Chapter: 【一二歳:なき女】〜本物〜 雨の、匂いがした。 降ってなど、おらぬのに。泥と苔の湿った匂いが、岩肌から染み出している。 背後で、小夜が提灯を掲げ直す気配がした。 娘の手が震えているのは、灯の輪が小刻みに揺れていることで知れた。 その頼りない光が、岩の上に蹲る白い影を、闇から切り出している。 白装束の裾からは、ぽたり、ぽたりと、何かが滴り、岩肌を濡らしていた。 見上げれば。しなびた腰から下へ、赤い筋が幾条も垂れている。 ——血。 難産の末に世を去った女は、腰から下が血に濡れている。 産女の伝承は、どの土地でもそう語る。 だが、頭の片隅で何かが引っかかった。 死んで久しい者の血が、なぜ今も乾かず、涸れもせず、滴り続けるのか。 ぐるり、と。 女の首が。真後ろへ|捩《ね》じれ向いた。 肩も、胴も、微動だにせず。 人の首の骨組みでは、あり得ぬ回りようだった。 白く濁った双眸が、正面から私を捉えている。 「逃げろ、小夜っ」 叫んだときには、白い巨体はすでに岩を蹴っていた。 風を裂く音を聞いた次の刹那、右肩を抉られていた。 地に叩きつけられ、泥の冷たさが背に広がる。 痛みより先に、灼けた鉄でも押し当てられたような熱だけが、肩から指の先まで走り抜けた。 着物ごと肉が裂かれたのだと呑み込めたのは、血飛沫の鉄臭さが鼻に届いてからである。 「――若様っ」 小夜の悲鳴が、ひどく遠くに聞こえた。 頭上で、化け物が身を|翻《ひるがえ》す。 その拍子に、ぼたり、と。黒い何かが、肩に落ちた。 冷たい。そのうえ、生臭い。 (……これは) ——人の、髪。 脂を吸うて束になり、蛇のようなぬめりを帯びている。 そのひと房が、ひとりでに鎌首をもたげ、私の右腕に巻きついた。 「……重いっ」 口に出してから、おのれの言葉の異様さに気づく。 髪ひと房の重さなど、|高々《たかだか》|数匁《すうもんめ》のはずだ。 それが、腕を上げることすら許さない。 まるで見えぬ何かが、この一筋を足場に、次から次へと積み重なってくるかのようだった。 膝が泥に沈む。 踏み堪える力が、腿から抜けてゆく。 化け物は、宙に留まったままだった。 翼も持たぬくせに、白装束の巨体は夜気の中に
Last Updated: 2026-10-13
Chapter: 【一二歳:なき女】〜子守唄〜 「お……おお……」 「ねんねん……ころりよ……」 唄だ。 ——子守唄。 いつからか、あれほど耳の奥を掻いていた羽音が、絶えている。 虫の音もない。 音の死んだ闇に、唄だけが通っていた。 「……小夜、提灯を」 私は足を止め、受け取った提灯を、声のする方へ掲げていく。 その時。 「……お願いでございます。その提灯、こちらへ向けるのは、お止めくださいませね、ね」 岩陰の奥から、女の声。 若いが、疲れている。 そして、どこか人懐こい。湿った声であった。 私は、掲げかけた提灯を、宙に留めた。 背後で小夜が、肩を震わせている。 「わ……若様、誰か――」 左手を後ろへ回し、その口を軽く押さえた。 「……静かに」 掌の下で、小夜がゆっくりと頷く。 「あい、すみませんねえ。明るいものは、赤子の目に障りますもので」 ――赤子。 耳を、澄ませる。 岩陰の奥から、ごく微かにだが聞こえた。 泣き声ではない。 吐息にもなりきれぬような、か細い音。 (……生きてはいる) 私は提灯をゆっくりと下ろし、小夜の手へと返した。 「……灯りは、低く。足元だけを照らすように」 そして空いた右手を、腰の鉈に添える。 「ご親切に。ありがとうございます」 女が、礼を言った。 妙に、行き届いた物言いであった。 「……何用か」 短く応じる。 「何、と申されましても」 女が、小さく笑った。 「こんな夜更けに。お若い方がどちらへ行かれるのかと。心配で、つい、お声をかけてしまいましたの」 「……村の、赤子を探している」 「まあ」 女の返事が。ひと呼吸、遅れた。 「それは、それは。ご立派なことで」 「あちきも、赤子を、探しておりますの」 (……遊里の物言いに、どこか|在所《ざいしょ》|訛《なま》りも、混じっている) 「もう、ずいぶんと、長うございますけれど。難産でしてねえ。産婆さんが、ねえ。もう駄目だと言うのを、あちきは、お腹を押さえて、泣いて、ねえ。|縋《すが》って。……赤子が生きて出てくれれば、あちきの命は、どうなっても構いませぬ、と」 小夜の息が、浅くなってゆく。
Last Updated: 2026-10-12
Chapter: 【一二歳:なき女】〜神隠し〜 私が十二歳となった、初夏のことである。 事の起こりは、どこの農村にもある、ほんの油断であった。 ――後になって、私が聞き集めた限りでは。 村の西外れ、水気を含んだ藪の口で、若い母親タネが薬草を摘んでいた。 |籠《かご》に寝かせた赤子を木陰に置き、ほんの寸刻、目を離した。 風のない、蒸し暑い昼下がり。 戻ったとき、木陰には空の籠だけが残されていた。 すぐ傍にいたはずのタネの耳には、泣き声ひとつ、獣の足音ひとつ、届いていない。 まるで、初めから赤子などいなかったかのように。 ぽっかりと、穴のような静けさだけが残されていた。 タネは、半狂乱で村へ走った。 幾度も転び、爪を割り、血の滲む手で土を掴んでは、起き上がり、また走った。 急を聞いた村の男らが、鎌や棒を手に、藪の口までは出た。 だが、誰ひとり奥へは踏み込まず。 名を呼ぶでもなく、形ばかりに草の先を叩き、日が西へ傾きはじめると、一人、また一人と、黙って引き上げていった。 そして、日暮れ。 村は、動かなくなった。 「日が暮れる。門を閉めろ」 村長の声が、すべてであった。 ——この村の掟。 日の落ちた山へ入った者は還らぬ。 赤子ひとつの命と、村ひとつの命。量り比べるまでもない。 重い木門に、|閂《かんぬき》の落ちる音がした。 その音は、女の耳に、棺の蓋の閉まる音と聞こえたであろう。 タネは、門の内に取り残された。 我が子だけを、夜の側に残して。 「開けて……開けて、くだされえ……っ」 固く閉ざされた門に取りすがり、喉も裂けよと叫ぶ。 誰も、動かない。 恐れに、縛られて。 絶望した女が最後に向かったのは、おのれの家ではなかった。 村でもっとも忌まれ、もっとも恐れられている場所。 ——竹中の、屋敷であった。 * 「お願いです、篝火様、当主様……どうか、どうか、お助けくださいませ」 日の落ちきった門前で、タネは、冷たい地面に額を打ち付けていた。 何度も。 何度も。 額が割れ、血が滴っても、なお。 「あの子はまだ、|乳《ち》の|香《か》も抜けぬ赤子にございます。朝を待たずに息が止まってしまいます。どうか
Last Updated: 2026-10-11
Chapter: 【十歳:理の刃】〜英雄〜 「ならば、ここからが本題だ」 名籍の最初の頁。 その最上段に、指を滑らせる。 「この、一番上の字が読めるか」 「えっ、えっと……じゅう……てん」 「よい。|十天《じってん》、と読む」 「じっ、てん」 「陰陽府の頂きに座する、十人の長。それを束ねて、こう呼ぶ。ここがな、面白い」 「?」 「この府は、家柄を見ぬ。才ひとつあらば生まれは問わぬと。堂々と書いてある」 小夜が、また、火傷を隠すように袖口を押さえた。 私は、気づかぬふりをする。 「中でも、上の三人――」 指先を、名の上で、三人ぶん、滑らせる。 「|上三天《かみさんてん》は、別格とある。一に、|源頼光《みなもとのよりみつ》。二に、|芦屋道満《あしやどうまん》。三に、|藤原秀郷《ふじわらのひでさと》――」 指が、止まった。 背筋を、冷たいものが、走り抜ける。 「あっ」 声を上げたのは、私ではなかった。 「若様、その『よりみつ』って人……」 小夜が、膝立ちになって名籍を覗き込む。 「……知っているのか」 「村のおばばが、昔話で教えてくれたことがありますっ。悪い鬼を退治した、強いお侍さん。鬼の親分を、やっつけた人ですよねっ」 まじまじと、小夜の顔を見つめる。 この娘は、おのれが何を言ったのか、わかっていない。 わからぬまま、組み上がりかけていた見立ての、最後の歯車を、かちり、と噛み合わせたのだ。 「……小夜」 「は、はい」 「賭けは、お前の勝ちだ」 「え……」 「金平糖を、十粒つけてやろう」 「じ、じゅうっ」 小夜は両目を丸くして、慌てて首を振った。 「え、えっ、なんでですかっ。あたし、外したのに」 「ああ、外した。だが、いまの一言が……十粒分の働きをしたのだ」 私は名籍を閉じ、その表紙に掌を重ねた。 ――源頼光。芦屋道満。藤原秀郷。 いずれも、いまより数百年の昔。平安の世の武将と陰陽師である。 とうに墓の下で骨と化しているはずの英雄たちが、なぜ、刷り立ての名簿に肩を並べておるのか。 足元の床が、すう、と薄くなるような目眩がした。 目を細め、行灯の火を睨みつけながら、考えを巡らせる。
Last Updated: 2026-10-09
Chapter: 【十歳:理の刃】〜陰陽府〜 冬。|如月《きさらぎ》 軒の|氷柱《つらら》が朝日を含んで鈍く光り、庭の残雪には活発な少女の小さな足跡が母屋から土蔵へ|忙《せわ》しなく点々と続いている。 ——二年前。 あの娘に焼印を刻んだ日から、誰に命じられたわけでも誰に乞われたわけでもない。 言いつけられた給仕や雑用を誰よりも早く|熟《こな》し、僅かな暇を|拵《こしら》えては私の自室か土蔵へと足を運ぶ。 雨の朝も雪の|宵《よい》も、欠かしたことはなかった。 * 立春を三日後に控えた、凍てつく夜。 私はいつものように土蔵で書物の山を漁っていると、虫食いだらけの古文書の間に、毛色の違う数冊が紛れていたのを発見した。 表紙の|題簽《だいせん》には、『官刻・諸国風土記』。 そして、『陰陽府名籍』。 指先を、そっと這わせる。 使い込まれた和紙の毛羽立ちではない。下ろしたての奉書紙の滑らかに張り詰めた手触り。 上質な墨の匂い。そして、微かな|伽羅《きゃら》の薫り。 私は、その数冊を抜き出して自室へと持ち帰った。 * 文机に『陰陽府名籍』を据える。 小夜が運んできた白湯の湯気越しに、表紙の「府」の一字を指の腹でなぞった。 六つの時、蔵の底で『西国風土記』と『陰陽寮秘録』の写しとを読み比べ、この世の歴史が孕む齟齬に気づいた。 あれから四年。 蔵に眠る|公《おおやけ》の書付を読み解き続け。いま、当時の推論の裏が取れた。 「……答えは推して知るべし、か」 外界から閉ざされたはずの村の蔵に、なぜ公儀の秘事に触れるような刷り立ての書物が転がっているのか。 篝火が夜ごと奥座敷でもてなしている都の上つ方。その者らが置き捨てていった切れ端であろう。 竹中の家が、国の臓腑と|泥濘《ぬかるみ》のごとく深く絡み合っている何よりの証。 だが、その不用心な|傲《おご》りこそが、またとない命綱となる。 行灯の熱に炙られて、伽羅がほのかに立ち昇った。 (……都の上つ方の匂い、か) 「若様。また、難しい御本ですか」 傍らに畏まっていた小夜が、遠慮がちに、けれど、もの珍しさを隠しきれぬ目で手元を覗き込んできた。 私は名籍を膝に置き、小夜へ向き直る。 「……そうだな。小夜、一つ、賭けを
Last Updated: 2026-10-08
Chapter: 【八歳:焼印の慈悲と共犯の傷】 〜焼印〜 目の前に横たわる小夜を見やる。 右腕は肉の奥まで焼け抉れ、絶え間なく引き攣れていた。 (このままでは……死ぬ) 体の水が涸れるか。 痛みに、心の臓が潰れるか。 火傷で人がいかに死ぬか、書物の上でしか知らぬ。 医者では、ないのだ。 おのれの小さな両手が震えていた。 桶を引っ掴み勝手場へ走る。 塩と、砂糖。 壺ごと鷲掴みにして量も計らず水へ放り込み、白く濁るまでかき混ぜた。 ただの水は弱り果てた体を素通りする。 塩と、甘み。 前世の書物の隅で読んだ覚えに|縋《すが》る。 「飲め、小夜。……頼む、飲んでくれ」 気を失ったままの顔を僅かに上向かせる。 流し込んではならぬ。眠る者の喉へ水を注げば息の道へ落ち、それだけで死ぬ。 逸る手を抑えつけ、濁り水を含ませた布で少しずつ唇を湿らせてゆく。 どれほどそうしていたか。ようやく布を持つ手が止まる。 焼け爛れた腕からは、依然として透いた汁が滴り続けている。 (次は……次は、何だ) 『呪禁医療覚書』――傷の部。火傷の手当て。 記憶の頁を爪を立てるようにして手繰り寄せる。 かねて取り置いていた痛みを散らす|曼荼羅華《まんだらげ》の葉を握りしめ、身を屈めた。 葉をおのれの口へ放り込み奥歯で潰す。苦味で舌の根が痺れだす。 書のいずれの頁にも記されていなかった苦みと臭気。 毒草なのだ。量を誤れば小夜は死ぬ。 (正気か……私は) 唾と混ざった緑の塊を掌に吐き出す。 腫れを引かせる薬草と練り合わせたものを塗り広げて、真新しい|晒《さらし》をきつく巻き縛り上げた。 傷が膿み腐るのを防ぐ、せめてもの手当。 あとは、この娘の生きようとする力に懸けるほかなかった。 * 夕暮れ。 部屋には薬草の匂いと、その奥には薄く死の臭いが沈んでいた。 布団に横たわる小さな体は、尋常ならざる熱を発し、呼吸は浅く、ひゅう、ひゅうと隙間風めいた音を立てている。 「……わか、さま……あつい……」 どこも見ていない目で、うわ言をこぼす。 「……い……てるの、あたし……」 「生きている。……死なせは、せぬ」 汲みたての井戸水で絞った手拭いで額を拭い、左の手を強く握
Last Updated: 2026-10-04