Chapter: 6.アディノス王子「え、誰?」 思わず聞き返したら、パウラは補足してもう一度言ってくれた。「王子殿下です。アディノス王子殿下。ナノリア様ご執心の」「やめて。執心してないから」 正確には私は、していない。「何の用?」「聞いてませんけど、聞いてきましょうか?」「普通聞くものじゃないの?」 取次ぎってそういう者じゃないのか。 パウラがさあ、と首を傾げた。「だってナノリア様は用件を聞いたことなんてなかったので」 そうか、好きな人が来たらすぐさま招き入れてたか。 いや、それでもさ。普段、まったく交流のないレディーの部屋に来るんだから、向こうから用件を言ってしかるべきでは。 コンコン、とノックの音が響く。待ちきれなくて催促のノック。「あ、来ちゃいましたね」「え、なに、はやいはやい」「いつもより遅いからですよ多分。いつも、はーい! って走っていくじゃないですか」 はーい、の所を高い声で再現された。ちょっと悪意を感じる。 それは置いておいて。 私は、王子には特に会いたくもない。それよりお昼ご飯が食べたい。 断ったら駄目だろうか。まだこの体に入って昨日の今日だし、因縁の相手にはもう少し馴染んでから会いたい。 いや、次期国王だし、無碍にしたらだめなんだろうか。 そんなことを考えていたら。「開けろ」 若い男の声が響く。——アディノスの声だ。 条件反射で体に緊張が走った。 そしてこの|部屋の主人《わたし》の同意の全くないままに、扉は開かれた。 侍従に開けさせたのだろうが、入って来たのはアディノス一人だった。 こちらを見て、あからさまに眉を寄せる。「いるなら早く開けろよ」 すっごい、偉そう。 そのまま遠慮もなく入ってくると、部屋の中にある椅子にどかりと座った。 ものすごく久し振りに見たような、映画の中の人に会ったような、不思議な感覚だ。 確かに目鼻立ちは整った
Last Updated: 2026-08-18
Chapter: 5.部屋の掃除 パウラが持ってきてくれた朝食は、固くて黒いパンと具のないスープだけ。 質素だけど弱った胃腸にはちょうどいい。 「いただきます」 部屋にはパウラも出て行って誰もいないから、手を合わせて、気楽に食事にすることができた。 スープにパンを浸しながらゆっくりと食べ進める。 ダイニングに行けば、アディノスと同じく王族に出される朝食が出てくる。アディノスは嫌そうな顔をしたが、かといって粗末な食事を横に並べるわけにもいかないし、何よりドローネの遺言がある。 しかし、部屋で食べる時は人目が減るから一気にレベルが下がって……多分これは使用人の残り物だな。 まあ、食べられるなら何でもいい。 モグモグと口を動かしながら周りを見渡した。 あまり味はないので、ごくごくとスープで流し込んで、私は立ち上がった。 本当に薄汚れた部屋だ。それほど広い部屋ではない。 物も全然ないから掃除も楽そうなのに、一切されている様子がない。 「よし。まずは、掃除ね」 呼び鈴でパウラに来てもらって食器を返して、雑巾とバケツの水をお願いした。 パウラは怪訝そうな顔を隠しもしなかった。 「はあ……雑巾?」 声音も表情もひどいものだったが、それでも言う事を聞いて持ってきてくれた。 よくよく観察すると、態度がそっけないのは性格なんじゃないかな。言葉に棘を感じてたけど、そこに悪意はなさそうで、私の事は別に嫌っていないようだ。 ただ、感情の幅が狭くて、淡々とした人なんだろう。 お礼を言ってから、私は袖をめくった。 さあ、大掃除だ。*** |私《・》の家は田舎にある大きなお寺だった。 父はそこの住職で、子供は私一人。 古くから続くお寺だから檀家さんの高齢化はすさまじかったけど、その数は結構たくさん抱えていたから寺を畳むこともできなくて。 子供の時から父の読経を聞きながら育ったし、寺は継ぐつもりで一応仏教系の大学に進学した。 進学したものの——頭を坊主にする踏ん切りがつかなかった。いや、宗派としては何も剃る必要はないのだけど、何しろ田舎だから、檀家さんたちの手前一度は剃った方がいいんじゃないかと言われて。 大学卒業間近22の夏。ひたすら迷って迷って、いよいよ、もう逃げだすか? なんて考えながら眠りについて——その後の記憶がない。
Last Updated: 2026-08-17
Chapter: 4.ナノリアとして かなり経ってから一人のメイドが部屋を訪れる。 私の担当のメイド——パウラ。愛想というものをどこかに置き忘れたんじゃないかっていうくらいそっけない人で、記憶にある限り笑ったところを見たことが無い。 ナノリアはこの人が苦手だった。怒っても怒鳴っても、淡々と仕事をこなす彼女が、何を考えているかわからなくて。その内ほとんど会話をすることもなくなっていた。 まあ、毒があるかもしれないと噂される私の世話を担当してるっていう時点で、普通のメイドではないのかもしれない。 「お呼びですか」 「支度をお願い」 はいとも言わずにパウラは去っていって、水と着替えを持ってきてくれた。 ナノリアは寝込んでいたから、1週間ぶりくらいに呼んだことになる。 それでも一切の質問もない。特に私の体調とかは気にならないみたいだ。——いいけどね。 私は顔を洗って着替えて、化粧台の前に座った。 身支度はいつも一人でしていたから、ブラシを取って髪を梳く。その間にパウラがベッドを整えて——ぶほっ、すごい埃が立ってる。やめてくれ。 息を止めて髪を整えた。 服は質素な暗い色の、着古したドレスだった。背中に少し切れ込みが入っていて、そこから羽を出している。格好としては、これで十分だ。 「隠さないんですか」 「え?」 いつの間にか側まで来ている。パウラの視線は私の背中にあった。 「その、羽です」 「ああ……」 この羽から毒の鱗粉が出ているのではと言われていたから、人前ではいつも包帯で巻いたり、荷物を背負うように何かで包んだりしていた。 でも、この10年誰も病気になってないんだから、そんなのは何の根拠もない。発言力のある王妃から出た妄言に皆従っているだけだ。 この羽はものすごく敏感で、当たると剥き出しの神経に触れるみたいになる。それを包むなんて……それだけでイライラしてしまいそう。 「いいのあれは。痛いから」 「でも……」 パウラの表情が初めて戸惑ったように動いた。 羽の鱗粉よりこの部屋の埃の方がよっぽど害になると思うんだけど。そうは思っていないようだ。 私は肩をすくめて見せた。 「窮屈なの。耐え難いほどにね」 「は、あ……」 「心配しなくても、羽の粉で健康を害したりはしないはずよ? 気になるなら窓を開けて換気して」 「あとで暴
Last Updated: 2026-08-17
Chapter: 3.蝶から毒蛾 徐々に蘇ってくる記憶を思い起こしながら、私は相変わらず窓の外を見つめていた。 ——そう、ナノリアは愛情深く育てられていた。 途中までは。 国王ドローネの温かい抱擁は今でも覚えている。王妃サフィアも優しく、一人息子のアディノスと兄妹のように育てられた。——4歳までは。「……………」 日はもう既に高く昇り、朝ご飯のいい香りが漂って来る。 まだこの部屋に来る人はいない。——いや、呼ばない限りここには誰も来ない。 あれほど眩しかった日々が、嘘だったかのように色を失っていった。幸せだった記憶さえ、消えそうなほどに。 ——そう、あの日を境にナノリアの世界は一変した。 ナノリアが4つになった時、国王ドローネが、病に伏した。 国政の場で突然倒れたと聞いて、ナノリアは慌てて駆け付けた。 いつもなら素通りするはずの扉は固く閉ざされ、ナノリアを中に入れてはくれなかった。「へいかは……へいか!」「お入り頂くわけにはいきません。姫様、お戻りください」 いつもは挨拶を交わす近衛が今日は立ちはだかり、頑として退いてくれない。 心配でたまらないのにどうしようもなくて、ナノリアはその場にへたり込んだ。「どうして……」「陛下は病に侵されておる。原因不明のな」 聞き慣れた王妃サフィアの声。でも、これまで聞いたことが無いくらい冷たい声だった。 青い顔をしていた。袖には血が付いている。——ドローネは吐血して倒れたと聞いた、それだろうか。「おうひさま、へいかは……ご、ごぶじで」「今は、まだ」「あいたい——」「ならぬ!!」 びくりと肩が震えた。 サフィアのこんな大きな声も、初めて聞いた。「これまでロフェリア王国は精霊の加護により盤石であった。——そなたが来るまでは!」「え」「国王が謎の病に倒れるなど、ありえなかった。昨日までお元気でいらしたというのに」 それは、その言い方だとまるで。「陛下に何かしたのではあるまいな」「え……?」 言っている言葉の意味が分からなくて、ナノリアはただサフィアの顔を見た。サフィアはハンカチで口と鼻を覆っていた。「聞けば蛾の羽には、毒の|鱗粉《りんぷん》なるものがあるらしいではないか」「でも。でも、わたし……」 サフィアが近衛に厳しい視線を向けた。「連れてゆけ。ナノリアを部屋より出すな」「おうひさま……!」
Last Updated: 2026-08-17
Chapter: 2.拾われた子 春を迎えたロフェリア王国城の庭園は、この日も見事な景観を誇っていた。 ここはいつも四季折々の植物に彩られているが、とりわけ春の庭園は花々が咲き乱れ、見た目も香りも楽しませてくれる。 この庭園を毎日散歩をするのが国王夫妻の日課だった。今では3歳になった王子と共に3人でいつも歩いている。 「ちちうえ、ははうえ! あっち! ちょちょ!」 少し先で幼い王子が飛び跳ねながら手を振るのを、国王夫妻はにこやかに見つめた。いつも少し先を走って何かを見つけては、また戻ってくる。可愛い盛りである。 王子は植え込みの中と両親を交互に見つめたかと思うと、ざっと植え込みの中へ入ってしまった。 「あ、王子!」 「はは。さて、落ち着いて来たと言うたのは誰だったか」 「これ、アディノス! そこは入ってはならぬと申しましたでしょう」 乳母やメイドは少し離れたところにいて、家族団欒の邪魔をしないように控えている。 母親のサフィアが叱ってもアディノスは植え込みに入ったままだった。 すぐに出てこない王子を不思議に思い二人は顔を見合わせて、揃って茂みの中を覗き込んだ。 可愛い王子が一体何を見つけたのかと微笑みながら身を乗り出して——驚きに声を上げる。 「まあっ!」 「なっ、これは……」 王子の丸く小さな背中、しゃがんだその向こうに、赤ん坊が転がっていたのだ。 「んあっ、あ、んぶっ」 そんな風に声を上げているのは、紛れもなく、生まれてすぐ位の赤ん坊だ。裸で草の上に置かれている。 眩しそうに目を細めながら必死で手足を動かしていたかと思ったら、次第にくしゃりと顔が歪んでいった。 「んあっ、あぁ、んあぁ……」 とぎれとぎれの泣き声を上げる様子は、本当に生まれて間もない泣き方だった。 咄嗟に国王ドローネが手を伸ばす。 「あっ、陛下……!」 危険です、と近衛が駆けつけるが、ドローネはそれを制した。 「今まさに置いてゆかれたような」 庭を歩くのはいつもこの時間であり、入念に確認がなされているはずだ。 庭師も近衛も気づかなかったのだから、その時にはいなかったのだろう。 「んぎゃ……んああ」 火が付いたように泣き叫ぶ赤ん坊の声は頼りなく、悲しみにあふれているように感じた。 「ああ、泣くでない。もう大丈夫だ」 ドローネは慣れた仕
Last Updated: 2026-08-17
Chapter: 1.この子の名前はナノリア——私? 目が覚めるとそこが別世界のように思う事ってあるだろうか。 それもはっきりと、夢うつつではなくて現実味を帯びた感覚がある場合。 例えば……異世界に転生した、とか? ありえない。 ただ寝ぼけているだけと言われた方が信憑性がある。 でも。 胸にぽっかりと穴が開いたみたい。 何かすごくすごく、大切なことを忘れているような……。 私は胸を押さえた。 泣いてたんだっけ。頬に涙の跡が濡れている。 不思議な感覚だ。私は確かにこの景色を知っている。毎日見る、いつもの私の部屋。 昔イギリスに旅行に行ったときに見たお城の中みたいな一室だ。 石の壁、豪華な壁絵、それから……大きなベッドに寝てる、私。 ——ん? イギリスって何だっけ。 そこまで考えてから、ふと思考が止まる。 喉が乾燥しているのに気付いた。 「こほ……ちょっと埃っぽいな」 この部屋はあまり衛生的ではないらしい。叩けば埃が出てきそうだし、実際目を凝らすとあちこちに埃や汚れも見える。 こんな汚いところで生活してたんだ、私。——できていたっけ? 広さはあるけれど、家具はほとんどない。 どうしようかと思って、視線を落とした。今はくすんだ白いワンピースを着ている。 今日はジャージじゃないんだ。——ジャージ? 違和感にまた目が留まった。 私の手、指……こんなに細くて白かったっけ。 それより、とにかく背中が痒い。たまらなく痒くて、ついぼりぼりと掻きむしってしまう。 蚊に噛まれたかな。やだ、不衛生だからダニとか? 触れた背中に、ごり、と物体の感触がある。何かが背中に、付いている? 怖くなって動きが止まる。——こぶ? 薄くて、何だかさらさらしていて……。 掻いた所からボロボロと何かが剥がれ落ちる感触があった。 「ひいっ……」 恐ろしくなって私は手を止めた。 そうだ、鏡! 部屋の中の鏡に走り寄る。 「これ……私? 私よね」 うん、私だ。 ナノリアの顔だ——ナノリア? 私の名前……。 可愛らしい見た目をしている。光の加減によっては青色にも見える白銀の髪はふわふわしていて、瞳は深い藍色。まだ幼い顔立ちをして、頼りなく華奢な身体をしている。 見慣れているようで見慣れない。 自分のようで、自分でないような。 何
Last Updated: 2026-08-17