Masuk「俺を飼い慣らしてください、お嬢。邪魔な敵はすべて排除して、世界を貴女に捧げましょう」 平凡な女子大生・咲良は、生き残るためにヤクザ組織「久遠組」の三代目を継ぐことに。彼女が選んだのは、美しくも危険な若頭・我妻千隼との『契約結婚』だった。 「貴女だけの『犬』になりたい」 そう跪く千隼だが、その愛は重く、狂気的なまでに独占的だった。「髪も唇も指先も、すべて俺のものです」 論理で戦う女子大生×本能で愛する狂犬ヤクザ。命がけの契約から始まる、極上の溺愛下克上ロマンス!
Lihat lebih banyak「──……いい子ね、千隼」
執務室の重厚な革張りソファ。その深く沈み込むような感触に体重を預け、目の前で恭しく跪く男の、硬い黒髪にゆっくりと指を通した。 指先に絡みつく毛先からは、微かに雨の湿り気と、鉄錆によく似た血の匂いが立ち上ってくる。足元に伏せているのは、関東一円の裏社会を震え上がらせる『久遠の魔狼』こと、我妻千隼だ。 返り血を浴びてまだ熱を失っていない頬を、すりすりと、膝へうっとり擦り寄せてくる。 ストッキング越しに伝わる硬い頬骨の感触。そして、じわりと肌を焼くような、尋常ではない体温。まるで、血の滴る獲物を持ち帰り、主の撫でる手を待つ忠実な大型犬そのものだった。 「すべて掃除してきましたよ、お嬢。……貴女の視界を汚すゴミは、これでもう一匹もいない」 細められた三白眼が、下から射抜くように真っ直ぐに見上げてくる。 光を一切反射しない、底の抜けたような漆黒の双眸。そこには、どろりとした狂気的な熱と、太い鎖で何重に繋ぎ止めてもなお溢れ出すような、息苦しいほどの執着がこびりついていた。 千隼は顔を寄せると、足首にそっと、吸い付くような重い唇を落とした。 ちゅ、という微かな水音が、静まり返った室内で不気味なほど鮮明に響く。皮膚の表面をちりちりとした痺れが駆け上がり、思わずつま先を丸めた。 無造作に寛げられたシャツの襟元から、決して背を見せない覚悟を刻んだ『百足と彼岸花』の赤と黒の刺青が、荒い呼吸に合わせて妖しく蠢いている。 誰が想像できただろうか。 かつて、分厚い前髪で顔を隠し、息を潜めて生きていた平凡な大学生、小鳥遊咲良が――この獰猛な狂犬の首輪を握り、夜の東京を支配する存在へと変貌を遂げるなんて。 「愛しています、俺の飼い主(ごしゅじんさま)。……どうか一生、俺の鎖を離さないでください」 腹の底を直接揺さぶるような、低く、ねっとりとした声。 これは、理不尽な運命に巻き込まれた女が、最強の番犬と共に世界を喰らい尽くす、反逆と愛の物語だ。◇
「――人生とは、不完全情報ゲームである」
乾いたチョークの粉が舞い、黒板を叩く無機質な音が講義室に響く。 一月の冷え込んだ空気。暖房の効きが悪い教室の隅で、安物のコートの襟を立て、小さく身を縮めていた。 老教授の声が、遠くの波音のように鼓膜を滑っていく。 「互いの手札が見えないテーブルの上で、いかにして損失を最小限に食い止めるか。……それが、持たざる者が生き残る唯一の術だ」 その言葉は、処世術そのものだった。 親戚の家をたらい回しにされ、どこへ行っても「余り物」として疎まれて育った日々。生き延びるために導き出した答えは、誰の記憶にも残らない「風景の一部」になること。 だから、分厚い前髪を長く伸ばして顔を隠す。気味が悪いと罵られてきた、この紫がかった黒い瞳――アメジストのような色を帯びた異質な目を、誰にも見せないように。 だが、必死に守ってきた平坦な日常に、避けがたい運命の引力が働き始めたのはその時だった。 前の席に座る学生がこっそり眺めていた、スマートフォンの画面。 『……新宿の路上で起きた発砲事件。現場から逃走していた指定暴力団・久遠組の幹部、我妻千隼(あがつま ちはや)容疑者が先ほど身柄を確保されました――』 無機質なアナウンサーの声が、ノイズ混じりのスピーカーから漏れ聞こえる。 小さな画面の中、雨が打ちつける新宿の路上。パトカーの赤い回転灯が乱反射する中、警官たちに取り囲まれながら後部座席へ押し込まれようとしている一人の男が映し出された。 手錠をかけられ、乱暴に頭を押さえつけられているというのに、その歩みには一切の怯えがない。それどころか、引きちぎられたシャツの襟元から覗く、血のように赤い彼岸花と悍ましい百足の刺青が、濡れた肌の上で妖しく蠢いているように見えた。 ふと、男が顔を上げた。 黒く長い前髪の隙間から、カメラのレンズを、いや、その向こう側にいる『こちら』を真っ直ぐに射抜く視線。 黒目の下方に異常なほど白地が目立つ、鋭角的な三白眼。 画面越しだというのに、獲物を値踏みするような漆黒の瞳と完全に視線が絡み合った錯覚に陥り、心臓がドクンと嫌な音を立てた。 執着、そして圧倒的な熱。 指先の血液が一瞬にして凍りつき、シャーペンを握る手に力が入らなくなる。 我妻、千隼。 テロップに表示されたその名前と、氷のように冷たい世界に暴力的なまでの色彩を叩きつけてきた三白眼が、鼓膜と網膜の奥にこびりついて離れない。 不快だ。関わりたくない。あんな世界の住人、一生縁がないはずだ。 そう強く言い聞かせ、ノートに無意味な幾何学模様を書き殴る。前髪をさらに深く下ろし、紫の瞳を世界から遮断する。 だが、胸の奥に澱のように溜まった衝撃は、消えてはくれなかった。積み上げた理屈なんて、一瞬の嵐でひっくり返る。 その時の私はまだ、それを認めようとはしていなかった。◇
大学の講義を終え、図書室で時間を潰してから外へ出ると、一月の冷たい雨が、アスファルトをどろどろとした黒に塗りつぶしていた。
いつものように寂れた商店街のアーケードを通り抜け、裏路地へと足を踏み入れる。家賃三万円の湿気たアパートへ続く、最短ルートだ。 ジジッ、ジジッ……と。 寿命が尽きかけた街灯が、点滅しながら頼りなく足元を照らしている。 背筋がざわりとしたのは、路地に入ってすぐのことだった。 背後で、重たく湿った革靴が水を弾く音がする。三人、いや、四人。 歩調を合わせるように、ぴたりと背後をついてくる粘着質な気配。 胃の奥がぎゅっと縮みあがる。コートのポケットの中で防犯ブザーを握りしめ、早足になった。 あと少し。大通りのコンビニの明かりが見えれば、そこは安全圏。 「おい。小鳥遊咲良だな?」 不意に、喉に泥が絡みつくような低い声に道を塞がれた。 心臓が冷水を浴びたように跳ね上がる。前方に二人、そしていつの間にか背後にも二人。よれたスーツから漂う、鼻を突く安物の甘ったるい香水と、雨に濡れたタバコのヤニの匂い。 「人違いです」 「ハッ、とぼけんな。写真と瓜二つじゃねぇか。その気味の悪い紫の目……『久遠』の血を引いてる証拠だろうが」 前髪の隙間から覗くアメジストの色を指摘され、呼吸が浅くなる。 男の一人が、泥水をバシャリと踏みにじって距離を詰める。その右手には、青白い火花を散らすスタンガンが握られていた。 「大人しく来い。お前みたいな貧乏学生でも、その血には億の価値があるんだよ」 これ以上の対話は無意味だ。逃げ場を塞がれ、胃の奥がギリギリと軋む。 男がぬっと汚れた腕を伸ばし、肩を掴もうとした。 「触らないで……!」 反射的にその手を振り払おうとした。爪を立て、腕を思い切り引っ掻く。 「っの、アマが!」 逆上した男が、手首を強引に掴み、背中へとねじ上げた。 「い、痛っ……!」 「活きがいいじゃねぇか。そういうのは、ベッドの上だけで十分なんだよ!」 生温かい吐息が顔にかかり、強烈な吐き気が込み上げる。腕が軋むたびに、視界が涙で白く滲んでいく。 誰も来るはずがない。泣いても状況は変わらない。考えるのよ、咲良。 けれど、膝が笑って力が入らない。意識が恐怖に飲み込まれそうになった、その時だった。 ヒュッ、と空気が鋭く裂ける音が響いた。 「――あ?」 手首を掴んでいた男が、間の抜けた声を漏らす。 次の瞬間。 ゴヂュッ。 水を含んだ雑巾を力任せに絞り上げたような、あるいは生木を無理やりへし折るような、おぞましい破壊音が路地裏に鳴り渡った。 「ぎ、……あ?」 男の腕が、物理的にありえない方向に折れ曲がっていた。肘から先が、糸の切れた操り人形のようにぶらりと垂れ下がっている。 「ガ、アアアアアアアアアッ! ?」 遅れて脳に届いた激痛に、男が喉を裂くような悲鳴を上げて転げ回る。 拘束が解け、濡れたアスファルトにへたり込んだ。冷たい泥水がスカートを汚していくが、そんなことはもうどうでもよかった。 呆然と顔を上げると、激しく降りしきる雨の中、街灯の逆光を背に受けて立つ一つの影があった。点滴の滴る音が、静まり返った病室で重く時を刻んでいる。 プラスチックの管を流れる透明な液体が、一定のリズムで私の静脈へと吸い込まれていく。下腹部の縫合痕は、呼吸を深めるたびに焼けつくような熱を帯び、内側から肉を抉るような鈍い痛みを主張し続けていた。 ベッドの背もたれに身体を預け、震える指先でスマートフォンの画面をなぞる。 観音聖から送られてきた不来方の深層データ。そこには、一つのフォルダが、まるであらゆる災厄を詰め込んだ箱のように鎮座していた。「……お嬢。これ以上は、俺が読みます。アンタの目は、もう限界だ」 ベッドの脇に置いた丸椅子に腰掛け、私の左手を両手で包み込んでいた千隼が、掠れた声で制止する。 泥と血に汚れたままの彼の指先は、カサカサと乾いた音を立てて私の肌を擦った。千隼自身の右肩からも、包帯を浸食するほどの熱が立ち上っている。だが、彼は自分の痛みなどこの空間には存在しないかのように、ただ私の体温が逃げるのを防ぐことに全神経を注いでいた。「いいえ……私の目で見なきゃいけないのよ。これは、私が終わらせるべき因縁なんだから」 乾ききった喉を震わせ、私はフォルダをタップした。 展開されたのは、数千枚にも及ぶ画像ファイルのパレードだった。「……っ!」 隣で千隼の喉がヒュッと鳴る。私の手を握る彼の指に、骨が軋むほどの力がこもった。 一番上の画像。それは、二十年以上前の、雨の日のスナップ写真だった。 スーパーの軒先で、幼い私を抱き、片手で重そうに日傘を差している母・桔梗。 次の画像へスワイプする。 安アパートのベランダで洗濯物を干す母。 公園のベンチで、私の泥だらけの靴を拭いてくれている母。 パート先のクリーニング店から、疲れ果てた顔で出てくる母。 すべての写真に、赤いデジタル数字で日付と秒単位の時間が刻まれている。 遠くから、望遠レンズの冷たい硝子越しに、彼女の呼吸の回数までも数えるような異常な距離感。「お父さんは…&hellip
カタン、という乾いた音が鳴る。 「……さて。あの狂犬が、どこまで不来方の首を食い破るか。高みの見物とさせてもらおう」 立ち上がり、窓ガラスの向こうの夜景を見下ろす。 雨は上がっていたが、雲の隙間から覗く月は、ひどく冷たく、無機質な光を放っていた。 ◇ 病室の空気は、時間とともに少しずつ重みを増していた。 点滴の落ちる音が、静寂の隙間を埋めている。 千隼は、パイプ椅子からベッドの縁へと移動し、左手を両手で包み込んだまま、じっと顔を見つめている。 「……あまり無理をしないでください。傷が開く」 手元のスマートフォンを気遣わしげに見つめながら、低い声が落ちる。 「平気よ。痛み止めが効いてるから」 画面をスクロールする指を止めず、不来方のデータの深層へとアクセスを続ける。 表向きの資金ルート、政治家との癒着。そして、先ほど確認した本拠地の座標と、狂気的な保管庫の存在。 「不来方は、お母さんが死んだ事実を、自分の都合のいいように歪めて保存しているのね。……極道という世界全体を憎むための、免罪符として」 「ジジイの妄執に、お嬢が付き合う義理はねえ。俺が一人でその座標に向かって、施設ごと全部叩き潰してきます」 千隼が身を乗り出し、三白眼を険しく細める。 その声には、私のためにあらゆる障害を物理的に排除しようとする、確固たる忠誠がこびりついていた。 「駄目よ」 スマートフォンをシーツの上に置き、彼の瞳を真っ直ぐに見返す。 「あなた一人で行かせたら、あなたは不来方を殺して帰ってくる。……それじゃ、終わらないの」 千隼の喉仏が上下し、反論を探すようにわずかに口が開いたが、声は出なかった。 図星だったからだ。彼は敵を排除することしか知らない。 「可哀想だから許すんじゃないわ。……でも、殺して終わらせれば、同じ呪いを私たちが継ぐことになる」 腹部の縫合痕がジンと痛む。 傷を押さえるように手を当て、ゆっくりと上体を起こす。 「お嬢! 起き上がっちゃ駄目だ!」 千隼が慌てて肩を支えようと手
「……会長。各フロント企業への通達、完了いたしました」 背後から、控えめな声が響く。 デスクの前に直立不動で立つ腹心の部下が、手元のタブレットを操作しながら報告を続ける。「不来方関連のダミー口座からの資金の引き揚げ、およびダミー会社の物理的な解体作業、すべて順調に進んでおります。特捜部が動く前に、我々の痕跡は完全に消去される手筈です。黒鉄会はこれで、不来方の共倒れ計画から完全に切り離されました」「……そうか。ご苦労」 観音は視線を動かさず、温度のない声で応じた。「はっ。承知いたしました」 部下は深く一礼し、足音を立てずに退室していく。 重厚な扉が静かに閉ざされると、広大な会長室には再び空気清浄機の低いモーター音だけが残された。 観音はゆっくりと身を起こし、大理石の天板の上に置かれたタブレット端末を引き寄せた。 画面は暗転している。 指先でスワイプし、ロックを解除する。 表示されたのは、複雑な数字の羅列でも、株価のチャートでもなかった。 荒い画質の、モノクロの監視カメラの映像ログ。 雨が打ち付ける、建設中のタワーマンションの屋上。 そこに、腹部を赤く染めて倒れ込む細い身体と、それを抱きかかえて獣のように咆哮する巨大な影が映し出されている。 音声はない。 だが、その映像から発散される圧倒的な熱量と、血の匂いが、ディスプレイ越しに生々しく伝わってくるようだった。 観音の白く細い指先が、画面の中の、倒れ込んだ女性の輪郭をそっとなぞる。「……美しい数式になるはずだった」 誰にともなく、呟きが落ちる。「僕が君を完璧に保護し、感情という不確定な変数を排除した、透明で清潔な世界。……君の知性は、そこにこそ相応しかったはずなのに」 画面の中で、巨大な影が強く抱きしめ、額をすり寄せている。 その泥臭く、野蛮で、論理の欠片もない光景。 観音は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、小さく息を吐き出
「痛いから、変な顔で近づかないで」「痛い? 傷が響きましたか!?」 慌てて手を引っ込めようとする手首を、左手で軽く押さえる。「……傷じゃない。あなたがそんな必死な顔をするから、可笑しくてお腹の筋肉がひきつるの」「……」 千隼は耳の裏をわずかに赤く染め、所在なげに視線をさまよわせた。「俺は、大真面目です」「わかってる。……でも、今は観音に構っている暇はないわ」 再びスマートフォンを手に取り、添付されていたデータ群に視線を落とす。 細かい数字と、企業名のリスト。不来方玄が実質的に支配しているダミー会社の登記簿情報、隠し口座のトランザクション履歴。特捜部の内部に張り巡らされた協力者のリストと、その金の流れ。 そして、一番下に格納されていた一つの画像フォルダ。 タップすると、一枚の写真データと、それに付随する建築図面のようなものが表示された。「……これは」 千隼が眉をひそめて画面を覗き込む。 表示された写真は、祖母の家で見たあのセピア色のアルバムの中身――若き日の不来方と母・桔梗が並んで写っている写真だった。 そしてその横には、都内から少し離れた山間部にある、広大な敷地の座標データと、異様なほど厳重なセキュリティシステムの設計図が添付されている。 図面の端には、観音の短いメモが添えられていた。『不来方の真の本拠地。彼はここに、奪われた過去の時間を狂気的に保存し、極道殲滅の指揮を執っている。君の母親の幻影と共にね』「……お母さんの幻影」 祖母の家で聞いた、不来方の過去の執着。それが単なる昔話ではなく、現在進行形の狂気として、この要塞の中に実体化しているということか。 不来方の狙いが単なる権力欲やヤクザ潰しではなく、母を奪った世界そのものを焼き払うための復讐劇であるという輪郭が、冷たい事実として浮き彫りになる。 千隼の喉が、低く鳴った。「……このジ
唇に、重く、熱いものが押し当てられる。 強引なキスではなかった。 触れるか触れないか。 鳥の羽根で撫でるような、焦れったいほどの軽い接触が、角度を変えて何度も、何度も繰り返される。 上唇を食み、下唇を薄く舐め上げる。「んっ……ぁ……」 声が、漏れた。 遊園地のお化け屋敷。 壁一枚隔てた向こうには、数え切れないほどの一般人がいる。 いつ後ろから次の客が来るかわからない、異常な状況。 その背徳感と、恐怖、そして、それ
「ありがとう、千隼。大切にするわ」 私が両手を伸ばしてぬいぐるみを受け取ろうとすると、彼は首を横に振った。「重いでしょう。俺が持ちます」「でも、それじゃあなたがずっとそれを抱えて歩くことになるわよ?」「構いません。俺は貴女の荷物持ちですから」 そう言って、彼は本当に真顔のまま、巨大なピンクの猫を小脇に抱えて歩き出した。黒鉄会の構成員が見たら、卒倒するか腹を切るレベルの光景だ。 私は彼を追いかけながら、お腹を抱えて笑い続けた。お化け屋敷でのヒリヒリとした緊張感は、嘘のように霧散していた。「あ、クレープ屋さん
「……お嬢?」 戸惑うように私を見下ろす千隼。その瞳の奥に、見捨てられた子供のような怯えと孤独が揺れているのを見た瞬間、私の中の何かが堰を切ったように溢れ出した。 それは、恋愛感情とも違う、もっと深く、抗いようのない衝動。 彼を守りたい。彼が失ってきたすべての時間を、私が埋め合わせてあげたい。 私は背伸びをして、彼のがっしりとした肩に両腕を回し、その大きな頭を私の胸元に抱き寄せた。「っ……お嬢、急にどうし……」「黙ってて」
露わになった額の傷口へ、湿った脱脂綿を押し当てた。 じゅわ、と消毒液が傷口へ侵入する音がする。「……っ」 千隼の喉仏が大きく上下した。 眉間に皺が寄り、奥歯を噛み締める筋肉が浮き上がる。 痛いに決まっている。神経が剥き出しになった傷に、薬品を流し込んでいるのだから。 だが、彼は声一つ上げない。 膝の上の拳を固く握りしめ、ただ耐えている。 その姿が、どうしようもなく私の嗜虐心と、庇護欲を同時に刺激した。「動かないで。雑菌が入ったら化膿する」