Chapter: 9.手紙のない夜⑨「は……?」 思わず声が漏れる。 慌てて辺りを見回す。公園の出入口にも、滑り台の影にも、誰もいない。あまりに唐突すぎて、寒気と熱が同時に走った。 けれど空にはまだ星があった。見上げるほどに、無数の光が遠くで瞬いている。現実感のない夜なのに、その光だけは妙に確かだった。 帰り道、ポケットの中のスマホがやけに重かった。家に着いて自分の部屋へ戻る。机の上には、さっき落としたままの封筒がある。 白い便箋をもう一度取り出す。『今夜、あなたは生まれ変わる』 その文字列は、さっきまでより少しだけ違って見えた。 意味がわからないことに変わりはない。だけど今夜、たしかに何かが動き出した気はした。止まったままだと思っていた時間の針が、ほんのわずかに軋みながら前へ進んだみたいに。 机の引き出しを開け、封筒をしまう。今までならそのままベッドに倒れ込んで、何も考えないふりをしたはずだ。けれど今夜は違った。 スマホを手に取る。 トークアプリを開く。 灯の名前が、一番上にある。 メッセージ入力欄に指を置いて、しばらく迷う。 どうせ送れない。送ったところで、既読もつかない。そうわかっているのに、俺は短く打ち込んだ。『明日、行く』 送信はしない。 文字だけを残して、画面を閉じる。 窓の外を見る。星はまだ見えていた。さっき公園で見上げた空と、同じはずなのに少しだけ違って見える。 あいつが本当に灯なのか、それとも俺がどうかしてしまったのか、まだ何もわからない。 ただひとつ、わかっていることがある。 明日も、俺はあの公園へ行く。 たとえ夢でも、幻でも、あそこで待っているのが死んだはずの幼なじみでも。 今度は、行く。 その決意だけが、胸の中で小さく、けれど確かに熱を持っていた。 夜は静かだった。 夏の始まりの空に、七月最初の星が瞬いていた。 そしてたぶん、俺の止まっていた時間も、その下でようやく動き出そうとしていた。
Last Updated: 2026-03-31
Chapter: 8.手紙のない夜⑧公園の時計は十一時半を過ぎていた。なのに夜はまだ深く、星はむしろ増えているように見える。「今日は、もうそれだけ?」 俺が聞くと、灯は少し首を傾げた。「もっと話したい?」「いや、そういうわけじゃ」「じゃあ今日はこれで」「急だな」「最初から飛ばしすぎると疲れるでしょ」 そう言って立ち上がる。俺もつられて腰を上げた。「明日も、ここで?」「うん。同じ時間くらい」「ほんとに来るのか」「恒一こそ」「……来るよ」 即答した自分に少し驚く。灯はそんな俺を見て、満足そうに頷いた。「うん。恒一は、そういう人だから」 その一言が、なぜだか胸に深く刺さった。 病院に行かなかった俺が。 “また今度”を選んだ俺が。 それでもまだ、そういう人だと、お前は言うのか。 問い返す前に、灯は数歩ぶん後ろへ下がった。夜の濃い影の方へ。街灯の光が届かないところへ。「じゃあ、また明日」「おい、待て」「何?」「……その」 呼び止めたくせに、続きが出てこない。何を言えばいい。どうして今さら、お前に対してこんなにも言葉が不器用なんだ。 結局、口から出たのは、ひどくくだらない一言だった。「ほんとに、灯なんだよな」 灯は一瞬だけ目を細めた。笑うでもなく、怒るでもなく、どこか泣きそうな顔にも見えた。「それ、明日も聞く?」「……聞くかも」「じゃあ明日も答える」 ずるい返しだと思った。 でも、それでよかった。 灯は背を向けて歩き出す。数歩先で振り返り、軽く手を振る。その仕草は昔と同じなのに、輪郭だけが少しずつ夜に滲んでいくように見えた。目を瞬いた次の瞬間、そこにはもう誰もいなかった。
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Chapter: 7.手紙のない夜⑦灯の横顔が少しだけ緩む。「うん」「曇ったら」「たぶん、ぼんやりになる」「雨なら」「会えないかも」「七日過ぎたら」「終わり」 短い返答の連続が、妙に現実的で、余計に怖かった。「じゃあ、明日も会える保証はないのか」「晴れたら会える」「天気任せかよ」「私もそう思う」 少しだけ笑い合う。ほんの一瞬、昔に戻ったみたいだった。 だけど次の瞬間、その“昔に戻ったみたい”という感覚そのものが、ひどく残酷に思えた。戻れないから、今こんなことになっている。 俺は膝の上で手を握った。爪が手のひらに食い込む。「……七日間」「うん」「ほんとに、それだけなんだな」「たぶん」「たぶんって何だよ」「絶対って言えたらかっこいいんだけど、そこはちょっと自信ない」「適当すぎる」「ごめん」 謝りながら笑う。その笑い方に、胸の奥がまた軋んだ。 結局、俺はこの顔に弱いのだ。昔からそうだった。灯がこうして少し困ったように笑うと、強く言えなくなる。今だって、本当なら問い詰めたいことはいくらでもある。どうして死んだ人間がここにいるのか。どうして俺のところに来たのか。あの手紙はお前が出したのか。そもそも、これは現実なのか。 けれど、どれを問うより先に、失いたくないと思ってしまう。やっと目の前に現れたものを、また消してしまうような言葉は吐きたくなかった。「……わかった」 気づけば、そう言っていた。 灯が目を瞬かせる。「何が」「付き合う。七日間」 自分でも信じられないくらい、すんなり言葉が出た。「その代わり」「うん」「ちゃんと説明しろ。できる範囲でいいから、何もかも曖昧にするな」「善処します」「軽いな」「でも嬉しい」 灯はそう言って、ほんとうに嬉しそうに笑った。その笑顔を見た瞬間、胸の奥に冷たく沈んでいたものが、少しだけ揺れた気がした。
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Chapter: 6.手紙のない夜⑥「……なんで今さら」 口をついて出た。 灯はブランコの前に立ったまま、こちらを見た。「何が」「会いに来るなら、なんで今さらなんだよ」 自分でも驚くくらい、声が掠れていた。「一年も経ってから出てきて、七日だけとか言って。そんなの、勝手すぎるだろ」 責めたかったのか、縋りたかったのか、自分でもわからない。ただ、胸の奥でずっと沈殿していたものが、言葉になって漏れた。 灯は何も言わずに、少しだけ目を伏せた。 沈黙が落ちる。 遠くで虫が鳴いている気がした。いや、鳴いていなかったかもしれない。音の感覚が曖昧になるくらい、この夜は静かだった。 やがて、灯が小さく口を開く。「今じゃないと、だめだったんだと思う」「何で」「恒一が、今だから」「意味わかんねえよ」「うん。わかりにくいよね」 灯は困ったように笑う。「でも、たぶん今がいちばん、ぎりぎりだった」「……何が」「恒一が、自分のこと、ほんとにどうでもよくなっちゃう前」 その一言で、呼吸が止まった。 視線が自然と上がる。灯はまっすぐ俺を見ていた。逃げ場のない目だった。「そんな顔するってことは、ちょっと当たってるんでしょ」「……別に」「別に、って顔じゃない」「お前に何がわかる」 言った瞬間、空気が強張った。灯は傷ついたような顔をしなかった。ただ、静かに瞬きを一つしただけだった。「うん。全部はわからない」 それから、ゆっくりと言う。「でも、恒一が止まったままだってことくらいは、見ればわかるよ」 反論できなかった。 見ればわかるほど、俺は止まっていたのか。そんなふうに思う一方で、たぶん本当にそうなのだとも思う。見ないふりをしてきただけで、何ひとつ前に進めていないのは、自分がいちばんよく知っている。 灯はベンチの方へ歩いてきた。俺の隣ではなく、半歩ぶん離れた位置に腰を下ろす。触れれば届きそうなのに、その距離だけは最後まで縮まらない気がした。「七日間だけでいい」 灯が言う。「その間だけ、ちゃんと私のこと見て。ちゃんと話して。ちゃんと怒って、ちゃんと笑って。あと、できれば、ちゃんと生きる気になって」「最後だけ雑だな」「一番大事なんだけど」「無茶言うな」「恒一にしかできないから」 そんなことを、そんなふうに言うな。 またあの日みたいに、軽く頷けばいいのか。あとで考
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Chapter: 5.手紙のない夜⑤「でも、たぶん無駄じゃないよ」「何が」「こうして会えたこと」 まっすぐに言われる。逃げるみたいに、俺は視線を逸らした。 空には相変わらず星が多い。星座なんてほとんど知らない俺でも、今夜の空が異様に澄んでいることくらいはわかる。公園のベンチに座る。膝に肘をついて、手の中に視線を落とした。「……俺、夢見てるのかもな」「それ、さっきから三回くらい思ってるでしょ」「思うだろ、普通」「うん、普通だと思う」「なんでお前はそんな普通なんだよ」「恒一が普通じゃなさすぎるから、誰かは普通でいないと」 そういう言い方も、やっぱり灯だった。 昔から、俺が黙り込んでいると、あいつは勝手に横に座って勝手に話し続けた。俺の反応が薄くても気にしない。沈黙を怖がらない。そのくせ、ほんとうに触れてほしくないところには妙に敏感で、踏み込みすぎる直前で止まる。そういうところに、俺はずっと助けられていた。 助けられていたのに。 最期に、俺は行かなかった。 喉の奥がまた詰まる。灯はそんな俺を見ず、星を見上げたまま言った。「ねえ、恒一」「……何」「七日間だけでいいから、付き合ってよ」「何に」「私に」「ざっくりしすぎだろ」「細かく言うと、ちゃんと会って、ちゃんと話して、ちゃんと終わらせるまで」 心臓が、嫌な跳ね方をした。「終わらせるって」「七日後には終わるから」「なんでそんなこと」「決まってるの」「誰が」「星、とか、そういうの」「お前、ほんと説明下手だな」「うるさいな」 灯がむっとした顔をする。その表情があまりにも懐かしくて、泣きそうになるのをごまかすように、俺は深く息を吐いた。「……断ったら」「断る?」「知らねえよ。たとえば」「そしたら、たぶん私が困る」「お前が困るのかよ」「うん。あと、恒一もあとで困ると思う」「脅しか」「忠告」「変わんねえな」 何度目かわからないその言葉に、灯はふっと笑った。「変わってないよ」 その返しだけ、少しだけ強かった。 変わってない。 変われなかったのは、きっと俺のほうだ。 去年の七月から、俺の時間は止まったままだ。学校には通っている。授業も受ける。テストも受ける。親と最低限の会話もする。親友の湊がたまにしつこく声をかけてきたら、適当にあしらうこともできる。生活だけなら、続いている。 で
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Chapter: 4.手紙のない夜④「……なんで、そこ」「なんとなく」「適当すぎるだろ」「大事な話、いつもあそこでしてたから」 そう言われて、何も言えなくなる。たしかに、子どもの頃から、俺たちは何かあるとあの公園へ行った。小学校のときの喧嘩も、中学の進路の話も、灯が入院する前に「髪切りすぎた最悪」と騒いでいたのも、あそこで聞かされた。「行こう」 灯が歩き出す。俺は数歩遅れて、そのあとを追った。 夜道は静かだった。街灯は点いているのに、いつもより光が届いていないみたいに感じる。家々の窓も暗いわけではないのに、生活の音がほとんど聞こえない。自転車のブレーキ音も、テレビの音漏れも、なにもない。ただ俺たちの足音だけが、アスファルトの上を軽く打つ。 妙だった。 けれど、いちばん妙なのは隣を歩く灯の存在そのものだ。「……なあ」「ん?」「お前、足音するんだな」「失礼だなあ」「いや、だって」「幽霊だと思ってる?」 冗談めかして言う声色が、あまりに昔のままで喉が詰まる。俺は答えられずに黙り込む。すると灯は少しだけ笑って、前を見たまま言った。「まあ、そう思うのも無理ないか」「無理ないだろ」「うん」「死んだんだぞ、お前」 その瞬間、灯の横顔がほんのわずかに固まった。 言ったあとで、しまったと思う。言い方があまりにも直線的すぎた。けれど今さら取り消せない。 灯はしばらく黙ってから、空を見上げた。「そうだね」 それだけだった。 責めるでもなく、悲しむでもなく、事実をなぞるみたいな声音。逆に、その淡さが痛かった。「……悪い」「なんで恒一が謝るの」「いや」「私、死んだのは事実だし」 あっけらかんと言われて、胸の奥が強く軋む。そんなふうに軽く言うなよ、と思う。思うくせに、じゃあどう言われたいのかはわからない。 公園に着く。ブランコは夜風に揺れていなかった。砂場は誰にも踏まれていないみたいに平らで、鉄棒だけが月明かりを受けて鈍く光っている。こんなに静かな公園だっただろうかと、さっきから同じことばかり思っている。 灯はブランコの前まで行って、座らずにその背を軽く押した。チェーンがきしむ音がした。いつもの何倍も、音が澄んで聞こえる。「今日、七月一日なんだよね」 ぽつりと灯が言う。「……知ってる」「うん。知ってるよね、さすがに」「馬鹿にしてんのか」「ちょっとだけ
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