「──……いい子ね、千隼」 執務室の重厚な革張りソファ。その深く沈み込むような感触に体重を預け、目の前で恭しく跪く男の、硬い黒髪にゆっくりと指を通した。 指先に絡みつく毛先からは、微かに雨の湿り気と、鉄錆によく似た血の匂いが立ち上ってくる。足元に伏せているのは、関東一円の裏社会を震え上がらせる『久遠の魔狼』こと、我妻千隼だ。 返り血を浴びてまだ熱を失っていない頬を、すりすりと、膝へうっとり擦り寄せてくる。 ストッキング越しに伝わる硬い頬骨の感触。そして、じわりと肌を焼くような、尋常ではない体温。まるで、血の滴る獲物を持ち帰り、主の撫でる手を待つ忠実な大型犬そのものだった。 「すべて掃除してきましたよ、お嬢。……貴女の視界を汚すゴミは、これでもう一匹もいない」 細められた三白眼が、下から射抜くように真っ直ぐに見上げてくる。 光を一切反射しない、底の抜けたような漆黒の双眸。そこには、どろりとした狂気的な熱と、太い鎖で何重に繋ぎ止めてもなお溢れ出すような、息苦しいほどの執着がこびりついていた。 千隼は顔を寄せると、足首にそっと、吸い付くような重い唇を落とした。 ちゅ、という微かな水音が、静まり返った室内で不気味なほど鮮明に響く。皮膚の表面をちりちりとした痺れが駆け上がり、思わずつま先を丸めた。 無造作に寛げられたシャツの襟元から、決して背を見せない覚悟を刻んだ『百足と彼岸花』の赤と黒の刺青が、荒い呼吸に合わせて妖しく蠢いている。 誰が想像できただろうか。 かつて、分厚い前髪で顔を隠し、息を潜めて生きていた平凡な大学生、小鳥遊咲良が――この獰猛な狂犬の首輪を握り、夜の東京を支配する存在へと変貌を遂げるなんて。 「愛しています、俺の飼い主(ごしゅじんさま)。……どうか一生、俺の鎖を離さないでください」 腹の底を直接揺さぶるような、低く、ねっとりとした声。 これは、理不尽な運命に巻き込まれた女が、最強の番犬と共に世界を喰らい尽くす、反逆と愛の物語だ。 ◇「――人生とは、不完全情報ゲームである」 乾いたチョークの粉が舞い、黒板を叩く無機質な音が講義室に響く。 一月の冷え込んだ空気。暖房の効きが悪い教室の隅で、安物のコートの襟を立て、小さく身を縮めていた。 老教授の声が、遠くの波音のように鼓膜を滑っていく。
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