Se connecter怪異を解体し続けた老学者は、転生した先で――本物に出会った。 この物語は、予告するべきではない。 神秘とは、解き明かされた瞬間に死ぬからである。 ――生涯をかけて怪異を解体し続けた、民俗学者・木崎数史郎。 八十八年の退屈の果てに息を引き取った彼が、次に目を開けたとき。 そこは、異界であった。
Voir plus死とは、古い和紙を一枚、また一枚と剥がしてゆくのに似ていた。
視覚。聴覚。触覚。 世界と私とを繋いでいた感覚の膜が、音もなく剥がれ落ちてゆく。 * 平成十二年、雨の、匂いがした。 降ってなど、おらぬのに。泥と苔の湿った匂いが、岩肌から染み出している。 背後で、小夜が提灯を掲げ直す気配がした。 娘の手が震えているのは、灯の輪が小刻みに揺れていることで知れた。 その頼りない光が、岩の上に蹲る白い影を、闇から切り出している。 白装束の裾からは、ぽたり、ぽたりと、何かが滴り、岩肌を濡らしていた。 見上げれば。しなびた腰から下へ、赤い筋が幾条も垂れている。 ——血。 難産の末に世を去った女は、腰から下が血に濡れている。 産女の伝承は、どの土地でもそう語る。 だが、頭の片隅で何かが引っかかった。 死んで久しい者の血が、なぜ今も乾かず、涸れもせず、滴り続けるのか。 ぐるり、と。 女の首が。真後ろへ捩じれ向いた。 肩も、胴も、微動だにせず。 人の首の骨組みでは、あり得ぬ回りようだった。 白く濁った双眸が、正面から私を捉えている。 「逃げろ、小夜っ」 叫んだときには、白い巨体はすでに岩を蹴っていた。 風を裂く音を聞いた次の刹那、右肩を抉られていた。 地に叩きつけられ、泥の冷たさが背に広がる。 痛みより先に、灼けた鉄でも押し当てられたような熱だけが、肩から指の先まで走り抜けた。 着物ごと肉が裂かれたのだと呑み込めたのは、血飛沫の鉄臭さが鼻に届いてからである。 「――若様っ」 小夜の悲鳴が、ひどく遠くに聞こえた。 頭上で、化け物が身を翻す。 その拍子に、ぼたり、と。黒い何かが、肩に落ちた。 冷たい。そのうえ、生臭い。 (……これは) ——人の、髪。 脂を吸うて束になり、蛇のようなぬめりを帯びている。 そのひと房が、ひとりでに鎌首をもたげ、私の右腕に巻きついた。 「……重いっ」 口に出してから、おのれの言葉の異様さに気づく。 髪ひと房の重さなど、高々数匁のはずだ。 それが、腕を上げることすら許さない。 まるで見えぬ何かが、この一筋を足場に、次から次へと積み重なってくるかのようだった。 膝が泥に沈む。 踏み堪える力が、腿から抜けてゆく。 化け物は、宙に留まったままだった。 翼も持たぬくせに、白装束の巨体は夜気の中に
「お……おお……」 「ねんねん……ころりよ……」 唄だ。 ——子守唄。 いつからか、あれほど耳の奥を掻いていた羽音が、絶えている。 虫の音もない。 音の死んだ闇に、唄だけが通っていた。 「……小夜、提灯を」 私は足を止め、受け取った提灯を、声のする方へ掲げていく。 その時。 「……お願いでございます。その提灯、こちらへ向けるのは、お止めくださいませね、ね」 岩陰の奥から、女の声。 若いが、疲れている。 そして、どこか人懐こい。湿った声であった。 私は、掲げかけた提灯を、宙に留めた。 背後で小夜が、肩を震わせている。 「わ……若様、誰か――」 左手を後ろへ回し、その口を軽く押さえた。 「……静かに」 掌の下で、小夜がゆっくりと頷く。 「あい、すみませんねえ。明るいものは、赤子の目に障りますもので」 ――赤子。 耳を、澄ませる。 岩陰の奥から、ごく微かにだが聞こえた。 泣き声ではない。 吐息にもなりきれぬような、か細い音。 (……生きてはいる) 私は提灯をゆっくりと下ろし、小夜の手へと返した。 「……灯りは、低く。足元だけを照らすように」 そして空いた右手を、腰の鉈に添える。 「ご親切に。ありがとうございます」 女が、礼を言った。 妙に、行き届いた物言いであった。 「……何用か」 短く応じる。 「何、と申されましても」 女が、小さく笑った。 「こんな夜更けに。お若い方がどちらへ行かれるのかと。心配で、つい、お声をかけてしまいましたの」 「……村の、赤子を探している」 「まあ」 女の返事が。ひと呼吸、遅れた。 「それは、それは。ご立派なことで」 「あちきも、赤子を、探しておりますの」 (……遊里の物言いに、どこか在所訛りも、混じっている) 「もう、ずいぶんと、長うございますけれど。難産でしてねえ。産婆さんが、ねえ。もう駄目だと言うのを、あちきは、お腹を押さえて、泣いて、ねえ。縋って。……赤子が生きて出てくれれば、あちきの命は、どうなっても構いませぬ、と」 小夜の息が、浅くなってゆく。
私が十二歳となった、初夏のことである。 事の起こりは、どこの農村にもある、ほんの油断であった。 ――後になって、私が聞き集めた限りでは。 村の西外れ、水気を含んだ藪の口で、若い母親タネが薬草を摘んでいた。 籠に寝かせた赤子を木陰に置き、ほんの寸刻、目を離した。 風のない、蒸し暑い昼下がり。 戻ったとき、木陰には空の籠だけが残されていた。 すぐ傍にいたはずのタネの耳には、泣き声ひとつ、獣の足音ひとつ、届いていない。 まるで、初めから赤子などいなかったかのように。 ぽっかりと、穴のような静けさだけが残されていた。 タネは、半狂乱で村へ走った。 幾度も転び、爪を割り、血の滲む手で土を掴んでは、起き上がり、また走った。 急を聞いた村の男らが、鎌や棒を手に、藪の口までは出た。 だが、誰ひとり奥へは踏み込まず。 名を呼ぶでもなく、形ばかりに草の先を叩き、日が西へ傾きはじめると、一人、また一人と、黙って引き上げていった。 そして、日暮れ。 村は、動かなくなった。 「日が暮れる。門を閉めろ」 村長の声が、すべてであった。 ——この村の掟。 日の落ちた山へ入った者は還らぬ。 赤子ひとつの命と、村ひとつの命。量り比べるまでもない。 重い木門に、閂の落ちる音がした。 その音は、女の耳に、棺の蓋の閉まる音と聞こえたであろう。 タネは、門の内に取り残された。 我が子だけを、夜の側に残して。 「開けて……開けて、くだされえ……っ」 固く閉ざされた門に取りすがり、喉も裂けよと叫ぶ。 誰も、動かない。 恐れに、縛られて。 絶望した女が最後に向かったのは、おのれの家ではなかった。 村でもっとも忌まれ、もっとも恐れられている場所。 ——竹中の、屋敷であった。 * 「お願いです、篝火様、当主様……どうか、どうか、お助けくださいませ」 日の落ちきった門前で、タネは、冷たい地面に額を打ち付けていた。 何度も。 何度も。 額が割れ、血が滴っても、なお。 「あの子はまだ、乳の香も抜けぬ赤子にございます。朝を待たずに息が止まってしまいます。どうか
「ならば、ここからが本題だ」 名籍の最初の頁。 その最上段に、指を滑らせる。 「この、一番上の字が読めるか」 「えっ、えっと……じゅう……てん」 「よい。十天、と読む」 「じっ、てん」 「陰陽府の頂きに座する、十人の長。それを束ねて、こう呼ぶ。ここがな、面白い」 「?」 「この府は、家柄を見ぬ。才ひとつあらば生まれは問わぬと。堂々と書いてある」 小夜が、また、火傷を隠すように袖口を押さえた。 私は、気づかぬふりをする。 「中でも、上の三人――」 指先を、名の上で、三人ぶん、滑らせる。 「上三天は、別格とある。一に、源頼光。二に、芦屋道満。三に、藤原秀郷――」 指が、止まった。 背筋を、冷たいものが、走り抜ける。 「あっ」 声を上げたのは、私ではなかった。 「若様、その『よりみつ』って人……」 小夜が、膝立ちになって名籍を覗き込む。 「……知っているのか」 「村のおばばが、昔話で教えてくれたことがありますっ。悪い鬼を退治した、強いお侍さん。鬼の親分を、やっつけた人ですよねっ」 まじまじと、小夜の顔を見つめる。 この娘は、おのれが何を言ったのか、わかっていない。 わからぬまま、組み上がりかけていた見立ての、最後の歯車を、かちり、と噛み合わせたのだ。 「……小夜」 「は、はい」 「賭けは、お前の勝ちだ」 「え……」 「金平糖を、十粒つけてやろう」 「じ、じゅうっ」 小夜は両目を丸くして、慌てて首を振った。 「え、えっ、なんでですかっ。あたし、外したのに」 「ああ、外した。だが、いまの一言が……十粒分の働きをしたのだ」 私は名籍を閉じ、その表紙に掌を重ねた。 ――源頼光。芦屋道満。藤原秀郷。 いずれも、いまより数百年の昔。平安の世の武将と陰陽師である。 とうに墓の下で骨と化しているはずの英雄たちが、なぜ、刷り立ての名簿に肩を並べておるのか。 足元の床が、すう、と薄くなるような目眩がした。 目を細め、行灯の火を睨みつけながら、考えを巡らせる。





