Chapter: 第六十九章 石の中の声箱の蓋の下で、赤い光が脈を打っていた。「リーゼ、来て」もう一度、同じ声がした。リーゼロッテは蓋に置いた手を、引けなかった。引いたら声が止んでしまいそうで、それなのに、その声が石から聞こえることが、耐えがたかった。背後で、寝具が鳴った。「……今の声は」振り返ると、エルフリーデが上体を起こしていた。髪が乱れ、目は冴えていた。眠っていなかったのかもしれない。「私の声ですね」「はい」「あなたを、呼んでいた」エルフリーデは寝台から降り、リーゼロッテの隣に立った。蓋に置かれた手の上に、自分の手を重ねる。「嫌な気分です」彼女は低く言った。「私の声が、あなたを危険な場所へ呼び出している。私がそうしているみたいで」「あなたの声じゃありません」リーゼロッテは首を振った。「あなたの声の、一部です」「同じことです」「違います」「どう違うのですか」答えられなかった。違うと言い切れる根拠が、自分にもなかった。エルフリーデは蓋を見つめたまま、長く息を吐いた。「開けたいです」「だめです」「聞いてください」重ねた手に、わずかに力がこもった。「三分の一が戻れば、あなたの顔が見えるかもしれない。毎朝、掌を見ないとあなたの名前が分からないのに、あなたの前に立つたび、胸が痛むんです。その理由が分からないのが、怖い」声が掠れていた。「初めまして、と言えるのが、嬉しくないわけじゃない。ただ、少し、疲れました」リーゼロッテの喉が締まった。この人は毎朝、自分の知らない痛みと向き合っていた。それを一度も口にしなかった。「……分かりました」エルフリーデの目が見開かれた。「ただし条件があります」リーゼロッテは蓋から手を離し、エルフリーデの右手首を取った。「私が、あなたの脈を数えます。上がりすぎたら、すぐに閉じます」「それは」「あなたが、私にしてくれたことです」指先を手首の内側に当てる。薄い皮膚の下で、脈が速く打っていた。「脈が乱れていますね」自分の声が、あの日の彼女に少し似ていた。エルフリーデの喉が、小さく鳴った。「……始めてください」蓋を、エルフリーデの左手が持ち上げた。黒い石が赤い光を強め、部屋の隅々まで、血の色が滲んだ。エルフリーデの指が、石に触れた。その瞬間、脈が跳ねた。「百十」リーゼロッテが数えた。「まだ、いけます」エルフリーデの瞳が
Last Updated: 2026-10-27
Chapter: 第六十八章 差出人のない小箱朝、エルフリーデは掌を見てから、顔を上げた。「おはようございます、リーゼロッテ」もう何度目か分からない挨拶なのに、毎朝、胸が鳴る。リーゼロッテは寝台の端に座ったまま、自分の左掌を差し出した。そこには、昨夜のうちに書いておいた字がある。エルフリーデ。「あなたも、書いたのですね」「あなたに、名前を返す練習です」エルフリーデは目を細め、右手首を見下ろした。まだリーゼロッテの手首を握ったままだった。「寝ている間も、離れなかったようです。すみません」「謝らないでください」「初めまして、と言うべきでしょうか」「毎朝、そう言ってください。私は毎朝、嬉しいので」エルフリーデの耳が赤くなった。指が、脈の上でわずかに動いた。朝食の途中で、カスパーが小さな木箱を持って入ってきた。「門の石畳に、置かれていました。差出人はありません」蓋を開けると、中に、掌に載るほどの黒い石が一つ入っていた。表面に赤い筋が走り、脈のように明滅している。その下に、折り畳んだ紙が一枚。新月の夜、北の礼拝堂。名の三分の一を返す。一人で来い。エルフリーデが、石に手を伸ばしかけて、止まった。指先が、石の三寸手前で震えている。「胸の奥が」彼女は低く言った。「引っ張られます。私の中の何かが、これに触れたがっている」「触らないでください」リーゼロッテは箱の蓋を閉じた。それから、深く息を吸って、顔を上げた。「行きます」エルフリーデの目が、鋭くなった。「罠です」「はい」「あなたを、おびき出すための」「分かっています。条件は、私の意志で行くことです」リーゼロッテは、手を膝の上で握りしめた。声は、震えなかった。「だから隠さずに、先にあなたに言いました。三度も嘘をついた私が、四度目をつきたくなかったので」エルフリーデは、何か言いかけて、唇を結んだ。長い沈黙のあと、静かに言った。「私は、あなたとの約束を、思い出せません」「はい」「それでも、あなたを一人で行かせることだけは、できません」「手紙には、一人で、と」「ええ。だから、一人では、行かせません」「どういう」「あなたが礼拝堂に入る間、私は、外にいます」エルフリーデは、卓の上の帯を取った。塔で二人の手首を結んだ、血の染みの残る帯だった。「これを、長く伸ばして、繋ぎます。入口から、あなたの手首まで」リーゼロッテは、息
Last Updated: 2026-10-26
Chapter: 第六十七章 白い部屋の朝ヘレナは、二人のために椅子を二脚、卓のそばに引いてくれた。動きに無駄がなく、品があった。「お客様は、久しぶりです」彼女は言った。「お茶を淹れましょう。お口に合うといいのですが」湯を沸かす手つきは、年を感じさせないほど確かだった。リーゼロッテは椅子に腰を下ろし、膝の上で手を握りしめた。声を出したら、泣いてしまいそうだった。隣に座ったエルフリーデが、卓の下で、そっと手の甲に触れてきた。軽く、二度。落ち着け、というように叩く。リーゼロッテは、ほんの少しだけ息を吐いた。茶が出た。薄い金色で、花の匂いがした。「あの」リーゼロッテは言った。「毎朝、掌に名前を書いておられると」「ええ。習慣なんです」「その名前の持ち主に、お会いになったことは」「ないと、思います」ヘレナは茶碗を両手で包んだ。「けれど、書いているうちに、毎朝、その方が会いに来てくださっているような気がして」「会いに」「あの窓の外に」ヘレナは、壁の小さな窓を見やった。薔薇の垣が、朝の光の中で揺れる庭に面した窓だった。「銀色の髪の方が、立っておられるんです。何もおっしゃらずに。ただ、こちらを見て」リーゼロッテの喉が詰まった。ミレイユ。二十年間、毎朝、この窓の外にいたのか。「その方が来ると、不思議と、手のひらが温かくなるんです」ヘレナは、左の掌を見下ろした。「名前の読み方は、分からなくなってしまったのに、書くことだけは、やめられなくて」「その温かさは、いつから」エルフリーデが静かに尋ねた。「ずっと、です。二十年。数えていませんけれど」「数えていない」「ええ、数えるのは苦手で」ヘレナは小さく笑った。「けれど、今朝も来てくださったことは、分かるのです」扉の脇に立っていた国王が、目を伏せたまま言った。「あの庭師を入れているのは、私だ。二十年前から、毎朝、同じ時刻に。誰にも気づかれないように」リーゼロッテは、国王の顔を見た。老いた横顔に、ひどく疲れた影が落ちていた。この人もまた、二十年、何かを守ってきたのだ。ヘレナが、ふと、二人の手に目を留めた。卓の下で、いつの間にか、指が絡んでいた。「お二人は、とても仲がおよろしいのですね」「あ」エルフリーデが、わずかに手を引こうとして、やめた。「失礼しました」「いいえ。手の握り方が、慣れていらっしゃるから」ヘレナの目が、柔らかくなった。「忘
Last Updated: 2026-10-25
Chapter: 第六十六章 名を預かる部屋王宮の裏門は、夜になると、生け垣に溶けるように静まり返っていた。月は細くなり始めている。先に着いていたカスパーが、無言で門を開けた。外套を深く被ったエルフリーデが、半歩前を歩く。リーゼロッテはその背中を追いかけながら、自分の歩幅を、少しだけ詰めた。石畳の継ぎ目に、爪先が引っかかった。「あ」声が出る前に、手首が掴まれていた。エルフリーデが、振り返りもせずに、片手でリーゼロッテの手首を支えていた。指は、脈の上にあった。そこが一番いい場所だと、体が知っているみたいに、迷いがなかった。「失礼しました」エルフリーデが言った。「足元が、悪かったので」「ありがとうございます」「いえ」手首は、離されなかった。エルフリーデは、自分の指を見下ろして、少しだけ眉を寄せた。それから、何かを諦めたように、掴んだ手をそっと下へずらして、手のひらを包み直した。「このほうが、安定します」それが理由として弱いことは、二人とも分かっていた。リーゼロッテは頷くだけにした。手の中で、エルフリーデの指が、わずかに強く握り返してきた。生け垣の影を、二人は並んで歩いた。通されたのは、王宮の奥の、小さな石の部屋だった。窓がなく、燭台が一つ。卓の向こうに、国王が座っていた。いつもの冠はなく、簡素な外套のまま、膝の上で両手を組んでいる。老けて見えた。「来てくれて、礼を言う」国王は立ち上がろうとして、思いとどまった。エルフリーデが、静かに頭を下げた。「陛下。記憶に不備がございまして、本来の礼を欠くかもしれません。ご容赦を」「聞いている」国王の視線が、二人の繋がれた手に落ちて、少しだけ細くなった。「ヘレナと同じだな」その名前に、リーゼロッテは息を止めた。「ミレイユに、お会いになったのですね」「会いに来る、と言っていた。まだ、来ていない」国王は、小さく首を振った。「それでよかった。あの人が顔を見せると、私は、昔の自分の顔を思い出してしまう」「陛下が、二十年前に、塔の扉を開けた」「ああ」「その時に、預かったものについて」国王は、しばらく黙っていた。燭台の火が、一度、揺れた。「見せたほうが早い。ついてきてくれ」部屋の奥の壁が、音もなく滑った。下へ続く、細い階段があった。国王が燭台を取り、先に降りていく。リーゼロッテとエルフリーデが、その後に続いた。石段は、百を超
Last Updated: 2026-10-24
Chapter: 第六十五章 初めましての朝、二度目の恋翌朝、リーゼロッテは日の出前に起きて、髪を二度結び直した。一度目は気に入らなかった。二度目は、少し緩めにした。西の棟へ向かう廊下で、胸の奥がずっと落ち着かなかった。もう三度目の朝だというのに、扉の前に立つと、毎回、指が震える。ノックを二つ。「はい」扉が開いた。寝起きの顔のエルフリーデが、外套の襟を直しながら、少しだけ目を細めた。それから、自分の右の掌を見て、一拍置いて、顔を上げた。「おはようございます、リーゼロッテ」名前を、先に掌で確かめてから呼ぶ。もう、それが当たり前になっていた。「おはようございます」「まだ、お名前の読み方が、少し怪しいのですが」「合っています」「よかった」ほっとした顔になる。その顔を見るのが、リーゼロッテは好きだった。何度見ても、毎朝、初めて見るみたいに胸が鳴る。「今日は、お願いがあって来ました」「何でしょう」「一日、私に付き合ってください」エルフリーデは、瞬きをした。「どこへ」「庭です。それと、離れの東屋」「理由は」「あなたに、思い出してほしいことがあるんです」リーゼロッテは、背中に隠していた手を、差し出した。小さな墨壺と、細い筆。「一日一つ、あなたの手に、書かせてください」エルフリーデの視線が、筆に落ち、それから、自分の左の掌に移った。右には名前がある。左は、空いていた。「何を」「私との、思い出を」少しの間があった。エルフリーデは、何も言わずに、左手を、ゆっくりと上に向けた。掌が、リーゼロッテの前に差し出される。指先が少し冷たそうで、手首の内側に、薄く青い血管が見えた。リーゼロッテは、そっとその手を取った。筆先を、掌の中央に落とす。「くすぐったい」「動かないでください」「失礼」細い線を、一画ずつ引いていく。エルフリーデの指が、時々ぴくりと動いた。笑いを堪えているのが、伝わってきた。書き終えて、息を吹きかけて乾かす。掌に、四文字が並んだ。字を教えた。「今日の話は、これです」エルフリーデは、じっと掌を見つめていた。「私が、あなたに、字を」「はい。婚礼のあとで。私が、ひどい字しか書けなくて」「……ええ」エルフリーデは、小さく言った。「あなたの字は、確かに、少し硬い」「ひどいです」「正直に言ったまでです」その言い方が、あの人そのままで、リーゼロッテは噴き出した。エル
Last Updated: 2026-10-23
Chapter: 第六十四章 手のひらに書いた名前目が覚めたとき、リーゼロッテは扉にもたれたまま、床の上にいた。首が痛い。頬に、乾いた涙の跡が突っ張っている。窓の外は、薄く明るかった。扉の向こうで、小さなノックが二度した。反射的に背筋が伸びる。立ち上がり、髪を指で整えて、取っ手に手をかけた。開ける前に、一度だけ、深く息を吸った。エルフリーデが立っていた。昨夜と同じ外套に、左腕の包帯。目の下に、うっすらと影がある。眠れなかったのだろう。「おはようございます」丁寧な声だった。「おはようございます」「突然、すみません。朝食の用意ができたと、侍女の方が」エルフリーデは言いかけて、少し口ごもった。「その前に、あなたに、確かめたいことがありまして」「何でしょう」エルフリーデは、右手を開いて、こちらへ向けた。掌に、インクで、字が書かれていた。リーゼロッテ。細い筆跡だった。払いが、右へ流れている。リーゼロッテの字だ。昨夜の紙を見ながら、そっくり真似たのだろう。ところどころ、インクが汗で滲んでいた。「朝起きたら、この名前の読み方が分からなくなっていて」エルフリーデは、困ったように眉を下げた。「手に書いておいたのは、昨夜の私らしいのですが。あなたの、お名前で、間違いありませんか」リーゼロッテは、答えようとして、声が出なかった。「……はい」やっと、それだけ言った。「よかった」エルフリーデは、ほっとしたように息を吐いた。「間違えて呼んだら、失礼ですから」その言い方が、あまりにも真面目で、あまりにも不器用で、リーゼロッテは、笑い出しそうになった。笑ったら、泣いてしまいそうだったので、唇を噛んで堪えた。「リーゼロッテと、お呼びください」「では、リーゼロッテ様」「様は、要りません」「ですが」「私は、あなたの、妻です」自分で言って、頬が熱くなった。エルフリーデは、一瞬、目を見開いた。それから、視線を逸らし、耳の縁を赤くした。「……では。リーゼロッテ」名前を呼ばれた。胸の奥が、きゅっと鳴った。あの日と、同じ声だった。朝食の席は、静かだった。小さな丸卓に、向かい合って座る。侍女が、パンと果物とスープを並べて、静かに下がった。エルフリーデは、背筋を伸ばして、スープに口をつけた。リーゼロッテも、スプーンを取った。それなのに、味が、よく分からなかった。「あなたは」エルフリーデが、不意に口を
Last Updated: 2026-10-22
Chapter: 番外 「夕焼けの向こう」春になった。卒業から一か月。桜はすでに散り始め、街路には淡い花びらが薄く積もっている。高校の制服を着ることはもうない。毎朝乗る電車も。歩く道も。何もかも変わった。それでも、夕焼けを見るたびに、航平はあの日々を思い出してしまう。黄昏教室。旧校舎。図書館。そして、共に過ごした仲間たち。大学の講義を終え、改札を出ようとしたとき、スマートフォンが震えた。画面には短いメッセージが表示される。――『今日、時間あるか。』送り主は奥田だった。航平は少し驚いた。奥田から個人的に連絡が来ることは珍しい。『あるけど。どうした?』数秒後。返事が届く。『学校に行かないか。』たったそれだけだった。夕方。二人は卒業した高校の正門前で落ち合った。校舎にはもう人気はない。新入生は新しい校舎を使うことになり、旧校舎は来月には取り壊されると聞いていた。「急に呼び出して悪かった。」奥田が言う。「いや。」航平は門の向こうを見つめる。「俺も、一度来ようと思ってた。」二人はゆっくりと校内へ足を踏み入れた。放課後の校庭。部活動の掛け声。体育館から聞こえるバスケットボールの音。どれも高校時代と変わらない。変わったのは、自分たちだけだった。「懐かしいな。」「……ああ。」言葉は少ない。それでも沈黙は苦しくなかった。奥田とは昔からそうだった。無理に話さなくても、一緒に歩いていられる。それだけで十分だった。旧校舎の前に着く。立入禁止の黄色いテープが張られ、窓ガラスには夕陽が赤く映っていた。航平はふと笑う。「結局さ。」「本当に終わったんだな。」「ああ。」奥田も静かにうなずく。「怪談も。」「管理者も。」「全部。」風が吹く。窓辺のカーテンが小さく揺れた。その光景に、二人は同時に足を止める。まるで、誰かがまだそこにいるような気がした。しかし教室の中には誰もいない。静かな時間だけが流れていた。「最近。」奥田がぽつりと口を開いた。「夢を見る。」航平は横顔を見る。「図書館の夢か。」「……知ってたのか。」「卒業式の日に言ってただろ。」奥田は苦笑した。「そうだったな。」しばらく黙って歩く。「夢の中で。」「本棚を歩いている。」「何かを探してる。」「でも、何を探してるのか分からない。」「最後にな
Last Updated: 2026-06-28
Chapter: 第160話(最終話)春が訪れた。桜は校庭いっぱいに咲き誇り、風が吹くたび、花びらは校舎から運動場へと舞い落ちる。まるで、やさしい雪が降っているようだった。そして――この学校から怪談は姿を消した。黄昏教室も。四列目の本棚も。午後六時を過ぎると流れ始める校内放送も。あの不気味な噂の数々は、まるで最初から存在しなかったかのように、静かに消えていった。時は変わらず流れ続ける。誰もが、それぞれの人生へと戻っていった。卒業式当日。空は雲ひとつない快晴だった。講堂には卒業生と保護者がぎっしりと集まり、壇上では教師が祝辞を述べている。真面目に耳を傾ける者もいれば、こっそり隣と話し込む者もいる。机の下で手紙を回している生徒までいた。それは、これまで幾度となく過ごしてきた、ありふれた学校の日常と何ひとつ変わらない光景だった。航平は席に座り、窓の外を舞う桜をぼんやりと眺めていた。「航平。」ふいに隣から声がする。振り向くと、神谷澪が頬杖をつきながらこちらを見ていた。「卒業式でもぼーっとしてるの?」航平は苦笑する。「お前に言われたくない。」澪はくすっと笑った。昔と変わらない笑顔。けれど、その瞳だけは以前よりも少しだけ穏やかで、ときおり、長い長い歳月を生きてきた人のような静けさを宿している。――そう思った次の瞬間。彼は手にしていた紙玉を、ぴん、と航平の額へ弾き飛ばした。「何見てるんだよ。」「ちゃんと聞け。」「……。」航平は額を押さえてため息をつく。……やっぱり。こいつは何も変わっていなかった。卒業式が終わると、生徒たちは次々と講堂を後にした。校内のあちこちでは記念写真を撮る人たちで賑わっている。泣いている者。笑っている者。「また会おう」と約束を交わす者。勇気を振り絞って想いを伝える者。青春とは、きっとこういうものなのだろう。賑やかで。そして、あまりにも短い。校舎裏へ回ると、奥田が一本の桜の木の下に立っていた。手には卒業証書。何を考えているのか、静かに花びらを眺めている。「奥田。」声をかけると、彼はこちらを振り向き、小さくうなずいた。「終わったな。」航平は微笑む。「ああ。」終わった。たくさんの出来事が。そして同時に、たくさんの物語が、今ようやく始まろうとしている気もした。梢を風が
Last Updated: 2026-06-28
Chapter: 0159-新しい朝が、始まる。管理者コアは、崩壊しつつあった。空には無数の亀裂が走る。本のページは一面の白い光となって舞い上がる。止まっていた時間が、再び流れ始めた。閉じ込められていた歳月。止まったままの黄昏。決して終わることのなかった一日。――そのすべてが、ついに終着点を迎えようとしていた。……光の門は、静かに世界の中心に佇んでいた。記録者はその門の前に立ち、穏やかな眼差しで告げる。「神谷澪。」「――帰っておいで。」風がそっと吹き抜ける。過去の神谷澪。未来の神谷澪。そして現在の神谷澪。三人は同時に沈黙した。まるで、この瞬間をずっと待っていたかのように。……最初に口を開いたのは、未来の神谷澪だった。彼はふっと笑う。「ようやく、もう走らなくて済む。」十九年間。彼は数え切れないほどの結末を見てきた。何度も失敗を繰り返し、何度も始まりへと戻り、そのたびに新たな可能性を探し続けた。そして今日。ようやく終着点へ辿り着いた。彼は顔を上げ、航平を見つめる。「よかった。」「今回は、お前が来てくれた。」風が吹く。未来の姿は、少しずつ光へと変わり、静かに消えていった。……二人目に消えたのは、十九年間、裂け目の中に残り続けた過去の神谷澪だった。彼は静かに皆を見渡し、最後に記録者へ視線を向ける。長い沈黙のあと、ふっと微笑んだ。「お疲れさま。」たった三文字。それだけだった。けれど、その言葉に記録者は呆然と立ち尽くした。十九年間。誰一人として、彼にそんな言葉をかけてくれたことはなかったから。次の瞬間。過去の神谷澪もまた光の粒となり、門の向こうの光の海へ溶け込んでいった。……世界は、不意に静まり返る。残されたのは、ただ一人。現在の神谷澪だけだった。彼はその場に立ったまま、動かなかった。航平の胸に、不吉な予感が走る。「神谷。」神谷澪は振り返り、笑った。見慣れた笑顔。どこか気だるげで、少しいたずらっぽい、初めて出会ったあの日と変わらない笑み。「どうした?」航平は口を開く。だが、何も言葉にならなかった。その瞬間、気づいてしまったのだ。自分は――怖いのだと。この神谷澪まで消えてしまうことが。最後に残るのが、もう自分の知る神谷澪ではなくなってしまうことが。……神谷澪は、その想い
Last Updated: 2026-06-27
Chapter: 0158-帰ろう「おかえり。」その声が落ちた瞬間――世界は静寂に包まれた。未来の神谷澪は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく何も言わなかった。そよ風が静かに吹き、前髪をやさしく揺らす。そのとき、彼の脳裏に数え切れないほどの記憶がよみがえった。十九年前。夕暮れ。階段。転落。暴走した時間の裂け目。そして、必死になって自分を追いかけてきた、あの少年。「待って!」「入っちゃだめだ!」「神谷澪――!」記憶の中のその声は、次第にはっきりとしていく。そして目の前の記録者の姿が、その記憶の中の少年と、ゆっくり重なっていった。そうか。最初からずっと――彼は、自分を追い続けていたのだ。……記録者はゆっくりと神谷澪の前まで歩み寄る。何かを壊してしまうのを恐れるように。そっと問いかけた。「今度は――」「もう、行ってしまうの?」空気が静まり返る。未来の神谷澪はうつむき、ふっと笑った。その笑みは、どこか切なかった。「……俺は、いつだって行こうなんてしていない。」記録者は目を見開く。神谷澪は顔を上げ、静かに彼を見つめた。その声は、とても穏やかだった。「離そうとしなかったのは――」「ずっと、お前のほうだった。」夜風が吹き抜ける。記録者の身体が小さく震えた。その手に抱えた記録帳が、ふいにひとりでに開く。無数の名前が、ページいっぱいに浮かび上がる。玲奈。修一。神谷澪。そして、数え切れないほどの行方不明者たち。その名前は、次々と光を帯びながら揺らめく。まるで何かを待っているように。……第二管理者は、その光景を静かに見つめていた。そして、ゆっくりと目を閉じる。ようやく理解したのだ。十九年前。自分は、規則を守っているのだと思っていた。その後は。時間そのものを守っているのだと信じていた。だが今になって、ようやく気づく。――誰もが間違っていた。管理者は、規則のために存在していたのではない。ただ――大切な人との別れを受け入れられなかった、一人の存在だったのだ。……「おい。」不意に奥田が口を開く。全員が彼を振り向いた。両手をポケットに入れたまま、いつもと変わらない表情で立っている。「もう、そろそろいいんじゃないか。」記録者はきょとんとする。「……何が?」奥田は静かに言った。「十九年だ。」
Last Updated: 2026-06-26
Chapter: 0157-おかえり――轟。夜空が砕け散った。無数のページが嵐となり、管理者コア全体を飲み込む。鎖が四方八方から押し寄せる。空を覆い尽くし、まるで世界そのものが、たった一つの名前を追い求めているかのようだった。神谷澪。……未来の神谷澪は白紙のページの前に立っていた。後ずさりもしない。逃げ出しもしない。ただ静かに、その鎖を見つめていた。まるで、この光景を最初から予想していたかのように。「やっぱりな」彼は小さく笑った。「結局、こうなるんだな」次の瞬間。一本目の鎖が夜空を貫き、轟音とともに落下した。未来の神谷澪は手を掲げる。白紙のページが一瞬で広がり、純白の光が衝撃を受け止めた。凄まじい轟音が響き、空間全体が震える。だが――さらに多くの鎖が迫ってきていた。何千、何万。果てしなく。なぜなら、それは攻撃ではなかったからだ。それは――捜索。管理者は世界そのものを使って、一人の人間を探していた。……【返還。】【返還。】【返還。】低く重い声が繰り返し響く。それは執念のようで、あるいは幾年月を越えた呼び声のようだった。航平はふいに息を呑んだ。気づいてしまったからだ。管理者は最初から一度も、「抹消」とは言っていない。「消滅」とも言っていない。ずっと繰り返していたのは――「返還」。まるで本当に望んでいるのは、誰かを元の場所へ帰してやることだけであるかのように。……そのとき。未来の神谷澪がふいに振り返った。「航平」その声は異様なほど穏やかだった。だが航平の胸は嫌な予感で沈む。この口調を、彼はよく知っていた。神谷澪が危険なことをしようとするとき、いつもこうなのだ。「何だよ?」神谷澪は微笑む。「一つ頼みがある」「嫌だ」航平は反射的に答えた。未来の神谷澪「……」奥田「……」玲奈は思わず吹き出しそうになる。空気が妙な沈黙に包まれた。未来の神谷澪は額を押さえる。「まだ何も言ってないんだけど」「どうせろくでもない話だろ」航平は冷ややかに言った。「お前ら神谷三人、全員同じなんだよ」第二管理者は思わず視線を逸らした。その言葉を否定できなかったからだ。……遠くでは、鎖がますます近づいてくる。管理者の声も次第に切迫していく。【神谷澪。】【神谷澪。】【神谷澪。】何度も。
Last Updated: 2026-06-25
Chapter: 0156-規則管理者も、かつては一人の人間だった。その言葉が発せられた瞬間――空間全体が凍りついたかのようだった。航平は呆然と立ち尽くし、奥田は眉をひそめる。そして今の神谷澪でさえ、一瞬言葉を失った。誰一人として、そんな可能性を考えたことがなかったからだ。十九年間。管理者は常に「規則」だった。記録者だった。時間の裂け目そのものだった。だが、もしそれがかつて人間だったのなら――すべての意味が変わる。……未来の神谷澪はゆっくりと顔を上げた。巨大な深紅の瞳を見つめる。その声は静かだった。「自分の名前を、まだ覚えているか?」夜空が静まり返る。管理者は答えない。ただ無数のページがゆっくりとめくられていく。パラ――パラ――パラ――それはまるで、重く長い呼吸のようだった。未来の神谷澪は小さくため息をつく。「やっぱり……もう忘れてしまったんだな」第二管理者はしばらく沈黙した後、口を開いた。「お前はいったい何を知っている?」未来の神谷澪は彼を見た。その視線は複雑だった。「君が知らない部分を知っている」「君は過去に留まっているからだ」「そして僕は――」「結末を見た」……風が急に冷たくなる。白紙のページがゆっくりと開かれた。そこに、今まで一度も現れたことのない記憶が浮かび上がる。全員が同時に顔を上げた。そして息を呑む。そこは学校ではない。図書館でもない。まして現代ですらなかった。映し出されたのは、正体も分からないほど古い建物。図書館にも見え、神殿にも見える。無数の書架が天へと伸びていた。そしてその中央に――一人の少年が座っていた。十五、六歳ほど。見知らぬ時代の制服を着ている。静かに文字を書き続けていた。彼の前には、一冊の分厚い記録帳。名前を一つ書き記すたびに、その傍らで光が灯る。そして誰かが闇の中から現れ、本来いるべき現実へと帰っていく。「これは……」航平が呆然と呟く。未来の神谷澪が低く言った。「最初の記録者だ」映像は続く。時間の中で迷子になった魂たちが、次々と連れ戻されていく。戦火の中の子供。事故に遭った学生。道に迷った者。行方不明になった者。記録者は一人ずつ名前を書き、彼らを本来属する時間へ送り返していった。彼は多くの人を救った。数え切れないほどに。
Last Updated: 2026-06-24