極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜 のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 7

7 チャプター

第1話:朱に染まる出逢い①

 人生とは、不完全情報ゲームである。 経済学部の教授は、乾いたチョークの粉が舞う講壇でそう言いきった。 互いの手札が見えないテーブルで、プレイヤーはいかにして利得を最大化するか。あるいは――いかにして「損失」を最小限に食い止めるか。 私の生存戦略は、徹底して後者だった。 勝ちたいわけじゃない。目立ちたくもない。 ただ、負けないように。誰の記憶にも爪痕を残さず、路傍の石ころのように、あるいは風景の一部として息をする。それが、親戚の家をたらい回しにされ、どこへ行っても「余り物」として扱われて育った私が導き出した、たったひとつの正解だったからだ。 けれど、机上の空論と現実は違う。 ゲームの盤面なんてものは、いつだって理不尽な暴力によって、いともたやすくひっくり返される。 ――今の、私のように。 ◇ 一月の冷たい雨が、アスファルトを黒く塗りつぶしていた。 大学からの帰り道、私はいつものように商店街のアーケードを抜け、家賃三万円のアパートへ続く裏路地へと足を踏み入れた。時刻は午後九時を回ったところだ。 背筋がざわりとしたのは、路地に入ってすぐのことだった。 足音がする。 ……三人。いや、四人か。 傘を叩く雨音に紛れているけれど、聞き間違いじゃない。革靴が水を踏む、重たく湿った音が、私の歩調に合わせてぴたりと背後をついてくる。 胃のあたりが、ぎゅっと縮みあがるような感覚。 私はコートのポケットの中で防犯ブザーを強く握りしめ、歩く速度を上げた。あと五十メートルで大通りに出る。そこのコンビニまで走れば――。「おい、待ちえや」 喉に絡みつくような低い声とともに、行く手を塞がれた。 いつの間にか回り込んでいた男が二人。 振り返れば、退路を断つように背後にも二人。 完全に、囲まれている。「……何ですか」 声が裏返らないよう、下腹に力を込める。 彼らは明らかに堅気ではなかった。雨に濡れてよれた安物のスーツに、鼻をつく甘ったるい香水と、繊維に染みついた古いタバコの臭い。そして何より、私を見る目が、とろりと白濁して濁っている。「小鳥遊 咲良(たかなし さくら)ちゃんだな?」 心臓が早鐘を打った。 ただの通り魔や強盗じゃない。彼らは「私」という個人の顔と名前を特定して狙っている。「人違いです」「ハッ、とぼけんなよ。写真と一緒だ」 
last update最終更新日 : 2026-01-27
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第2話:朱に染まる出逢い②

「……汚ねぇ手で触るなよ、三下」 腹の底に重く響くような、低く、湿り気を帯びた声。 男たちは一瞬で凍りついたように動きを止めた。「テメェ、何だ!?」「黒鉄(くろがね)の使いっ走りか。躾(しつけ)がなってねぇな」 黒スーツの男――我妻千隼(あがつま ちはや)は、退屈そうに首をコキリと鳴らした。 彼を取り囲もうとした三人の男たちが、懐からナイフや警棒を取り出して襲いかかる。「死ねやオラァッ!」 私なら悲鳴を上げて目を背ける場面だ。 けれど、私は金縛りにあったように指一本動かせなかった。 目の前で繰り広げられる暴力が、あまりにも無駄がなく、洗練されすぎていたからだ。 千隼は、ズボンのポケットに片手を突っ込んだまま、最初の一人の拳を紙一重でかわした。 最小限の動き。 すれ違いざま、男の喉元へ手刀を突き刺す。 ゴッ、と鈍い音がして、男が白目を剥いてその場に崩れ落ちる。「ヒッ……!?」 残る二人が怯んだ隙を、彼は見逃さない。 千隼の姿がブレた――そう錯覚するほどの速さだった。 瞬きをする間に間合いを詰め、一人の顔面を容赦なくコンクリートの壁に叩きつける。熟れた果実が潰れるようなぐしゃりという音とともに、壁に赤い染みが広がった。 最後の一人が、顔を引きつらせてナイフを滅茶苦茶に振り回す。「ば、化け物……!」「よく言われる」 千隼は口の端を吊り上げると、振り下ろされたナイフを素手で掴んだ――いや、手首を掴んで止めたのだ。 そのまま、無造作にひねり上げる。 バキバキバキッ!「ぎゃああああああああ!」「うるせぇ。お嬢の耳が汚れるだろ」 千隼は一切のためらいもなく、男の鳩尾(みぞおち)に革靴のつま先を深くめり込ませた。 男はボールのように吹き飛び、ゴミ捨て場に頭から突っ込んで動かなくなる。 静寂が戻る。 聞こえるのは、叩きつけるような雨音と、私の荒い呼吸音だけ。 わずか数十秒。 四人の屈強な男たちが、たった一人の手によって、ただの肉の塊に変えられていた。 これが、現実? 私は震える指先で泥水を掴み、ずるずると後ずさりする。 助かったのかもしれない。けれど、本能がけたたましく警報を鳴らしていた。 あのチンピラたちよりも、もっと凶悪で、もっと話の通じない相手が、目の前にいる。 コツ、コツ、コツ。 革靴の音が近づいて
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第3話:黄金の檻①

 深い泥底から無理やり引きずり上げられたように、意識が浮上した。 肺がひどく重い。酸素を求めて何度も浅い呼吸を繰り返すが、喉の奥がカラカラに乾いていて、うまく吸い込めない。まぶたを開けようとしても、鉛を乗せられたように動かなかった。 最初に認識したのは匂いだった。 いつものアパートに漂う、湿気たカビや埃の匂いではない。鼻の奥をツンと刺激する新しい畳の青い匂いと、どこかで焚き染められている白檀の香り。甘く重たい煙が、室内の空気をねっとりと澱ませていた。 ここはどこだ。 ぼんやりとした頭で記憶を手繰り寄せる。冷たい雨が叩きつけるアスファルト。男たちの粘つくような視線と下品な笑い声。腕をねじ上げられた瞬間の、骨が軋む嫌な音。 そして――。『お迎えに上がりました、お嬢』 雨と返り血に濡れた、あの男の笑顔。 心臓が早鐘を打ち、私は弾かれたように目を見開いた。「っ、はぁ……!」 半身を起こすと、掛かっていた布団が衣擦れの音を立てて滑り落ちた。指先に触れたのは、肌に吸い付くような上質な絹の感触。視線を彷徨わせれば、見たこともないほど高い天井が目に入る。格子状に組まれた木枠の一マスごとに、極彩色の花々が描かれていた。「起きましたか」 涼やかな声が鼓膜を打ち、背筋が粟立った。 部屋の隅、行燈の淡い光が届かない薄暗がりに、男が座っている。 我妻千隼。 昨夜のスーツ姿ではない。ゆったりとした黒い着流しを身に纏い、文机に向かって筆を走らせている。緩んだ襟元から覗く首筋や鎖骨が、闇の中でやけに白く、刃物のように鋭利に見えた。 まるで時代劇のワンシーンのような静謐さだが、彼が全身から放つ冷気だけが、ここが紛れもない「現実」だと告げている。「……あんた、は」 喉が張り付いて、掠れた音しか出ない。 千隼は手元の書類から目を離さず、手慰みのように朱塗りの杯を指先で転がした。「水なら枕元に。毒なんて入れてませんから、安心して飲んでください」 視線を落とすと、枕元の盆に氷の入った切子のグラスが置かれていた。 震える手で掴み、一気に喉へ流し込む。冷たい液体が胃の腑に落ちると、恐怖で麻痺していた思考の歯車が、ぎしりと音を立てて回り始めた。 改めて周囲を見渡す。 二十畳はある広い和室。床の間には威圧的な筆致の掛け軸と、恐らく美術館にあってもおかしくない古びた
last update最終更新日 : 2026-01-27
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第4話:黄金の檻②

 千隼の声から、ふっと温度が消えた。「実際は毒を盛られた可能性が高い。犯人はまだ内部に潜んでいるかもしれない」「……っ」「先代には、正妻との間に子供がいなかった。唯一の血縁者は、隠し子である貴女だけだ。久遠の血を引く者だけが持つ『カリスマ』――それを継承できるのは、貴女しかいないんですよ」 彼が私の髪を一房、指先で掬い上げた。 頬に触れた指が、死体のように冷たい。「だから、昨夜みたいな連中が湧いてくる。敵対する『黒鉄会』、そして内部の裏切り者たち。貴女が生きてるだけで都合が悪い奴らが、山ほどいるんです」 昨夜の光景が脳裏にフラッシュバックする。 鈍い音を立てて砕ける骨。ねじ上げられた手首の熱さ。男たちの欲情と加虐心が入り混じった目。 あれは夢じゃなかった。私は本当に、殺されかけたんだ。「そんなの……関係ない」 声が震えるのを止められない。 関係ない。私はただ、大学に通って、奨学金を返して、普通の企業に就職して、誰にも迷惑をかけずに生きていきたいだけなのに。こんな血なまぐさい世界、知ったことじゃない。「関係ない? 昨夜、死にかけたくせに?」「警察に行く。全部話して、保護してもらうから!」 私は布団を跳ね除け、立ち上がろうとした。 だが、それより速く、千隼の手が私の肩を掴む。「きゃっ……!」 畳に叩きつけられた。 視界がぐるりと回転し、気づけば千隼に見下ろされている。 彼の長い前髪が私の頬にかかり、視界を遮る。至近距離にある三白眼が、獲物を狩る獣のように昏く光っていた。「警察?」 鼻で笑われた。「サツが貴女を守れると本気で思ってるんですか? 法律だの正義だの、そんな綺麗事が通じるのは表の世界だけだ」 彼の指が、私の首筋をゆっくりとなぞる。 ドクドクと脈打つ頸動脈の上で、鋭い爪が止まった。いつでも喉笛を噛み切れると教えるように。「奴らは、留置所の中にだって刺客を送れる。警察に駆け込んだ瞬間、そこは貴女の墓場になりますよ」「……っ、う……」 言葉に詰まる。 昨夜の男たちの目。あれは、法律や警察なんてこれっぽっちも怖がっていない目だった。 私の知っている「論理」や「社会のルール」が通用しない世界が、薄皮一枚向こう側に口を開けている。それを昨夜、嫌というほど思い知らされたばかりだ。「じゃあ……どうしろって言うのよ」
last update最終更新日 : 2026-01-27
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第5話:黄金の檻③

「……犬?」「そう。圧倒的なカリスマを持つ主人のために、牙を剥き、血を浴び、その足元に獲物を捧げる……そういう生き方しかできない狂犬なんです、俺は」 彼は私の手を取り、自分の頬に押し当てた。 彼の手のひらは熱く、私の冷たい指先を包み込む。「先代は偉大な主だった。だが、もういない。今の俺は、首輪のない飼い犬だ。……退屈で、飢えて、暴れ出したくて仕方がない」 彼は私の手のひらに唇を落とした。 濡れた感触に、びくりと肩が跳ねる。「貴女からは、先代と同じ匂いがする。まだ眠っているが、目覚めればきっと、俺をゾクゾクさせるような『女帝』になる」 彼の言葉は、忠誠というよりは、歪んだ欲望のように聞こえた。 私という素材を、自分好みの支配者に育て上げようとする、狂気的な執着。「俺を飼い慣らしてください、咲良様。そうすれば、この世のすべての敵から、貴女を守り抜いてみせましょう」 彼の瞳が、私を絡め取る。 アメジストのような私の瞳に、自分の姿が映っているのを満足げに確認するように。 逃げられない。 ここは美しい檻だ。 肌に吸い付くような絹の布団も、静寂に満ちたこの和室も、すべては私をこの世界に閉じ込めるための罠。外には死が待ち受け、中にはこの男がいる。 目の前のこの美しい猛獣こそが、最強の看守であり、私を地獄へ引きずり込む案内人なのだ。「……選択肢なんて、ないようなもんじゃない」 乾いた笑みが漏れた。 ここで「No」と言えば死ぬ。 「Yes」と言えば、修羅の道。 どちらも地獄なら、まだ息ができる方を選ぶしかない。私は、生きたいから。「賢明ですね」 千隼は満足げに目を細めた。 その時、廊下からドタドタと荒々しい足音が近づいてくるのが聞こえた。「おい若頭! 女が起きたって本当かよ!」 襖が乱暴に開け放たれる。 現れたのは、いかにも昔気質のヤクザといった風貌の中年男たちだった。 幹部連中だろうか。彼らは布団の上に座る私を見て、露骨に顔をしかめた。「なんだ、この貧相な小娘は。本当に先代の種か?」「こんなガキに何ができる。俺たちの親になれる器じゃねえぞ」 侮蔑と敵意の視線が、一斉に私に突き刺さる。 言葉のナイフ。暴力の気配。 私は思わず身体を縮こまらせた。 けれど、千隼は私の前に立ちはだかった。 着物の上からでも背中の刺青が
last update最終更新日 : 2026-01-27
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第6話:針の筵①

 翌朝。 重い瞼を持ち上げると、天井の木目が目に映った。見慣れない格子天井。 夢なら覚めてほしかったけれど、鼻をつくお香の匂いが、ここが昨夜の「続き」であることを容赦なく突きつけてくる。 身体を起こす。昨夜、千隼に投げつけられた布団の上だ。筋肉がこわばって、節々が軋むように痛い。 ふすまが音もなく開いた。「おはようございます、お嬢」 我妻千隼。 昨夜の着流し姿から一変、黒の三つ揃えのスーツを隙なく着こなしている。 整髪料で撫でつけた髪、陶器のように白い肌。 朝の光の中に立つ彼は、昨夜よりもさらに「組織の人間」としての輪郭をはっきりとさせていた。綺麗だけれど、触れれば指が切れそうな刃物の美しさだ。「……おはよう」「顔色が悪いですね。ま、これから処刑台に上る囚人にしてはマシな方か」 千隼は軽口を叩きながら、枕元に置いてあった私の腕時計――昨夜、彼が放り投げた安物だ――を拾い上げ、サイドテーブルに置いた。 その動作の自然さに、ここがすでに彼の支配下であることを思い知らされる。「支度を。皆がお待ちかねですよ」 千隼が短く合図をすると、数人の女たちが無言で部屋に入ってきた。 昨夜の予告通りだ。美容師と着付け師たちは、私と目を合わせようともせず、手際よく私を鏡台の前へ座らせる。 鏡の中の自分と目が合った。 土気色の顔に、クマの浮いた目。どこにでもいる、冴えない女子大生。 昨夜は勢いで啖呵を切ったけれど、明るい場所で見ると滑稽なほど弱々しい。これが、極道の娘?「さあ、化けてもらいましょうか」 千隼が鏡越しに私を見下ろして、低い声で言った。 そこからは、解体作業みたいだった。 伸び放題だった髪は油で撫でつけられて結い上げられ、顔色が分からなくなるほど白粉(おしろい)をはたかれる。唇には、血のような紅を引かれた。 最後に、黒留袖。 背中には久遠の家紋、「下り藤」。 帯がきつく締め上げられるたび、肺の中の空気が無理やり押し出されて、肋骨がきしんだ。 苦しい。 これは晴れ着なんかじゃない。私をこの家に縛り付
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第7話:針の筵②

 ◇  廊下に出ると、空気が変わった。 磨き上げられた床板がどこまでも続いていて、ひっそりと静まり返っている。 でも、大広間に近づくにつれて、その静けさがざらついた気配に変わっていくのが分かった。 男たちの低い話し声。怒号みたいな笑い声。鼻をつく煙草の臭い。 胃がきりきりと痛む。 足がすくみそうになるのを、隣を歩く千隼の革靴の音が、強制的に前へ進ませる。 カツ、カツ、カツ。 彼の足音は機械みたいに規則正しくて、それが余計に私を追い詰めた。 大広間の立派なふすまの前で、若い衆が二人、直立不動で立っていた。 私と千隼を見ると、弾かれたように頭を下げる。「お、お疲れ様ですッ! 若頭!」 彼らの視線が、ちらりと私に向けられる。 値踏みするような、好奇心に満ちた目。「これが先代の隠し子か」「こんなガキが?」という声が聞こえてくるようだ。「開けろ」 千隼が短く言う。 ふすまが左右に開け放たれた、その瞬間。 ――どっ、と熱気が顔に吹き付けた。 五十畳はある大広間。 上座には遺影が飾られ、線香の煙が白く漂っている。 その下座に、黒い塊がびっしりと並んでいた。 三十人、いや四十人はいる。 黒いスーツに、紋付袴。丸太みたいに太い腕、首元から覗く和彫り、顔に刻まれた古傷。 全員の視線が、一斉に私へ突き刺さる。「…………」 部屋の中が静まり返った。 敬意なんてものじゃない。 檻の中に放り込まれた餌を、猛獣たちが品定めしている沈黙だ。 息をするのも忘れて、立ち尽くした。 足が動かない。ここから先へ行ってはいけないと、本能が警告している。 帰りたい。今すぐ踵を返して、全速力で逃げ出したい。 でも、背後には千隼がいる。退路なんてない。「どうぞ」 千隼が背中を軽く押した。 たったそれだけで、私は猛獣の群れの中へ押し出された。 一歩、畳を踏む。 足音がやけに大きく響いた。 視界の端で、誰かが舌打ちをするのが見えた。
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