LOGIN怪異を解体し続けた老学者は、転生した先で――本物に出会った。 この物語は、予告するべきではない。 神秘とは、解き明かされた瞬間に死ぬからである。 ――生涯をかけて怪異を解体し続けた、民俗学者・木崎数史郎。 八十八年の退屈の果てに息を引き取った彼が、次に目を開けたとき。 そこは、異界であった。
View More死とは、古い和紙を一枚、また一枚と剥がしてゆくのに似ていた。
視覚。聴覚。触覚。 世界と私とを繋いでいた感覚の膜が、音もなく剥がれ落ちてゆく。 * 平成十二年、その言葉の真意を解そうとした――まさに、その時。 ――ズルリ。 雨戸の、向こう。 先ほどまで覗き込もうとしていた、板一枚隔てた、すぐ側で。 重いものが、板を擦りながら這っていく音がした。 風では、ない。 獣の足音でも、ない。 濡れた雑巾の束を引きずるような、摩擦の音。 ズルリ……ズルリ。 その『何か』は、ゆっくりと縁側に沿って動いていく。 そして、私が覗こうとしていた節穴の真正面で。 ぴたり、と、止まった。 ヒュッ、と、ササメの喉から、息の漏れる音が鳴る。 姉は私の頭を胸に抱え込み、亀のように床へ|蹲《うずくま》った。 肋骨が軋むほどの鼓動が、私の背に直に響く。 スゥー……スゥー……。 ――聞こえた。 節穴の向こうから、空気を吸い込む音。 ただの呼吸ではない。 獲物を品定めするような、吸う音。 私の鼻にも、その穴を通って匂いが届く。 古井戸の腐れ水のような。 そして、噎せ返るほど甘い、線香の匂い。 ――ガリッ。 不意に、雨戸を鋭いもので引っ掻く音。 心の臓が跳ね上がる。 板一枚はさんで、得体の知れぬ何かがいる。 ポタッ、と、一滴。 黒々とした鼻血が、ササメの手の甲へ落ちた。 育ちきらぬ頭が、限界を訴えたのだろう。 (姉上は……気づいて、いない) 永遠とも思える、息を止めた数瞬。 ――やがて。 ズルリ……ズルリ……。 気配が、動いた。 重い腹を引きずる音が、少しずつ遠ざかっていく。 だが――間を置いて、ズルリ、と、また一度。 まるで、こちらの様子を窺うような。 あるいは、名残惜しそうに立ち去りかねているような。 息を止めたまま、幾つ数えただろう。 十を数え、二十を数え。 やがて、音は完全に途絶えた。 それでも、私の口を塞いだ両手は白くなるほどに押しつけられたまま。 「……あえうえ」 かすかにもがくと、姉は慌てて力を緩めた。 堰を切ったような、深い息が漏れる。 「……行った……。もう、いない……」 ササメはその場にへたり込み、震える手で顔を覆った。 指の隙間から、こらえきれぬ嗚咽が漏れ出す。 「怖かったぁ……。うぅ、怖かったよぉ……」 私は呆然と、その横顔
その戦慄を胸の奥深くに秘めたまま、私は二年の歳月を生きた。 観れども、声には出さず。 思えども、面には出さず。 乳を含み、湯に浸かり、襁褓を替えられながら――私はただ、この家の輪郭を描き上げていった。 そして。 この体も、ようやく二本の足で立つことを覚えつつあった。 * 私に与えられた名は、「半兵衛」という。 竹中 半兵衛。 初めてその名の音と文字の連なりとを解した時。 揺り籠の中で、戦慄と苦い笑いを抑えられなかった。 ただの、偶然か。 生き延びるための策を企てねばならぬというに、よりにもよって、この名とは。 だが今は、名のことよりも考えねばならぬことがあった。 私を取り巻く、この屋敷に住まう人の有り様について。 ——ある日のことだ。 私は廊下で転び、膝から血を流した。 通りかかった奉公人の厳蔵は、うつろな目で一瞥をくれただけで、無言のまま通り過ぎた。 次いで現れた母・篝火は、私の流す血よりも床板に落ちた染みを不快そうに見下ろし。 『すぐに、拭き清めなさい。神聖な屋敷が、穢れます』 二歳の私に向かって、そう言い残し、去っていった。 ただ一人。 篝火の目を盗み小走りに駆け寄って、傷口に小さな袖を押し当ててくれたのは。 四つになる姉、ササメであった。 竹中 ササメ。 この娘だけが狂った中に於いて唯一、人らしい揺らぎを残しているように見えた。 しかし。 その揺らぎすらも、多分に歪みを含んだものではあったが。 昼の姉は四つの童とは到底思えぬほどに自らを律し、まるで篝火の写しのように振る舞う。 なのに、私が覚束かぬ足取りで暗い廊下を行くと。 ササメはいつも小走りに寄ってきて、こう言うのだ。 『半兵衛、あぶないよ。こっち』 私が転ばぬよう、その手を柔らかく握る。 小さな掌から伝わる、その温みだけが――この屋敷で人がまだ人である、ただ一つの確かな印であった。 * 深夜。 私は重い木綿の布団を跳ね除け、目を覚ました。 竹中の屋敷は夜になると、その貌を変える。 昼のあいだは、奉公人た
泣き喚く声が、自分のものとは思えぬほど遠くに響いていた。 鉛のように重い瞼を、辛うじて押し上げる。 ――古風な、日本家屋の天井板であった。 だが、何かが違う。 木目が黒ずみ、異常なほどの湿気を吸って膨張していた。 皮膚の表面には絶えずじっとりとした水滴が結露している。 身体は分厚い布に幾重にも包まれ、手足の自由が全く利かない。 己が今、無力な赤子という器に収まっているのだと本能が理解する。 拘束衣にも似た産着の中で身じろぎ一つできぬ無力感は、精神が大人であるがゆえに、かえって焦燥を煽り立てた。 ふと、視界の端が翳る。 天井の薄暗い木目を遮るように、女が覗き込んできた。 先ほどの声の主だろうか。 その見下ろす眼差しに、我が子の誕生を慈しむような光は感じられなかった。 ――なるほど。予備、か。 脳裏に、冷ややかな諦観が通り過ぎる。 この美しくも空虚な女の瞳を見た瞬間、私は産声を上げることを放棄し、ピタリと口を閉ざす。 ここで己の存在を不用意に主張すれば、私を予備と断じたこの女に「不要なもの」として処分されかねぬ。 代わりに、微かに動く眼球だけを必死に巡らせ、この場の情報収集に努めた。 部屋の調度品、行灯の形状、女の着物の様式は、江戸時代後期のそれに酷似していた。 文明は、少なくとも現代の科学が支配する世界ではないのだろう。 ――視線を、ずらす。 部屋を仕切る重たい襖が視界に入った。 染め抜かれた、家紋。 それを見た瞬間、私の眼は釘付けとなった。 六角形の雪の結晶の中に、笹の葉があしらわれた意匠。 紋章学的に分類するならば、「雪輪に笹」と呼ばれる風流な家紋である。 雪の結晶は豊穣の兆しであり、笹は冬の寒さにも耐える生命力を表す。 一般的な武家や商家であれば、縁起物として好んで用いるだろう。 だが、人生の大半を怪異の解明に費やしてきた眼が、その装飾に潜む欺瞞を告発する。 違う。 雪輪などではない。 あの六角形は、自然界の雪の結晶にしては、線があまりにも有機的で、粘着質すぎる。 あれは――網、か。 そして、内側に描かれた笹の葉に見える鋭利な曲線。 恐らく植物の葉脈ではない。 獲
――無、では、なかった。 意識が切れたと思った、次の瞬間。 奇妙な浮遊の中に――私は、いた。 肉体は、ない。 視覚も、ない。 だが、私という核だけが。 冷たく透き通った虚無の中を溶けもせず漂っている。 脳が止まった後も、なお在る、この核とは何だ。 死してなお消えぬ意識の残滓か。 それとも魂と呼ぶべき何かか。 ならばここが、いわゆる霊界と呼ばれるもの、だろうか。 だが、宗教めいた飾りは一切なかった。 三途の川も、お花畑もない。 あるのは、途方もない量の何かが流れ渦巻く、その奔流のみ。 地鳴りのような音が四方八方から響き、光の粒が明滅しながら川のように流れていく。 誰かの、記憶。 未練。 歴史の、断片。 柳田の常民概念に通底するような、『集合的無意識』の海。 その概念に、極めて近かった。 私は奔流に呑まれまいと、必死に自己の輪郭を保つ。 この無機質な流れに溶け、モノへと還元されるなど、あってはならぬ。 ——私は、木崎数史郎だ。 まだ何一つ、満たされていない。 その時。 奇妙な匂いが、漂う。 思わず、在るはずのない鼻がひくつく。 それは生前、いかなる採訪でも、ついぞ嗅げなかった匂い。 濃い、獣の臭気。 鉄錆のような、血の匂い。 そして、もっと根の深い、培ってきた理を真っ向から拒む、知り得ぬものの香り。 ――いるのか。 魂が、歓喜に震えた。 探し求め、殺し尽くし、それでもなお出会えなかった『本物』が。 ズズッ。 不意に、凄まじい引きの力を感じた。 虚無の底の、底から。 何かが私を選び、手繰り寄せている。 まるで底知れぬ巨大な何かが、私の匂いを嗅ぎつけ、ねっとりと舌を這わせ、すくい上げようとするかのような。 離せ――いや。 離すな。 私は、矛盾した叫びを上げた。 だが、抗う力など端から意味をなさなかった。 引きずり込まれる。 ぐるぐると回りながら、堕ちていく。 堕ちていく、その最中。 一瞬だけ、何かを見た。 闇の奥に広がる、いびつな紋様を。 六角。 いや、あれは。 網、か。 世