトが火・木・土で入ってるんですけど、火曜か木曜のシフトを日曜にずらせないかと思いまして」 店長は渋い顔をする。その顔を見て、あまり期待しないほうがいいかもしれないと感じた。店長がなにやら思案している間、店内から聞こえる「いらっしゃいませー」の声がなぜかナベの耳に大きく響いた。「う〜ん、そうかぁ……代わりの人いるかなあ。ちょっと探してみる」 「すいません、よろしくお願いします。あとすいません、本番一週間前の土曜日から休ませてください」 ナベはこのコンビニで働き始めてもうすぐ三年になる。仕事にはすっかり慣れていた。主役をやるからには稽古にあまり穴を開けたくないので相談することにした。携帯代は卒業までの分はすでに稼ぎきっていたので、最悪辞めてもいいかと考えていた。だが新たにバイトを探して仕事を一から覚えるのも面倒だったので、代わりが見つかることを願った。代わりを探してくれるだけ良心的で、辞めるのは申し訳ないという気持ちもある。 とりあえずアルバイトは仕込みの一ヶ月前までは現状のままで様子見をしておくことにして、それを過ぎたら辞めるかどうか考えることにした。 稽古の方は読みから始まり、いまは立ち読みに変わっている。セリフ量が膨大なので早く覚えなければならないが、舞台案も考える必要がある。主任ではないが後輩に任せっぱなしにしてはいけないと考えていた。 明日が大道具案を持ち寄る日だったので、帰宅後に舞台案を考え始める。上手下手の出ハケ口はオーソドックスに二箇所ずつでいいだろう。タイムマシンをどうするかだが、強い光を放つバックライトがあったはずだ。それを使うとよいのではないだろうか。だが、バックライトを客席から見えたままにしておくのも目立ってしょうがないので、引き戸で隠すか。引き戸を作るのは
Last Updated: 2026-08-04
Chapter: 登場人物
登場人物(本公演「ブロークン・ギア」配役・スタッフ)|渡辺浩二《わたなべこうじ》(ナベ) 主人公。大学三年生。 【主人公・マシマタクヤ、大道具】|松本雅人《まつもとまさひと》(ガジン) 大学三年生。【黒幕・ニカイドウジン、音響】|橋本裕子《はしもとゆうこ》(裕子) 大学三年生。【歴史調停局員・マーサ、舞台監督助手】|池田理恵《いけだりえ》(理恵) 大学三年生。部長。【歴史調停局局長、制作】|岡田瞳《おかだひとみ》(瞳) 大学三年生。【演出】|清水智子《しみずともこ》(みずとも) 大学三年生。【制作主任】|林由美《はやしゆみ》(由美) 大学四年生。【衣装・メイク・小道具主任】|山崎香織《やまざきかおり》(コロ)大学四年生。【照明主任】|山口和也《やまぐちかずや》(山口) 大学四年生。【舞台監督】|藤田誠《ふじたまこと》(デカ)大学二年生。【歴史調停局員・リヒト、大道具】|坂本萌《さかもともえ》(もえ)大学二年生。【音響主任】|村上真由美《むらかみまゆみ》(まゆ)大学二年生。【大道具主任】|近藤翔太《こんどうしょうた》(しょうた)大学一年生。【タクヤの同僚・サトウフトシ/ジンの同僚、照明】|小林彩子《こばやしあやこ》(彩子)大学一年生。【演出助手・舞台監督助手】|原田美咲《はらだみさき》(みさき)大学一年生。【タクヤの婚約者・コザクラシノブ、衣装・メイク・小道具】
Last Updated: 2026-08-03
Chapter: 第百三十話
百三十「えー、はい。スタッフ希望聞いてきます。音響やりたい人ー」 ガジンともえが手を上げる。順番にスタッフ希望を確認していき、最終的には音響がガジンともえ、照明は四年のコロとしょうた、大道具はナベとデカとまゆ、衣装・メイク・小道具は四年の由美とみさき、制作は理恵とみずとも、舞監は四年の山口と裕子と彩子に決まった。 それからすぐにスタッフ会議になった。台本がすでにできあがっているので、スタッフとしてすぐに動き出せる状態だからだ。各スタッフのスケジュールを作り、舞監に報告して調整する予定だ。空き教室のあちこちで会議が始まり、すぐに騒がしくなった。「じゃあまず、主任決めようか。って言い出しておいてなんだけど、ごめん、主役と大道具の主任の兼任は無理だわ」 「そりゃそうでしょう……へっくしょん!すいません、なんか埃っぽいですね」 デカがくしゃみをする。ナベもデカもアレルギー体質だった。たしかに少し埃っぽいかもしれない。ナベの鼻もムズムズしてきた。まゆが手を上げる。「私やりますよ。役者やらないんで」 「あ、まじ?助かった」 「べつにいいって。私が適任でしょ」 まゆの立候補にデカが感謝する。デカも役者なのできついと思っていたようだ。ナベも無理やり押し付けるのは嫌だったので、まゆが立候補してくれてありがたかった。「ありがとう、まゆちゃん。よろしくね」 「いえ。やりたかったので気にしないでください」 ナベはまゆの表情から、嘘はついていないようだと判断する。他人の表情を読み取る力に自信があるわけではなかったが。「それじゃあ、会議の進行お願い」 「はい。まず、全体のスケジュールを決めていきましょう。えーと、本番の一週間前、仕込みは七月八日あたりですね。この日までに完成してるのが理想ですけど、ペンキ塗りは最悪残っててもいいです。まあただ、完成を目標にしましょう。大丈夫ですか?」 まゆのきりっとした表情に頼もしさを感じた。まゆはしっかり者というイメージをナベは持っていたので、任せて安心だと感じた。『異議なし』 ナベとデカが同意する。
Last Updated: 2026-08-03
Chapter: 第百二十九話
百二十九 全てのシーンのオーディションを終え、その日の稽古は終わった。結果は明日発表される。うまくいったところもあればうまくいかなかったところもある。それがいまの実力だとナベは受け入れる。もう一度充実した日々を過ごしたかった。主役に挑戦してみたい気もするが、いまの自分の実力からすると荷が重い気もする。 もう配役がどうなるかについては自分の手を離れて瞳と彩子に委ねられたので、結果を待つしかない。新人公演より出番が多い役になればいいとは思うが、どうなるのだろうか。 次の日。本公演参加メンバーが空き教室に集まった。今日は多目的ホールが使えない日だった。「ナベさん、緊張するっす俺」 二年のデカがナベに寄ってきた。去年ナベが大道具でスタッフ参加していたときに、たまに作業を手伝ってもらっていた。「うん、緊張するよね。もう瞳ちゃんと彩子ちゃんで配役決まってるだろうから、もう待つだけだよ」「そうですけどー。シュレーディンガーの猫ですよ。まだ未来は確定してないんすよ」 熱弁するデカの肩にガジンが手を回す。「まーたデカはなんか小難しいこと言って。大丈夫大丈夫。賄賂とか渡せばまだ間に合うって」「だめですよガジンさん、そんなことしたら永久追放ですよ。ですよね?理恵さん」 ガジンの軽口に二年のもえがにこにこと注意する。「卒業まで部費十倍で許さないこともない」 もえに話を振られた理恵が渋い顔で応えたが、顔を維持できずにやける。浮足立って口数が多くなっているのかな、とナベは勘ぐった。「このサークル、部長から腐ってやがる」 裕子が理恵につっこんだところで瞳と彩子が教室に入ってきた。それまでの和気あいあいとしながらも緊張感の漂っていた空気が一気に引き締まった。「はい、皆さんおまたせしました〜。それじゃあさっそく、気になってると思うので配役を発表しまーす」 瞳の発言にメンバーは居住まいを正す。「配役は、主人公のマシマタクヤをナベ、黒幕のニカイドウジンをガジン、婚約者コザクラシノブをみさきちゃん、歴史調停局員リヒトをデカ、
Last Updated: 2026-08-02
僕は僕が欲しいものなんて知らない 聖北学院大学演劇研究会 入学編

僕は僕が欲しいものなんて知らない 聖北学院大学演劇研究会 入学編

大学一年生の渡辺浩二は流されるままに演劇研究会に入部する。 人生の中で演劇に関わるなんて考えたこともなかった。 けれど一ヶ月後の公演を控えた演劇研究会での活動に徐々にのめり込んでいく。 自分の変化に戸惑いつつ、大学での日々は過ぎていく。
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Chapter: 第四十八話
 僕は着替えてから店をあとにした。とてもお腹が減った。きのう説明されたが、いまは時給が六三〇円で研修期間が終わったら時給六四〇円になるらしい。今日は二時間働いたので一二六〇円稼いだ。だいたいパン十個分くらいだ。でも携帯電話の契約をしたいので無駄づかいするわけにはいかない。携帯電話の月額利用料はだいたい四千円くらいだ。携帯端末の本体も購入する必要がある。月額利用料に含まれているプランもあるみたいだが、多めに考えておいたほうがいいだろう。 僕は週三日、午後五時から午後十時まで一日五時間働く予定だ。六四〇✕五で三二〇〇円、だいたい月十三日くらいの勤務なので、月四万円くらいの給料になる。まあ、携帯電話代くらいは払うのに問題はなさそうだ。「おかえり。どうだった?」 「うん、疲れた」 「二時間しか働いてないでしょ」 「そうだけど」 「まあ、がんばんなさいよ」 「うん」 帰宅して昼食を食べながら母とそんな会話をした。それから約一ヶ月のあいだで研修を終えた。だいたい仕事のやり方と流れは覚えることができた。 毎月の給料は翌月の上旬に銀行振込される。僕はアルバイト先で店長から給与明細を渡されたので、家に帰ると預金通帳とカードを財布の中に入れて近くのスーパーへいった。入口にATMが設置されているからだ。主婦が二人並んでいたので最後尾につき、早く自分の番にならないかとそわそわして待つ。 待機列が途切れたのでATMの前に行き、一万円だけ引き出す。預金通帳に印字された「コンビニ24 8ガツブンキユウヨ」という文字を見ながらニマニマした。研修期間中はだいたい一日の勤務が二時間とか三時間だったので、最初にもらった給料は二万円にもならなかった。けれどお年玉や小遣い以外で初めて自分で稼いだお金なので嬉しい。あまりむだづかいはできないが、スーパーでふだん買わないお菓子を買って帰った。 自分で使いたいけど、家族に何かプレゼントをしたほうがいいだろうな。初めてだから自分のためだけに使うのはもったいない気がする。お寿司の出前とかなら全員にプレゼントできるな。給料が出た次の日曜日、僕は寿司の出前をとることにした。日曜日のお昼にそのことを両親に伝えた。「いいんだよそんな。自分で使いなさい」 「そうだぞ。自分で働いたお金なんだから」 「いやまあ、初任給とかって親に感謝するものだからさ。
Last Updated: 2026-01-29
Chapter: 第四十七話
 店内に入ると、お客さんは数人いるくらいだった。篠原さんはモニターで込み具合を確認したのかもしれない。いままでレジの機械をじっくり見たことはなかったが、ボタンの多い計算機みたいだ。篠原さんから説明をしながら操作方法を教わる。一度聞いただけでは覚えきれないのでやりながら覚えていくしかなさそうだ。「それじゃ渡辺さん、レジ打ちしてみてください」 「はい」 お客さんが一人レジの前に来てカウンターにかごを置いていた。「いらっしゃいませ。一二〇円が一点、二三八円が一点、五〇円が一点、合計四〇八円のお買い上げになります」 お客さんは財布を取り出して五百円玉を出した。その間にレジ袋をカウンターから取り出して広げる。「五百円お預かりいたします。九二円のお返しになります。ありがとうございました。またお越しくださいませ」 お客さんに一礼する。「基本は大丈夫ですね。あとカウンターの下にはしとスプーンとフォークがあるので、必要そうな商品を買うお客様には確認してください」 「はい」 「それと、よくお客様からたばこないですかって聞かれることが多いんだけど、この店には置いてないです。理由を聞かれたら、近くにタバコ販売店があるからって答えてください」 「そんなルールがあるんですね」 「そうなんです。そこの交差点の向かいにタバコ屋あるのが見えるでしょう?」 「あー、ありますね」 「タバコがほしいお客さんにはあの店を案内してください」 「はい、わかりました」 「他にも、自動販売機が店を出て左に行くとすぐあるので、まあそっちの方が近いですね」 「了解です」 続けて、日付管理について教わった。おにぎり、パン、弁当、サンドイッチなどの食品には賞味期限が印字されている。商品が売れると売れた商品のスペースに隙間が生まれる。それを埋めるために奥の商品を前に出す必要がある。その時に日付を見て期限が近いものを前へ並べる。この仕事をフェイスアップと呼ぶらしい。「弁当のフェイスアップも、食欲を刺激するように工夫するんですよ。例えばそうですね」 篠原さんは弁当の陳列棚の弁当を並べる。全ての棚にいろいろな弁当が一段ずつ並べられた。弁当の数が少ないのでそうなる。「いまの時間帯は朝のラッシュが終わって昼の商品が届いていない状態なので、品数がありません。こんなふうに並べると弁当が少ないよう
Last Updated: 2026-01-29
Chapter: 第四十六話
 二日後。僕は朝七時すぎに目が覚めた。一応バイトの時間に寝坊したらいけないので目覚ましをかけていたが、それよりも早く目覚めた。「おはよう」 「おはよう、早いね」 母が朝食の準備をしている。父はその奥でヒゲをそっている。「うん、なんか起きた」 「浩ちゃん今日何時だっけ?」 「十時だよ。お父さんおはよう」 「おはよう。早いな」 父はT字かみそりを持ったまま振り向いた。口の周りにシェービングフォームがついている。朝食の準備ができるまで僕は新聞を読むことにした。居間のテレビではNHKのニュースが流れている。僕の家ではいつも朝はニュースだ。 新聞を読んでいると、ドタドタと哲ちゃんが階段をおりてきた。一番上の兄で、名前は哲也だ。「あんた、間に合うのかい?もっと早く起きなさいよ」 「大丈夫、間に合う」 台所でいつものように哲ちゃんが母に怒られている。父はすでに朝食を食べ始めていた。僕も立ち上がって手を洗いにいく。「浩ちゃん、淳ちゃん起こしてきて」 「ん」 次男の淳ちゃんはまだ寝ていた。いつものことだ。僕は手を洗ってからのろのろと階段を上がり、淳ちゃんに声をかける。それからごはんを食べ始めると、母も食卓についた。「淳ちゃん起きてた?」 「起きたよ」 少しすると淳ちゃんがおりてきて、父と哲ちゃんは食事を終えた。職場は違うが、二人とも同じバスに乗って出勤する。僕も朝食を食べ終わってテレビを見ていると、すぐにバイトの時間になった。 自転車をこいで三十分、コンビニ24地下鉄北二十条駅前店に到着する。コンビニの中へ入り、僕より少し年上の女性店員に声をかける。「おはようございます、今日からここで働かせていただくことになりました、渡辺浩二です」 「おはようございます、よろしくお願いします。それじゃあ、ついてきてください」 僕は女性店員のあとに続く。「店長、新人の渡辺さんがいらっしゃいました」 「はい。ああ、渡辺さん。おはようございます」 「おはようございます、本日からよろしくお願いします」 「ええ、よろしくお願いします。じゃあ、まずこれですね。制服を貸し出しますので、汚れてきたら洗濯して使ってください」 店長から制服を二着渡された。見覚えのある赤い制服だった。コンビニ24のロゴマークが入っている。「あと名札ですね」 安全ピンのついた透明
Last Updated: 2026-01-29
Chapter: 第四十五話
「どうも、よろしくお願いします。店長の斉木です」 店長は小太りで長めのスポーツ刈りをした三十代くらいのメガネをかけた男性だった。「渡辺浩二と申します。よろしくお願いします」 何回か面接を受けるうちに慣れてきたのかもしれない。それほど極端に緊張したりせず、受け答えすることができるようになっていた。けれどそれは家の近くのコンビニで面接を受けたときもそうだった。とくに気になるところもなく面接を終えたが、受かるかどうかわからない。落ちたことしかないので自信なんてなかった。 面接の四日後にコンビニから電話が来た。「先日は面接お疲れさまでした。店長の斉木です。面接の結果ですが、採用させていただきたいと思います」 うれしくて少し興奮した。「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」「雇用契約を結びたいので、今日もし暇なら来ていただきたいんですけど、大丈夫ですか?」「はい、大丈夫です」「いつごろ都合いいですか?」「いつでも大丈夫です」「そうですか。じゃあ、午後一時すぎくらいにシャチハタ以外の認印を持ってきてもらえますか?」「はい、わかりました」「それで、雇用契約書に保護者のサインも必要なので、それを書いてもらってまた今日か明日持ってきてください」「はい」「それで、初日の勤務なんですが、明後日の午前中とか大丈夫ですか」「はい、大丈夫です」「そうですか。それじゃあ、明後日の十時から、靴はスニーカー、ズボンはジーパンで来てください」「はい、わかりました。ありがとうございます」 あー、よかった。これで夏休みを無駄にしなくてすむ。スニーカーもジーパンもあるのでとくに用意しなければならないものはない。「お母さん、アルバイト決まったよ」「そう、おめでとう」「うんありがとう」「今日の午後一時すぎに雇用契約結んで、明後日から勤務だって」「そう。じゃあ、早めにお昼の準備しなきゃね」「ありがとう」 僕は階段を上がり、今日は家にいる二番目
Last Updated: 2026-01-28
Chapter: 第四十四話
 アルバイト情報誌をめくっていると、コンビニ店員の募集が多い。時給はだいたい六三〇円でほぼ最低時給だが、人が足りていないので募集しているのだろう。もうコンビニでいいかな。時給が安いってことは仕事も楽なのかもしれない。コンビニなら家の近くにもどこにでもたくさんある。 家から歩いて十分ほどの距離にあるコンビニで運よく店員を募集していたので応募してみたが、不採用だった。面接した結果、採用したいというレベルではなかったのかもしれないし、それともふだんから少年漫画誌を立ち読みしているからかもしれない。顔を覚えられていて迷惑客と思われ、というかまあ、迷惑客でしかないわけだが。コンビニの商品は割高だからあまり買わない。だから敬遠された可能性はある。実際のところは定かではないけれど。 早いところ働き始めなければ夏休みが終わってしまう。もう十日以上たってしまった。僕が夏休み中していたことと言えば小説や漫画を読んでいるかアニメを見ているかしかしていない。それはそれで不満ではないのだけれど。だけどこれからわりと居酒屋に行ったりカラオケに行ったりお金を使う機会は増えていく気がする。なにより携帯電話がほしい。すこし焦りを感じ始めていた。 僕は大学へ通うとき、自転車で三十分くらいのところにある地下鉄まで行く。その地下鉄駅の近くにあるコンビニで店員を募集していたので、そこへ面接の応募をした。そのコンビニはふだん僕が使っている地下鉄の入口から少しだけ離れていたので、ほとんど入ったことはないはずだ。ふだんはコンビニの前を自転車で通り過ぎているだけだったので、そこにあることは知っていた。 四日後、そのコンビニへ面接を受けに来た。モップがけをしていた店員に、面接に来たことを伝えると、店員はレジカウンターの奥にある扉の向こうへ入っていきすぐに戻ってきた。「お待たせしました。こちらから入ってください」 僕は店員の後へ続き、レジとは反対側にある冷凍庫の近くにあるドアを抜ける。中に入ると狭い通路に棚が設置してあり、棚にはいろいろなお菓子の段ボールが収納されていた。通路の奥にまたドアがあり、そこに入ると小さな事務室になっていた。「面接の方をお連れしました」 店員は事務室の奥にいた男
Last Updated: 2026-01-28
Chapter: 第四十三話
 三日後。自転車で寿司屋へ向かう。約束していた時間の十分くらい前に着き、店の中へ入る。いまは営業時間外らしく、客はいない。一人だけ午後の開店準備をしているらしい店員がいたので、面接に来たことを伝えると、バックヤードの方を示された。「店長は奥にいるので、入って待っててください」「はい、ありがとうございます。失礼します」 僕はバックヤードに入って中の通路を進む。奥にドアのない部屋の入口があり、光がもれていた。「失礼します、面接に来ました」 僕が声をかけて中に入ると、店長らしき中年男性のひざの上に、僕よりは年上の若い女性が座って密着していた。女性は僕に笑いかけ、ひらひらと手を振る。「……」「まだ時間じゃねえ!外で待ってろ!」「……失礼しました」 あまり人から怒鳴られたことがないので驚いたが、店長の人格には問題があるな。ええと、愛人か何かだろうか?僕はバックヤードの入口付近まで戻った。これは落ちたな、というよりここで働きたくないな。履歴書渡さずにもう帰りたい。というか、本当にこんなことがあるんだな。珍しいものを見た。 数分後、ひざの上に乗っていた女性が薄笑いを浮かべながら僕を呼びに来た。僕は事務室に入って座る。「言われるまで座んじゃねえよ、非常識だな」「あーはい、すいません」 全然気持ちがこもらない謝罪をする。勤務中にいちゃついてる人に常識をとやかく言われたくない。ひざの上なら勝手に座ってもいいのだろうか。気持ち悪いので座りたくないが。「じゃ、面接始めます」「はい」「志望動機は?」「はい、家から近いのと、時給がわりと高いからです」 なんだろう、ぜんぜん緊張しない。受かる気がまったくないからだろうな。早く面接終わらないかな。どうせ向こうも採用する気ないんだろうし。「それだけ?」「それだけです」「……長所と短所教えて」「長所は倫理観が高いところで、短所は正直すぎるところですね」
Last Updated: 2026-01-27
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