LOGINもし、もう一度だけ会えるなら。 今度は、ちゃんと会いに行く。 高校三年の夏。 朝倉恒一は、一年前に幼なじみ・橘灯を亡くして以来、 止まったままの時間を生きていた。 あの日、灯から届いたメッセージ。 「今日来れる?」 本当は行けた。 それでも恒一は、迷って―― 「また今度行く」と返した。 その“今度”は、二度と来なかった。 7月1日。 満天の星空の下で、死んだはずの灯が現れる。 「七日間だけ、会えるよ」 それは、七夕までの七日間。 星が見える時間だけの、短すぎる再会。 会えなかった日。 言えなかった言葉。 置き去りにしたままの後悔。 これは、もう二度と会えないはずの君と過ごす、 残された僕が、もう一度“生きる”ことを選ぶまでの物語。
View More目が覚めたとき、空はもう夜だった。
やけに静かで、音がない。風も、車の走る音も、人の気配も。世界から少しだけ何かが抜け落ちてしまったみたいに、夜だけが澄みきっていた。
寝起きのぼんやりした頭で体を起こし、空を見上げる。星が、やけに綺麗だった。見慣れているはずの住宅街の上に、こんな空があっただろうかと思うくらい、暗い青の奥まで細かな光が滲んでいる。
この時間になると、自然と足がここへ向かう。
理由は考えない。考えなくても、そうなる。
今日も、あの場所へ行く。
……来るはずだ。
あの人は、そういう人だ。
胸の奥に、わずかな違和感が残る。それが何なのかは、まだわからない。けれど、たとえ短くても、ちゃんと届けば、それでいいと思った。
立ち上がって、歩き出す。
星の下へ。
*
――その夜、俺は眠れなかった。
エアコンの風が天井を撫でている。六月の終わりにしては蒸し暑く、けれど窓の外には妙な静けさがあった。夏の夜特有の、遠くでバイクが走る音も、近所の犬が吠える声も聞こえない。代わりに、壁掛け時計の秒針だけがやけに大きく耳につく。
ベッドに仰向けのまま、スマホの画面をつけては消す。通知はない。あるはずもない。最近の俺に連絡をよこすような相手は、ほとんどいなくなっていた。
画面上部の時刻は二十二時四十一分を示している。まだそんなものか、と思った直後、いや、もうそんな時間か、とも思う。時間の感覚だけが妙に鈍い。高三の夏なんて、本来なら進路だの模試だの文化祭準備だのに追われて、もっと一日が速く過ぎていくものなんだろう。少なくとも、去年まではそうだった。
去年の今ごろは――と考えかけて、そこで思考を止める。
止めようとして、結局止められない。
ベッドの脇に置いた勉強机へ視線をやる。無造作に置かれた参考書、開きっぱなしの英単語帳、その上に載る白い封筒。今日の夕方、学校から帰ってきたとき、ポストに入っていたものだ。
差出人の名前はなかった。切手も消印もない。ただ、きれいすぎるくらい真っ白な封筒が一通だけ、他のチラシに混じって入っていた。
最初は近所の子どもの悪戯かと思った。あるいは母さんがどこかでもらってきた何かを、間違って俺のところに置いたのかと。けれど封を切って中を見ると、便箋にはたった一行しか書かれていなかった。
『今夜、あなたは生まれ変わる』
意味がわからない。
今見返しても、やっぱり意味がわからない。
誰に向けて書かれたのかも、何の冗談なのかもわからない。それなのに、捨てられなかった。丸めてゴミ箱に放り込むだけなのに、その一動作が妙に重かった。
生まれ変わる、なんて。
そんな都合のいいことがあるなら、最初からこんなふうにはなっていない。
喉の奥に薄い苦味が広がる。俺はベッドから起き上がり、床に足をつけた。勉強机の前まで行き、封筒を手に取る。指先に紙の乾いた感触が伝わる。便箋はシンプルで、飾り気がなくて、まるで誰かが急いで書いたみたいに文字だけが浮いている。
見覚えのある字では、ない。
……たぶん。
そこを曖昧にしてしまう自分が嫌になる。だって、忘れたくないと思っていたくせに、もう細部を思い出すことに自信が持てないのだ。
椅子に腰を下ろした拍子に、机の端に置いたスマホが震えた。びくりとして手が止まる。通知ではない。電源ケーブルが触れて、置き方がずれただけだった。
何を警戒しているんだ、と自分で思う。
深く息を吐く。肺の奥に溜まっていたものが、上手く出ていかない気がした。
窓の外に視線を投げる。カーテンの隙間から見える空には、星がいくつも浮かんでいた。思わず立ち上がって窓辺に寄る。ガラス越しの夜気がかすかにひんやりしている。住宅街の灯りがあるのに、今夜は妙に星が多い。
昔、あいつが言っていた。
「夏の星って、ちゃんと見ればすごいんだよ。都会でも意外と見えるんだから」
そのときの俺は、適当に「へえ」と流した気がする。どうせそんなもん、興味のあるやつにしか違いなんてわからないだろ、と思っていた。あいつはむっとした顔をして、じゃあ今度見せてあげる、と言った。たしか、そう言って笑っていた。
――今度。
その言葉が、今でも嫌いだ。
スマホを持ち上げる。ロックを解除して、トークアプリを開く。一番上にある名前は、もう一年も更新されていない。
橘 灯
その四文字を、俺はしばらく見つめていた。
開かなければいいのに、開いてしまう。過去の会話履歴は驚くほどどうでもいいやり取りばかりだ。プリント忘れたとか、購買でパン買っといてとか、病院のご飯が薄味すぎるとか、星が見えるとか見えないとか。どうしてあんな平凡な文字列が、今ではこんなに苦しいんだろう。
画面をスクロールして、一番下で指が止まる。
『今日来れる?』
短い文面。
その下に、俺の返信。
『ごめん、今日ちょっと無理かも。また行く』
それに対する返事は、ない。
既読だけがついて、会話は終わっている。
あの日のことを思い出すと、いまだに言い訳が頭の中に並ぶ。模試が近かったとか、病院に行っても何を話せばいいかわからなかったとか、弱っている姿を見たくなかったとか、元気なふりをしている灯に合わせるのがしんどかったとか。
どれも本当で、どれも嘘だ。
本当は、怖かっただけだ。
いつもの灯じゃない灯を見るのが。
「は……?」 思わず声が漏れる。 慌てて辺りを見回す。公園の出入口にも、滑り台の影にも、誰もいない。あまりに唐突すぎて、寒気と熱が同時に走った。 けれど空にはまだ星があった。見上げるほどに、無数の光が遠くで瞬いている。現実感のない夜なのに、その光だけは妙に確かだった。 帰り道、ポケットの中のスマホがやけに重かった。家に着いて自分の部屋へ戻る。机の上には、さっき落としたままの封筒がある。 白い便箋をもう一度取り出す。『今夜、あなたは生まれ変わる』 その文字列は、さっきまでより少しだけ違って見えた。 意味がわからないことに変わりはない。だけど今夜、たしかに何かが動き出した気はした。止まったままだと思っていた時間の針が、ほんのわずかに軋みながら前へ進んだみたいに。 机の引き出しを開け、封筒をしまう。今までならそのままベッドに倒れ込んで、何も考えないふりをしたはずだ。けれど今夜は違った。 スマホを手に取る。 トークアプリを開く。 灯の名前が、一番上にある。 メッセージ入力欄に指を置いて、しばらく迷う。 どうせ送れない。送ったところで、既読もつかない。そうわかっているのに、俺は短く打ち込んだ。『明日、行く』 送信はしない。 文字だけを残して、画面を閉じる。 窓の外を見る。星はまだ見えていた。さっき公園で見上げた空と、同じはずなのに少しだけ違って見える。 あいつが本当に灯なのか、それとも俺がどうかしてしまったのか、まだ何もわからない。 ただひとつ、わかっていることがある。 明日も、俺はあの公園へ行く。 たとえ夢でも、幻でも、あそこで待っているのが死んだはずの幼なじみでも。 今度は、行く。 その決意だけが、胸の中で小さく、けれど確かに熱を持っていた。 夜は静かだった。 夏の始まりの空に、七月最初の星が瞬いていた。 そしてたぶん、俺の止まっていた時間も、その下でようやく動き出そうとしていた。
公園の時計は十一時半を過ぎていた。なのに夜はまだ深く、星はむしろ増えているように見える。「今日は、もうそれだけ?」 俺が聞くと、灯は少し首を傾げた。「もっと話したい?」「いや、そういうわけじゃ」「じゃあ今日はこれで」「急だな」「最初から飛ばしすぎると疲れるでしょ」 そう言って立ち上がる。俺もつられて腰を上げた。「明日も、ここで?」「うん。同じ時間くらい」「ほんとに来るのか」「恒一こそ」「……来るよ」 即答した自分に少し驚く。灯はそんな俺を見て、満足そうに頷いた。「うん。恒一は、そういう人だから」 その一言が、なぜだか胸に深く刺さった。 病院に行かなかった俺が。 “また今度”を選んだ俺が。 それでもまだ、そういう人だと、お前は言うのか。 問い返す前に、灯は数歩ぶん後ろへ下がった。夜の濃い影の方へ。街灯の光が届かないところへ。「じゃあ、また明日」「おい、待て」「何?」「……その」 呼び止めたくせに、続きが出てこない。何を言えばいい。どうして今さら、お前に対してこんなにも言葉が不器用なんだ。 結局、口から出たのは、ひどくくだらない一言だった。「ほんとに、灯なんだよな」 灯は一瞬だけ目を細めた。笑うでもなく、怒るでもなく、どこか泣きそうな顔にも見えた。「それ、明日も聞く?」「……聞くかも」「じゃあ明日も答える」 ずるい返しだと思った。 でも、それでよかった。 灯は背を向けて歩き出す。数歩先で振り返り、軽く手を振る。その仕草は昔と同じなのに、輪郭だけが少しずつ夜に滲んでいくように見えた。目を瞬いた次の瞬間、そこにはもう誰もいなかった。
灯の横顔が少しだけ緩む。「うん」「曇ったら」「たぶん、ぼんやりになる」「雨なら」「会えないかも」「七日過ぎたら」「終わり」 短い返答の連続が、妙に現実的で、余計に怖かった。「じゃあ、明日も会える保証はないのか」「晴れたら会える」「天気任せかよ」「私もそう思う」 少しだけ笑い合う。ほんの一瞬、昔に戻ったみたいだった。 だけど次の瞬間、その“昔に戻ったみたい”という感覚そのものが、ひどく残酷に思えた。戻れないから、今こんなことになっている。 俺は膝の上で手を握った。爪が手のひらに食い込む。「……七日間」「うん」「ほんとに、それだけなんだな」「たぶん」「たぶんって何だよ」「絶対って言えたらかっこいいんだけど、そこはちょっと自信ない」「適当すぎる」「ごめん」 謝りながら笑う。その笑い方に、胸の奥がまた軋んだ。 結局、俺はこの顔に弱いのだ。昔からそうだった。灯がこうして少し困ったように笑うと、強く言えなくなる。今だって、本当なら問い詰めたいことはいくらでもある。どうして死んだ人間がここにいるのか。どうして俺のところに来たのか。あの手紙はお前が出したのか。そもそも、これは現実なのか。 けれど、どれを問うより先に、失いたくないと思ってしまう。やっと目の前に現れたものを、また消してしまうような言葉は吐きたくなかった。「……わかった」 気づけば、そう言っていた。 灯が目を瞬かせる。「何が」「付き合う。七日間」 自分でも信じられないくらい、すんなり言葉が出た。「その代わり」「うん」「ちゃんと説明しろ。できる範囲でいいから、何もかも曖昧にするな」「善処します」「軽いな」「でも嬉しい」 灯はそう言って、ほんとうに嬉しそうに笑った。その笑顔を見た瞬間、胸の奥に冷たく沈んでいたものが、少しだけ揺れた気がした。
「……なんで今さら」 口をついて出た。 灯はブランコの前に立ったまま、こちらを見た。「何が」「会いに来るなら、なんで今さらなんだよ」 自分でも驚くくらい、声が掠れていた。「一年も経ってから出てきて、七日だけとか言って。そんなの、勝手すぎるだろ」 責めたかったのか、縋りたかったのか、自分でもわからない。ただ、胸の奥でずっと沈殿していたものが、言葉になって漏れた。 灯は何も言わずに、少しだけ目を伏せた。 沈黙が落ちる。 遠くで虫が鳴いている気がした。いや、鳴いていなかったかもしれない。音の感覚が曖昧になるくらい、この夜は静かだった。 やがて、灯が小さく口を開く。「今じゃないと、だめだったんだと思う」「何で」「恒一が、今だから」「意味わかんねえよ」「うん。わかりにくいよね」 灯は困ったように笑う。「でも、たぶん今がいちばん、ぎりぎりだった」「……何が」「恒一が、自分のこと、ほんとにどうでもよくなっちゃう前」 その一言で、呼吸が止まった。 視線が自然と上がる。灯はまっすぐ俺を見ていた。逃げ場のない目だった。「そんな顔するってことは、ちょっと当たってるんでしょ」「……別に」「別に、って顔じゃない」「お前に何がわかる」 言った瞬間、空気が強張った。灯は傷ついたような顔をしなかった。ただ、静かに瞬きを一つしただけだった。「うん。全部はわからない」 それから、ゆっくりと言う。「でも、恒一が止まったままだってことくらいは、見ればわかるよ」 反論できなかった。 見ればわかるほど、俺は止まっていたのか。そんなふうに思う一方で、たぶん本当にそうなのだとも思う。見ないふりをしてきただけで、何ひとつ前に進めていないのは、自分がいちばんよく知っている。 灯はベンチの方へ歩いてきた。俺の隣ではなく、半歩ぶん離れた位置に腰を下ろす。触れれば届きそうなのに、その距離だけは最後まで縮まらない気がした。「七日間だけでいい」 灯が言う。「その間だけ、ちゃんと私のこと見て。ちゃんと話して。ちゃんと怒って、ちゃんと笑って。あと、できれば、ちゃんと生きる気になって」「最後だけ雑だな」「一番大事なんだけど」「無茶言うな」「恒一にしかできないから」 そんなことを、そんなふうに言うな。 またあの日みたいに、軽く頷けばいいのか。あとで考