「いい子で待っててね」今回ヤマトは聞き分け良く、木の下に寝そべった。「大丈夫そうじゃないですか?」ヤマトの様子を見て里中が声をかけてきた。「はい、ありがとうございます」里中は目の前のガラス張りのドアを開けると荷台を部屋に入れて千尋を招いた。「さ、どうぞ」「お邪魔いたします」 リハビリステーションは大きな掃き出し窓があり、とても広い部屋であった。スタッフは殆どが男性で、女性の姿は数名だったが全員里中より年上に見えた。ここにいる患者の殆どは老人ばかりで、マッサージや歩行訓練を受けている。「実は俺が一番下っ端なんですよね。毎日先輩たちに駄目だし食らってますよ。でも、お年寄りの人達にマッサージをしてお礼を言って貰えると、ああこの仕事をして良かったなって思うんですよ」その時、年老いた女性が声をかけてきた。「まあ。随分可愛らしい女の子ねえ。裕ちゃんの彼女かい?」「え? あの、私は……」「うわ! 山本さん、何てこと言うんですか! この人はお花屋さんですよ!」里中は慌てて否定する。「あらそうなの? ごめんなさいねえ。勘違いしちゃって」「初めまして、青山千尋です。今日からここのお花を生けに来ました」千尋は女性に挨拶をした。「よろしくね。綺麗なお花楽しみにしてるわ」女性が去ると、不意に背後から声をかけられた。「貴女が青山さんですか?」振り向くと30代半ばと思しき男性が立っている。「あ、主任。そうです。この人が『フロリナ』のお店から来た青山さんです」「初めまして、青山千尋と申します。これからどうぞよろしくお願いいたします」里中に紹介されて、千尋は会釈した。「よろしく、私がここの主任をしている野口です。メールでもお伝えしていましたが受付のカウンターに花の飾りつけをして頂きたいのです。花瓶はこちらで用意してありますので、後はお任せします」「はい、大丈夫です」「ほら、里中。いつまで突っ立ってるんだ? 早く仕事に戻れ。患者が待ってるだろう?」野口は未だに側にいる里中に注意した。「あ、すみません! それじゃ青山さん、失礼します!」「いえ、ありがとうございました。里中さんのお陰で助かりました」「それじゃ、また!」里中が去ると、千尋はヤマトのことを思い出した。(そうだ、ヤマトを連れてきている事を改めて言わなくちゃ)「すみません、実
今日は水曜日、彼女に会える日だ。そう思うと自然に顔が緩んでしまう。正に一目惚れだった。あの日、初めて会ったその場で恋に落ちてしまった。長い黒髪、ぱっちりと大きな二重瞼に愛らしい口元。強く抱きしめると折れてしまいそうな小柄で華奢な身体は庇護欲をそそられる。笑顔も眩しくて、何もかもが愛おしい。鈴の鳴るような透き通った声で自分の名前を呼んで欲しい……。****「おい、里中。今朝は何だか楽しそうだな」里中はロッカールームで2年先輩に当たる近藤に突然声をかけられた。「え? 急にどうしたんですか? 先輩」里中は驚いて振り向いた。「お前さっき鼻歌、歌ってたぞ」近藤は呆れたように言った。「え? マジすか?」「何だよー無自覚で歌ってたのか? どうせ、あれだろ? 今日は花屋のあの子が来る日だもんな?」「ななな、なに言ってるんですか! 先輩!」「お前な~バレバレなんだよ。分かりやすいったらないぜ」「ま、まさか……鈍い先輩にもバレているんなら、他の人達にも……」「だ・れ・が・鈍いって」近藤は里中の頭をこずいた。「まあ、あのリハビリステーションにいる人間なら皆気付いてるだろうな、患者さんだって気付いてる人も中にはいるし。里中は千尋ちゃんに片思い中だって」「う……で、でも苗字じゃなくて名前で呼ぶまでには進展したんですよ!」先月、里中はようやく千尋の事を名前で呼ばせて貰える仲になれたのである。「俺はとっくに名前で呼んでたけどなあ……。それに肝心の千尋ちゃんはお前の気持ちに全く気が付いてないみたいだけどな」「ぐ……そ、それは……」「お前なあ、千尋ちゃんの事好きなんだろ? あの様子じゃ、今のところ男の影は見えないようだけど、ぐずぐずしてると他の男に取られてしまうぞ? お前、それでもいいのか?」「え? 彼女を狙ってる男が他にも? まさか……先輩が……?」「ば~か、俺にはちゃんと彼女がいるよ。安心しな」「先輩! 彼女いたんすか?!」「何だよ。いちゃ悪いか? それより早く着替えて来いよ。遅刻するぞ!」近藤はロッカールームを出て行った。気付けばロッカールームに居るのは里中ただ1人だけである。「あ、やべっ! 急がないと!」里中は慌てて着替え始めた。****「それじゃ店長。そろそろ病院に行ってきますね」千尋は花の水やりをしている中島に声
「千尋さん、遅いですね……」里中はリハビリ器具の点検をしながら主任に問いかけた。「うん? 言われてみれば確かにそうだな」野口は本日リハビリを受ける患者のデータをチェックしながら返答する。「連絡は来ていないんですか?」「来てないなあ。珍しいこともあるもんだ」「何かあったんじゃないですかね?」里中はそわそわしながら時計を見ている。「今、こちらから連絡してみるか」「え? 主任! 千尋さんの連絡先知ってるんですか!?」「青山さんがここに初めて来たときにお互いの連絡先は交換しておいたんだ。花屋経由で連絡取り合うのは手間だしな」それがどうしたと言わんばかりの野口の言葉に里中は少しばかりショックを受けて固まってしまった。「里中、勘違いしてるかもしれないが、あくまで彼女と連絡先を交換したのは業務連絡を取り合う為だからな? 大体、俺は結婚だってしてるし子供もいる」「う……俺も業務連絡でも何でもいいから連絡先交換したい……」小声で言ったつもりだが、ばっちり野口の耳に入っている。里中のぼやきを聞かなかったフリをして野口は千尋の携帯に電話をかけたが、一向に出る気配が無いので電話を切った。「どうでしたか?」「駄目だ、電話に出ない」「主任! フロリナにも電話してみましょうよ!」「お前心配し過ぎなんじゃないのか? ひょっとして今日は五十日だし、この病院周辺で道路工事していて片側一車線になっている区域があるから渋滞に巻き込まれてるだけかもしれないじゃないか。今のところ、まだせいぜい30分程度の遅れなんだから、もう少し様子を見よう。ほら、そんなことより仕事仕事!」「はい……」里中は渋々持ち場へ戻って行った――**** 千尋がようやく病院に着いたのは普段よりも30分以上経過していた。駐車場に車を停め、携帯電話を取り出した。「今病院に着いた事、野口さんに連絡入れなくちゃ……え? リハビリステーションから着信がある!」慌てて千尋は電話をかけた。『はい、リハビリステーションです』受話器越しに野口の声が聞こえた。「いつもお世話になっております。青山です、申し訳ございません。渋滞に巻き込まれて連絡を入れるのがすっかり遅くなってしまいました」『ああ、やはり渋滞に巻き込まれていたんですね。いえ、こちらなら大丈夫なので慌てず来てください』「ありがとうござい
「ではいつものように、こちらに名前を記入して下さい」千尋は通用口の守衛を務めている若い男性からボードを受け取ると、「フロリナ」と店名を記入して手渡した。「お願いします」「お花屋さんは土日もお店を開けてるんですよね?」守衛はボードを受け取りながら、千尋に尋ねた。「はい。土日は書き入れ時なので通常は仕事ですね」「定休日と言うのはあるんですか?」「いえ、特に定休日は無いですね。シフト制でお休みを入れてますけど? あの……それが何か?」今迄一度も個人的な話をした事が無かったので戸惑う千尋。「いえ。お花屋さんて結構重労働な仕事だから大変だろうなと少し興味を持っただけなので。どうぞ気になさらないで下さい。はい、こちらが入館証になります」「ありがとうございます」千尋は入館証を受け取ると、お辞儀をしてその場を後にした。****「お待たせ、ヤマト」駐車場のトラックの荷台に乗っていたヤマトの元へ戻り、荷物を降ろそうとした時。「ウオンッ!」ヤマトが一点を見つめて吠えた。「千尋さーん!!」里中が手を振りながら小走りでかけつけてきた。「里中さん? どうして此処に? まさか、私が遅いので迎えに来てくれたのですか?」「それもありますが、主任から千尋さんの荷物を運ぶの手伝って来るように言われたんですよ」「すみません……。私が遅刻したばかりにご迷惑を……」みるみる表情が曇る千尋。「クウーン…」ヤマトは心配そうに千尋を見つめている。「い、いや。そんなんじゃないっすよ! 俺が主任に千尋さんが遅いのをしつこく聞いたから……あ……」(ああ! 何言ってるんだ俺! これじゃ主任に言われて仕方なく迎えに来たと思われるじゃないか!)どんどん千尋がすまなそうに俯くのを見て、ますます里中は焦る。「千尋さん! 荷物全部俺が降ろしますよ! 俺、千尋さんを手伝いたくて来たんですから」照れ隠しをする為、わざと大きな声で言うと里中はテキパキとカートに荷物を降ろしていった。「ありがとうございます、助かります」千尋はにっこり微笑んだ。(うわあ……可愛いなあ……)里中は赤くなった顔を見られないようにくるりと背を向けた。「それじゃ、行きましょうか」「はい」二人と一匹は並んで歩き始めた時、里中は強い視線が自分に向けられているのを感じた。「!」里中は反射的に立ち止
「あ、何でも無いっす。俺のファンの子かな? 誰かに見つめられてる感じがしたんだけど気のせいだったみたいだな~なんて。ハハハ……」里中は千尋を心配させないようにわざと明るい声で言った。「そうなんですか? でも里中さんなら女の子の1人や2人、ファンがいそうですよね」「いや~。かつて女の子だった人達なら俺のファンがいるんですけどね……。あ、この話ここだけにしておいて下さいよ」里中が何を言わんとしてるか気づいた千尋はくすくす笑いながら頷いた。そんな2人の楽しそうな様子を陰からじっと覗いてた人物がいる。「くそ……あの男。俺の彼女に馴れ馴れしくしやがって……。彼女は俺の物なのに……! 大体、彼女も何なんだ? 俺という者がありながら、あんな軽薄そうな奴と親しくしやがって……!」男の顔は嫉妬で醜く歪み、その声は憎悪にまみれていた。「もっと彼女に俺の存在を自覚させないと……」男は低い声で呟くのだった——****「ただいま戻りましたー」約1時間後、千尋はフロリナに戻ってきた。「お帰りなさい、千尋ちゃん。今日は帰りが遅かったのねえ」パートの渡辺が花の手入れをしていた。「すみません、道路が渋滞だったので遅くなってしまったんです。あれ? 店長はどうしたんですか?」「それがね、今から1時間位前に薔薇の花のオーダーが入って急遽仕入れに行ったのよ」「そうなんですか? お店の薔薇じゃ足りない本数なんですか? 信じられない!」「いえ、そうじゃないのよ。すごく珍しい色の薔薇で、どうしても今日中に届けて欲しいって連絡が入ったの」「珍しいですね……それなら普通は完全に予約ですよね?」あの店長が無謀な注文を受けるのを千尋は信じられなかった。「ほら、先月うちの店から歩いて10分程離れた場所に新しい花屋がオープンしたじゃない? だからのんびり構えてられないって、時にはHPも使って営業していたんだって。そしたら今日突然メールで薔薇のオーダーが入って、もし手に入れる事が出来たら毎月定期的に依頼したいって書いてあったんですって」「それで店長は受けたんですね」「そう! しかもかなり上客らしいのよ。この客一人でもかなり毎月の売り上げがアップするかもって店長喜んでいたから」その時――「ただいま~!」店長の中島が鮮やかな青色の薔薇を大量に抱えて帰ってきた。「うわ! 店長、
「ええーっ! この青い薔薇、届け先は千尋ちゃんだったの!? 一体、何本あるんですか?」渡部が目を見開く。「それが……365本あるのよ」「「365本!?」」中島の言葉に2人は同時に声をあげた。「送り主は誰なんですか?」千尋は慌てて中島に尋ねる。「永久野 仁という人物なの。注文を受けた時におよその金額を言ったら、すぐに店の口座にお金が全額振り込まれてきたのよ」「うわっ怪しい! それに『とわのひとし?』って千尋ちゃん、知ってる相手?」「いいえ、そんな人知りません」渡辺の問いかけに千尋は否定する。「何か不気味よね……。青山さん、この薔薇どうする?」中島は不安げにしている千尋に声をかけた。「あの……すみませんが、怖くて受け取りたくありません。こちらの店に置いておいていただけますか?」「ええ、うちの店はちっとも構わないわよ」「ねえ、千尋ちゃん。顔が真っ青よ。お店の奥で少し休んでいたら?」 渡辺は千尋の顔が青ざめていることに気付いた。「はい……すみません……」千尋はノロノロと休憩室の椅子に座ると深いため息をついた。(一体誰があんなに大量な薔薇を? 名前だって全然思い当たらないし……気味が悪い……)そこへヤマトがやってきて足元に座り、千尋を見上げた。「ヤマト……」千尋はヤマトの首に腕を回して、しっかりと抱きしめた。「そうだよね、私にはヤマトがついてるもの。ヤマト……私に何かあったら守ってね」目を閉じて千尋はヤマトに囁いた。するとまるで人の言葉が分かってるかのようにヤマトはうなずいた。****—―18時今日は千尋の早番の日である。中島はお客の対応をしているので、切り花を仕分けしている渡辺に声をかけた。「お疲れさまでした。店長によろしく伝えておいてください」「お疲れ様、千尋ちゃん。ねえ、1人で大丈夫?」「大丈夫です。私にはヤマトがいますから」千尋はリードに繋がれたヤマトを見下ろした。「そうならいいけど……? あ、そうだ! ちょっと待ってね」渡辺は小走りで店の奥に戻るとすぐに紙袋を持って戻ってきた。「はい、これ。肉じゃが作ったから、持って行って家で食べて。タッパだけ、持って来てね」「いつもありがとうございます! 今度私も何か持ってきますね」笑顔でお礼を述べる千尋。「いいのいいの、気持ちだけで。それじゃ気をつけ
「や、やっと着いた……」荒い息を吐きながら千尋は玄関のドアアイから外の様子を伺ったが、誰もいない。いつもなら徒歩15分の距離なのに、今日はとても長く感じられた。「怖かった……」そんな千尋をヤマトはじっと見つめている。「はぁ……」千尋は息を吐くと家の中に入った。慎重に外の様子を伺いながら家中の雨戸をぴっちり締め、鍵をかける。いつもよりも念入りに千尋は戸締りをした。全ての部屋に鍵をかけると、千尋の心に少し安心感が芽生えてきた。「手を洗ってこなくちゃ……」洗面台に移動するとヤマトもついてくる。鏡を見ると青ざめた顔の自分が映っていた。「うわ……顔色悪い。今夜は栄養つけなくちゃ。ヤマトもお腹すいたでしょ? 今御飯あげるね」「ワオン!」ヤマトは嬉しそうに尻尾を振った——ドッグフードを容器に移し、水を置いたがヤマトは食べようとしない。じ~っと千尋を見つめている。「アハハ……私が食べるか心配してるの? 大丈夫、ちゃんと食べるからヤマトも食べて」その言葉を聞くと安心したのか、ヤマトは餌を食べ始めた。千尋はヤマトが餌を食べるのを見届けてから、自分の夕食の準備に取り掛かった。「は~本当は今日スーパーで買い物して帰りたかったんだけどな……。でも渡辺さんから肉じゃがもらったから、お味噌汁とサラダでも作ろうかな?」ブロッコリーを茹で、豆腐となめこの味噌汁を作り、冷凍焼きおにぎりを解凍して今夜の食事が完成した。時計を見ると19時を過ぎていた。「いただきます」手を合わせて貰い物の肉じゃがを早速口にしてみた。「美味しい!」渡辺の作った肉じゃがは甘みが少し強い味付けで、ほっこりとしたジャガイモによく味が馴染んでいた。「流石、渡辺さん。今度作り方教えて貰おうかな?」食事を終えると千尋は明日の朝食とお弁当の準備を始めた。お味噌汁用に青菜をざく切りにしてポリ袋に入れ、アスパラをベーコンで巻き、つまようじで差したものを数本用意する。「後はさっきのブロッコリーの残りに卵でも焼けばいいかな? そうだ! 渡辺さんにはしょっちゅうおかずを貰ってるから、たまには私から何か差し入れしてあげたいな。クッキーでも焼いて持っていこう!」千尋の趣味の一つにお菓子作りがある。祖父が健在だった頃はよくケーキを焼き、2人で仲良く食べていた。冷凍庫の中には作り置きしていたクッキー生地
風呂から上がると居間でヤマトが既に眠っている。千尋は冷蔵庫から缶チューハイを持ってくるとソファに座り、PCを開いてネット配信ドラマを見ながらお酒を飲んだ。記憶喪失になってしまった恋人を一途に思い続ける女性が主人公の物語である。「う~ん。まさか恋人の昔の彼女が出てくる展開になるとは思わなかったな……。面白い展開になってきたみたい」1話分を見終わると片づけをして自室に戻ってスマホの画面を開いた。「あ、店長と渡辺さんだ」二人からいずれも千尋を心配する内容のメッセージが届いていた。そこで帰りに後を付けられていた気配を感じたとメッセージを送り、部屋の電気を消して千尋は眠りについた——****ピピピピピ……目覚ましの音で千尋は目を覚ました。ベッドの側にはいつの間にかヤマトがうずくまって眠っている。「う~ん……」軽く伸びをすると着替えをし、雨戸を開けて太陽の光を取り込む。朝食とお弁当の準備をしているとヤマトが起きてきた。「おはようヤマト。御飯もう少し待っててね」手早くお弁当を詰め終え、餌と水を与えるとヤマトは夢中になって食べ始める。それを見届けると千尋も朝食を口に運んだ—— 家の戸締りをして玄関を開けた時、門に設置してある郵便受けから白い紙が覗いていた。取り出してみると、それは白い封筒だった。手にした途端、直感的に恐怖を感じてゾワッと身体が総毛立った。辺りをキョロキョロ見回しても人の気配は感じられない。すぐに封筒をカバンにしまい、玄関に鍵をかけるとヤマトを連れて千尋は急いで走り出した。(早く、人通りの多い通りまで出なくちゃ!)ハアハア息を切らしながら走り続け、いつの間にかヤマトに引っ張られて走る形となっていた。ようやく商店街へたどり着いた千尋は辺りを警戒しながら職場へと向かった。幸い、今日は遅番の日だったので中島が先に出勤していた。「どうしたの青山さん。そんなに息を切らしながら出勤してくるなんて。まだ時間に余裕があるのに」「おはようございます……実は今朝家のポストに手紙が入っていたのですが、何だか怖くて中を見ることが出来なくて。でも捨てるのも怖くて持って来てしまったんです」「いいわ、それなら私が手紙を開けてあげる。貸してくれる?」「……どうぞ」中島は手紙に鋏を入れて、中身を取り出した。「……」黙り込んでしまった中島が心配になり、
運ばれてきた料理を3人で食べると千尋は帰って行った。「今日は悪かったな? 今度は二人きりで食事出来るといいな?」職場に戻りながら近藤が里中に声をかける。「何言ってるんすか? 先輩が気を利かせてあの場から居なくなってしまえば二人で食事出来たのに」「ひっでえなあ、それが先輩に対する口の利き方かあ?」わざとお道化たように話す近藤を里中は苦笑いしながら見ていた。**** その後――千尋と渚は約束通り、二人が休みの日は色々な場所へと出掛けた。動物園、映画、遊園地、ドライブ……渚が行ってみたいと言っていたありとあらゆる場所へと足を運んだ。渚は始終楽し気にしていたが、何故か寂しげに見える姿が増えてきた。けれど千尋はそのことには一切触れなかった。(きっと時がたてば、渚君の方から話してくれるはず……)そう信じて疑わなかったのである。 ――2月のある日のこと「ねえ、渚君。今日はお休みでしょう? 私は仕事だけど何か予定あるの?」千尋が朝食を食べながら尋ねた。「え? うううん。特には無いよ。しいて言えば……家電製品でも見てこようかなと思ってる」「何か買いたい家電製品あるの?」「うん、ブレンダーかミキサーでもあれば便利かなって。あ、でも買うかどうかはまだ未定だけどね」「そうなんだ。良いのが見つかるといいね」「そうだね……」渚は曖昧に笑った。 仕事のない日はいつもそうしているように渚は千尋を店の前まで見送った。「それじゃ、仕事頑張ってね。今夜のメニュー楽しみにしておいてね」「ありがとう、それじゃまた後でね」千尋は笑顔で手を振ると通用口から店へ入っていく。その姿を見送ると渚は駅へ向かった——**** バスを乗り継ぎ、渚は市内一大きな総合病院の前に立っていた。千尋が編んでくれたマフラーで口元を隠し、帽子を目深に被ると渚は病院の中へと入って行った。渚は入院病棟に来ていた。辺りを見渡し、人がいないのを見計らうと個室の病室へと入って行く。その個室には若い男性が眠り続けていた。ベッドの柵に取り付けられているネーム札には年齢も名前も記入がされていない。「……」拳を握りしめ、黙ってその患者を見下ろしていると、こちらに向かって歩いてくる足音が聞こえた。「!」慌ててロッカールームに入って、隠れる。けれど足音は遠ざかって行った。入り口に耳を付け
それから暫くして千尋がリハビリステーションにやってきた。野口と新年の挨拶を交わしている。丁度手が空いていた里中は主任が去り、千尋が一人になると近づいた。「おはよう、千尋さん」「あ、おはようございます。里中さん、新年明けましておめでとうございます」千尋は頭を下げた。「あ、そうだったね。明けましておめでとう」里中も頭を下げた。「あの……千尋さん」「はい、何でしょう?」「実はこれなんだけど……」里中はポケットから紙袋を取り出した。「?」「俺、年末年始里帰りしていて千尋さんにお土産を買って来たんだ。もし良かったら受け取ってもらえないかな?」そして千尋に紙袋を手渡した。「私にですか?」里中は黙って頷いた。「今見ても?」「ど、どうぞ」中から出て来たのは色鮮やかなパワーストーンのブレスレットだった。千尋は目を見張った。「うわあ……綺麗。でも、こんな高価なもの頂くわけにはいきません」「あ、見た目は高そうに見えるけど、そんなんじゃないから。遠慮しないで受け取ってよ。ただのお土産なんだから」ハハハ……と笑うが、本当は気軽に渡せるような金額では無かった。(く~っ。今月は食費削らないとな……。だけど千尋さんの喜ぶ姿を見れたからいいか)「里中さん。お礼に今日のお昼ご飯、ここのレストランでご馳走させて下さい」「い、いや、何言ってるんっすか! 女の人に男がご馳走してもらなんて変ですって!」「でも、それじゃ私の気が済まないんです」千尋は食い下がる。(でも昼飯代浮くし、何より千尋さんと一緒に食べる事が出来るなら……)「それじゃ……よろしく」里中は照れくさそうに笑った——****「――で、何で先輩までここにいる訳ですか?」里中は面白くなさそうに近藤を見た。「まあまあ、そう言うなって。俺は先にここに来ていた、そしてお前たちがやってきた」近藤は得意げに言う。「はあ」里中は興味なさげに返事をする。「そして生憎、満席。けれど、俺が座っているテーブルは偶然にも2つ席が空いていた。そこで、二人をこの席に呼んだと言う訳だ」「ありがとうございます、近藤さんのお陰で席を確保する事が出来ました」千尋は嬉しそうに礼を述べる。「チエッ」里中は誰にも聞こえない様に小さな声で舌打ちをした。折角二人で食事が出来ると思ったのに、これでは何の意味も無
翌朝――渚と千尋は向かい合って朝食を食べていた。今朝の渚はいつもと全く変わりが無い様子だった。(一体、昨夜はなんだったのかな……?)「何? 千尋。さっきから僕のこと見てるけど」千尋の視線が気になったのか渚が話しかけてきた。「あ、何でもないの」「そう? 今朝の千尋はいつもと違う感じがするからさ」「あの……ね、渚君」「何?」「昨夜のことなんだけど……」「うん。あ、ごめんね。結局千尋に片付けさせちゃって」「すぐ眠れたの?」「勿論、日本酒を飲んだからかな~昨夜は眠たくてすぐに寝ちゃったよ」(やっぱり覚えていないんだ)千尋は心の中で思った。「え? 昨夜僕何かやっちゃった? 何も覚えていないんだけど……」「大丈夫、別に何も無かったから。ただ、今日から仕事初めだったから良く眠れたかなって思って」「千尋はよく寝れた?」「うん、寝たよ」本当は昨夜のことが気になって、あまり眠れなかったが伏せておいた。「ねえ、千尋」食後のコーヒーを飲みながら渚が尋ねてきた。「何?」「これからはさ、二人の休みが合う時は色々な場所へ一緒に出掛けたいんだ。駄目……かな?」「駄目なわけないじゃない。うん、一緒に出掛けよう」「良かった~。ありがとう」渚は子供の様に無邪気に笑みを浮かべた。そんな様子を千尋は黙って見つめていた――****「おはようございます!」千尋は元気よく出勤してきた。店には早番の中島と原が既に出勤している。「おはようございます。青山さん」ほうきで店の外掃除をしていた原が挨拶を返した。「おはよう、青山さん」切り花の世話をしていた中島も挨拶してくる。「青山さん、新年早々だけど今日は山手総合病院に行く日よね。道路の渋滞情報が出ていたから早めに出たほうがいいわよ」「ありがとうございます、それじゃ早めに準備して行きますね」****山手総合病院――患者のマッサージを終えた里中がポケットから小さな紙袋を取り出して、ため息をついた。「お? 里中、それ一体何だ?」近藤が目ざとく見つけ、背後から声をかけて来た。「べ、別に何でもないですよ」里中は顔を赤らめながら急いでポケットにしまおうとするが、近藤に奪われてしまう。「か、返してくださいよ!」「へえ~山梨県の土産の袋か。……そういや、お前の実家って山梨だったよな? 年末里帰りし
渚が仕込んだ味噌味の海鮮鍋は最高の味だった。「やっぱり渚君が作った料理は最高だね。流石調理師免許持ってるだけのことはあるね」千尋は鍋料理を笑顔で食べている。「ありがとう。千尋が選んだ日本酒も美味しいね~」「フッフッフッ。この日本酒はね、東北地方にある蔵元が作った日本酒なの。フルーティーで、とても日本酒とは思えない口当たりの良いお酒なんだよ。若い女性の間で大人気なんですって。だからついつい飲み過ぎちゃうんだけど」「ははは……。千尋は本当にお酒が好きなんだね。でも明日から仕事なんだからあまり飲み過ぎない方がいいよ?」「そうだね、また今度一緒に飲もうね。この先いつでも飲めるんだもの」「この先いつでも……か」一瞬渚の顔に影が差した。「どうしたの?」「ううん、何でもないよ。温かいうちに食べてしまおう?」 ****——食後「ほら、渚君はもう今夜は休んで」「でも片付けは僕がやるよ」「何言ってるの? 今日海で具合が悪くなったでしょう? 私がやるから大丈夫だってば」 食事が済んだあと、片付けをすると言って聞かない渚を千尋は無理に部屋に追いやった。渚は最後まで自分がやると言って聞かなかったが、やはり体調がまだ優れないのか最終的には千尋の言うことを聞いて部屋に戻って行った。「そうだ、どうせなら洗濯もしちゃおう」以前録画しておいたドラマを観ながら千尋は洗濯機を回した。 それから約1時間後、洗濯を干し終えた千尋が自分の部屋へ戻ろうとしたその時。「う……うう……」渚が使っている部屋から苦しそうな呻き声が聞こえてきた。「え? 渚君?」(もしかして具合でも悪いのかな?)「渚君、大丈夫?」声をかけてみたが返事は無い。それでも苦しそうな渚の声が聞こえる。「渚君、入るね」千尋は引き戸を開けた。中へ入ると渚はベッドの上で酷くうなされている。「渚君! しっかりして!」千尋は渚の枕元に行くと声をかけた。渚は苦しそうに寝言を言っている。「い……嫌だ……。助けて……」「渚君!」千尋は必死で渚を揺さぶった。その時である。「ハアッ……ハアッ……!」渚が突然目を開けて千尋を見た。そして一瞬泣きそうに顔を歪めるとベッドに横たわったまま千尋を腕の中に抱き込んだ。「キャアッ!」千尋は渚の身体の上に乗るような形になってしまった。「な、渚君……?
念の為にと持参していたシートに並んで座りながら二人は海を見ていた。真冬の海なので、人の姿はない。真っ青な水平線の海は青空の下、良く映えた。「渚君、冬の海って何だか綺麗に見えない?」風に吹かれた髪の毛を押さえながら千尋は渚に尋ねた。「そうだね。人もいないからゴミも無いし。だから余計に綺麗なんだろうね」「渚君の両親て、海が好きな人だったんじゃない? だって『渚』って名前付ける位なんだから」「さあ、どうなんだろう? 僕にはよく分からなくて……」渚は曖昧に返事をしたが、顔が強張っている。「渚君? どうしたの?」「え? 何が?」「何だか顔色が悪いみたいに見えるけど……?」「そんな事、無いよ……」渚は笑みを浮かべたが顔は青ざめている。「もしかして具合が悪いの? もう帰ろうか?」「うん……ごめんね。千尋」渚は何とか立ち上がったが足元がふらついている。「く……」額には汗が滲んでいた。「ねえ、渚君。無理しないで、少しここで休んでいこうよ?」すると渚は子供の様に頭を振った。「嫌だ……。この場所から離れたい……」「……分かった。それじゃ私に掴まって?」千尋は渚の大きな身体を何とか支えながら海から遠ざかっていく内に少しずつ渚の顔色が良くなってきた。****「大丈夫?」渚を休ませる為に近くのファストフード店に入ると千尋は心配して尋ねた。「ごめんね……千尋。折角二人で楽しもうと思ってたのに」「渚君……。ひょっとして……」海が怖いの? 千尋はそう尋ねたかったが、言葉を飲み込んだ。ようやく体調が良くなったのに、余計な話をして再び渚の体調を悪くさせるにはいけない。「何?」コーヒーの入った紙コップを手に渚は返事をした。「うううん、何でもない。コーヒー飲んだら帰りましょ?」「そうだね。明日からお互い仕事だしね。今夜の食事は何にしようかな……」「今夜も夜は冷えそうだから、お鍋なんてどう?」「それはいいねー。千尋はどんな鍋が好き?」「鍋料理は何でも好きだよ? 渚君は?」「それじゃ、今夜は海鮮鍋にしよう。帰りに駅前のスーパーで材料買って帰らないとね」 その後二人は再び電車を乗り継ぎ、地元スーパーで海鮮鍋の材料を買い込んで帰路に着いた——**** 二人で並んで台所に立ち、鍋の準備をしている。そんな渚を千尋は横目で見てみると、鼻
クリスマスも終わり、新しい年が始まった。千尋と渚は年末は家中の大掃除をし、新年は初詣に二人で出かけた後はお互い本を読んだり、カードやボードゲームで遊んだりと、好きなことをしてのんびり過ごした。そして休みの最終日――「ねえ、千尋。明日二人で一緒に出掛けない?」渚が外出を提案してきた。「うん、いいね。でも出掛けるって何処へ行くの?」「前に僕が千尋と行ってみたい場所を色々話したの、覚えてる?」「うん。覚えてるよ」「それじゃ、水族館に行ってみたいって話したことは?」「勿論、ちゃんと覚えてる」「早速行ってみようよ!」**** 電車を何本か乗り継ぎ、1時間以上時間をかけて二人は水族館にやってきた。この水族館は海沿いに建てられ、眺めも最高な場所にある。館内に入ると、中は子供の姿は殆ど見えず、若い男女のペアばかりだ。皆腕を組んだり、手を繋いでいる。「「……」」千尋と渚は顔を見合わせた。「手……繋ごうか?」渚が手を差し伸べてきたので千尋は遠慮がちに手を繋ぐと、渚は指を絡めてしっかりと握りしめてきた。千尋は驚いて渚の顔を見上げたが、渚は横を向いて目を合わせない。けれどその耳は赤く染まっている。なので千尋もキュッと握り返すと、渚がこちらを向いた。「行こうか? 渚君」二人で薄暗い館内を歩きはじめた。巨大な水槽が照らされて色鮮やかな熱帯魚の泳ぐ姿やエイが優雅に泳ぐ姿、大きな白熊や可愛らしいラッコ・ペンギン……それらを二人で見て回る。 最後にイルカやアシカのショーを観覧したところで、海沿いのカフェで二人でランチを食べることにした。千尋はクラブサンドセット、渚はハンバーガーのランチプレートをそれぞれ注文をした。 「楽しかった? 千尋」「うん、とっても楽しかった。水族館なんてもう随分昔に行ったきりだったから」「誰と一緒に行ったの?」「う~ん。高校生の時付き合ってた人だったかな? でもその人とはあまり長くは続かなかったんだけどね」「千尋、付き合ってた人いたの?」渚は驚いたように尋ねてきた。「う、うん……。そうだけど?」「そっかー。残念だなあ」「何が残念なの?」「僕が千尋の初めてのデート相手じゃなくて」「デート……? デート!?」(そっか、これって一応デートに入るんだ。ちっとも意識してなかった)「あれ? そう思ってたのは僕だけだっ
「千尋……怪我は無い?」「う、うん。大丈夫。」「良かった……」渚は千尋を思い切り強く抱きしめると安堵の息を吐いた。「な、渚君……もう大丈夫だから。は、離して……」「え?」その時、初めて渚は千尋を抱きしめているのに気が付いたのか、顔を真っ赤に染めて慌てて千尋を離した。「ご、ごめん……。千尋が心配になって、つい……」「い……いいよ。そんなこと気にしなくて……あ! 大変! 鍋が噴きこぼれそうだよ!」「うわ! ほんとだ!」渚は慌ててガス台に戻り、火を弱めて料理に続きを始めた。その姿を見ていた千尋の心臓はドキドキいってる。(びっくりした……。まだ渚君の匂いが残ってる気がする……) パスタも出来上がり、テーブルの上には他にサラダとチキンが並べられた。ケーキは食後にと冷蔵庫に冷やしてある。椅子に座ろうとすると、渚が話しかけてきた。「そうだ! いいものがあるんだ」そう言うと席を立ち、大きな紙袋を持って戻ってきた。「なあに? それ?」「ほら、小さいけどクリスマスツリー買って来たよ」それはテーブルの上の乗りそうな小さなクリスマスツリーだった。「わあ。可愛い」千尋が喜ぶと更に渚は言った。「まだあるよ。はい、クリスマスプレゼント。…気に入るかなぁ?」渚は小さなラッピングされた袋を手渡した。「え? 私に?」千尋が中を開けてみるとそれは可愛らしい犬のデザインのネックレスだった。「犬の……」「うん、千尋は犬が好きなんだよね? だから探して買ってみたんだ。つけてあげるよ」渚は千尋の背後にまわり、ネックレスをつけると鏡を見せた。「良く似合ってるよ、千尋。すごく綺麗だよ」熱を帯びた渚の話し方に胸の鼓動が高鳴る。「あ、ありがとう」何とか、それだけを必死に言った。「実は私からもプレゼントがあるの」千尋は足元に置いておいた紙袋を渚に手渡した。「開けていいの?」渚の問いに千尋は黙って頷いた。「これは……」そこに入っていたのはダークグリーンのマフラーだった。「もしかして手編み?」「お店の休憩中に毎日、ちょっとずつ……ね。気に入ってくれるといいけど」渚はマフラーを巻き付けると笑顔を向けた。「勿論だよ! 僕の一生の宝物だよ」「一生だなんて、大げさだよ」「僕がどれほど今幸せか…言葉では言い表せない位だよ。ありがとう、千尋」その後、
「うわ……ほんとだ。俺とタメかよ。なら敬語なんていらないな?」里中は少しだけ口元に笑みを浮かべた。「うん……? それにしても何だかここに写ってる写真と、今のお前雰囲気が違う気がするな」顔の作りは全く同じだが、目の前にいる渚は終始笑顔で人懐こい印象がある。一方免許証に写る渚の顔はどことなく目つきが鋭く、やさぐれた印象を与える。「僕は写真に写ると、少しイメージが変わるんだよね」渚は免許証をひったくるように里中の手から取り上げた。「それじゃ、そろそろ僕は帰るね。冷蔵庫にヨーグルトとイオン飲料を入れておいたから良かったら飲んで。あ、それから冷凍食品も幾つか買ってあるよ」「そんなに買ってきてくれたのか。悪い、今金を……」「あーそんなの大丈夫だから。お金は近藤さんから貰ってあるから。本当、いい人だよね。近藤さんて」「ああ…お前もな」「いいんだよ、気にしないで。あ、それから今夜のクリスマスパーティーも中止にしたよ」「え? どうして?」里中は首を傾げた。「千尋が言ったんだ。折角のクリスマスパーティ、里中さんが一人出席できないのは気の毒だから今回はパーティーに参加しないって言ったら、その流れで中止になったんだよ」「! そんな、俺一人のせいで……。ほんと、俺って駄目だな。お前にも変な嫉妬心なんか持って……」「里中さんはすごくいい人だと僕は思うよ。職場での評判すごくいいんだってね。お年寄りの患者さん達をすごく大切にしてくれてるって。だから……僕も思ったんだ。この先、僕にもしものことがあったら……千尋のことよろしくね」渚の顔に影が落ちる。「お前、またそんなこと言って……。一体どういう意味なんだよ」「別に、言葉通りの意味だよ。僕はずっと千尋の側にいる事は出来ないんだ。でも、この話は絶対に千尋にはしないでね? 心配させたくないから」「だから、どうして千尋さんの側にずっといられないって言うんだ?」納得できず、里中は追及する。(こいつ……何て顔してるんだよ。でもこれじゃ、無理に聞けないな)「分かったよ。俺もこれ以上聞かない、約束する」すると、渚の顔にほっとした表情が浮かんだ。「ありがとう、じゃあ帰るよ。ちゃんと休まないと風邪治らないからね?」「ああ、分かってるよ。サンキューな」渚は玄関のドアを開けて出て行った。里中は渚が出て行くのを見届けると再
こんなはずじゃなかったのに——クリスマスイブ、里中は高熱を出してワンルームマンションの自分の部屋で寝込んでいた。「くっそ……頭がズキズキする………」前日の夜、クリスマスパーティーのことを考えると興奮して眠れなかった里中。コンビニで買って来た度数の強いアルコールを部屋で飲み、そのまま布団もかけずに眠ってしまった。そして朝起きた時には酷い風邪を引いていた。何とか職場には風邪の為に出勤出来ない旨を話し、近藤にも詫びを入れて貰うように主任に電話を入れる事が出来たのだ。(先輩、すみません……)熱で朦朧となりながら心の中で近藤に謝罪した。時計を見ると昼の12時を少し過ぎた頃だった。「あ~腹減った……」高熱を出しているのに空腹を感じるとは皮肉なものである。しかし普段殆ど自炊等したことがない里中の家の冷蔵庫は缶ビールと牛乳が入っているのみである。こんなことなら普段から何かあった時に食べられる冷凍食品でも買い置きをしておけば良かったと里中は思った。「う……トイレに行きたくなってきたな……」本当は布団から出たくは無かったが、我慢する訳にはいかない。何とか起き上がると、壁伝いにトイレへ向かう。「……」そしてトイレから出て布団に戻る途中で里中は意識を無くして倒れてしまった——****「ん……?」次に目が覚めた時は布団の中だった。額には熱さましシートが貼られている。ふと、誰かが台所に立っている気配が感じられた。「誰か、いるのか……?」その時。「あ、気が付いたみたいだね?」台所から顔を出したのは渚であった。「な? お、お、お前……どうして俺の部屋に?」里中は布団から起き上がりながら尋ねた。「あ、まだ起きない方がいいよ。里中さん、部屋で倒れてたんだよ。熱だってまだ高いし。でも目が覚めて良かったよ。風邪薬買って来たから枕元に置いておくね」渚はお盆に水の入ったコップと風邪薬を枕元に置いた。「悪いな。ところでさっきも聞いたけど、どうして間宮が俺の部屋にいるんだ?」「お昼を食べに来た近藤さんから聞いたんだよ。里中さんが高熱を出して寝込んでいるから心配だって。様子を見に行きたいけど今日は人手不足で手が足りなくて抜けられないって聞かされたんだ」「うん、で? それと間宮がどんな関係があるんだ?」「幸い、僕の部署は今日手が足りてるから一人ぐらい居なくても