囚われの蜜夜

囚われの蜜夜

By:  癒し猫Updated just now
Language: Japanese
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「私の仕事ルール その一:社長のベッドと会議テーブルは、二十四時間いつでもスタンバイしていること」 橘千尋は偽善者の夫に「愛」という名目で、本社社長・鷹宮征司の元へアシスタントとして送り込まれてしまった。 一緒にいる一夜が過ごし、昼間は征司の傍らでアシスタントとして働き、深夜には彼の会議テーブルの上で弄ばれる「おもちゃ」へと成り下がった。 征司は権力で千尋を支配する一方で、数えきれない夜を重ねるうちに、千尋に溺れていく。 しかも、千尋に離婚を強いて、契約書にサインさせた。 その内容は、「一年間、征司のそばにいること」、そして「その間の結婚は許されない」というものだった。 そのほか、はいつも千尋にこう言い聞かせる。 「君を愛していないし、俺との結婚など望むな。君のような女は俺にはふさわしくない」 一年という期限が満ち、千尋はようやく薄氷を踏むような日々から解放されるはずだった。 そんな時、千尋を大切にしてくれる男性が現れ、プロポーズしてくれた。 彼女はもう一度だけ幸せを掴むチャンスを信じ、その申し出を受け入れた。 しかし結婚式当日、征司は怒りに任せて数千億円規模のM&A契約書をズタズタに破り捨てた。 破られた紙切れが吹雪のように舞い散り、千尋のウェディングベールに降りかかるのも構わず、憤りと執着に満ちた目で彼女を見つめた。 世界中に向かってこう宣言した。 「俺の女だ!誰であろうと手出しはさせん!」 征司が愛してくれないのに、なぜ手放そうとはしないかと、千尋は思った。 支配欲が抑えきれない愛情へと変わる時、愛の名の下に行われたこの「狩り」は、ついに絶対的な権力者であるはずの彼自身を「愛の虜囚」へと変えたのだ。 そして今度は、征司は二人の契約書を破り捨て、代わりに婚姻届を突きつけ、こう言った。 「一生、俺のそばにいろ。お前が愛していいのは俺だけだ」

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Chapter 1

第1話

今、橘千尋(たちばな ちひろ)の身体を貪る男の名は鷹宮征司(たかみや せいじ)。

航空技術の最大手、大鷹航空技術の社長である。

彼女が彼と夜を共にすることになったのは、他ならぬあの「甲斐性なし」の夫、佐藤健太(さいとう けんた)のおかげだ。

臨海市では、征司は表社会にも裏社会にも顔が利く有力者だ。

噂によれば、性癖は倒錯的で、きらびやかな社交界の女性には見向きもせず、もっぱら純粋そうな一般女性を好むという。

ゲテモノを好んで食するなど、食の嗜好もかなり独特だが、夜の営みはさらに常軌を逸し、際限なく荒々しい。

数年前には、あるダンサーが彼によって弄ばれ、大量出血を起こして生死の境をさまよった。

病院で大量の輸血を受けてかろうじて一命を取り留めた後、臨海市内の高台にある豪邸がその女性に与えられたという。

一度の『受難』でそれが手に入るなら、むしろ安いものだと嘲る声もあった。

昼間の征司は、洗練された物腰の紳士だ。

だが今は、まるで獣のように豹変し、千尋を骨の髄までしゃぶり尽くすような勢いで組み敷いている。

痛みと恐怖、そしてどうしようもない惨めさに襲われ、千尋は夫の健太の姿を思い浮かべずにはいられなかった。

「んっ……」

ほんの一瞬、意識が逸れただけだというのに、征司は不快そうに彼女の顎を掴んだ。

彼が激しく腰を突き上げる様を眼前で見せつけられ、そのあまりに露骨な光景に、千尋は顔を真っ赤にして目を背けたくなる。

征司はこういう時に彼女が上の空になるのを嫌った。

先ほどもそれで罰を受けたばかりだ。

だから、千尋は必死に意識を目の前の現実に集中させた。

その甲斐あってか、初めてのはずの二人の身体は、驚くほど息が合っていた。

「また何か考えていたな?」

「いいえ、何も……」

千尋は頑なに否定したが、容易く見抜かれた。

征司の意のままに翻弄され、千尋はついに耐えきれなくなり、意思とは裏腹に身体が小刻みに震え始めた。

征司は千尋の反応に悦に入り、彼女の喘ぎ声を聞いて興奮を覚えた。

だが、本当の彼女はこんなふうではない。

根は保守的で、物静かで、華やかな社交場はむしろ苦手なのだ。

彼女の人生は、どこまでも平凡で、多くの人がそうであるように、ごく普通な人生を歩んできた。

大学を出た後、特別なコネも人脈もない千尋は、生活のため、憧れの会社に応募した。

望んだ職種ではなかったけれど、受付係としてでも大鷹航空技術の社員でいられることを幸運だと感じていた。

ここで夫となる健太と出会った。

二人とも、大きな組織の中のしがない平社員に過ぎず、一年間の交際を経て結婚した。

健太と付き合っていた頃、彼は決して千尋に指一本触れようとしなかった。

当時の千尋は、健太を奥手で誠実な男性なのだと思っていた。

しかし結婚して初めて、それが偽りだったことを悟った。

本当の理由は、夫としての務めを果たせない――いわゆる「性的不能」だったからだ。

健太は無精子症であるばかりか、基本的な夫婦の営みすら不可能だった。

千尋は一瞬にして、夫がいながら決して満たされることのない、形ばかりの妻となってしまった。

すぐに離婚を切り出した。

だが、健太は彼女の前で膝をつき、まるで迷子になった子供のように泣きじゃくり、懇願した。

それに、千尋の実家は考え方が古く、離婚は家の恥であるかのように考えている。

結局、健太への同情と世間体から、離婚を思いとどまった。

健太は口先では「君はまだ若い。もし……そういう欲求があるなら、外で相手を見つけても構わない」などと言ったが、千尋がそんなことをできるはずもなかった。

その貞淑さが、かえって健太の罪悪感を増幅させたのかもしれない。

健太はせめてもの埋め合わせにと、毎月の給料をすべて千尋に手渡し、家事の一切もさせず、手を変え品を変え美味しい料理を振る舞い、休日には必ず買い物や行楽に連れ出した。

千尋をまるで箱入り娘のように慈しみ、大切にした。

誰かに心から大切にされるという感覚は、実家では得られなかったもので、千尋の心の隙間を少しずつ埋めてくれるかのようだった。

しかし、そんな日々はある日突然終わりを告げた。

健太は千尋に高価なドレスや、とてもセクシーなランジェリーを買い与え、臨海市で最もラグジュアリーな五つ星ホテルへと誘った。

千尋は、ついに健太の不能が治ったのかもしれないと、淡い期待を抱いた。

だが、スイートルームの重厚な扉の前に立った瞬間、衝撃の事実を告げられた――健太は彼女を、征司への「貢物」として差し出したのだ。

そう、自身の妻を、他の男のベッドへと送り込んだのだ。

今でも、あの時の健太の言葉が耳に焼き付いて離れない。

「社長が、お相手の女性を必要とされている。条件は、経験がなく清純なことだそうだ。

もしうまく事が運べば、俺は支社のマネージャーに昇格でき、年俸は3000万円になる。

そして……一番大事なことなんだが……君に、社長のお子さんを……産んでくれないか」

こんな恥知らずな言葉が、あの健太の口から発せられたとは。

千尋は信じられない思いと激しい怒りで全身がわななき、血が逆流するかのような感覚に眩暈を覚えた。

悔しさと怒りで滲んだ涙が、意思に反して次々と頬を伝う。

健太を罵り、その胸を叩いた。

だが、彼が吐き捨てた冷たい言葉が、千尋を打ちのめし、厳しい現実へと引きずり戻した。

――先月、千尋の実家で事件が起きた。

弟の橘俊介(たちばな としや)がギャンブルで作った莫大な借金を残して夜逃げし、今は遠い土地に身を潜めている。

老いた両親だけが家に残り、日夜、悪質な借金取りの脅迫に怯えて暮らしているのだ。

健太も友人たちに頭を下げていくらかの金策はしてくれた。

だが、返済すべき額には焼け石に水で、このままでは実家が立ち行かなくなるのも時間の問題だった。

――もし、今回、鷹宮社長を満足させることができたなら。実家の借金問題は解決し、健太が念願の昇進を果たし、そして、私たち夫婦にも子供が授かるかもしれない……

健太はそう捲し立てた。

「君が少しだけ犠牲になってくれれば、全てが丸く収まるんだ」

抗う術もなく、千尋は受け入れるしかなかった。

部屋に入ってきた千尋を見ても、征司は特に驚いた風もなかった。

ゆったりとした白いバスローブを纏い、その腰の帯は無造作に結ばれ、わずかに開いた襟元からは、鍛えられた逞しい胸筋が覗いていた。

千尋は極度の緊張から、知らず知らずのうちに両の拳を強く握りしめていた。

小刻みに震えていることにも、まるで気づいていなかった。

征司は冷ややかな視線で、品定めするように千尋を眺めた。

その眼差しには、侮るような軽薄さと、状況を面白がるような色が浮かんでいた。

「少しは気分を上げるために、酒でも飲むか?」

千尋の返事を待つことなく、ローテーブルに向かい、優雅な手つきでグラスにワインを注いだ。

征司が掲げたグラスの内側を、芳醇な赤い液体がゆるやかに伝うのが見えた。

「社……社長……」

千尋の声は、緊張でかすれていた。

征司は千尋の顎をくいと持ち上げると、有無を言わさず、グラスに注いだ赤ワインを彼女に飲ませてきた。

受け止めきれなかったワインが口の端から流れ落ちるのを、長い指先で無造作に拭った。

千尋の震えは、恐怖でさらに激しくなった。征司は尋ねる。

「寒いのか?」

「……いいえ」

「嫌なのか?」

もちろん、嫌悪感で気が狂いそうだ。

だが、千尋に拒否する権利などない。

「……そう、では……ありません」

「嫌でないなら、そんな強張った顔をするな」

彼はなおも尋ねた。

「名前は?」

こんな屈辱的な状況で、名前まで教えなければならないのか。

後で品定めでもするつもりなのだろうか。

千尋は俯いたまま、か細い声で答えた。

「……橘、千尋、と申します」

「千尋、か」

征司はこともなげに頷いた。

千尋を寝室へと導いた。

ベッドの縁に腰を下ろし、後ろに手をつきながら、淡々とした口調で命じた。

「脱げ」

夫以外の、それも見ず知らずの男の前で、裸体を晒す。

そんなこと、想像すらしたことがなかった。

それは千尋にとって、耐え難いほどの羞恥だった。

彼女がためらうと、征司はあからさまに不快な表情を見せた。

「嫌なら、出ていけ」

その言葉に、一瞬、衝動的に部屋を飛び出そうとした。

しかし、足は鉛を飲み込んだかのように重く、一歩も動かせない。

分かっている。ここから逃げ出せば、あの息の詰まるような絶望的な現実が、また容赦なく彼女に襲い掛かってくるのだ。

震える指で、着ていたリトルブラックドレスのファスナーに手をかける。

ドレスが滑り落ち、床に黒い影を作った。

千尋は、まるでゼンマイ仕掛けの人形のように、ただそこに立ち尽くすしかなかった。

下着は、健太が選んだものだ。

黒い総レースで、肌がほとんど透けて見える。

店で見たときはあまりに大胆すぎると感じたが、「男はこういうのに弱いんだ。セクシーで魅力的だよ」と健太は言った。

征司が手を差し伸べる。

千尋は反射的に胸元を隠し、ためらいがちに二、三歩、彼に近づいた。

下着の華奢なストラップを、彼の清潔で、けれどどこか冷たい印象を与える長い指がつまみ上げた。

そして、まるで品定めするかのように彼女の顔を見つめながら、ゆっくりと引き下ろした。

彼は引き下ろしたそのストラップを指先で弄び、まるで壊れた玩具でも眺めるかのような目をしていた。

どうやら健太は男心を理解していたらしい。

征司の千尋を見る目が、明らかに変わった。

ぎらぎらとした濃密な情欲と、獲物を丸ごと飲み込まんとするような獰猛な衝動が、その瞳の奥で渦巻いていた。

千尋を力強く抱き寄せた。

最初は驚くほど辛抱強く、丁寧な愛撫を施したが、いざ核心に至ると、完全に本性を剥き出しにした。

まるで飢えた獣のように、彼女の存在そのものを引き裂き、喰らい尽くさんばかりの激しさだった。

その長い夜、千尋の意識に残っているのは、彼の灼けるように熱い肌の感触と、自身の奥深くに刻み込まれた、鋭い痛みだけだった。

翌日。

千尋がぼんやりとした意識の中で目覚めたとき、すでに隣に征司の姿はなかった。

サイドテーブルの上には、キャッシュカードが一枚、無造作に置かれていた。

これで全て終わったのだ、と千尋は思った。

鉛のように重い体を引きずるようにしてスイートルームを出ると、扉の外には、征司の秘書である井上亮介(いのうえ りょうすけ)が、感情の読めない表情で立っていた。

千尋に、真新しいビジネススーツ一式を差し出し、事務的な口調で告げた。

「橘さん、着替えてください。社長は午後、深市での会議に出席されます。アシスタントとして同行していただきます」

――アシスタント?

千尋は、何が起こったのかまるで理解できず、ただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
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第1話
今、橘千尋(たちばな ちひろ)の身体を貪る男の名は鷹宮征司(たかみや せいじ)。航空技術の最大手、大鷹航空技術の社長である。彼女が彼と夜を共にすることになったのは、他ならぬあの「甲斐性なし」の夫、佐藤健太(さいとう けんた)のおかげだ。臨海市では、征司は表社会にも裏社会にも顔が利く有力者だ。 噂によれば、性癖は倒錯的で、きらびやかな社交界の女性には見向きもせず、もっぱら純粋そうな一般女性を好むという。ゲテモノを好んで食するなど、食の嗜好もかなり独特だが、夜の営みはさらに常軌を逸し、際限なく荒々しい。 数年前には、あるダンサーが彼によって弄ばれ、大量出血を起こして生死の境をさまよった。病院で大量の輸血を受けてかろうじて一命を取り留めた後、臨海市内の高台にある豪邸がその女性に与えられたという。一度の『受難』でそれが手に入るなら、むしろ安いものだと嘲る声もあった。昼間の征司は、洗練された物腰の紳士だ。だが今は、まるで獣のように豹変し、千尋を骨の髄までしゃぶり尽くすような勢いで組み敷いている。痛みと恐怖、そしてどうしようもない惨めさに襲われ、千尋は夫の健太の姿を思い浮かべずにはいられなかった。「んっ……」ほんの一瞬、意識が逸れただけだというのに、征司は不快そうに彼女の顎を掴んだ。彼が激しく腰を突き上げる様を眼前で見せつけられ、そのあまりに露骨な光景に、千尋は顔を真っ赤にして目を背けたくなる。征司はこういう時に彼女が上の空になるのを嫌った。先ほどもそれで罰を受けたばかりだ。だから、千尋は必死に意識を目の前の現実に集中させた。その甲斐あってか、初めてのはずの二人の身体は、驚くほど息が合っていた。「また何か考えていたな?」「いいえ、何も……」千尋は頑なに否定したが、容易く見抜かれた。征司の意のままに翻弄され、千尋はついに耐えきれなくなり、意思とは裏腹に身体が小刻みに震え始めた。征司は千尋の反応に悦に入り、彼女の喘ぎ声を聞いて興奮を覚えた。だが、本当の彼女はこんなふうではない。根は保守的で、物静かで、華やかな社交場はむしろ苦手なのだ。彼女の人生は、どこまでも平凡で、多くの人がそうであるように、ごく普通な人生を歩んできた。大学を出た後、特別なコネも人脈もない千尋は、生活のため
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第2話
千尋にとって、征司との関係は一夜限りのもののはずだった。一夜が過ぎれば、夫の健太はトントン拍子に出世し、実家の厄介な借金もきれいに清算され、それですべて終わりのはずだったのだ。それなのに、なぜ今になってアシスタントになれと言うのだろうか?今の状況でそんな話をするのは場違いだと分かっていながらも、千尋は顔を真っ赤にして、亮介に尋ねた。「健太からはアシスタントの話は聞いていません。社長が何か勘違いされているのでは?」亮介の視線には、かすかな軽蔑の色が宿っていた。「勘違いされているのは社長ではありません。橘さんの方です」「!」千尋は驚いて彼を見た。「どういう意味ですか?」亮介は淡々と説明した。「昨夜のは、あくまでもテストです。社長がご満足されたからこそ、次の段階へ進む資格ができたのですよ」「……資格?」千尋は自分が一瞬にして取引の道具になったように感じ、ますます安っぽく惨めな存在に思えてきた。それでも拒絶する姿勢を崩さなかった。もう恥ずかしいことはしてしまったのだから、今さら恥ずかしい言葉を口にすることなど、何もためらう必要はない。勇気を振り絞って、彼女は言った。「井上さん、私と社長との約束はもう果たされたはずです。昨夜お相手したのですから、今日、社長は健太と話した条件通り、約束を果たしていただくべきです。アシスタントは絶対にお受けできません。これで失礼します」言い終えると、精一杯胸を張ってエレベーターに乗り込んだ。だが、扉が閉まった瞬間、必死で取り繕っていた虚勢は跡形もなく崩れ去った。肩を落とし、体の気だるさに耐えながらタクシーに乗り込もうとした時、健太から電話がかかってきた。「千尋、どこにいるんだ?」「健太……うっ……」健太の声を聞いた途端、千尋は声にならない嗚咽を漏らし、運転手を驚かせた。バックミラー越しに運転手が訝しげに自分を見ているのに気づき、誤解されてはいけないと、慌てて嗚咽を抑え、受話器を手で覆いながら答えた。「タクシーの中。家に帰るところよ」それを聞くと、健太は途端に焦ったように言った。「家に帰る?何を言ってるんだ!すぐに社長の出張に同行しろ!飛行機はあと一時間で出発するんだ!急がないと間に合わないぞ!」千尋は一瞬言葉に詰まった。
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第3話
情熱が終わるとき、すでに深夜だった。征司はバスルームから出てくると、ゆっくりとソファに腰掛け、一本の煙草に火をつけた。揺らめく煙の向こうに、彼の彫りが深く整った顔が見える。千尋はつい見惚れていたが、彼の次の言葉で現実に引き戻された。「離婚しろ」「!」千尋は自分の耳を疑った。征司も、彼女が呆然と信じられないといった表情をしているのに気づいたようだ。彼女は彼が煙草を揉み消し、どこか見下すような態度で話し始めるのを見ていた。「どうせ離婚するんだろう。遅かれ早かれだ」なぜ離婚すると決めつけるのだろう。彼にとって自分は遊びの相手で、その場限りの相手に過ぎないはずだ。健太との生活こそが、本来は末永く続くものなのだ。まさか、本気なのだろうか?その考えを見透かしたように、征司は侮るような口調で言い放った。「考えすぎだ。君と結婚するつもりはない。単に、都合が悪いだけだ」何が都合が悪いというのか?千尋は思わず問い返そうとする。二人の関係は束の間のもので、彼が飽きたら終わるはずだ。どうして彼女の結婚にまで口出しをするのだろう。「社長、私のアシスタントという立場だって長くはありません。細かいことはお気になさらないでください」千尋の態度と言いたいことは、征司ほどの頭脳があれば理解できるはずだ。征司の社会的地位がどうであれ、今の二人の関係において、彼に千尋の人生を左右する権利はない。征司のどこか気だるげな声には、からかうような響きがあった。「その通りだ。俺は、細かいことにこだわる性分でね」彼はワイングラスを手に取り、一口飲んだ。傾けられた首筋のラインが喉仏を際立たせ、液体が喉を通る微かな嚥下音が、かつての二人の深いキスを千尋に思い出させ、無意識に頬が熱くなった。「離婚なんて考えたことありません」千尋は小声で答えた。征司は余裕綽々といった様子で彼女を見つめ、指先でこい、と招いた。気が進まなかったが、千尋はガウンを羽織って彼のそばへ寄った。征司は彼女の手を取り、自分の膝の上に乗せた。そして、ためらいなくガウンの襟元を開いた。不意に彼の視線に晒され、千尋は思わず手で体を覆った。「君は、夫から惜しみない寵愛を受け、誠実な結婚生活を送っているとでも思っているのか?」その
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第4話
明らかに、佳乃の嫌がらせはまだ終わっていなかった。千尋がお茶を淹れる隙に、佳乃はわざと熱いお茶を千尋にこぼした。「熱っ……」淹れたてのお茶は焼け付くように熱い。千尋が火傷した箇所を確認しようと袖を捲り上げようとした瞬間、佳乃に腕を掴まれた。濡れた布地が肌に密着し、水ぶくれができそうだ。しかし、千尋はここで騒ぎ立てるわけにはいかない。それは征司の顔に泥を塗ることになるのだ。佳乃は謝罪しながら、ティッシュで水を拭き取る。「あら、橘さん、ごめんなさい。残念ですね、この上質なスーツ」火傷したのは千尋だと分かっているくせに、佳乃はスーツのことだけを心配するふりをした。千尋がその手を振り払うと、佳乃は続けた。「でも、今夜のお客様は大変重要なお方ですわ。服装が場にふさわしくないと、私たちがお客様を軽んじているように見えてしまいます。社長、橘さんには先にお帰りいただいた方がよろしいのでは?」千尋は征司を見た。征司の淡々とした眼差しが千尋に向けられた。すると、捲りかけた袖を下ろしながら、千尋は答えた。「大丈夫です。テーブルの下に隠しておけば見えませんから」しかし、征司は千尋に尋ねた。「火傷は?」「……」「……」明らかに、千尋も佳乃も、信じられないという顔で彼を見た。佳乃は素早く反応し、千尋の腕を取って確認するふりをした。「あら大変!赤くなっているわ!本当にごめんなさい、橘さん。運転手さんに病院まで送らせますわ。女性の肌はデリケートですから、痕が残ったら大変ですもの」佳乃と比べると、私はあまりにも格が違う、と千尋は思った。佳乃の八方美人ぶりは見事なものだ。しかし、征司が自分に特別な感情を抱いていることを盾に、千尋は言い返す機会を逃さなかった。「神崎さんは、大変不注意でいらっしゃいますね。幸い火傷したのは私でしたが、もし今夜の貴賓に怪我をさせていたら、大変なことでしたよ」佳乃は虚を突かれ、千尋がそんなことを言うとは予想していなかったようだ。征司は千尋を見た。その視線は深く、そして重い。からかうような眼差しは、千尋の浅はかな企みを見抜いていた。千尋は視線をそらし、居心地悪そうに火傷した左手をテーブルの下に隠した。千尋の言葉が終わるか終わらないかのうちに
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第5話
「本気か?」 征司は冷ややかに千尋を品定めするように見た。千尋が口を開く前に、佳乃が彼女を追い越し、征司の車の前へ回り込む。千尋の足元を一瞥し、低い声で囁いた。「不満があるなら、後で個人的に言えばいいでしょう。こんな人前で、社長を窮地に追い込むつもり?」「そんなつもりは……」千尋の声は次第に小さくなり、言葉を続けるのがためらわれた。「ただ、お相手するのは……」千尋は下唇を噛んだ。征司にとって、自分の新鮮味はもうこんなにも早く失せてしまったのだろうか?男とは実に薄情なものだ。佳乃は好機とばかりに、千尋を追い詰めるのをやめない。一言一言に、千尋と征司の間を裂こうとする意図が込められていた。「そんなつもりはない、ですって?でも、橘さんは今まさにそうしているじゃない。我儘を言って社長を困らせるのはおやめなさい」「私は……」千尋は取引の駒として扱われているだけなのに、佳乃の言い方では、まるで千尋が理不尽で、大局をわきまえない人間であるかのようだ。千尋がどうしていいか分からずにいると、佳乃の口元に浮かんだ軽蔑的で得意げな笑みが見えた。佳乃が以前から千尋を快く思っておらず、征司のそばから追い出したがっていることは分かっていた。今や、目的を達成できると確信しているような態度だ。同じ女性なのに、なぜ千尋をこんなに苦しめるのだろう。今、ようやく目が覚めた。自分が愚かだったのだ。佳乃に対して、自分は違うのだと証明しようとし続けていた。佳乃は自ら進んで征司に身を捧げているが、自分は征司の『好み』であり、無理やりそばに置かれている存在なのだと。自分たちは違うのだと。今はただ、目の前のすべてから逃げ出したかった。千尋は淡々と言った。「ええ、本気です!」千尋が背を向けた瞬間、征司の一言が、彼女の独り善がりな仮面を引き剥がした。「家の事はもうどうでもいいのか?」「……」千尋は一瞬動きを止め、足元に鉛でも付けられたかのように重くなった。そうだ、健太の昇進は?実家の借金は?その時、佳乃さえも千尋の躊躇に気づき、軽蔑するように笑うと、そっと彼女の背中を押し、契約書を彼女に押し付けた。「さあ、早く行きなさい。葉山社長がお待ちかねよ」千尋はわずかに首を傾けた。ガラス
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第6話
南央市から戻ると、思いがけず健太が空港に迎えに来ていた。彼と顔を合わせると、千尋は気まずくてたまらなかったが、逆に健太は何事もなかったかのように自分から近づいてきて、にこやかに征司に挨拶した。「社長、千尋がご迷惑をおかけしました」征司は表情を変えず、冷ややかに「いや」とだけ返した。そう言うと、まっすぐ道路脇に停めてあったセダンへと向かった。千尋は、健太が小走りで駆け寄って征司のために車のドアを開け、媚びへつらう様子を目の当たりにし、一刻も早くこの場から逃げ出したくなった。しかし健太は、このようなことに慣れっこになっているようで、車のドアの上部に手を添え、征司を車内へと促した。「社長、どうぞ」そばにいた秘書の亮介までもが侮蔑的な視線を健太に向けており、千尋はその場に立っていることすらいたたまれず、透明人間にでもなりたいと願った。だが、車中の人物――征司の視線はずっと彼女に向けられており、手で合図した。千尋は背筋を伸ばして近づいていったが、すぐ手前で健太に強く腕を引かれ、小声で急かされた。「早く乗れ。社長はお忙しいんだ。時間を取らせるな」飛行機を降りる際、征司は彼女に、家に戻ってゆっくり休み、明日また連絡すると言っていたはずだった。今、千尋が引かれてよろめくのを見て、不快そうに太い眉を寄せた。「千尋、明日の朝一番で南央市の代理店に関する資料をまとめて、私のオフィスに持って来い」「はい、社長」千尋は小声で答えたが、頬は火が付いたように熱かった。後ろに立っていた健太は、気まずそうに口をパクパクさせ、どうしていいか分からない様子だった。征司は再び彼女に指で合図した。千尋は肩をさらにすくめるようにして近づくしかなかった。征司は彼女の耳元に顔を寄せ、囁いた。「そんな甲斐性ない男と、いつまで一緒にいるつもりだ?」「……」千尋は一瞬でその場に凍りつき、言葉を失った。征司は体を起こし、運転手に車を出すよう合図した。遠ざかるテールランプを見送りながら、健太は征司のセダンが車の流れに消えるまでつま先立ちで眺め、ようやく不思議そうに尋ねた。「千尋、さっき社長は何て言ってたんだ?」千尋は彼を見て、複雑な気持ちで答えた。「……別に。仕事のことよ。帰りましょう」「千尋、社長はいつ俺を
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第7話
「私……」少し疲れている、と千尋が言いかけた瞬間、電話は突然切れた。健太は千尋に目を向け、尋ねた。「今夜も接待か?」千尋は首を横に振る。「わからないわ。何も言っていなかったから」テーブルの料理にはほとんど手がつけられておらず、場の空気は和んでいた。千尋はこの雰囲気を壊したくなかった。急いでスマホを開き、征司に断りの連絡を入れようとしたが、健太に腕を強く掴まれた。「おい、行かないなんて言うなよ」健太が言った。「俺の昇進の話かもしれないだろ?」千尋が一瞬思い描いた穏やかな時間は、現実によって打ち砕かれた。「あなたの頭の中、昇進のことしかないの? 私が疲れてるって、見てわからない?行きたくない。家でゆっくりしたいだけなのに」健太は慌てて千尋をなだめ、その手を握りしめて優しく語りかける。「千尋、ごめん。俺が悪い。俺が甲斐性なしだから……君にあんな男に頭を下げさせることになった。でも、うちの今の状況は、わかってるだろ……本当に、他にどうしようもないんだ」健太は千尋の後ろに回り込み、両手で彼女の肩を掴んで、揉みほぐしながら、耳元で囁くように言った。「社長自ら電話してくるなんて、よっぽど大事な話のはずだ。俺が昇進さえできれば、必ず自分の力で支社のマネージャーのポストを掴んでみせる。そうなったら、君にもうこんな苦労はさせないから」正直なところ、征司に「来い」と言われれば、千尋に断る選択肢はなかった。健太のためではない。実家の借金を征司が肩代わりしてくれたからだ。千尋には征司に対して大きな借りがあり、断る資格などなかった。健太はまた、千尋を罪悪感と憐憫の感情が渦巻く結婚生活に引き戻そうとしている。「『結婚してから苦労するのは、相手を見る目がなかったせいだ』とよく言うけれど、以前の千尋は冷静に相手を見ていたつもりだった」しかし、最近の自分は次第に正気を失いつつある、と千尋は自覚していた。車が「璃宮」に着く。降りる直前、健太は千尋の手を強く握った。「千尋、それと、例の件……しっかりチャンスを掴めよ」チャンス?子供を作れない男が、子供を持つことに必死になるなんて、滑稽じゃないか。千尋はむっとして尋ねた。「彼が避妊するのに、どうやってチャンスを掴めって言うの?」
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第8話
彼がはっきり言い切った以上、千尋がこれ以上問題にこだわっても、ただ意地を張っているように見えるだけだろう。征司は前を見つめたまま、何気ない口調で言った。「神崎さんが来週、本社に来る。彼女と懇意にしている取引先がいるんだ。関係維持のために彼女に対応してもらう必要があってな。以前はずっと井上が担当していたが、昨夜、家族が亡くなって、実家に戻ったばかりでな。さすがに今、彼にお願いするわけにはいかない。だから今回は君が神崎さんの接待を担当してくれ」「はい。先方は何名でいらっしゃいますか?」「一人だ」二人はさらに、接待の基準や注意事項について打ち合わせた。最後に、征司は彼女にホテルを予約し、部屋番号を共有しよう指示した。以前から社内では、佳乃と征司は特別な関係だと噂されていた。佳乃は頻繁に「取引先の関係維持」を口実にして本社に来ては征司と過ごしており、肝心の取引先については影も形もない、という話だった。今となっては、それは単なる噂ではなかったようだ。ブッブッ、と二度、車のクラクションが鳴り、千尋は現実に引き戻された。健太が到着したのだ。車が目の前に停まっているというのに、征司はまだ彼女の手を離さなかった。健太が運転席から小走りで降りてきて、二人のために後部座席のドアを開けた。千尋は征司が見送りに来ただけだと思っていた。しかし、征司は健太の目の前で彼女の手を引いたまま車に乗り込んだ。「蘭泉邸へ」それは征司が所有する数多くの不動産の一つで、市中心部の一等地にある高級マンションであり、管理体制も最高級、市場価格も舌を巻くほどだった。道中、健太はずっと征司に取り入ろうとし、媚びへつらうようなお世辞を並べ立て、千尋は聞いているだけで身の置き所がないほど恥ずかしかった。車が蘭泉邸の前に停まると、健太はまた小走りで駆け寄り、征司のためにドアを開けた。そして征司は、車を降りると同時に、千尋の手も引いて一緒に降ろした。千尋と健太は、車を挟んで顔を見合わせ、二人とも呆然とした。征司は低い声で別れを告げた。「お疲れ、健太君」健太は一瞬戸惑ったものの、すぐにまた愛想笑いを浮かべて言った。「とんでもないお言葉です。社長のお役に立てるなら光栄です」「俺の役に立つ?」征司はふっと笑い、千
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第9話
離婚するつもりはないとはっきり伝えたはずなのに、征司はなおも千尋にサインを強要する。千尋の表情には怒りが抑えきれなくなっていた。征司もそれに気づいていたが、非常に辛抱強く彼女を自分のそばへ引き寄せた。「本当に嫌なのか?」「……」言うまでもない。千尋は沈黙で答えた。征司は彼女の両肩に手を置き、仕方がないといった風にため息をついた。「やれやれ……君はずっと賢いと思っていたが、やはり馬鹿なことをするものだな」千尋は目を伏せた。「馬鹿なことをしているのではありません。はっきりと分かっているからこそ、離婚しないのです。私たちの関係は一時的なものです。束の間の関係のために、今の結婚生活を壊すわけにはいきません。それに、あなたは私の借金を肩代わりしてくれましたが、私もそれなりの対価を払いました。これで貸し借りなしでしょう。もうあなたは私のプライベートにあれこれ口出しする権利はないはずです」頭上から征司の低い笑い声が聞こえた。嘲りがたっぷりと込められていた。「貸し借りなし?君はそう思うのか?」「……」でなければ何だというのか?彼がこれ以上何を望むのだろう。千尋が怪訝に思っていると、征司は離婚協議書をもう一度よく見るように言った。千尋はページをめくろうとはしなかった。「さっきの言い方は悪かったわ。申し訳ありません。あなたが終わりだとお考えの時に、終わる。そういうことでしょう」征司は千尋の顎を持ち上げ、無理やり視線を合わせさせた。彼の穏やかな表情には怒りの色は微塵もなかったが、その沈黙はかえって人を凍りつかせるような威圧感があり、まるで嵐の前の静けさのようで、心がざわついた。彼は言った。「なぜ離婚しない?」なぜそんな勇気が出たのか、自分でも分からないまま、千尋は問い返した。「なぜ私が離婚しないといけないの?」次に千尋が聞いたのは、自分にとってひどく屈辱的な答えだった。彼は軽く言った。「都合がいいからだ」「……」征司が言う「都合がいい」の意味は、すぐに理解できた。世間の目や道徳的なことなど気にせず、より自由にできるということだ。今の二人の関係では、自分は征司にとって愛人ですらなく、せいぜい体の関係だけの相手に過ぎない。それなのに、彼はそんな相手に
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第10話
「健太!」千尋は怒りに燃え、大声で問い詰めた。「私と社長が寝たのは、あなたが仕向けたからじゃないの!?」健太も逆上した。あるいは、もう取り繕う気も失せたのかもしれない。「俺が仕向けたとしても、君は断れたはずだ!それでも君は行ったじゃないか!今更俺を問い詰めて、何の意味がある?」健太は千尋を睨みつけ、その視線は嫌悪感に満ちていた。「嫌がってたみたいな顔をするなよ。むしろ感謝すべきだ。俺がいなかったら、君が金持ちに近づけると思うか?」「頭がおかしいんじゃないの!?」千尋も理性を失い、目を充血させて罵倒した。「自分の妻を社長に差し出して、感謝しろですって?最低のクズよ!」健太は眉をひそめて手を振った。「もういい、やめろ。さっさとサインしろ。サインしたら、役所に行って手続きを済ませるぞ」もうここまで来てしまった。もし千尋がまだサインを渋るなら、あまりにも滑稽に見えるだろう。二人が役所に着くと、征司の弁護士である伊藤徹(いとう とおる)もすでに到着していた。なぜか、健太は彼とかなり親しい様子で、自分から挨拶していた。彼の助けを借りて、手続きが始まった。婚姻期間中の共有財産は、マンション一戸と中古車一台以外に、貯金はほとんどなかった。マンションは三十五年ローンで、頭金は二人の共有預金と親戚からの借金で支払い、その後のローンも二人で返済していた。中古車は健太が就職して二年目に買ったもので、千尋とは関係ない。そうなると、争点となるのはマンションだけだった。健太は、千尋が征司と一緒になったのだから、これっぽっちの金にはこだわらないだろうと思っていた。しかし、千尋が頭金とローン返済分の自分の持ち分を返済するよう強く主張したため、話し合いは行き詰まった。健太は千尋をけちだと罵り、徹に千尋と話すように頼んだ。しかし、千尋の態度は断固としており、徹も健太にその旨を伝えた。徹が一本の電話を受けた後、健太はすぐに千尋の持ち分額を振り込んできた。千尋は、やはり征司が裏で動いたのだろうと疑った。届け出の後、三十日間待てば、離婚が正式に成立することになっていた。役所の門を出る前に、千尋は健太に尋ねた。「健太」健太は立ち止まった。千尋は尋ねた。「離婚は、あなたが言い出したの
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