人生とは、不完全情報ゲームである。 経済学部の教授は、乾いたチョークの粉が舞う講壇でそう言いきった。 互いの手札が見えないテーブルで、プレイヤーはいかにして利得を最大化するか。あるいは――いかにして「損失」を最小限に食い止めるか。 私の生存戦略は、徹底して後者だった。 勝ちたいわけじゃない。目立ちたくもない。 ただ、負けないように。誰の記憶にも爪痕を残さず、路傍の石ころのように、あるいは風景の一部として息をする。それが、親戚の家をたらい回しにされ、どこへ行っても「余り物」として扱われて育った私が導き出した、たったひとつの正解だったからだ。 けれど、机上の空論と現実は違う。 ゲームの盤面なんてものは、いつだって理不尽な暴力によって、いともたやすくひっくり返される。 ――今の、私のように。 ◇ 一月の冷たい雨が、アスファルトを黒く塗りつぶしていた。 大学からの帰り道、私はいつものように商店街のアーケードを抜け、家賃三万円のアパートへ続く裏路地へと足を踏み入れた。時刻は午後九時を回ったところだ。 背筋がざわりとしたのは、路地に入ってすぐのことだった。 足音がする。 ……三人。いや、四人か。 傘を叩く雨音に紛れているけれど、聞き間違いじゃない。革靴が水を踏む、重たく湿った音が、私の歩調に合わせてぴたりと背後をついてくる。 胃のあたりが、ぎゅっと縮みあがるような感覚。 私はコートのポケットの中で防犯ブザーを強く握りしめ、歩く速度を上げた。あと五十メートルで大通りに出る。そこのコンビニまで走れば――。「おい、待ちえや」 喉に絡みつくような低い声とともに、行く手を塞がれた。 いつの間にか回り込んでいた男が二人。 振り返れば、退路を断つように背後にも二人。 完全に、囲まれている。「……何ですか」 声が裏返らないよう、下腹に力を込める。 彼らは明らかに堅気ではなかった。雨に濡れてよれた安物のスーツに、鼻をつく甘ったるい香水と、繊維に染みついた古いタバコの臭い。そして何より、私を見る目が、とろりと白濁して濁っている。「小鳥遊 咲良(たかなし さくら)ちゃんだな?」 心臓が早鐘を打った。 ただの通り魔や強盗じゃない。彼らは「私」という個人の顔と名前を特定して狙っている。「人違いです」「ハッ、とぼけんなよ。写真と一緒だ」
最終更新日 : 2026-01-27 続きを読む