Chapter: 第二十三話「増える物」 工房に戻ると、机の上には花束があった。 鮮やかで綺麗な花束。「なにこれ」 リーネが横から顔を出す。「アネモネですね」「詳しいね」「従者ですから」 従者と関係あるか分からないが、従者だから詳しいらしい。「飾っておいて」「かしこまりました」 リーネが花瓶に花を生ける。「花言葉は、君を愛す……」「……」 これは誰からの贈り物だろう。 セリス。 ヴィオラ。 ルシア。 三人の顔が思い浮かぶ。 そして、ふとリーネを見る。「実はリーネとか?」「私は平民なのでこんな回りくどいことしません」 あ。 「あー、貴族批判だ」 リーネの顔から血の気が引いた。花束の青い花といい勝負だ。 その瞬間リーネが頭を下げる。いままで見たことないくらいの頭の低さだ。 「申し訳ありません!」 「まぁ、回りくどいよね。わかる」 リーネが私の様子をうかがう。 「でも、それがこの白薔薇宮廷なんだろうね」 「大丈夫。誰にも言わないから」 「その代わり、一生私の忠臣ね」 「は、はぁ……」 困惑したリーネの顔。 「ルカ様、悪い顔してます」 「ばれた?」 「でもさ、白薔薇じゃないんだね」 「白薔薇には純潔や純粋という意味があります」 白薔薇宮廷。 純粋から一番離れている場所。 「なるほど……」 翌日。 工房に入ると、今度は茶葉の入った小箱が置かれていた。 「また?」 昨日の花束を見る。 リーネが生けた花は、今日も綺麗に咲いている。 「リーネ」 「はい」 「これも従者だから分かる?」 「茶葉ですね」 「それは私にも分かる。誰から?」 「それは従者の私でもわかりません」 「この小童め」 とりあえず、 「これでお茶いれて」 「かしこまりました」 リーネがお茶を淹れる。 「ありがとう」 一口。 「おいしい」 「よかったです」 翌日の朝。 リーネが書類を持ってきた。 「ルカ様。書類です」 「誰から」 「ルシア様からです」 一昨日は、花束。 昨日は、茶葉。 今日は書類……書類はルシアから。 ということは、花束はセリス。茶葉はヴィオラが妥当だろう。 書類を確認する。 ――工房運営に関する裁量権付与通知―― 第二側室ルカ・ゼン殿 王宮内工房における制作活動について、以下のとおり
Last Updated: 2026-10-30
Chapter: 第二十二話「石工再訪」 翌日は、本当に誰にも呼ばれなかった。 朝から工房に入り、昼になっても扉は叩かれない。 ヴィオラも来ない。 セリスも来ない。 ルシアからの呼び出しもない。 静かだった。 静かすぎる。 ノミを動かしながら、何度か扉を見た。 誰も来ない。 昨日まであれだけ予定を入れてきたのに、今日は綺麗に何もない。「……絶対、互いに話してるじゃん」 石しか聞いていない。 まあいい。 今日は石を削れる。 昼を過ぎても、そのまま作業を続けた。 細かいところを削り、少し離れて形を見る。 また近づいて、指で表面を撫でる。 悪くない。 でも、少し違う。 最近、この感じが増えた。 前なら形が見えれば、そのまま削れた。 今は途中で止まることがある。 石が悪いわけではない。 手が動かないわけでもない。 ただ、今持っている石では足りない気がする。 棚を見る。 王宮へ来てから仕入れた石がいくつか残っている。 硬いものが多い。 線が出やすく、削った跡が残るもの。 昔から好きな石だった。「違うな」 何が違うのかは分からない。 でも、違う。 ノミを置いた。 今日は誰にも呼ばれない。 なら、久しぶりに自分が行きたいところに行こう。 工房を出ると、廊下の外でリーネが待っていた。「どこかへ行かれますか」「石を見に行く」「今からですか」「うん」「お供します」「今日は誰にも呼ばれない?」「その予定です」「その予定なんだ」 リーネが黙った。 やっぱり何か知っている。「昨日のこと、覚えてる?」「何のことでしょうか」 リーネの顔を見て、指を指す。「ダウト」「まだ何も言っておりません」「顔に出てる」「出しておりません」「出てるよ」 リーネは前を向いた。 この話は終わりらしい。 王宮を出て、以前にも来た石材店へ向かった。 店先には前と同じように石が積まれている。 白、灰色、少し青みのあるもの。 大きさも形もばらばらだった。 店の奥にいた石工が、私を見る。「お」「こんにちは」「久しぶりだな、嬢さん」「覚えてたんですか」「そりゃ覚えてるさ。嬢さん、変わってるから」 石工は私の後ろにいるリーネを見て、それから私へ視線を戻した。「今日は何を探してる」「まだ決めてません」「またか」「見てから決めます
Last Updated: 2026-10-28
Chapter: 第二十一話「重なる予定」 ルシアの執務室へ行ってから、何日か経った。 工房へ行き、石を削る生活は変わっていない。 でも最近は、一日が終わるまでに誰かと会うことが増えていた。 昼前、工房の扉が叩かれる。「ルカ様」 リーネだった。「どうしたの?」「ヴィオラ様がお待ちです」「あぁ……」 しかも、重なる。 思わず声が出た。 こめかみが痛くなってきた。「どうされましたか」「最近、お茶を飲む回数が増えたなって」「そうでしょうか」「増えてるよ。昨日も行ったし、その前も行った」 リーネは少し考えるような顔をする。「お嫌でしたか」「嫌じゃないけど、今から細かいところを削ろうと思ってた」「ヴィオラ様には、そのようにお伝えしますか」「いや、行くよ」 まだ続けたかったけど、ヴィオラを待たせるのも悪い。 ノミを置き、手についた石粉を払う。 リーネはそれを確認してから工房の外へ出た。 お茶の部屋へ入ると、ヴィオラはいつものように本を読んでいた。 机の上には二人分の茶器が置かれている。「いらっしゃい」「こんにちは」「今日は少し遅かったですね」「石を削ってました」「それは申し訳ありません」「気にしていません」「そう」 向かいの椅子へ座る。 ヴィオラが本を読み、私はお茶を飲みながら窓の外を見る。 話をしなくてもいいところは変わらない。 落ち着くけれど、最近はこの部屋にいる時間も増えていた。「工房は順調ですか」「普通です」「新しいものを彫っているんですか」「はい。いつも通り」「見せていただけますか」「完成したら」「完成するまでは駄目ですか」「途中でもいいですけど、今はあまり面白くないですよ」「それは私が決めます」 ヴィオラはそう言って、お茶を一口飲んだ。 見たいらしい。「分かりました。今度見に来ますか」「ええ」 また予定が増えたな……。「何か」「いえ」 ヴィオラは少しだけ目を細めた。 聞こえていた気がする。 しばらくすると、ヴィオラが本を閉じた。「そろそろ昼食の時間ですね」「そうですね」「今日はこのあと、何か予定がありますか」「工房に戻ります」「そう」 ヴィオラは少しだけ残念そうに見えた。 でも、工房へ戻らないと、今日はほとんど石を削れていない。「また来ます」「ええ。待っています」 お茶の部屋を
Last Updated: 2026-10-12
Chapter: 第二十話「怒らない女王」 ヴィオラと雨の中で話してから、何日か経った。 工房へ行き、石を削って、時々セリスと出かける。 ヴィオラのお茶の部屋にも行く。 少し前より、王宮の中で行く場所が増えていた。 昼前、工房の扉が叩かれた。 「ルカ様」 リーネだった。 「どうしたの?」 「陛下がお呼びです」 「今?」 珍しい。 「はい」 私は手元の石を見る。 今日はここで止めても問題なさそうだった。 「分かった」 鑿を置き、手についた石粉を払う。 リーネはその様子を確認してから、工房の外へ出た。 「今日はどこ?」 「陛下の執務室です」 「今、仕事中だよね?」 「おそらく」 「じゃあ、何で呼ばれたんだろう」 「私には分かりません」 リーネはそう言ったけれど、何か知っている顔をしていた。 でも、聞いても言わなそうだった。 執務室へ向かうと、廊下の窓から庭が見えた。 雨はもう上がっているけれど、雨が降り続けていたせいで、土はまだ少し濡れている。 ヴィオラの白い靴を思い出す。 あのあと、ちゃんと泥は落ちただろうか。 「ルカ様」 「何?」 「着きました」 考えているうちに、執務室の前まで来ていた。 「失礼します」 扉を開けると、ルシアは机に向かっていた。 書類がいくつも積まれている。 羽根ペンを動かす手は止まらない。 「来たのね」 「はい」 「少し待っていて」 「分かりました」 部屋の端に置かれた椅子へ座る。 紙をめくる音と、羽根ペンが走る音だけが聞こえる。 ルシアは仕事をしている時も静かだった。 ヴィオラは一つずつ丁寧に整える感じがする。 セリスは話しながら、いつの間にか全部終わらせていそうだ。 ルシアは最初から終わる場所が見えていて、そこへ向かっているように見えた。 しばらくして、羽根ペンが止まる。 「待たせた」 「終わったんですか」 「一度区切っただけ」 「まだあるんですね」 「ええ」 机の上を見る。 まだ書類は残っている。 女王は大変そうだった。 「工房はどう?」 「普通です」 「そう」 「陛下は?」 「見れば分かるでしょう」 「忙しそうです」 「そうね」 ルシアは椅子へ深く座り直した。 そのまま、しばらく私を見る。
Last Updated: 2026-09-05
Chapter: 第十九話「泥の外」 お茶の部屋へ行くようになってから、何日か経った。 毎日ではない。ヴィオラに呼ばれる日もあれば、呼ばれない日もある。 最初は呼ばれた時だけ行っていたけれど、一度だけ廊下でヴィオラを見かけた時に、「今日は行かないんですか」 と聞いたら、ヴィオラに変な顔をされた。「あなたは、私がお茶を飲んでいるところへ毎回参加するつもりですか」「駄目ですか」「そうは言っていません」「じゃあ行きます」「だから、勝手に決めないでください」 そう言われた。 でも、その日の午後にはリーネが工房へ来た。「ヴィオラ様がお呼びです」「やっぱり」「何がですか」「なんでもない」 それから、何度かあの部屋でお茶を飲んだ。 話す日もある。ほとんど話さない日もある。 ヴィオラは本を読んで、私は窓の外を見たり、工房から持ってきた紙に彫りたいものを描いたりする。 同じ部屋にいるのに、別々のことをしている。それでいいらしい。 今日は朝から雨が降っていた。 工房の窓にも細い雨粒がついている。 外へ出る予定もないし、石を削るにはちょうどよかった。 昼を過ぎた頃、鑿を置いた。 少し休もうと思った。 お茶の部屋へ行こうか考える。 呼ばれてはいない。 でも、前に行ってもいいと言っていた気がする。 いや、言ってはいなかったかもしれない。 駄目とは言っていない。それならいいだろう。 工房を出て、廊下を歩く。 雨の日の王宮はいつもより静かだった。 窓の外を見ると、庭の土が濡れている。 あの部屋の窓からも、今日は雨が見えるんだろうか。 扉の前まで来て、軽く叩いた。 返事がないから、いないのかもしれない。 帰ろうとした時、廊下の向こうから声がした。「ルカ様?」 振り返ると、 ヴィオラの侍女が立っていた。「ヴィオラ様なら、庭にいらっしゃいます」「庭?」「はい」「この雨で?」 侍女が困った顔をする。「何かあったんですか」「いえ。ただ……」 言いにくそうだった。「あそこの庭ですか」 侍女が頷くから、向かうことにした。 外へ出ると、思っていたより雨が強かった。 屋根のある回廊を進む。 庭へ近づくほど、雨の音が大きくなる。 ヴィオラはすぐに見つかった。 庭の端に立っていた。 傘は持っている。でも、裾が濡れていた。 白い靴にも泥がつい
Last Updated: 2026-08-30
Chapter: 第十八話「お茶の部屋」 絹の店へ行った翌日、私は朝から工房にいた。 昨日見た織機のことが、まだ頭に残っている。 石と布は全然違う。でも、作るところを見ていると似ている部分もあった。 一本ずつ糸を通して、間違えたら戻れるところまで戻る。そうやって最後には一枚の布になる。 石は一本ずつ重ねたりしないけれど、少しずつ形を出していくところは同じかもしれない。 そんなことを考えながら鑿を動かしていると、工房の扉が叩かれた。「ルカ様」 リーネだった。「どうしたの?」「ヴィオラ様がお呼びです」「今?」「はい」 私は手元の石を見る。 まだ途中だったけれど、今日は変なところで止めても問題なさそうだった。「分かった」 鑿を置いて、手についた石粉を払う。 リーネはそれを確認すると、工房の外へ出た。「こちらです」「ヴィオラ様の部屋?」「いいえ」「違うんだ」「今日は別のお部屋です」 また別の場所らしい。 昨日はセリスに連れられて絹の店へ行った。 今日はヴィオラに呼ばれて、知らない部屋へ向かっている。 最近こういうことが多い気がする。 廊下を歩いていると、リーネが一つの扉の前で止まった。「こちらです」 扉を開ける。 最初に見えたのは、大きな窓だった。 王宮の中にしては小さな部屋で、窓から庭の木が見える。部屋の中央には丸いテーブルと椅子が置かれていて、壁際には本棚があった。 豪華ではない。 王宮だから家具はいいものなんだろうけれど、飾りはほとんどなかった。「いらっしゃい」 窓際にいたヴィオラが振り返る。「お呼びと聞きました」「ええ。どうぞ、お座りください」「はい」 言われた通り椅子に座る。 テーブルの上には茶器が用意されていた。「お茶ですか」「見れば分かるでしょう」「そうですね」 ヴィオラが眉を寄せた。 怒ったのかと思ったけれど、そのまま向かいの椅子に座った。「今日は何かあるんですか」「何か、とは?」「話です」「話がなければ呼んではいけませんか」「いえ」 別にいけなくはない。 でも、ヴィオラはいつも何かをしている。 会議に出ているか、書類を読んでいるか、誰かと話している。何もせずに座っているところは、そういえばあまり見たことがなかった。「珍しいなと思いまして」「なにがですか」「ヴィオラ様がゆっくり座っている
Last Updated: 2026-08-22
Chapter: 第23話「宇宙、愛に染まる」 ひなたとユナが帰還したのは、大体午後六時だった。 異空間での滞在時間はたったの十分。 リビングの中央に白い光が開き、そこから二人が手をつないだまま出てきた。帰還そのものは拍子抜けするほど静かで、爆発もなければ警報も鳴らない。ただ、三時間ほど前までひなたが消えた場所へ、同じ人物が普通に戻ってきただけだった。「帰ってきた」「帰ってきたね」 ユナが言うと、ひなたはすぐにモニターへ向かった。「先生」「なに」「普通、再会したあとってもう少し余韻ない?」「あるよ」「どこに?」「今、記録してる」 モニターには帰還直後のYH-Model波形が表示されていた。共鳴率99.9%。空間歪曲は急速に収束し、フェロモン濃度も危険域から下がり始めている。 少なくとも、家の中は正常だった。 ひなたはデータを保存し、ようやく肩の力を抜く。「問題なし」「先生、一回異空間に消えた人が言う『問題なし』、信用ないね」「戻ってきたから結果的には問題ない」「研究者って強い」 ユナはソファへ倒れ込んだ。ひなたも少し遅れて隣に座る。白い光の中では時間の感覚が曖昧だったせいか、家へ戻った途端、時計の秒針の音が妙に大きく聞こえた。 いつものリビング。いつものモニター。 机の上には、ユナが食べたプリンの容器がまだ残っている。 世界の外側から帰ってきても、現実は容器の片づけを待っていた。「プリン食べた?」「食べた」「私が消えてる間に?」「お腹空いたから」「心配してた?」「してたよ」「プリン食べながら?」「両立するでしょ」 ひなたは何か言おうとして、やめた。「両立させないで」と飲み込んだ。 そのとき、モニターの端に小さな通知が出た。《外部天体観測網より異常値を受信》 ひなたの目つきが変わる。「先
Last Updated: 2026-10-16
Chapter: 第22話「光の中で、再会」 ひなたを回収する方法は、意外にも三時間で見つかった。 正確には、三時間と十二分と数秒。そのうち四十分ほどはユナが途中でお腹を空かせ、悠長に冷蔵庫に残っていたプリンを食べていた。そのため、実働時間として数えるべきかは少し怪しい。 午後五時四十九分。リビングのモニターには、ひなたが消えた直後から残り続けている一本の波形が映っていた。細く不安定ではあるものの、YH-Modelの接続そのものは切れていない。心拍もある。フェロモン反応も、ごく弱いながら拾えている。 つまり、ひなたはどこかにいる。問題は、その「どこか」が通常の座標では表せないことだった。「先生なら、こういうの絶対喜ぶんだけどな」 ユナは空になったプリンの容器を横へ置き、モニターへ顔を近づけた。空間座標はエラー。距離もエラー。方向もエラー。唯一まともな数字を返しているのは、共鳴率だった。 99.8%。「あ、近いじゃん」 物理的にはどこにいるかわからないのに、共鳴だけを見ればほとんど隣にいる。 ユナはしばらくその数字を眺め、それから研究机に残されていたひなたのノートを開いた。専門用語と数式の間に、ところどころ自分の名前がある。研究対象として書かれたものもあれば、どう考えても研究とは関係のない記録も混ざっていた。 午前8:13 ユナ、寝癖。 午前8:16 本人は気づいていない。 午前8:19 直した。「なにこれ」 思わず笑う。 ページをめくると、昨日の日付の下に短い文章があった。 【情動共鳴光は、物理的位置よりも感情の方向性を優先する可能性】 ユナの指が止まる。物理的位置より、感情の方向性。「先生、これ先に言ってよ」 言っていたのかもしれない。たぶんユナが半分しか聞いていなかった。 装置へ戻り、YH-Modelの受信条件を書き換える。座標指定を解除し、代わりに共鳴波そのものを基準として検索をかけると、画面に警告が出た。《空間座標を使用しない接続です》「うん」《安全性を保証できません》「先生も保証されてないし」《実行しますか?》「する」 ユナがボタンを押した瞬間、昨日と同じ白い光がリビングに広がった。 けれど、今度は追いかけてこなかった。床からゆっくり光が立ち上がり、壁も天井も輪郭を失っていく。ソファも机もモニターも白へ溶け、最後にユナの足元だけが残った。
Last Updated: 2026-10-12
Chapter: 第21話「ひなた、消失」 ひなたが消えたのは、午後二時三十七分だった。 その時刻が正確にわかるのは、家中にある十七台の観測機器が、ほぼ同時にエラーを吐いたからだ。昨日から続く情動共鳴光の解析中、ひなたはリビング中央に設置した簡易観測装置の前で腕を組んでいた。世界中で発生している光とYH-Modelの波形を比較するため、朝からずっとデータを眺めている。 ユナはソファでノートパソコンを開き、その横顔を眺めていた。「先生」「なに」「眉間」「眉間?」「今日ずっと難しい」「顔の話?」「顔の話」 ひなたは無視してモニターへ戻った。画面には二本の波形が重なっている。一つは世界各地で観測された情動共鳴光。もう一つは、自分たちのBond Overflow。形はよく似ている。けれど、同じではない。「世界中の発光現象に、YH-Modelと共通する周期がある」「へぇ」「ただし振幅は極端に小さい。昨日見た通り、フェロモンを介さない例もあるし、対象がその場に存在しないケースもある」「うん」「つまり――」「先生」「なに」「私、たぶん今、論文の査読者みたいな顔してないよ」「聞いて」「聞いてるよ。半分くらい」「半分」 ひなたが振り返る。その瞬間、装置のランプが一つ光った。 ユナが指を差す。「先生、今の」「見た」 二人とも黙った。もう一度、光る。今度は二つ、その次には四つ。「増えてない?」「増えてる」 ひなたが操作盤へ手を伸ばす。装置は昨日から各地の情動共鳴光を受信しているだけで、こちらから何かを送信する設定にはしていない。そのはずだった。 画面右上の数値が、ゆっくりと上がり始める。 12、19、34、68。「先生」「待って」「待ってる場合?」「原因を切り分ける」 ひなたが接続を一つずつ解除していく。東京、ソウル、台北、パリ。通信先を落としても数値は下がらず、むしろ規則正しく上昇を続けた。 ユナがソファから立つ。「これ、前にも見たことない?」「どれ」「先生が焦って、機械が言うこと聞かなくなって、そのあと大体すごいことになるやつ」「そんな分類はない」「シリーズ化してるよ」「してない」 数値が137を示したところで、モニターの端に警告表示が浮かんだ。《YH-Model:外部共鳴を検出》 ひなたの手が止まる。「外部?」「世界から?」
Last Updated: 2026-08-22
Chapter: 第20話「愛が、可視化される日」 最初に光ったのは、名前も知らない二人だった。 午前七時十二分。都内の駅ホームを映す定点カメラの映像に、並んで立つ二人の輪郭が淡く浮かんだ。 電車を待ちながら片方が眠そうに欠伸をし、もう片方が肩へ頭を預ける。その瞬間、二人の周囲だけ空気の明度が上がり、薄い桃色の光が数秒ほど残った。 映像はすぐにSNSへ転載された。《これ何?》《加工?》《朝から発光してる》《またYH-Model?》《恋人が光ってるんだけど》 最後の投稿から、状況が変わった。 同じような映像が、別の街から上がり始めた。 コンビニの前で缶コーヒーを渡す二人。横断歩道で手をつなぐ二人。病院の待合室で、眠る相手の肩へ上着をかける人。長い信号待ちのあいだに何かを話して笑った夫婦。そのどれにも、輪郭に沿うような淡い光が映っていた。 光の強さも、色も一定ではない。 白に近いものもあれば、桃色に見えるものもあり、ほとんど透明に近い揺らぎしか残さないものもある。 共通しているのは、二人のあいだで何かが行き来した瞬間に発生していることだった。 ひなたは朝食の途中で箸を止め、リビングのモニターに並ぶ映像を見ていた。 昨夜までなら、ユナが書いていた小説の文章が現実へ干渉し始めた可能性をまず疑っただろう。文字列と現象発生地点の相関、公開時間との一致、YH-Model波形との同期。調べる項目はいくらでもある。 けれど今朝、画面の中で光っているのはユナでも、自分でもなかった。「先生」 ユナがパンをちぎりながら言う。「世界、光ってるね」「見えてる」「きれい」「まだ原因はわかってない」「先生、こういうとき絶対それ言うよね」「わからないものを、わかったことにしたくないから」「でも、愛っぽい」「その分類が一番危ないんだよ」 そう答えながら、ひなたは映像を拡大する。 画面の右側には、世界各地から送られてきた観測値が並んでいる。 フェロモン濃度は上昇しているが、Bond Overflowほどではない。心拍同期率も個人差が大きく、αとΩだけに限定されているわけでもなかった。β同士の夫婦、番登録をしていない恋人、親子と思われる組み合わせまで、弱い発光反応が確認されている。 YH-Modelのコピーではない。 それだけは、すぐにわかった。「先生、これ」 ユナが画面の一つを指す。
Last Updated: 2026-08-16
Chapter: 第19話「ユナ、小説を書く」 講義から帰ると、ユナはすぐに自分の部屋へ籠もった。 浜田山の家の二階、壁一面に本と資料が並び、百合小説の帯やイベントでもらったポストカードがところどころに挟まれている創作スペース。窓際の机にはノートパソコンと小さなキーボードが置かれ、その横には昨夜の停電で使ったものとは別の、小さなアロマキャンドルがまだ蓋を閉じたまま残っていた。 ひなたはリビングで論文の修正をしていたが、二階から聞こえる一定の打鍵音が、いつの間にか意識の端へ入り込んでいることに気づいた。 カタカタ、と軽い音が続き、ときどき止まる。 数秒の沈黙のあと、また始まる。 研究室で聞くキーボードの音とは少し違った。研究者が文章を書くときは、たいてい既に頭の中にあるものを正確な形へ落とすために指を動かす。ユナの音はもっと不規則で、考えながら書いているというより、どこかから来たものを追いかけながら文字にしているように聞こえた。 ひなたはタブレットの画面を一度閉じる。 自分でも理由はよくわからなかった。「何書いてるの」 二階へ上がり、半分開いていた扉から声をかけると、ユナは振り向かずに答えた。「小説」「それは見ればわかる」「じゃあ聞かなくてよかったじゃん」「内容を聞いてるの」「先生の話」 指が止まった。「私?」「うん」「許可取った?」「今取ってる」「事後申請だよね」「まだ公開してないから事前」 ユナはそう言って、ようやく振り向いた。 画面の白い光が横顔に当たり、琥珀色の瞳の縁だけが少し明るく見える。ひなたは机の横まで歩き、画面を覗き込もうとして、ユナがノートパソコンを少しだけ手前へ引いた。「見せないの?」「まだ途中」「私の話なのに」「だから途中で見せたくない」「研究対象本人には開示義務が」「小説にはないです」 ユナは笑い、またキーボードへ向き直った。 ひなたはその背中をしばらく見たあと、部屋の中にある小さなソファへ腰を下ろした。帰るつもりだったのに、そのまま残ったのは、たぶん好奇心だった。 少なくとも、研究者としてはそういうことにしておいた。 画面に並んでいる文章は、距離のせいで完全には読めない。 ただ、一行だけ見えた。 ――彼女は、何度でも同じ人を選んだ。 ひなたは少しだけ眉を寄せる。「今日の講義?」「ちょっとだけ」「そのまま使って
Last Updated: 2026-08-11
Chapter: 第18話「選び続ける番」 翌朝、電気は戻っていた。 目を覚ましたひなたが最初に気づいたのは、カーテンの隙間から入る光ではなく、冷蔵庫の低い駆動音だった。一定の間隔で小さく震えるその音が、昨夜にはなかった生活の輪郭を部屋へ戻している。空調も動き、壁際のモニターには待機画面が浮かび、止まっていた機械たちが何事もなかったように自分の役割へ戻っていた。 テーブルの上には、短くなった蝋燭が残っている。 白い蝋が側面を伝ったまま固まり、昨夜そこに火があったことだけを静かに残していた。 ひなたはソファを見る。 ユナはまだ眠っていた。 毛布を肩まで引き上げ、片方の手だけが外へ出ている。昨夜、何度も握った手。明るい朝の中で見ると、それは特別なものには見えない。指も、爪も、手のひらも、ただ一人の人間の身体だった。 それでも、ひなたはその手を見た瞬間、昨夜の暗闇を思い出した。 計測器が止まり、数値が消え、何も証明できなくなった部屋で、それでも離したくないと思ったこと。 その意志がどの神経から生まれたのかも、どのホルモンが関係していたのかも、結局ひなたは測らなかった。 モニターが小さく起動音を鳴らす。 ひなたは反射的にそちらを見る。《システム復旧》《通信状態:正常》《YH-Model観測:再開可能》 最後の一行で、少しだけ笑った。 再開可能。 昨日までなら、その表示を見た瞬間に計測を始めていただろう。 心拍を取り、フェロモン濃度を確認し、停電前後の変化を比較する。研究者として、それは自然な行動だった。 けれど、今朝はすぐに触れなかった。「先生」 背後から、眠そうな声がする。 振り向くと、ユナが毛布の中から顔だけ出していた。「起きた?」「うん。電気、戻ったね」「戻った」「サーバーは?」「たぶん復旧してる」「愛も?」「それは止まってない」 言ってから、ひなたは少しだけ黙った。 ユナも一拍遅れて笑った。「先生、今の自然だった」「何が」「愛」「言った?」「言ったよ」「……寝起きだから」「私は起きてるよ」「そういう意味じゃない」 ユナが毛布の中で肩を揺らす。 モニターの隅で心拍数の表示が立ち上がる。 ひなたの数字が少し上がり、遅れてユナの数字も動いた。「戻ってる」 ユナが言う。「何が?」「数字」「そうだね」「昨日より安心する?
Last Updated: 2026-08-08