Masuk永遠に続くかと思われた地獄のような時間が、ようやく終わりを告げた。
「……本日はこれにて解散とする」 副組長の権田が忌々しそうに吐き捨てる声を聞き、幹部たちが重い腰を上げる。 その瞬間まで、私は表情筋を凍らせたまま、上座に座り続けていた。 背筋を伸ばし、顎を引き、視線は虚空の一点に固定する。瞬きさえ最小限に抑え、ただ「若き女帝」という記号になりきることだけに、全神経を注いでいたのだ。「お疲れ様でした、お嬢」 千隼が耳元で囁き、私の腕に手を添える。 立ち上がろうとした瞬間、膝から力がすうっと抜け落ちた。「っ……」「おっと」 千隼が自然な動作で腰を抱き寄せる。 端から見れば、仲睦まじい若頭と組長の姿だろう。けれど実際は、痺れて感覚のなくなった私の足を、彼が力ずくで支えているだけだ。「足、痺れました? 無理もありません。二時間もあの古狸たちの嫌味を聞かされていたんですから」「&二人だけの、誰にも邪魔されない世界。 だが、そんなささやかな平穏が、いつまでも続くほど、外の世界は甘くなかった。 ◇ 数ヶ月が過ぎた頃から、龍之介の持ち帰る「匂い」が変わり始めた。 土と汗の匂いに混じって、生々しい鉄の匂い──血の匂いが、頻繁に嗅ぎ取れるようになったのだ。 ある夜、帰ってきた龍之介の右目の上に、パックリと開いた新しい裂傷があった。 「現場で資材が崩れただけだ」と彼は短く吐き捨てたが、桔梗にはそれが嘘だとわかっていた。 傷の形状は、どう見ても鋭利な刃物や鈍器で殴られたものだ。 さらに、彼が長続きさせていた工事現場の仕事が、次々と理由もなく打ち切られるようになった。 「……また、明日から別の現場を探さなきゃなんねぇ」 ちゃぶ台の前で、安酒の入った湯飲みを呷りながら、龍之介が忌々しそうに舌打ちをした。 「どうしてですか。あんなに、親方さんに気に入られていたのに」 「さあな。上の方から、俺を雇うなって圧力がかかったらしい。……どこのどいつの差し金か、見当はついてるがな」 龍之介の目が、ギラリと暗い光を放つ。 桔梗は、息を呑んだ。 白河の家か。あるいは、あの男──不来方玄か。 警察組織や行政の末端にまで影響力を持つ彼らなら、一人の名もない日雇い労働者を社会の底辺からさらにその下へと追いやることなど、造作もないことだ。 桔梗を自分の箱庭から連れ出した野良犬に対する、陰湿で徹底的な兵糧攻め。 「……私の、せいですね」 桔梗が膝の上で両手を固く握りしめると、龍之介は湯飲みをドンと音を立てて置いた。 「馬鹿言ってんじゃねぇ。お前のせいじゃねぇ。世の中の仕組みがクソなだけだ」 「でも、私が彼らの誘いに乗っていれば、あなたがこんな目に……」 「桔梗」 龍之介が、低い声で彼女の言葉を遮った。 彼が立ち上がり、桔梗の前に膝をつく。 両手が、彼女の華奢な肩を強く掴んだ。 「あの息の詰まる屋敷に戻りたいか? あの気取った検事の隣で、一生人形みたいに笑って過ごしたいか?」
六畳一間、隙間風の入り込む古い木造アパート。 それが、白河の家を捨てた桔梗と、スラムの野良犬だった龍之介の、最初の「城」だった。 天井の隅には雨漏りの茶色いシミが広がり、歩くたびに床板がミシ、ミシと甲高い音を立てる。共同便所の水が流れる音が、薄い壁を隔てて容赦なく響いてくるような、生活のノイズにまみれた空間。 かつて桔梗が暮らしていた、塵一つ落ちていない広大な屋敷とは、文字通り天地の開きがあった。 だが、桔梗は、剥げかけたちゃぶ台を水拭きしながら、不思議なほどの充足感に包まれていた。 雑巾を絞る指先は、冷たい水道水で赤く悴んでいる。爪は短く切り揃えられ、かつての白魚のような滑らかさは失われつつあった。 それでも、この狭い四角い部屋の空気は、あの豪邸の無菌室よりもはるかに呼吸がしやすかった。 ガラリ、と。 建て付けの悪い玄関の引き戸が、重たい音を立てて開いた。 「……ただいま」 低い、ひどく疲労の滲んだ声。 桔梗は弾かれたように振り返り、立ち上がった。 「お帰りなさい、龍之介さん」 上がり框に腰を下ろした男は、作業着の肩にべっとりと泥とセメントの粉を付着させていた。汗と土埃、そして安煙草の匂いが、狭い玄関にむわっと広がる。 龍之介は重い安全靴を脱ぐと、どさりと板の間に仰向けに倒れ込んだ。 「……あー、クソ。腰が痛ぇ」 「今日もお疲れ様です。お茶を淹れますね」 「いや、いい。……ちょっと、こっち来い」 龍之介が、太く節くれだった手を桔梗へと伸ばす。 桔梗は膝をつき、彼の傍らに座った。 伸ばされた大きな手が、桔梗の首の後ろに回り、ぐいと強引に引き寄せる。 「あっ……」 顔が、彼の熱い胸板に押し付けられた。 作業着の粗い布地が頬を擦る。土の匂いと、一日中肉体を酷使した男の汗の匂い。 ドクン、ドクンという力強い心音が、ダイレクトに耳を打つ。 「……龍之介さん、泥がついてしまいますよ」 「構うか。俺の女なんだから、俺の泥くらい被っとけ」 乱暴な口調とは裏腹に、背中を撫
雨が降り始めた夕闇の向こうから、腹の底に響くような低い声が聞こえた。 不来方が弾かれたように振り返る。 ガードレールの傍らに、両手をポケットに突っ込んだ龍之介が立っていた。 傘もささず、肩から雨の滴を滴らせながら、彼は不敵に口角を吊り上げている。「お前が、久遠……」 不来方の顔面が、怒りと憎悪で歪む。「よくもノコノコと姿を現したものだ。社会の底辺を這いずり回るダニが、彼女に近づくな」「小難しい理屈はどうでもいい」 龍之介は、不来方の言葉を完全に無視して、真っ直ぐに桔梗の元へ歩み寄った。 不来方と桔梗の間に、分厚い身体を割り込ませるようにして立つ。 そして、桔梗の手を、自分の大きな手でしっかりと握りしめた。「……行こうぜ、桔梗。こんな息の詰まる場所、お前には似合わねぇ」「はい。……龍之介さん」 桔梗が、初めて不来方の前で、柔らかく、温かい微笑みを浮かべた。 それは、不来方がどれほど望んでも決して引き出すことのできなかった、心からの笑顔だった。「待て! 行かせると思うか!」 不来方が激昂し、龍之介の肩を掴もうと手を伸ばす。 だが、龍之介がゆっくりと首だけを振り返り、不来方を睨み据えた。 その瞬間、不来方の動きが完全に凍りついた。 殺気。 ただの威嚇ではない。これまで数え切れないほどの修羅場をくぐり抜け、命のやり取りをしてきた本物の獣だけが放つ、絶対的な暴力のプレッシャー。 エリートとして机の上で「正義」を振りかざしてきた不来方の身体が、本能的な恐怖で金縛りにあったように動かなくなる。「……次、その汚ぇ手で彼女に触れようとしたら、腕の骨、根元からへし折るぞ」 静かな、凄絶な宣告。 龍之介はそれだけを言い残し、桔梗の手を引いて雨の降る闇の中へと歩き出した。 不来方は、伸ばしかけた手を空中で震わせたまま、ただ二人の背中が遠ざかっていくのを見送ることしかできなかった
不来方は、写真を握り潰すように手の中に丸めた。 許せない。 彼女は、私のものだ。私の正しく美しい人生を彩るための、欠かせない存在だ。それを、あんな汚らわしい男がたぶらかしている。「彼女の目を覚まさせなければならない。……あの男から、彼女を保護する。それが、私の正義だ」 歪んだ使命感が、不来方の胸の奥で黒い炎となって燃え上がった。 相手の意志など関係ない。自分が正しいと信じた方向に相手を強制的に矯正すること。それこそが彼にとっての「法」であり「愛」だった。 その日の夕刻。 桔梗が屋敷の裏門からそっと外に出ようとした時、目の前に黒塗りの車が滑り込んできた。 後部座席から降りてきたのは、不来方だった。「どこへ行くつもりだ、桔梗さん」 静かな、だが逃げ場を塞ぐような冷たい声。 桔梗は足を止め、鞄の持ち手を強く握りしめた。「……少し、散歩に」「嘘をつくのは感心しないな。君の行動は、すべて把握している」 不来方は一歩、彼女との距離を詰めた。 夕暮れの薄暗がりの中、彼の眼鏡の奥の瞳が、爬虫類のようにねっとりとした光を放っている。「あの男に会いに行くのだろう? 久遠とかいう、スラムのチンピラに」「……探りを入れたのですか」 桔梗の声音が、スッと低くなる。 不来方は悪びれる様子もなく、淡々と答えた。「君を守るためだ。君は騙されている。あんな男の傍にいて、君が得るものは何もない。ただ泥にまみれ、破滅するだけだ」「それは、あなたが決めることではありません」「いいや、私が決める。君は私の妻になる女性だ。……さあ、屋敷に戻りなさい」 不来方の手が伸び、桔梗の腕を掴もうとした。 だが、桔梗はその手を鋭く払い除けた。 パシッ、と乾いた音が鳴る。 不来方の目が、驚愕に見開かれた。今まで一度も彼に逆らったことのない、従順なはずの令嬢が、明確な敵意と拒絶をもって彼を跳ね除けたの
「息なら、てめぇの立派な屋敷でいくらでもできるだろうが」「あそこには、空気がありません」 桔梗は両手で自分の膝を抱え、薄暗いガード下の奥を見つめた。「すべてが決められていて、誰かが用意した道の上を歩くだけ。……自分が生きているのか、ただの飾りの人形なのか、わからなくなるんです」 彼女の静かな、けれど切実な吐露。 龍之介は何も言わず、ただ自動販売機で買ってきた缶コーヒーを、無言で彼女の膝の横に置いた。 触れると、火傷しそうなほど熱い。 桔梗は冷え切った両手でそれを包み込んだ。じんわりとした熱が、手のひらから身体の芯へと広がっていく。「……俺の生きてる場所は、泥水すするような底辺だぞ」 龍之介が、前を見据えたまま低い声で言う。 その声には、自分と彼女の間に横たわる、決して埋まらない身分と環境の差に対する苛立ちが混じっていた。「油断すりゃ背中から刺される。明日の飯の保証もねぇ。綺麗な着物も、美味い紅茶も出してやれねぇ」「そんなもの、必要ありません」「はっ、世間知らずのお嬢様が、知ったような口を……」「龍之介さんの手は、温かいからです」 桔梗が、缶コーヒーから片手を離し、龍之介の右手にそっと自分の手を重ねた。 節くれ立ち、喧嘩のタコがいくつもできた、荒々しい男の手。 龍之介の肩が、ビクッと強張る。「……おい」「この前、ハンカチで血を拭いた時、わかりました。あなたの身体は、不格好で、傷だらけで……でも、誰よりも力強く生きようとしている熱で満ちている」 桔梗は、彼の手を強く握り返した。 その掌から伝わってくる生々しい命の鼓動が、桔梗の干からびた肺に、強烈な酸素を送り込んでくる。「私に、あなたの空気を分けてください」 龍之介は、重ねられた真っ白な手をしばらく見つめ、やがて深く、重い息を吐き出した。 振り払うことはしなかった。 代わりに、彼の大
その瞳の奥で、確かな熱が揺らぐ。 美しい。血筋、教養、そしてこの従順な佇まい。彼女は、法と秩序で世界を正すという己の完璧な人生設計において、隣に置くべき最後の、そして最高のピースだった。「桔梗さん。今日の着物も、よく似合っている。……だが、少し顔色が悪いのではないかな」 不来方は気遣うような口調で言いながら、手を伸ばした。 桔梗の膝の上に置かれた、真っ白な指先へ。 彼の指が触れる直前。桔梗はごく自然な動作で、茶托を直すふりをして手を引いた。 空を切った不来方の指先が、微かに宙で止まる。「お気遣い、ありがとうございます。ただの寝不足ですので」「そうか。ならば良いが。……来月、君のお父様と私の父を交えて、正式な食事の席を設けることになった。君には、何の心配もいらない。すべて私が手筈を整える」 君を守る。君を正しく導く。 不来方の口から紡がれる言葉は、常に「自分が主体」の論理で構成されていた。 桔梗の意思を問う隙間はない。彼にとって、圧倒的な正義と知性を持つ自分が彼女の人生の舵を取ることこそが、彼女にとっても最大の幸福であると信じて疑わなかったからだ。「……はい」 桔梗は短く答え、視線を庭の飛び石に落とした。 胸の奥が、重い鉛を飲んだように苦しい。 この男の傍にいると、真綿で首を絞められているような錯覚に陥る。清潔で、正しくて、一切のノイズがない世界。それは、桔梗が長年閉じ込められてきた白河家の「ガラスの箱」と同じ成分でできていた。 肺が、酸素を求めて悲鳴を上げている。 泥臭く、不規則で、熱を帯びた空気を吸い込みたいという衝動が、彼女の身体を内側から叩き続けていた。 ◇ その日の夜。 桔梗は、音を立てずに自室の窓を開け、暗い庭へと降り立った。 用意された着物ではなく、仕立ての古い木綿のワンピースに身を包み、財布だけを小さな鞄に押し込んで、裏木戸から夜の街へと駆け出す。 向かう先は決まっていた。 繁華街か