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第13話

Author: 癒し猫
哲也の含みのある誘いに千尋は困惑したが、幸い哲也はこの取引をまとめることの方に関心があったらしい。

千尋がとぼけてはぐらかすと、それ以上追求することなく、わずかながら割引もしてくれた。

千尋は征司に良い報告をしようと待っていたが、征司が会議を終えたのは夜の十一時過ぎだった。

ようやく意気揚々と征司のオフィスへ向かった。

亮介のオフィスの前を通りかかると、彼が出てきて注意してくれた。

「橘さん、社長は今日、機嫌が悪いので、気をつけてください」

「えっ、はい。ありがとうございます」

千尋は頷き、征司のオフィスの前へ来た。

ドア越しに、征司の感情のこもらない返事が聞こえた。

「入れ」

千尋は深呼吸をして、ドアを開けて中に入った。

征司の暗く険しい表情を見た途端、オフィス全体の空気が張り詰め、冷たくなったように感じた。

これは機嫌が悪いというレベルではない。

まるで殺気立っているような雰囲気だ。

千尋は入ってきたことを少し後悔した。

征司が今、いつ怒り出してもおかしくない状態だと知っていたら、午後改めて来るべきだった。

征司は目を伏せて手元の書類を見ていた。

千尋が机の前まで歩いて報告した。

「社長、22番の展示ブースの予約が完了しました。賃料については、少し割引してくれました。

先ほど経理が手付金を海星航空ショー側に振り込みましたので、午後には賃貸契約書が送られてくる予定です」

「ん」

征司は淡々と応じた。

なぜ征司がひどく不機嫌な顔をしているのか、千尋には全く理解できなかった。

とばっちりを受けないように、早く立ち去るに限る。

「じゃあ、失礼します」

千尋が振り返った途端、征司に呼び止められた。

「待て」

「……」

千尋はゆっくりと振り返った。

征司は手元の書類を置き、顔を上げて千尋を見た。

そして、近づくように言った。

「来い」

千尋が近づくと、征司はそのまま千尋を引っ張り、自分の膝の上に座らせた。

征司に見つめられて居心地が悪くなり、千尋は目を伏せて窘めた。

「社長、万が一誰かが入ってきて、こんなところを見られたらまずいです」

征司は千尋の腰を掴んだ。

その艶やかな目は、笑っているのかいないのか分からないような表情で千尋を見つめていた。そして、質問とは違う答えを返した。

「海星市の展示ブースは、どうやって交渉した?」

「同級生に相談しただけです」

征司の手が千尋のシャツのボタンを外し始めた。

一つ、また一つと。

ボタンを外す指先の動きとそのかすかな音が、千尋の心に言いようのないざわめきを広げた。

襟元が開くにつれて千尋の呼吸も深くなり、慌てて襟を押さえて言った。

「だめです、会社の中です!やめてください!」

「途中で邪魔されるのは興醒めだ」

征司は意に介さず唇の端を上げ、スマホで亮介にメッセージを送った。

スマホを放り投げると、征司は言った。

「よし、もう誰も入ってこない」

「だから、ここは会社の中だって言ってるじゃないですか!」

「それがどうした?」

征司は千尋の手をどけ、首筋にキスをし始めた。温かい唇が何度も軽く触れる。

千尋は目を閉じ、いとも簡単に征司の熱に浮かされた。

征司が耳元にキスをした時、征司のわずかに弾んだ息遣いと、そして、その言葉が聞こえた。

「展示ブースを取るために、あいつと寝る約束をしたんだろう?そうなんだろう?」

「っ!」

千尋ははっと目を開けた。

「違います!」

征司は千尋の説明を全く聞かず、机の上に千尋を押し倒し、上から見下ろした。

「俺があの展示ブースのために、どれだけの人間に交渉させたか知っているか?

副社長まで出向いたのに、それでも取れなかった。

それがまさか、俺の夜の相手をしてる女が成功させるとはな。大した手腕だ。副社長よりも上じゃないか」

言い終わると、征司の手が胸を強く握りしめた。

千尋は痛みに嗚咽を漏らした。

「んっ……」

征司の不信を見て取り、千尋は説明した。

「哲也君は主要な担当者で、私とは同級生なんです。

ただ、同級生というよしみで私の頼みを聞いてくれただけです」

「同級生のよしみ?」

征司は身を乗り出して近づいた。

「同級生のよしみか、それともこの顔に惹かれたのか?俺を馬鹿だと思っているのか?」

哲也が電話で匂わせてきたことだって、誰にもバレるわけがない。

だから、千尋は言い張るしかなかった。

「考えすぎです。哲也は本当に同級生のよしみで承諾してくれたんです。

私たちは昔、仲が良かったんですから……んんっ……」

征司の手の力がますます強くなり、痛みに千尋の額に薄っすらと汗が滲んだ。

「ただの同級生の関係です。あの頃はまだ若かったんですし、特別な関係なんてあるわけないじゃないですか」

千尋は力強く征司を突き飛ばし、痛みで歯がガチガチ鳴った。

「どうして信じてくれないんですか!あなたを騙す理由なんてありません!」

認めない限り、この件は乗り切れるはずだ。

明らかに、それは功を奏した。

征司は千尋にキスをし始め、その後のことは、自然な成り行きで起こった。

征司のオフィスでの間、千尋はずっと誰かが入ってくるのではないかと心配し、そのせいで終始体は極端に緊張していた。

一方、征司はこのスリルを楽しんでいるようで、その表情から見て取れた。

征司のオフィスから出てきたのは、すでに一時間後のことだった。

夜、家に戻り、部屋着に着替える時、千尋は胸に残るいくつかの青紫の指の跡を見た。

静江が千尋が出てくるのを待っていた。

「千尋ちゃん、手を洗って、ご飯にしよう」

「はい、静江姉さん」

やはり千尋は「姉さん」という呼び方には馴染めず、「静江姉さん」と呼ぶ方がより親しみが持てた。

静江はもう一品、料理を運んできた。

「征司がね、あなたたちが数日後に出かけるから、時間がある時に荷造りを手伝ってあげてほしいって、言っていたわよ」

「いえ、大丈夫です。自分でできますから」

「構わないわよ。手伝うから」

千尋は、今日のオフィスでの出来事から、征司が哲也との関係をかなり気にしているのが分かったので、航空ショーには連れて行ってもらえないだろうと思っていた。

静江は片付けを終えると帰っていった。

征司はまた戻ってこなかった。

一人の時間は、最も気が楽だった。

千尋はクッションを持って床から天井までの窓の前に座り、ぼんやりとしていた。

外の街は華やかで、街の灯りがきらめいていた。

目の前の美しい景色は、まるで幻のようだった。

突然、スマホの着信音が千尋を現実に引き戻した。

画面に表示された番号を見て、千尋の表情は硬くなった。電話に出る。

「もしもし、お母さん」

「千尋、離婚したの?」

「っ!」

千尋の最初の反応は、健太が話したのだ、というものだった。

否定も肯定もせず、千尋はただ尋ねた。

「誰から聞いたの?」

千尋の母親、橘節子(たちばな せつこ)はいわゆる昔気質の人で、「女は一度嫁いだら、何があっても夫に一生添い遂げるべきだ」と固く信じている。

「まだとぼけるつもり?離婚したんでしょう?」

千尋は苛立ち、まだ両親に打ち明ける心の準備ができていなかった。

「お母さん、一体誰から聞いたの?」

「お前のせいで恥をかかされるのはごめんだよ!

健太君みたいないい人がいるのに、どうしてあんたは真面目に暮らせないのか?

恥知らずな真似をして、私たちまで巻き込むんじゃないよ!

今じゃ近所の人たちが、お父さんと私のことを後ろ指さしてるんだ!

うちにはあんたみたいなふしだらな娘は置いとけないからね!

さっさと健太君に電話して謝って、許してもらえるよう頼み込みなさい!

そうだ……それから、あんたが付き合ってる、どこの馬の骨とも知れない男とはすぐに別れるんだ!この恥知らず!」

節子は千尋を最初から最後まで罵り続け、口を挟む隙も与えなかった。

「お母さん、もう罵り終わった?」

千尋は手の甲で目尻の涙を拭ったが、声が涙で震えているのを母親に悟られないようにした。

「罵り終わった?今はあんた顔が見えないからいいようなものの、もし目の前にいたら、ぶっ叩いてるところだよ!」

千尋は息を飲み、鼻をすすった。

「健太と離婚したのは事実よ。健太が離婚の理由を、お母さんにどう説明したのか知りたいの」

「よくもそんなことが言えたもんだね!あんたのその汚らわしいことを、私にまた繰り返せって言うのかい?」

この瞬間、千尋は征司のそば以外に自分の居場所はなく、そしてあの実家も、もはや自分という人間を必要としていないのだと感じた。

千尋は言った。

「健太は、彼が子供を作れない体だって、お母さんに話したか?」
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    寝る前、蓉子が二人分のスープを運んできた。一杯は征司に渡すと、彼はそれをサイドテーブルに置き、「冷ましてから飲む」と言った。もう一杯は千尋に手渡されると、蓉子は優しい眼差しで千尋を見つめて言った。「これは滋養スープよ。千尋ちゃんの顔色が悪いみたいだから、特別に田中さんに作ってもらったの」子供の頃から、家で誰かにこれほど優しくしてもらった記憶はない。千尋は受け取ってお礼を言うと、スープを一滴残らず飲み干した。蓉子が去ると、征司は腕を枕にしてベッドのヘッドボードにもたれかかり、意味深な口調で千尋に尋ねた。「スープはおいしかったか?」千尋は彼の言葉に裏があると感じた。「少し苦味というか、独特の後味がありましたでも、せっかくのおば様のお気持ちですから、無下にはできません」「ふふ……」征司は笑った。「あれはお母さんが、俺たち二人に早く子供ができるようにと用意したものだ」それを聞いて、千尋は一瞬、頭が真っ白になった。子供なんて、絶対にあり得ない!だって彼との関係は偽りなのだから。それなのに、どうして子供の話なんか出てくるの?しかし、あのスープの効果は、千尋が抗えるものではなかった。その夜、千尋はいつも以上に情熱的で、彼にしがみつくようにまとわりついた。そのため、征司も何度か理性を失いかけた。翌朝早く、二人は朝食を済ませるとすぐに鷹宮家を後にした。去り際、蓉子は千尋の顔が赤らんでいるのを見て、ちらりと征司に目をやり、意味ありげな笑みを浮かべた。征司は蓉子に近づき、声を潜めて言った。「お母さん、これからは寝る前にそういうのは用意しないでほしい。たくさん食べるとよく眠れないんだ」蓉子は千尋に視線を移し、唇を結んで微笑み、「分かった」と言った。千尋は恥ずかしそうに頷いて別れの挨拶をしたが、ドアが閉まった途端、征司の表情から優しさが一瞬で消え、千尋を見る眼差しも冷たく無関心なものに変わった。会社に着くと、征司は千尋をオフィスへ呼んできた。ドアをノックして入ると、彼は亮介に仕事の指示を与えているところだった。千尋が入ってきたのを見て、亮介にまず席を外すよう合図した。「昨夜は危なかった。時間を見つけて、必ず薬を飲んでおけ」千尋は彼の意図を汲み取った。妊娠を恐れる気持ちは

  • 囚われの蜜夜   第38話

    結衣は尋ねた。「じゃあ、彼女と社長は……?」「言うまでもないでしょ」玲奈は呆れたように言った。「あなたね、これから彼女と話す時は気をつけたほうがいいよ。何でもかんでも話して、うっかり墓穴を掘ることのないようにねね。はぁ……そんなこと蒸し返さないでくれる?前のあのアシスタントたちのことを思い出すと、本当にゾッとするわ。どんなに離れていても、あのあざとい色気が漂ってくる感じがするのよ」結衣は言った。「注意してくれてよかったわ。とにかく、これから彼女と接する時は、気をつけないと。私みたいに思ったことがすぐ口に出るタイプは、本当に彼女を怒らせやすいものね」玲奈は鼻で笑った。「そんなに緊張する必要もないわよ。どうせ彼女もすぐいなくなるだろうから」結衣は好奇心から尋ねた。「橘さんは、どのくらい社長に気に入られてると思う?」玲奈は軽蔑するように笑った。「三ヶ月、ってとこかしらね」結衣の口ぶりは同意していないようだった。彼女は言った。「半年だと思うわ」玲奈は笑った。「じゃあ、賭けてみる?負けた方が、一週間分のミルクティーをおごるってのはどう?」千尋は化粧室の個室の中に立ち、彼女たちが自分のことをあれこれ品定めし、最後には賭けまで始めるのを黙って聞いていた。もし以前の自分だったら、きっと情けなく個室に隠れて、悔しさを我慢して出て行けなかっただろう。でも今は、自分には一年間の契約がある。何も気にする必要はない。彼女たちの驚愕の視線の中、千尋はドアを押し開けて外へ出ると、何食わぬ顔で洗面台の前に立ち、蛇口をひねった。「その賭け、私も乗りましたわ。私は一年、に賭けます」千尋はペーパータオルを引き抜き、ゆっくりと落ち着いた様子で指先一つ一つを拭いた。「約束ですよ。後でごまかさないでね。私はミルクティーを楽しみに待ってるんですから」言い終えると、千尋は化粧室を出た。彼女たちの視界から離れた後、千尋は気づいた。面と向かってやり返すのは、こんなにも気持ちのいいことだったなんて。過去の、我慢ばかりしていた時を思い返すと、本当に多くの楽しみを経験し損ねていたのだ。会議は午後いっぱい続いた。千尋は定時で退社し、車で鷹宮家の邸宅へ向かった。病気のお祖父様を

  • 囚われの蜜夜   第37話

    こんな不平等な契約にサインしたら、正気とは思えない。千尋は契約書をテーブルの上に戻した。征司の顔色が目に見えて暗く、険しくなった。「この契約はあまりにも不公平です。罠だと分かっていて、なぜ飛び込む必要があるんですか?」どうせここまで話したのだから、いっそ腹を割って話そう。「これまでの会社への貢献度からしても、自分の努力であなたからお借りしたお金を返済できる自信があります。あなたが仰った恩義についても、当然お返しするべきです。困っている時に助けてくださった恩は忘れません。私は約束を守る人間です。一年間あなたのお相手をすると約束した以上、絶対に約束を破ったり、裏切ったりはしません。ですが、違約金の条項は受け入れられません」千尋ははっきり告げた。征司はソファにだるそうにもたれかかり、あくまで軽い口調で言った。「本当に君が言うように約束を守るなら、違約金が一円だろうと一億円だろうと、気にする必要はないだろう?どうせ君は契約違反などしないのだから、恐れることはないだろう。そんなに心配するということは、何か後ろめたいことでもあるのか?」征司が譲のことをほのめかしているのだ。千尋は分かったが、譲とは本当に何もなく、会ったことさえないのだ。「はっきり申し上げます。今の私には、あなた以外の男性とはいかなる関係もありません」それを聞いて、征司は姿勢を正し、指で契約書を軽く叩きながら言った。「俺に君を信じさせたいなら、サインしろ。これ以上分かりやすい話はないだろう?」「……」どうであれ、彼女が進退窮まった時、征司は助けてくれた。彼には恩がある。この恩は、この一件できっちり清算しよう。千尋は決めた。ペンを取り、署名欄にサインし、印鑑で捺印した。「これでよろしいでしょうか?」征司は契約書を手に取ってざっと目を通し、千尋の目の前でそれを金庫にしまった。契約上、二人の関係は征司の家で恋人役を演じることに限定された。しかし、家の外では、千尋は依然として征司の日陰の愛人のままなのだ。契約書にサインした後も、実際のところ千尋の生活に大きな変化はなく、仕事も生活もすべて普段通りだった。しかし、千尋の心には、未来に対するわずかな期待が芽生え始めていた。毎日、征司の身の回りの世話を甲斐甲斐しく焼い

  • 囚われの蜜夜   第36話

    「はぁ、もう、それがね……お祖父様が雪を見たいって言うものだから、お父さんと私で庭に連れ出して少し座らせてあげたのよ。そしたら、風邪をひいてしまって」征司は言った。「何でも言うことを聞くべきじゃない。年を取ると、判断力も鈍るんだから」「お父さんにも言ったのよ。これからは何でも言うことを聞いて、好きにさせてはだめだって。お祖父様をもう長年世話してきたんだから。万が一、うちで何かあったりしたら、私が責められでもしたら嫌だわ」征司は「お母さん」と制するように言い、ちらりと千尋を見た。征司の視線を受け、千尋は部外者の自分が聞くべき話ではないと即座に察した。その時、看護師が祖父の点滴を交換していた。蓉子は言った。「お祖父様の様子を見てきてちょうだい。あなたが呼びかけて、目を覚ませるかどうか見てきて」千尋と征司はベッドのそばへ行った。征司は腰を下ろし、布団の中に手を入れて祖父の手を取り、優しく呼びかけた。「爺さん、しっかりして。帰ってきたぞ」征司が数回呼びかけると、康夫のまつ毛が動いた。征司は続けて呼びかけた。「爺さん、起きてくれ。帰ってきたぞ」康夫は目を開け、濁った瞳が征司を見るとぱっと輝きを増し、か細い声で言った。「おお、わしの可愛い孫が帰ってきたか」征司は千尋の手を引いた。「爺さん、俺だけじゃないぞ。彼女も連れてきたんだ」千尋は緊張した面持ちで呼びかけた。「あ……お祖父様、初めまして。あの、千尋とお呼びください」康夫の視線がゆっくりと千尋の顔に移り、頷いた。「ああ……ああ……征司の、恋人かね?」「あ、はい。お祖父様、どうぞお大事になさってください。早く良くなってくださいね」康夫はかすかに笑った。「良い子、良い子」気の持ちようなのかどうかは分からないが、康夫は千尋に会った後、容態が上向き、体を起こして少し食べられるようになった。征司は父親の正輝と一緒に部屋で康夫に食事を手伝い、千尋は蓉子にリビングへ連れて行かれて話をすることになった。蓉子は微笑んで千尋に尋ねた。「あなたと征司は、付き合ってどのくらいになるの?」千尋は征司に教えられた通りに答えた。「半年です、おば様」その後の質問も、すべて征司が予想していた範囲内のもので、千尋はすらすらと答え

  • 囚われの蜜夜   第35話

    千尋は征司について階段を上ったが、心は不安でいっぱいだった。彼女の足取りがためらっているのに気づき、征司は振り返って小声で言った。「緊張しなくていいよ」千尋は頷き、心を落ち着かせた。二階に着くと、千尋ははっと目を奪われた。内装は洗練された和の様式だった。このような静謐な趣のある内装スタイルを知っていたのは、かつて健太との新居を準備した時のデザイナーのおかげだ。デザイナーは多くのスタイルを紹介してくれたが、千尋が最も惹かれたのが、この凛とした和の美しさを持つ様式だった。しかし、あの新居は狭く、たとえこの様式で内装したとしても、このような静かで風格のある雰囲気は出せなかっただろう。遠くの壁にある違い棚には、年代物の花瓶やその他の置物が飾られており、控えめながらも上質な贅沢さが漂っていた。そのとき、中年の男性が部屋から出てきた。征司は自分から呼びかけた。「お父さん」鷹宮正輝(たかみや まさき)は振り返り、千尋と征司を見ると、まず静かにドアを閉めてから応えた。「帰ったか」征司は歩み寄った。「ああ、着いたばかりだ。爺さんの容態はどうだ?」正輝は首を振った。「あまり良くない。一昨日、医者が診に来て、熱が続いていて感染の疑いがあるということで、点滴をしたんだ。今は意識がはっきりせず、目を覚ましてもあまり話したがらない。さっき、お母さんが薬を飲ませたら、また眠ってしまった」正輝の視線が千尋の顔に移った。征司が紹介した。「お父さん、こちらは橘千尋、俺の恋人だ」千尋は恭しく挨拶した。「おじ様、初めまして」正輝は千尋を値踏みするようにじろじろと見た。千尋の服装から人となりを見定めようとしているかのようだ。だが、おそらく満足したのだろう、その目には優しい笑みが浮かんでいた。「橘さん、ようこそ。ゆっくりしていってくれ」「ありがとうございます、おじ様」正輝は言った。「お母さんと看護師さんは中にいる。私は下へ行って、田中さんに爺さんのために何か食べるものを作ってもらうように頼んでこよう。さっき魚が食べたいと言っていたからな。橘さん、楽にしていてくれ」「はい、おじ様。どうぞおかまいなく」正輝が階下へ降りると、征司は上着を脱ぎ、千尋のものも受け取ってソファの上に置いた。

  • 囚われの蜜夜   第34話

    千尋は硬い笑顔を浮かべた。「静江姉さん、実は征司さんは私のことなど好きではないんです。今日はただ、彼の恋人役を演じるために来ただけなんです」静江は目を細め、優しく微笑んだ。「まあ、そうなの?そう思っているのね?」静江は征司のことをあまり理解していない。親戚だから、征司の善良で謙虚な一面しか見ていないのだ。しかし、自分と征司は割り切った関係なのだ。だからこそ、彼の冷酷さや非情さも目の当たりにしてきた。千尋はそう思い、そして言った。 「静江姉さんが今でも私とこうして会えるのは、私が自分の立場をちゃんと弁えているからです」千尋のその言葉を聞いて、静江の目には残念そうな色がよぎったが、それ以上は何も言わず、また仕事に戻った。千尋は時間が近づいたのを見て、五分前に住宅地の入口へ出て待った。一月の臨海市は、身を切るように寒かった。家を出る前に念のため気温を確認したが、現在の屋外気温は氷点下十八度ほどだ。千尋はロングのダウンコートを着てカシミヤのマフラーを巻いていた。しかし、それでも足元から這い上がってくる冷気がふくらはぎまで染み通ってくる。あまりの寒さに耐えかね、その場で足踏みせずにはいられなかった。さらに十分以上待って、ようやく征司の車が車が混み合う中についに見えた。車が完全に停まると、千尋は助手席のドアを開けて乗り込んだ。征司は車を発進させ、無表情で言った。「待たせて悪かったな。さっき渋滞に巻き込まれたんだ。二台の車が事故を起こして、道が完全に詰まってた」「ああ、今来たところです」征司がバックミラーで千尋を見た。千尋は自分のまつ毛に霜がついているのに気づき、慌てて手で拭った。これは「今来たところ」でできるはずがない。千尋の下手な嘘は、いつも一瞬で見抜かれてしまう。征司はエアコンの設定温度をさらに上げた。暖かい風が体に当たるとずいぶん心地よく、こわばっていたふくらはぎにも徐々に感覚が戻ってきた。「今から俺が言うことを、よく覚えておけ。家に着いたら、俺が言った通りに答えろ。答えに窮するような質問は俺がフォローする」「はい」征司は言った。「俺の両親が祖父の世話をしていて、一緒に住んでいる。祖母は一昨年亡くなった。俺たちは付き合って半年だ。プロジェ

  • 囚われの蜜夜   第33話

    部屋は静まり返り、一瞬、千尋は彼に向かって怒りをぶつけたい衝動に駆られた。しかし、理性が勝った。彼に逆らうことはできないのだ。征司は千尋にとって強力な後ろ盾であり、今の千尋は彼の庇護なしにはやっていけない。しかし同時に、彼を敵に回せば、その力で容赦なく潰されるであろうことも分かっていた。千尋は弱みを見せて、彼の同情を引こうと決めた。彼女は目を赤くし、唇を震わせながら言った。「怒らないでください。さっきは私が至りませんでした」征司は千尋の魂胆を一目で見抜いた。「急に殊勝な態度だな?俺がお人好しに見えるか?」千尋は唇を引き結んだ。「あなたを評価する資格はありません。私が分かっているのは、私が最も困難な時に、助けてくださったということだけです」征司は楽しげに笑った。「少しは良心が残っているようだな。だが、改めて言っておく。我々の関係をいつ終わらせるかは、君が決めることではなく、俺が決めることだ。下手な小細工をして俺から逃れようなどと考えるな。一度泥沼に足を踏み入れて、まともな女性に戻れるとでも思っているのか?笑わせる」二人の会話は、気まずい空気の中で終わった。臨海市に戻ってから、征司は千尋に対してよそよそしい態度をとった。昼間、会社では千尋を見て見ぬふりをし、夜、帰ってきては事を終えるとすぐに眠ってしまう。千尋はまるで、彼の性欲のはけ口にされたかのようだった。冴子が出張から戻り、二人は夜に一緒に食事をする約束をした。千尋は静江に電話をかけ、夕食は家で食べないと伝えた。五分と経たないうちに、内線電話が鳴った。征司が千尋を呼んでいる。その声からは感情が読み取れなかった。千尋はドアをノックして中に入った。征司は電話中だったが、千尋を見ると、手早く二言三言応対して電話を切った。「社長、何か御用でしょうか?」征司は言った。「今夜、俺の実家へ付き合ってもらう。普段着に着替えてこい」実家へ行くというのは、おそらく家族に会うということだろう。しかし、千尋の立場で、そんなことが許されるのだろうか?征司は千尋の戸惑いを見て取り、説明した。「祖父の病状が思わしくないんだ。孫の嫁に一目会いたがっている。今夜、その役を演じてもらう」「っ!」まさか、そんなこ

  • 囚われの蜜夜   第32話

    千尋が部屋に戻っても、征司はまだいなかった。しかし、それほど時間は経たないうちにドアがノックされ、千尋は応対に出た。「どなたですか?」「橘さん、井上です」ドアを開けると、亮介が書類袋を手に立っていた。「橘さん、これを社長にお渡しください」「社長はまだ戻っていません。お急ぎでしたら、お電話なさいますか?」亮介は少し黙ってから言った。「いえ、急ぎではありません。社長は今、金森部長のところで打ち合わせ中とのことです。お戻りになりましたら、こちらをお渡しいただけますでしょうか」「了解しました。お預かりします」ドアを閉めると、千尋は心の中で毒づいた。あんなに目端の利く人が、どうして征司が信行の部屋にいるなんて信じるのかしら。さっき、あの二人がエレベーターに乗り込んで、佳乃が泊まっているフロアで降りたのを、確かにこの目で見たなのに。千尋が眠りに落ちそうになった時、ドアがカードキーで開けられた。征司が戻ってきたのだと分かったが、ひどく眠くて、朦朧としながら目を開け、つぶやいた。「お帰りなさい……?」「ん」征司はまっすぐバスルームへシャワーを浴びに行った。温かい湿気を帯びて近づいてきた時、千尋は軽く押し返した。「すごく眠いんです。先に寝ますね……」千尋は彼がキスするのをされるがままにしていたが、次第に息が苦しくなってきた。「んん……」千尋は目を開け、弱々しく彼の背中を叩いた。「目が覚めたか?」征司は千尋の上にのしかかり、深い瞳で千尋を見つめて尋ねた。千尋は眠い目をこすった。「寝ましょうよ。明日は朝早い飛行機で帰るんですから」征司は千尋の顎を持ち上げて顔を覗き込み、意味ありげに言った。「君を甘く見ていたよ。離婚もしていないのに、もう次の相手を探そうとしているとはな。そういう男なしではいられないタイプらしい」「っ!」千尋は、あの電話を彼が聞いていたのだと悟った。「説明させてください!」征司は言った。「どう言うかよく考えろ。嘘が一つでもあれば、お前を臨海市で二度と顔を上げられないようにしてやる。試してみるがいい。どうなっても知らないぞ」「……」彼には絶対にそれができる。昔、会社の技術部門の役員が、社内の重要資料を持って競合他社のド

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