LOGIN海洋国家ゼン王国。 この国では、婚姻は恋ではなく外交だった。 正室一人、側室二人。 国家の均衡を保つためだけに存在する「白薔薇宮廷」。 そこへ突然迎えられたのは、 平民出身の彫刻家ルカ。 本人は石のことしか考えていない。 会議中も彫刻。 夜会の最中も彫刻。 女王に見つめられても「静かな人だな」としか思っていない。 だが、そんな彼女が少しずつ、 完成されすぎた宮廷を変えていく。 これは、海と婚姻でできた国で、 “均衡”を崩してしまった、一人の彫刻家の物語り。
View More第一話「それより、彫刻彫りたい」
白薔薇宮廷の会議室は、静かだった。 静かなまま、人が刺し合っている。 「東方との香料取引ですが、輸送路を海側へ寄せるべきです」 セリスが微笑みながら言う。 「海賊被害が増えています。危険では?」 ヴィオラが穏やかに返す。 「護衛船を増やせば済む話です」 「その費用を誰が負担するのですか」 「利益の出る交易ですもの。回収は可能でしょう?」 二人とも笑っている。 でも、仲が良い感じはしなかった。 私はぼんやりそれを見ながら、机の下で親指を擦る。 石を削る時の感覚を思い出していた。 少し柔らかい白石。 刃を入れると、粉が静かに落ちるやつ。 あれ、今度もう一回触りたい。 「ルカ」 「ん」 名前を呼ばれて顔を上げる。 女王ルシアがこちらを見ていた。 真っ黒な瞳。 この人は、いつも静かだ。 「話を聞いていたか」 私は少し黙った。 たぶん、聞いてない顔をしていた。 「……聞いてはいました」 「何を」 「色々です」 ヴィオラが細く息を吐く。 「具体的には?」 「えーと……政治とか、船とか、香料とか……」 「雑ですね」 「すみません」 セリスが肩を震わせた。 笑っている。 「では、そのあと何を考えていたんです?」 私は少し考える。 でも途中で面倒になった。 「彫刻です」 私は少し笑った。 部屋が静かになる。 後ろでリーネが小さく息を吸った気配がした。 「……会議中ですよ」 ヴィオラが言う。 「知ってます」 「知っていて彫刻を考えていたんですか」 「いや、途中までは聞いてました」 「途中から聞いていないじゃないですか」 「はい」 ヴィオラが頭を押さえる。 この人、最近よくこれをやる。 私は少し申し訳なくなった。 「すみません」 「反省している顔に見えません」 「半分くらいは」 「半分」 セリスがまた笑っている。 なんなんだろう、この人。 「どんな石ですか?」 セリスが聞く。 この人は、こういう聞き方をする。 怒る代わりに、入ってくる。 「白いやつです」 「雑ですねぇ」 「でも硬すぎないやつ。刃が入りすぎるとだめなので」 「へえ」 セリスが頬杖をつく。 観察されている感じがした。 「その石で、何を彫るんです?」 ヴィオラだった。 正室。 綺麗な人。 綺麗すぎて、最初は彫刻みたいだと思った。 「まだ決まってません」 「決まっていないのに考えていたんですか」 「決まってない時が一番楽しいので」 ヴィオラが少し黙る。 その横で、ルシアがこちらを見ていた。 静かに。 本当に静かに。 「……あなたは」 ルシアが言う。 「変わっているな」 「そうですか?」 「王宮で、会議中に石のことを考える側室は初めて見た」 「私も側室初めてなので、よくわからないです」 セリスがとうとう吹き出した。 ヴィオラは頭を抱えている。 リーネは死んだ目をしていた。 なんなんだろう、この空気。 私は窓の外を見る。 海が遠くに見えた。 ゼン王国は海の匂いがする。 でも、この部屋は香水の匂いしかしない。 今日も三人とも違う香りだった。 ヴィオラは花。 セリスは甘い異国の香。 ルシアは何もつけていない。 なのに一番存在感がある。 それより、彫刻彫りたい。 白い石を削りたい。 静かな場所で、誰にも話しかけられずに、ただ石だけ見ていたい。 「ルカ」 また呼ばれる。 「はい」 「あなたは、誰の隣に座りたい」 「……?」 急な質問だった。 私は部屋を見回す。 ルシア。 ヴィオラ。 セリス。 三人とも、こっちを見ていた。 同じ顔ではない。 でも、同じ理由で見ている気がした。 その理由だけ、まだよくわからない。 「……どこでもいいです」 「よくありません」 ヴィオラが即答した。 「席には意味があります」 「へえ」 「感心している場合ではありません」 「でも石工の工房だと、空いてる椅子に座りますよ」 「ここは工房ではないんです」 「不便ですね」 セリスが肩を震わせて笑っている。 ルシアは相変わらず静かだった。 でも、少しだけ口元が緩んでいた。 なんなんだろう。 この宮廷。 全員、変だ。 私は机の下でもう一度指を擦る。 やっぱり、石を触っている時のほうが落ち着く。 それに、 この人たちを見ていると、時々思う。 綺麗すぎるものって、 少し削ったほうが、本当の形が出る。ヴィオラと雨の中で話してから、何日か経った。 工房へ行き、石を削って、時々セリスと出かける。 ヴィオラのお茶の部屋にも行く。 少し前より、王宮の中で行く場所が増えていた。 昼前、工房の扉が叩かれた。「ルカ様」 リーネだった。「どうしたの?」「陛下がお呼びです」「今?」 珍しい。「はい」 私は手元の石を見る。 今日はここで止めても問題なさそうだった。「分かった」 鑿を置き、手についた石粉を払う。 リーネはその様子を確認してから、工房の外へ出た。「今日はどこ?」「陛下の執務室です」「今、仕事中だよね?」「おそらく」「じゃあ、何で呼ばれたんだろう」「私には分かりません」 リーネはそう言ったけれど、何か知っている顔をしていた。 でも、聞いても言わなそうだった。 執務室へ向かうと、廊下の窓から庭が見えた。 雨はもう上がっているけれど、雨が降り続けていたせいで、土はまだ少し濡れている。 ヴィオラの白い靴を思い出す。 あのあと、ちゃんと泥は落ちただろうか。「ルカ様」「何?」「着きました」 考えているうちに、執務室の前まで来ていた。「失礼します」 扉を開けると、ルシアは机に向かっていた。 書類がいくつも積まれている。 羽根ペンを動かす手は止まらない。「来たのね」「はい」「少し待っていて」「分かりました」 部屋の端に置かれた椅子へ座る。 紙をめくる音と、羽根ペンが走る音だけが聞こえる。 ルシアは仕事をしている時も静かだった。 ヴィオラは一つずつ丁寧に整える感じがする。 セリスは話しながら、いつの間にか全部終わらせていそうだ。 ルシアは最初から終わる場所が見えていて、そこへ向かっているように見えた。 しばらくして、羽根ペンが止まる。「待たせたわ」「終わったんですか」「一度区切っただけ」「まだあるんですね」「ええ」 机の上を見る。 まだ書類は残っている。 女王は大変そうだった。「工房はどう?」「普通です」「そう」「陛下は?」「見れば分かるでしょう」「忙しそうです」「そうね」 ルシアは椅子へ深く座り直した。 そのまま、しばらく私を見る。「どうしましたか」「何でもないわ」「何かついてます?」「こちらへ来て。石粉が少しついている」 髪に触れる。 どこに
お茶の部屋へ行くようになってから、何日か経った。 毎日ではない。ヴィオラに呼ばれる日もあれば、呼ばれない日もある。 最初は呼ばれた時だけ行っていたけれど、一度だけ廊下でヴィオラを見かけた時に、「今日は行かないんですか」 と聞いたら、ヴィオラに変な顔をされた。「あなたは、私がお茶を飲んでいるところへ毎回参加するつもりですか」「駄目ですか」「そうは言っていません」「じゃあ行きます」「だから、勝手に決めないでください」 そう言われた。 でも、その日の午後にはリーネが工房へ来た。「ヴィオラ様がお呼びです」「やっぱり」「何がですか」「なんでもない」 それから、何度かあの部屋でお茶を飲んだ。 話す日もある。ほとんど話さない日もある。 ヴィオラは本を読んで、私は窓の外を見たり、工房から持ってきた紙に彫りたいものを描いたりする。 同じ部屋にいるのに、別々のことをしている。それでいいらしい。 今日は朝から雨が降っていた。 工房の窓にも細い雨粒がついている。 外へ出る予定もないし、石を削るにはちょうどよかった。 昼を過ぎた頃、鑿を置いた。 少し休もうと思った。 お茶の部屋へ行こうか考える。 呼ばれてはいない。 でも、前に行ってもいいと言っていた気がする。 いや、言ってはいなかったかもしれない。 駄目とは言っていない。それならいいだろう。 工房を出て、廊下を歩く。 雨の日の王宮はいつもより静かだった。 窓の外を見ると、庭の土が濡れている。 あの部屋の窓からも、今日は雨が見えるんだろうか。 扉の前まで来て、軽く叩いた。 返事がないから、いないのかもしれない。 帰ろうとした時、廊下の向こうから声がした。「ルカ様?」 振り返ると、 ヴィオラの侍女が立っていた。「ヴィオラ様なら、庭にいらっしゃいます」「庭?」「はい」「この雨で?」 侍女が困った顔をする。「何かあったんですか」「いえ。ただ……」 言いにくそうだった。「あそこの庭ですか」 侍女が頷くから、向かうことにした。 外へ出ると、思っていたより雨が強かった。 屋根のある回廊を進む。 庭へ近づくほど、雨の音が大きくなる。 ヴィオラはすぐに見つかった。 庭の端に立っていた。 傘は持っている。でも、裾が濡れていた。 白い靴にも泥がつい
絹の店へ行った翌日、私は朝から工房にいた。 昨日見た織機のことが、まだ頭に残っている。 石と布は全然違う。でも、作るところを見ていると似ている部分もあった。 一本ずつ糸を通して、間違えたら戻れるところまで戻る。そうやって最後には一枚の布になる。 石は一本ずつ重ねたりしないけれど、少しずつ形を出していくところは同じかもしれない。 そんなことを考えながら鑿を動かしていると、工房の扉が叩かれた。「ルカ様」 リーネだった。「どうしたの?」「ヴィオラ様がお呼びです」「今?」「はい」 私は手元の石を見る。 まだ途中だったけれど、今日は変なところで止めても問題なさそうだった。「分かった」 鑿を置いて、手についた石粉を払う。 リーネはそれを確認すると、工房の外へ出た。「こちらです」「ヴィオラ様の部屋?」「いいえ」「違うんだ」「今日は別のお部屋です」 また別の場所らしい。 昨日はセリスに連れられて絹の店へ行った。 今日はヴィオラに呼ばれて、知らない部屋へ向かっている。 最近こういうことが多い気がする。 廊下を歩いていると、リーネが一つの扉の前で止まった。「こちらです」 扉を開ける。 最初に見えたのは、大きな窓だった。 王宮の中にしては小さな部屋で、窓から庭の木が見える。部屋の中央には丸いテーブルと椅子が置かれていて、壁際には本棚があった。 豪華ではない。 王宮だから家具はいいものなんだろうけれど、飾りはほとんどなかった。「いらっしゃい」 窓際にいたヴィオラが振り返る。「お呼びと聞きました」「ええ。どうぞ、お座りください」「はい」 言われた通り椅子に座る。 テーブルの上には茶器が用意されていた。「お茶ですか」「見れば分かるでしょう」「そうですね」 ヴィオラが眉を寄せた。 怒ったのかと思ったけれど、そのまま向かいの椅子に座った。「今日は何かあるんですか」「何か、とは?」「話です」「話がなければ呼んではいけませんか」「いえ」 別にいけなくはない。 でも、ヴィオラはいつも何かをしている。 会議に出ているか、書類を読んでいるか、誰かと話している。何もせずに座っているところは、そういえばあまり見たことがなかった。「珍しいなと思いまして」「なにがですか」「ヴィオラ様がゆっくり座っている
中庭へ行ってから数日が過ぎた。 工房へも戻れるようになった。 石を削る音を聞いていると、ようやくいつもの生活へ戻った気がする。 昼過ぎだった。 工房の扉が控えめに叩かれる。「失礼します」 聞き慣れた声だった。「セリス様」「作業中でしたか」「少しだけです」 私は鑿を置く。 石粉を払うと、セリスは作業台の上を見渡した。「少し増えましたね」「失敗も増えました」「そうなんですか」「割りました」 セリスは少し笑う。「それでも続けるんですね」「割るのも仕事なので」「職人らしいですね」 そうなんだろうか。 あまり考えたことはなかった。「今日は少し、お付き合いください」 セリスが言う。「今日はどこですか。また好きな場所ですか」「少し違います」「仕事ですか」「半分くらいです」「半分」「商人として好きな場所です」 少し気になった。「市場ですか」「もっと静かなところです」 セリスは少しだけ笑う。「よろしければ、ご一緒しませんか」「いいですよ」 石粉を払って上着を羽織る。 工房を出ると、セリスは前回より少し安心したような顔をしていた。「今日は工房を止められないんですね」「止めません」「珍しいです」「帰ってきますから」「帰ってきます」「信用します」「少しだけですか」「今日は、もう少しだけ」 前より増えたらしい。 王宮を出ると、石畳の通りへ出る。 市場とは反対の道だった。「市場じゃないんですね」「はい」「布を扱う職人さんのお店です」「服ですか」「絹です」 絹。 服になる前は見たことがない。「興味ありますか」「……あまり」 正直に答える。「布は着るものなので」「そうですね」 セリスは笑った。 困った顔ではない。 中庭で見た時とは少し違う。 まるで、その返事を予想していたみたいだった。「でも」 セリスは歩きながら続ける。「気に入ってくれると嬉しい」「どうしてですか」「秘密です」 そう言われると少し気になる。 でも、絹で何を見るんだろう。 花みたいに土はない。 枝もない。 職人の店なら、道具くらいだろうか。 考えているうちに、一軒の店の前でセリスが足を止めた。「着きました」 看板には絹を扱う店の名前が書かれている。 店の奥からは、一定の音