「──……いい子ね、千隼」 執務室の革張りのソファに深く沈み込みながら、私は目の前の男の髪を梳いた。 足元には、関東一円を震え上がらせる「久遠の魔狼」こと、我妻 千隼(あがつま ちはや)が跪いている。 返り血で濡れたその頬を、彼は私の膝にうっとりと擦り寄せた。 まるで、褒められるのを待つ忠実な大型犬のように。 「すべて掃除してきましたよ、お嬢。……貴女の邪魔をするゴミは、これでもう一匹もいない」 彼は熱を帯びた瞳で見上げると、私の足首にそっと唇を落とした。 その背中には、決して後退しないことを誓う「百足(ムカデ)と彼岸花」の刺青が、妖しく蠢いている。 誰が信じるだろうか。 かつて平凡な女子大生だった私──小鳥遊 咲良(たかなし さくら)が、この狂った獣の手綱を握り、夜の東京を支配することになるなんて。 「愛しています、俺の飼い主(ごしゅじんさま)。……一生、俺の首輪を離さないでください」 ――これは、理不尽な暴力に愛された私が、最強の番犬と共に世界へ牙を剥く、愛と反逆の物語だ。 ◇ ◇ ◇ 「――人生とは、不完全情報ゲームである」 乾いたチョークの粉が舞い、黒板を叩く音が講義室に響いた。 経済学部の老教授が、講壇の上で淡々と数式を書き連ねている。一月の講義室は底冷えがして、私は逃げるように安物のコートの前をかき合わせた。 教授の声が、遠くの波音のようにぼんやりと聞こえてくる。 「互いの手札が見えないテーブルの上で、プレイヤーはいかにして利得を最大化するか。あるいは――いかにして『損失』を最小限に食い止めるか」 私の生き方は、徹底して後者だった。 誰かに勝ちたいわけじゃない。誰の視線も集めたくない。 ただ、これ以上傷つかないように。誰の記憶にも残らない路傍の石ころのように、風景の一部として静かに息を潜める。 親戚の家をたらい回しにされ、どこへ行っても「余り物」として疎まれて育った私が、生き延びるために導き出した、たったひとつの正解。 だから私は、今日も分厚い前髪を長く伸ばして顔を隠す。 紫がかった黒――アメジストのような不気味な瞳だと気味が悪がられるこの目を、誰にも見せないように、誰とも合わせないように。 けれど、机の上で積み上げた理屈は、現実の前ではあまりにも無力だ。
Last Updated : 2026-01-27 Read more