Chapter: 夏樹の顔をした執事「ここはどこ」 男は僕の問いには答えず、傍らの机から白い布を取り上げると、迷いなく僕の腕へ手を伸ばした。 「触らないで」 想像以上にか細い声が部屋に響いた。 反射的に腕を引こうにも、痛みで全く動かない。 傷口が裂け、新しい血が床へ滴り落ちた。 男は困ったように眉を下げる。 「そのままでは傷が悪化いたします」 「大丈夫…………」 拒絶と映ったのだろうか、夏樹の顔をした知らない男が、辛そうな表情をして、僕はそれに心がざわついた。 こんな知らない場所で、知らない男に触れられる理由なんてない。 ……いや。 知らない男じゃない。 その顔を見れば見るほど、心臓が苦しくなる。 同じだった。 高校の頃より少し大人びてはいるけれど、伏せた睫毛も、少し癖のある黒髪も、静かな眼差しも。なんなら、その声も。 全部。 全部、夏樹だった。 夏樹が、僕を心配している。僕に優しそうに触っている。 ここはいったいどこなのだろうか。 (なんで……) 喉が詰まる。 「なんで、ここにいるんだよ……」 男は一瞬だけ目を細めた。「リヒト様? 何をおっしゃっておられるのですか」 穏やかな声だった。 それなのに。 僕は、その一言だけで背筋が凍る。 「……違う」 「?」 「僕はリヒトなんて名前じゃない!」 男は何も言わない。 静かに僕を見つめ、わずかに困っている様に見えた。 その沈黙が、かえって怖かった。 「ここはどこなんだ!」 「エヴァーハルト公爵家別邸でございます。意識を失って帰ってこられたので、動揺されているのでしょう。お水を持ってまいります」 「……どこってきいてるんだけど?」 「…………? リヒト様のお部屋ですよ」 何を言っているんだ、この人は。 公爵? 別邸? 意味が分からない。 「ふざけないでよ」 「ふざけてはおりませんが、どうされましたか。誰かお医者様をお呼びして」 「ドッキリなら、もう十分だから」 「……どっきり? どっきりとは何でしょうか。そんな事よりお医者様が来る前に、いつもの処置をいたしますから、うつぶせになって下さい」 「待って、何言ってるかわからないんだけど」 初めて男の表情が揺れた。 本当に困っている?
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Chapter: 死んだはずなのに そのとき、夏樹のスマートフォンが鳴った。 やべっ 小さな声が夏樹から漏れる。 「もしもし。あ、ごめん。え? いや、虫が煩くてさ、ゴキブリ退治してたらちょっと遅くなっただけだよ。今から向かうよ。そんな怒るなよ、なんでも買ってやるから」 僕の言葉を遮るように、夏樹は画面へ目を落とした。 その顔はまるで破顔一笑。 こんな嬉しそうな彼を、僕は見たことがなかった。 彼は傘を肩で支えながら、その場で話し出し、もう僕の事なんか、いないも同然だった。 あと少しだった。 ほんの数秒あれば、言えたはずだった。 僕は雨に濡れた袖を握りしめ、乱れた呼吸を整えようと深く深呼吸をする。 空唾を嚥下し、そのうち口内に唾が溜まり出すのを感じていた。 口の中に溜まるその異様な感覚に呼応するように、喉から熱が込み上げ、目じりから熱い何かが零れてくる。 泣くな。 電話が終わったら、今度こそ言う。 そう決めたはずなのに、通話を終えた夏樹の表情は、先ほどまでとは違っていた。「悪い。行かないと」「え?」「りかちゃんがもう駅にいるんだよ」「でも、僕の話は」「そんなの今度でいいだろ。どうせ、大した話じゃないんだし」 ————なんで決めつけるの。「夏樹」「また連絡する」 それだけ言うと、彼は駅とは反対の方向へ歩き出した。 赤信号になりそうなギリギリを、夏樹は一気に走り出す。 僕は咄嗟にその背中を追った。「待って」 聞こえなかったのか、夏樹は振り返らない。「夏樹、待ってよ!」 強く踏み出した足が雨に拐われ、濡れた縁石で滑った。 身体が車道側へ傾き、手から離れた傘が、雨風に煽られて宙を舞う。 顔を上げた瞬間、白い光が視界いっぱいに迫っていた。「え」 甲高いブレーキ音と、誰かの叫び声が重なる。 逃げなければと思ったのに、身体は凍りついたように動かなかった。 最後に見えたのは、こちらへ駆け戻ってくる夏樹の顔。 「最後くらい、僕だけを見てくれたね」 小さな独り言は、僕の本心だったのだろう。 彼が何かを叫んでいた。 けれど、その声が僕の名前だったのかさえ分からないまま、鈍い衝撃が全身を貫いた。 結局、僕は何ひとつ伝えられなかった。 たった「好き」の二文字さえ。 ————————————————————
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Chapter: 最後の告白 真っ白なシーツに、赤い血が散っていた。 (なんだよ、これ) ぽたり。 ぽたり、と。 真っ白なシーツは一面の銀世界のようで、その上に咲いた血は曼珠沙華を思わせた。 その赤が自分の身体から落ちているのだと気づくまで、少し時間がかかった。僕は震える掌を見つめ、指先から手首へ伝う生温かな感触に、遅れて息を呑んだ。 (……僕、死んだはずじゃ) 身体を起こそうと腕へ力を込めた瞬間、皮膚を引き裂くような痛みが走る。(痛っ……) 両腕には、何かに強く縛られていたような傷が残っていた。擦り切れた皮膚の間から鮮血が滲み、腕を動かすたび、新しい赤い血が白い寝具へ落ちていく。 痛みがある。(痛覚があるということは、もしかして生きているのか?) 肌へ張りつくシーツの感触も、荒く上下する胸の苦しさも、夢だと片づけるにはあまりに生々しかった。 僕は息を整えながら、見覚えのない部屋を見回した。 天井はやけに高く、淡い金色の装飾が複雑な蔓草模様を描いている。窓を覆う深紅のカーテンは、僕の部屋にある安物とは比べものにならないほど重厚で、壁際には天井へ届きそうな書棚が並んでいた。 病院ではない。 もちろん、僕の部屋でもない。 「ここ、どこだよ……」 呟いた途端、さっきまでぼんやりと見えていた景色が、いっきに鮮明に映る。 ――数分前、僕――|妹尾晶《せのおあきら》は、車にはねられて死んだ、はずなのだ。 ———————————————————————————— 二十二歳。 四月からは県外の会社へ就職することが決まり、生まれてから一度も離れたことのない町とも、今日でしばらくお別れになる。 だから、今日だけは、どうしても伝えたかった。 物心がついた頃からずっと隣にいた、幼馴染の|夏樹《なつき》に。 ――好きだって。 返事なんて勿論期待していない。 付き合ってほしいなんて、最初から望んでいない。 そんなことあるわけがない。 ただ、一度だけ。 たった一度だけでいいから。 この胸の奥へ押し込め続けた想いを、自分の言葉で伝えたかった。 玉砕覚悟。 幼馴染以上の何物でもない。 とっかえひっかえ変える、セフレにすらなれない。 だから、今日を逃せば、きっと僕は一生言えない。 ――弱虫で、
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