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ReiN.
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Nobela ni ReiN.

限界なき番(リミットレス・ペア)

限界なき番(リミットレス・ペア)

現代の都会に存在する、ややギャグ寄りのオメガバース。 女性同士の婚姻も自然に受け入れられ、αとΩの“番(ペア)”は運命ではなく、選び直す自由をもつ関係として再定義された。 その最終到達点──限界なき番(リミットレス・ペア)=Bond Overflow(YH-Model)。 愛と生理が無限増幅ループに入るこの特異現象は、観測史上ただ一組。 αの独立研究者・朝比奈ひなた(32)と、ΩのWeb作家・灯川ユナ(27)。 彼女たちの共同研究は、理論の壁を超えて世界を“恋愛的バグ”へと導く。 抑制剤が効かず、フェロモンが物理法則を歪め、SNSが愛に感染していく。 ――これは、愛と理性が衝突した先で生まれた、 限界突破型オメガバース×百合SFラブコメディ。
Basahin
Chapter: 第21話「ひなた、消失」
 ひなたが消えたのは、午後二時三十七分だった。 その時刻が正確にわかるのは、家中にある十七台の観測機器が、ほぼ同時にエラーを吐いたからだ。昨日から続く情動共鳴光の解析中、ひなたはリビング中央に設置した簡易観測装置の前で腕を組んでいた。世界中で発生している光とYH-Modelの波形を比較するため、朝からずっとデータを眺めている。 ユナはソファでノートパソコンを開き、その横顔を眺めていた。「先生」「なに」「眉間」「眉間?」「今日ずっと難しい」「顔の話?」「顔の話」 ひなたは無視してモニターへ戻った。画面には二本の波形が重なっている。一つは世界各地で観測された情動共鳴光。もう一つは、自分たちのBond Overflow。形はよく似ている。けれど、同じではない。「世界中の発光現象に、YH-Modelと共通する周期がある」「へぇ」「ただし振幅は極端に小さい。昨日見た通り、フェロモンを介さない例もあるし、対象がその場に存在しないケースもある」「うん」「つまり――」「先生」「なに」「私、たぶん今、論文の査読者みたいな顔してないよ」「聞いて」「聞いてるよ。半分くらい」「半分」 ひなたが振り返る。その瞬間、装置のランプが一つ光った。 ユナが指を差す。「先生、今の」「見た」 二人とも黙った。もう一度、光る。今度は二つ、その次には四つ。「増えてない?」「増えてる」 ひなたが操作盤へ手を伸ばす。装置は昨日から各地の情動共鳴光を受信しているだけで、こちらから何かを送信する設定にはしていない。そのはずだった。 画面右上の数値が、ゆっくりと上がり始める。 12、19、34、68。「先生」「待って」「待ってる場合?」「原因を切り分ける」 ひなたが接続を一つずつ解除していく。東京、ソウル、台北、パリ。通信先を落としても数値は下がらず、むしろ規則正しく上昇を続けた。 ユナがソファから立つ。「これ、前にも見たことない?」「どれ」「先生が焦って、機械が言うこと聞かなくなって、そのあと大体すごいことになるやつ」「そんな分類はない」「シリーズ化してるよ」「してない」 数値が137を示したところで、モニターの端に警告表示が浮かんだ。《YH-Model:外部共鳴を検出》 ひなたの手が止まる。「外部?」「世界から?」
Huling Na-update: 2026-08-22
Chapter: 第20話「愛が、可視化される日」
 最初に光ったのは、名前も知らない二人だった。 午前七時十二分。都内の駅ホームを映す定点カメラの映像に、並んで立つ二人の輪郭が淡く浮かんだ。 電車を待ちながら片方が眠そうに欠伸をし、もう片方が肩へ頭を預ける。その瞬間、二人の周囲だけ空気の明度が上がり、薄い桃色の光が数秒ほど残った。 映像はすぐにSNSへ転載された。《これ何?》《加工?》《朝から発光してる》《またYH-Model?》《恋人が光ってるんだけど》 最後の投稿から、状況が変わった。 同じような映像が、別の街から上がり始めた。 コンビニの前で缶コーヒーを渡す二人。横断歩道で手をつなぐ二人。病院の待合室で、眠る相手の肩へ上着をかける人。長い信号待ちのあいだに何かを話して笑った夫婦。そのどれにも、輪郭に沿うような淡い光が映っていた。 光の強さも、色も一定ではない。 白に近いものもあれば、桃色に見えるものもあり、ほとんど透明に近い揺らぎしか残さないものもある。 共通しているのは、二人のあいだで何かが行き来した瞬間に発生していることだった。 ひなたは朝食の途中で箸を止め、リビングのモニターに並ぶ映像を見ていた。 昨夜までなら、ユナが書いていた小説の文章が現実へ干渉し始めた可能性をまず疑っただろう。文字列と現象発生地点の相関、公開時間との一致、YH-Model波形との同期。調べる項目はいくらでもある。 けれど今朝、画面の中で光っているのはユナでも、自分でもなかった。「先生」 ユナがパンをちぎりながら言う。「世界、光ってるね」「見えてる」「きれい」「まだ原因はわかってない」「先生、こういうとき絶対それ言うよね」「わからないものを、わかったことにしたくないから」「でも、愛っぽい」「その分類が一番危ないんだよ」 そう答えながら、ひなたは映像を拡大する。 画面の右側には、世界各地から送られてきた観測値が並んでいる。 フェロモン濃度は上昇しているが、Bond Overflowほどではない。心拍同期率も個人差が大きく、αとΩだけに限定されているわけでもなかった。β同士の夫婦、番登録をしていない恋人、親子と思われる組み合わせまで、弱い発光反応が確認されている。 YH-Modelのコピーではない。 それだけは、すぐにわかった。「先生、これ」 ユナが画面の一つを指す。
Huling Na-update: 2026-08-16
Chapter: 第19話「ユナ、小説を書く」
 講義から帰ると、ユナはすぐに自分の部屋へ籠もった。 浜田山の家の二階、壁一面に本と資料が並び、百合小説の帯やイベントでもらったポストカードがところどころに挟まれている創作スペース。窓際の机にはノートパソコンと小さなキーボードが置かれ、その横には昨夜の停電で使ったものとは別の、小さなアロマキャンドルがまだ蓋を閉じたまま残っていた。 ひなたはリビングで論文の修正をしていたが、二階から聞こえる一定の打鍵音が、いつの間にか意識の端へ入り込んでいることに気づいた。 カタカタ、と軽い音が続き、ときどき止まる。 数秒の沈黙のあと、また始まる。 研究室で聞くキーボードの音とは少し違った。研究者が文章を書くときは、たいてい既に頭の中にあるものを正確な形へ落とすために指を動かす。ユナの音はもっと不規則で、考えながら書いているというより、どこかから来たものを追いかけながら文字にしているように聞こえた。 ひなたはタブレットの画面を一度閉じる。 自分でも理由はよくわからなかった。「何書いてるの」 二階へ上がり、半分開いていた扉から声をかけると、ユナは振り向かずに答えた。「小説」「それは見ればわかる」「じゃあ聞かなくてよかったじゃん」「内容を聞いてるの」「先生の話」 指が止まった。「私?」「うん」「許可取った?」「今取ってる」「事後申請だよね」「まだ公開してないから事前」 ユナはそう言って、ようやく振り向いた。 画面の白い光が横顔に当たり、琥珀色の瞳の縁だけが少し明るく見える。ひなたは机の横まで歩き、画面を覗き込もうとして、ユナがノートパソコンを少しだけ手前へ引いた。「見せないの?」「まだ途中」「私の話なのに」「だから途中で見せたくない」「研究対象本人には開示義務が」「小説にはないです」 ユナは笑い、またキーボードへ向き直った。 ひなたはその背中をしばらく見たあと、部屋の中にある小さなソファへ腰を下ろした。帰るつもりだったのに、そのまま残ったのは、たぶん好奇心だった。 少なくとも、研究者としてはそういうことにしておいた。 画面に並んでいる文章は、距離のせいで完全には読めない。 ただ、一行だけ見えた。 ――彼女は、何度でも同じ人を選んだ。 ひなたは少しだけ眉を寄せる。「今日の講義?」「ちょっとだけ」「そのまま使って
Huling Na-update: 2026-08-11
Chapter: 第18話「選び続ける番」
 翌朝、電気は戻っていた。 目を覚ましたひなたが最初に気づいたのは、カーテンの隙間から入る光ではなく、冷蔵庫の低い駆動音だった。一定の間隔で小さく震えるその音が、昨夜にはなかった生活の輪郭を部屋へ戻している。空調も動き、壁際のモニターには待機画面が浮かび、止まっていた機械たちが何事もなかったように自分の役割へ戻っていた。 テーブルの上には、短くなった蝋燭が残っている。 白い蝋が側面を伝ったまま固まり、昨夜そこに火があったことだけを静かに残していた。 ひなたはソファを見る。 ユナはまだ眠っていた。 毛布を肩まで引き上げ、片方の手だけが外へ出ている。昨夜、何度も握った手。明るい朝の中で見ると、それは特別なものには見えない。指も、爪も、手のひらも、ただ一人の人間の身体だった。 それでも、ひなたはその手を見た瞬間、昨夜の暗闇を思い出した。 計測器が止まり、数値が消え、何も証明できなくなった部屋で、それでも離したくないと思ったこと。 その意志がどの神経から生まれたのかも、どのホルモンが関係していたのかも、結局ひなたは測らなかった。 モニターが小さく起動音を鳴らす。 ひなたは反射的にそちらを見る。《システム復旧》《通信状態:正常》《YH-Model観測:再開可能》 最後の一行で、少しだけ笑った。 再開可能。 昨日までなら、その表示を見た瞬間に計測を始めていただろう。 心拍を取り、フェロモン濃度を確認し、停電前後の変化を比較する。研究者として、それは自然な行動だった。 けれど、今朝はすぐに触れなかった。「先生」 背後から、眠そうな声がする。 振り向くと、ユナが毛布の中から顔だけ出していた。「起きた?」「うん。電気、戻ったね」「戻った」「サーバーは?」「たぶん復旧してる」「愛も?」「それは止まってない」 言ってから、ひなたは少しだけ黙った。 ユナも一拍遅れて笑った。「先生、今の自然だった」「何が」「愛」「言った?」「言ったよ」「……寝起きだから」「私は起きてるよ」「そういう意味じゃない」 ユナが毛布の中で肩を揺らす。 モニターの隅で心拍数の表示が立ち上がる。 ひなたの数字が少し上がり、遅れてユナの数字も動いた。「戻ってる」 ユナが言う。「何が?」「数字」「そうだね」「昨日より安心する?
Huling Na-update: 2026-08-08
Chapter: 第17話「静寂の夜、手をつなぐ」
 世界は停止し、愛だけが正常に動いていた。 ひなたがそんなことを考えてから、どれくらい経ったのだろう。 壁際のモニターは電源を落としたまま黒い画面をこちらへ向け、スマホの通信表示は圏外と接続を行ったり来たりしている。学会もSNSも、今ごろ復旧作業に追われているはずなのに、そこから切り離されたリビングだけは妙に静かで、昼間まで世界中を騒がせていたYH-Modelの中心とは思えないほど、いつもの夜に戻りかけていた。 ひなたは、ユナの手を握ったままだった。 接触すると復旧が延びる可能性がある。数分前、自分でそう言ったはずなのに、手を離そうとは思わなかった。掌から伝わる体温は、計測器に表示される皮膚表面温度より曖昧で、どこまでが自分の熱で、どこからがユナの熱なのかもわからない。それでも指の重なりに意識を向けるたび、そこだけが周囲より少し温かく感じられた。「先生、まだ手つないでるね」「知ってる」「サーバー、大丈夫かな」「確認できないから、今は考えないことにする」「先生が考えないことってあるの?」「私だって諦めることくらいあるよ」「成長したね」「……失礼だね」 ユナが笑い、その小さな呼気が静かな部屋の空気を揺らした。 いつもなら、笑顔ひとつで心拍センサーが数字を変え、フェロモン検出器が反応し、モニターのどこかに警告が出る。自分が何を感じるより先に、機械のほうが変化を見つけることさえあった。 今は何も表示されていないが、何も起きていないわけではない。 胸の奥では、さっきより少しだけ速くなったような拍が続いている。それが本当に変化したのか、意識を向けたから大きく感じるだけなのかはわからない。確かめようと思えば、手首に指を当てて数えることもできる。それでもひなたはそうせず、暗いモニターへ視線を向けた。 黒い画面には、並んで座る二人の輪郭がかすかに映っていた。 世界平均心拍数も、感情同期率も、∞の記号もなく、観測するための画面に観測していた自分自身が映り込んでいる。その構図にどこか覚えがある気がして、ひなたは少しだけ目を細めた。 観る行為が、対象のふるまいを変える。 ずっと昔、大学の講堂で黒板の脇に書いた言葉が、記憶の奥からゆっくり浮かび上がる。 あの頃の自分は、愛を観測するつもりでいた。測って、説明して、再現できる形にするつもりだったのに、
Huling Na-update: 2026-07-31
Chapter: 第16話「フェロモンでサーバーダウン」
 朝七時、世界はまだ復旧していなかった。 正確には、夜中に一度だけ復旧し、その五分後にまた落ちたらしい。 ひなたはリビングのモニターに表示されたエラー画面を見つめ、無言でコーヒーを飲んでいた。画面の中央には、赤い文字が一行だけ浮かんでいる。《接続できません》 その下に、小さく追記されていた。《原因:アクセス集中、および未確認のフェロモン干渉》「未確認じゃない」 ひなたが低く言う。「確認済みだよね」 ユナはソファで毛布にくるまりながら、スマホの画面を下へ滑らせる。「私たちです」「名乗り出なくていい」 昨夜公開されたYH-Model論文は、学会サーバーを三度落とした。その後、論文の断片がSNSへ流れ、今度はSNS側が落ちた。 学会とSNSが同時に停止。 原因は、論文へのアクセス集中。 そして、アクセスした人々の感情同期によって発生した、世界規模のフェロモン波だった。「先生、みんな論文読んで興奮しすぎたんだね」「学術的興奮とフェロモン放出を同列に扱わないで」「でも測定値は同じ方向」「そこが嫌なんだよ」 ひなたはモニター横の計測器を確認する。 世界平均心拍数、上昇。 フェロモン検出量、上昇。 通信負荷、限界値超過。 感情同期率、計測不能。 最下段に、見覚えのある記号が出ていた。 ∞。「先生」「見えてる」「愛が通信容量を超えました」「そんな公式発表は出させない」⸻ 午前八時、昨日と同じく香坂から電話が来た。『朝比奈先生、緊急事態です』「でしょうね」『学会の内部回線も落ちました』「内部回線は外部アクセスと別系統では?」『別系統です』「じゃあ、なんで」『研究者が全員、同じタイミングで論文を保存しようとしました』「研究者として恥ずかしくないんですか」『保存できなかった者から泣いています』「感情の報告はいりません」 通話の向こうで、誰かが叫ぶ。『復旧した!』『アクセスするな!』『誰だ、今開いたの!』『図表だけ! 図表だけ見せて!』 数秒後、通話が切れた。 ひなたはスマホを耳から離し、画面を見つめる。《通信が切断されました》「学会、楽しそう」 ユナが言う。「地獄の見方が明るい」「だって、論文を読みたくて喧嘩してるんでしょ」「知性が負荷になってる」 その瞬間、リビングの照明が
Huling Na-update: 2026-07-25
それより、彫刻彫りたい

それより、彫刻彫りたい

海洋国家ゼン王国。 この国では、婚姻は恋ではなく外交だった。 正室一人、側室二人。 国家の均衡を保つためだけに存在する「白薔薇宮廷」。 そこへ突然迎えられたのは、 平民出身の彫刻家ルカ。 本人は石のことしか考えていない。 会議中も彫刻。 夜会の最中も彫刻。 女王に見つめられても「静かな人だな」としか思っていない。 だが、そんな彼女が少しずつ、 完成されすぎた宮廷を変えていく。 これは、海と婚姻でできた国で、 “均衡”を崩してしまった、一人の彫刻家の物語り。
Basahin
Chapter: 第十九話「泥の外」
 お茶の部屋へ行くようになってから、何日か経った。 毎日ではない。ヴィオラに呼ばれる日もあれば、呼ばれない日もある。 最初は呼ばれた時だけ行っていたけれど、一度だけ廊下でヴィオラを見かけた時に、「今日は行かないんですか」 と聞いたら、ヴィオラに変な顔をされた。「あなたは、私がお茶を飲んでいるところへ毎回参加するつもりですか」「駄目ですか」「そうは言っていません」「じゃあ行きます」「だから、勝手に決めないでください」 そう言われた。 でも、その日の午後にはリーネが工房へ来た。「ヴィオラ様がお呼びです」「やっぱり」「何がですか」「なんでもない」 それから、何度かあの部屋でお茶を飲んだ。 話す日もある。ほとんど話さない日もある。 ヴィオラは本を読んで、私は窓の外を見たり、工房から持ってきた紙に彫りたいものを描いたりする。 同じ部屋にいるのに、別々のことをしている。それでいいらしい。 今日は朝から雨が降っていた。 工房の窓にも細い雨粒がついている。 外へ出る予定もないし、石を削るにはちょうどよかった。 昼を過ぎた頃、鑿を置いた。 少し休もうと思った。 お茶の部屋へ行こうか考える。 呼ばれてはいない。 でも、前に行ってもいいと言っていた気がする。 いや、言ってはいなかったかもしれない。 駄目とは言っていない。それならいいだろう。 工房を出て、廊下を歩く。 雨の日の王宮はいつもより静かだった。 窓の外を見ると、庭の土が濡れている。 あの部屋の窓からも、今日は雨が見えるんだろうか。 扉の前まで来て、軽く叩いた。 返事がないから、いないのかもしれない。 帰ろうとした時、廊下の向こうから声がした。「ルカ様?」 振り返ると、 ヴィオラの侍女が立っていた。「ヴィオラ様なら、庭にいらっしゃいます」「庭?」「はい」「この雨で?」 侍女が困った顔をする。「何かあったんですか」「いえ。ただ……」 言いにくそうだった。「あそこの庭ですか」 侍女が頷くから、向かうことにした。 外へ出ると、思っていたより雨が強かった。 屋根のある回廊を進む。 庭へ近づくほど、雨の音が大きくなる。 ヴィオラはすぐに見つかった。 庭の端に立っていた。 傘は持っている。でも、裾が濡れていた。 白い靴にも泥がつい
Huling Na-update: 2026-08-30
Chapter: 第十八話「お茶の部屋」
 絹の店へ行った翌日、私は朝から工房にいた。 昨日見た織機のことが、まだ頭に残っている。 石と布は全然違う。でも、作るところを見ていると似ている部分もあった。 一本ずつ糸を通して、間違えたら戻れるところまで戻る。そうやって最後には一枚の布になる。 石は一本ずつ重ねたりしないけれど、少しずつ形を出していくところは同じかもしれない。 そんなことを考えながら鑿を動かしていると、工房の扉が叩かれた。「ルカ様」 リーネだった。「どうしたの?」「ヴィオラ様がお呼びです」「今?」「はい」 私は手元の石を見る。 まだ途中だったけれど、今日は変なところで止めても問題なさそうだった。「分かった」 鑿を置いて、手についた石粉を払う。 リーネはそれを確認すると、工房の外へ出た。「こちらです」「ヴィオラ様の部屋?」「いいえ」「違うんだ」「今日は別のお部屋です」 また別の場所らしい。 昨日はセリスに連れられて絹の店へ行った。 今日はヴィオラに呼ばれて、知らない部屋へ向かっている。 最近こういうことが多い気がする。 廊下を歩いていると、リーネが一つの扉の前で止まった。「こちらです」 扉を開ける。 最初に見えたのは、大きな窓だった。 王宮の中にしては小さな部屋で、窓から庭の木が見える。部屋の中央には丸いテーブルと椅子が置かれていて、壁際には本棚があった。 豪華ではない。 王宮だから家具はいいものなんだろうけれど、飾りはほとんどなかった。「いらっしゃい」 窓際にいたヴィオラが振り返る。「お呼びと聞きました」「ええ。どうぞ、お座りください」「はい」 言われた通り椅子に座る。 テーブルの上には茶器が用意されていた。「お茶ですか」「見れば分かるでしょう」「そうですね」 ヴィオラが眉を寄せた。 怒ったのかと思ったけれど、そのまま向かいの椅子に座った。「今日は何かあるんですか」「何か、とは?」「話です」「話がなければ呼んではいけませんか」「いえ」 別にいけなくはない。 でも、ヴィオラはいつも何かをしている。 会議に出ているか、書類を読んでいるか、誰かと話している。何もせずに座っているところは、そういえばあまり見たことがなかった。「珍しいなと思いまして」「なにがですか」「ヴィオラ様がゆっくり座っている
Huling Na-update: 2026-08-22
Chapter: 第十七話「絹の店」
 中庭へ行ってから数日が過ぎた。 工房へも戻れるようになった。 石を削る音を聞いていると、ようやくいつもの生活へ戻った気がする。 昼過ぎだった。 工房の扉が控えめに叩かれる。「失礼します」 聞き慣れた声だった。「セリス様」「作業中でしたか」「少しだけです」 私は鑿を置く。 石粉を払うと、セリスは作業台の上を見渡した。「少し増えましたね」「失敗も増えました」「そうなんですか」「割りました」 セリスは少し笑う。「それでも続けるんですね」「割るのも仕事なので」「職人らしいですね」 そうなんだろうか。 あまり考えたことはなかった。「今日は少し、お付き合いください」  セリスが言う。「今日はどこですか。また好きな場所ですか」「少し違います」「仕事ですか」「半分くらいです」「半分」「商人として好きな場所です」 少し気になった。「市場ですか」「もっと静かなところです」 セリスは少しだけ笑う。「よろしければ、ご一緒しませんか」「いいですよ」 石粉を払って上着を羽織る。 工房を出ると、セリスは前回より少し安心したような顔をしていた。「今日は工房を止められないんですね」「止めません」「珍しいです」「帰ってきますから」「帰ってきます」「信用します」「少しだけですか」「今日は、もう少しだけ」 前より増えたらしい。 王宮を出ると、石畳の通りへ出る。 市場とは反対の道だった。「市場じゃないんですね」「はい」「布を扱う職人さんのお店です」「服ですか」「絹です」 絹。 服になる前は見たことがない。「興味ありますか」「……あまり」 正直に答える。「布は着るものなので」「そうですね」 セリスは笑った。 困った顔ではない。 中庭で見た時とは少し違う。 まるで、その返事を予想していたみたいだった。「でも」 セリスは歩きながら続ける。「気に入ってくれると嬉しい」「どうしてですか」「秘密です」 そう言われると少し気になる。 でも、絹で何を見るんだろう。 花みたいに土はない。 枝もない。 職人の店なら、道具くらいだろうか。 考えているうちに、一軒の店の前でセリスが足を止めた。「着きました」 看板には絹を扱う店の名前が書かれている。 店の奥からは、一定の音
Huling Na-update: 2026-08-21
Chapter: 第十六話「中庭の花」
 体調が戻ってから二日が過ぎた。 熱はもう下がっている。 工房へ行こうとしたけれど、セリスにもヴィオラにも止められた。 今日は散歩くらいなら許された。 廊下へ出ると、少し先でセリスが待っていた。 いつものように姿勢が綺麗だ。 茶会の時とも違う。仕事へ向かう時とも違う。 今日は少しだけ柔らかく見えた。「おはようございます、ルカ」「おはようございます、セリス様」「今日は少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」「はい」 セリスは嬉しそうに頷く。「私の好きな場所があります」「好きな場所ですか」「はい。ご案内したいんです」 好きな場所。 そういう言い方をするのは少し珍しかった。 商談でも外交でもないらしい。 少し気になって、そのまま後をついて歩いた。 王宮の奥へ進む。 いつもより人が少ない。 書類を抱えた役人も、騎士も見当たらない。 代わりに、風が入ってきた。 中庭だった。 花壇がいくつも並んでいる。 白い花。 淡い桃色。 青い花も少しだけ見える。 どれも綺麗に揃っていた。「ここが、私の好きな場所です」 セリスは花壇を見る。 その横顔は、いつもより少し力が抜けて見えた。 外交姫ではなく、一人で花を見に来る人の顔だった。「仕事を忘れられる場所なんです」「そうなんですね」 私も花壇を見る。 綺麗だった。 でも、そのまま視線が下へ落ちる。 土に枝、切った跡。 花壇の縁まで目で追っていく。「どうしましたか」「枝、切ってありますね」「ええ。庭師が毎日手入れをしています」「この高さに揃えるの、大変そうです」 枝はどれも同じくらいの高さだった。 伸びすぎたところだけ切るなら簡単だ。 でも、全体を揃えるとなると違う。「毎日見ないと駄目ですね」「そうですね」「一日でも放っておくと変わりそうです」「庭師も同じことを言っていました」 少しかがんで花壇を見る。 土は柔らかそうだった。 水が溜まった感じもない。 小さな石も混ざっている。「いい土ですね」 セリスが少しだけ黙る。「……綺麗でしょう?」「はい」「花びら……綺麗なものは、お好きではありませんか」「好きですよ」「では、どうして」 私はもう一度花を見る。 綺麗だった。 でも、それだけだった。「綺麗だからです」
Huling Na-update: 2026-08-20
Chapter: 第十五話「朝のスープ」
 目を覚ますと、昨日より部屋が明るかった。 頭の重さは少し残っている。 でも、昨日みたいに体が沈む感じはない。 熱も少し下がったらしい。 起き上がろうとして、少し止まる。「動かないでください」 昨日のセリスの声を思い出した。 そこまで言われるほどだったかな。 少し考えてから、ゆっくり体を起こす。 昨日より軽い。でも、本調子ではなかった。 扉が静かに叩かれる。「失礼します」 入ってきたのはセリスだった。 両手に木の盆を持っている。 白い湯気が静かに揺れている。 昨日は本だった。今日は朝食らしい。「おはようございます、ルカ」「おはようございます、セリス様」「気分はいかがですか」「昨日より普通です」「それなら安心しました」 セリスは寝台の横へ小さな机を寄せる。 盆を置いても音はほとんどしなかった。 茶会の時と同じだ。 こういうところは変わらない。「それは何ですか」「朝食です」「厨房からですか」「いいえ」 セリスは少しだけ笑った。「私が作りました」 私は思わず盆を見直した。 野菜の甘い匂いがする。 豪華ではない。でも、温かかった。 なんとなく、セリスらしいと思った。「セリス様が料理をするんですか」「多少は」「知りませんでした」「話す機会がありませんでしたから」 それもそうだった。 私は寝台から降りようとする。 するとセリスがすぐ一歩近づいた。「そのままでいてください」「机まで行きます」「私が運びます」「でも」「昨日も言いました」 セリスは少し困ったように笑った。「まだ信用していませんので」 私は少し笑う。「昨日より信用されたって言ってました」「少しだけです」「まだ足りませんか」「はい」「厳しいですね」「ルカが無理をするからです」 言い返せなかった。 私は諦めて座り直す。 セリスは器を私の前へ寄せた。 湯気がふわりと上がる。 薬の匂いではなく、朝の匂いだった。「食べられそうですか」「多分」「今日は、その多分を信じます」「さっきより信用されました」「ほんの少しです」 匙を持つ。 一口飲む。 優しい味だった。 喉を通るたび、体の力が少しずつ戻ってくる気がした。「美味しいです」「よかったです」 セリスは安心したように息を吐いた。 その表
Huling Na-update: 2026-08-19
Chapter: 第十四話「眠っている」
 朝から、頭が少し重かった。 痛いわけではない。 でも、石粉を吸いすぎた日の奥みたいに、目の裏がぼんやりしている。 昨日の石のことを考えすぎたのかもしれない。「ルカ様、顔色が悪いです」 リーネが言った。「普通」「普通ではありません」「眠いだけ」「それも普通ではありません」 厳しい。 私は椅子に座ったまま、机の上を見る。 予定表が置いてあった。 午前は書類確認。 午後はセリスとの茶会。 夕方はヴィオラとの衣装確認。 多い。「減らした?」「減らしました」「これで?」「はい」 前にも聞いた気がする。 私は予定表を見る。 文字は読める。 でも、意味があまり入ってこない。「今日、工房行ける?」「無理です」「じゃあ倒れるかも」「縁起でもないことを言わないでください」 リーネが眉を寄せる。 私は少し笑おうとした。 でもうまく顔が動かなかった。「ルカ様」「ん」「本当に大丈夫ですか」「多分」「多分は駄目です」 多分は駄目らしい。 私は立ち上がる。 足元が少しだけ遅れた。 床が柔らかい気がした。 おかしいなと思う。 石の床なのに。「ルカ様」 リーネの声が遠くなる。 耳の奥で溶けていくみたいだった。  次に目を開けた時、天井が見えた。 白い天井だった。 彫刻室の石とは違う白。 布の白。 私はしばらくそれを見ていた。「起きましたか」 横から声がした。 セリスだった。 椅子に座っている。 いつもの綺麗な笑顔ではなかった。 少しだけ眉が下がっていて、手には本を持っている。「セリス様」「はい」「ここ、どこですか」「ルカの部屋です」 確かに、見慣れた景色だった。「私、倒れました?」「倒れました」「ああ、そうなんですか」「軽いですね」「重く言っても倒れた事実は変わらないので」 セリスは少しだけ目を細めた。「そういうところです」「どこですか」「分かりませんか」「はい」「でしょうね」 少し怒っている気がした。 でも声は荒くない。 静かだった。 だから余計に、怒っているのが分かる。 私は起き上がろうとした。「動かないでください」 即座に言われた。「でも」「動かないでください」「二回言いましたね」「必要なので」 私は諦めて枕へ戻る。 体
Huling Na-update: 2026-08-16
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