Masuk「俺を飼い慣らしてください、お嬢。邪魔な敵はすべて排除して、世界を貴女に捧げましょう」 平凡な女子大生・咲良は、生き残るためにヤクザ組織「久遠組」の三代目を継ぐことに。彼女が選んだのは、美しくも危険な若頭・我妻千隼との『契約結婚』だった。 「貴女だけの『犬』になりたい」 そう跪く千隼だが、その愛は重く、狂気的なまでに独占的だった。「髪も唇も指先も、すべて俺のものです」 論理で戦う女子大生×本能で愛する狂犬ヤクザ。命がけの契約から始まる、極上の溺愛下克上ロマンス!
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執務室の革張りのソファに深く沈み込みながら、私は目の前の男の髪を梳いた。 足元には、関東一円を震え上がらせる「久遠の魔狼」こと、我妻 千隼(あがつま ちはや)が跪いている。 返り血で濡れたその頬を、彼は私の膝にうっとりと擦り寄せた。 まるで、褒められるのを待つ忠実な大型犬のように。 「すべて掃除してきましたよ、お嬢。……貴女の邪魔をするゴミは、これでもう一匹もいない」 彼は熱を帯びた瞳で見上げると、私の足首にそっと唇を落とした。 その背中には、決して後退しないことを誓う「百足(ムカデ)と彼岸花」の刺青が、妖しく蠢いている。 誰が信じるだろうか。 かつて平凡な女子大生だった私──小鳥遊 咲良(たかなし さくら)が、この狂った獣の手綱を握り、夜の東京を支配することになるなんて。 「愛しています、俺の飼い主(ごしゅじんさま)。……一生、俺の首輪を離さないでください」 ――これは、理不尽な暴力に愛された私が、最強の番犬と共に世界へ牙を剥く、愛と反逆の物語だ。 ◇ ◇ ◇ 「――人生とは、不完全情報ゲームである」 乾いたチョークの粉が舞い、黒板を叩く音が講義室に響いた。 経済学部の老教授が、講壇の上で淡々と数式を書き連ねている。一月の講義室は底冷えがして、私は逃げるように安物のコートの前をかき合わせた。 教授の声が、遠くの波音のようにぼんやりと聞こえてくる。 「互いの手札が見えないテーブルの上で、プレイヤーはいかにして利得を最大化するか。あるいは――いかにして『損失』を最小限に食い止めるか」 私の生き方は、徹底して後者だった。 誰かに勝ちたいわけじゃない。誰の視線も集めたくない。 ただ、これ以上傷つかないように。誰の記憶にも残らない路傍の石ころのように、風景の一部として静かに息を潜める。 親戚の家をたらい回しにされ、どこへ行っても「余り物」として疎まれて育った私が、生き延びるために導き出した、たったひとつの正解。 だから私は、今日も分厚い前髪を長く伸ばして顔を隠す。 紫がかった黒――アメジストのような不気味な瞳だと気味が悪がられるこの目を、誰にも見せないように、誰とも合わせないように。 けれど、机の上で積み上げた理屈は、現実の前ではあまりにも無力だ。 平穏だと思っていた盤面なんてものは、いつだって理不尽な暴力によって、いともたやすくひっくり返される。 今の、私のように。 ◇ 一月の冷たい雨が、アスファルトを黒く塗りつぶしていた。 大学からの帰り道。私はいつものように寂れた商店街のアーケードを通り抜け、家賃五万円の湿気たアパートへ続く裏路地へと足を踏み入れた。 時刻は午後九時を回ったところだ。古い街灯が、寿命が尽きかけるようにジジッと明滅している。 背筋がざわりとしたのは、路地に入ってすぐのことだった。 (……足音?) 三人。いや、四人だろうか。 傘を叩く雨音に紛れてはいるけれど、聞き間違いではない。重たく湿った革靴が水を踏む音が、私の歩調に合わせてぴたりと背後をついてくる。 首筋にねっとりと張り付くような、粘着質な気配。 胃の腑がぎゅっと縮みあがり、こみ上げる吐き気を必死に抑える。 私はコートのポケットの中で防犯ブザーを指が白くなるほど強く握りしめ、歩く速度を上げた。 あと五十メートルで大通りに出る。そこのコンビニの白い明かりが見えさえすれば、きっと。 「おい、待ちえや」 喉に絡みつくような低い声とともに、行く手を塞がれた。 心臓が口から飛び出しそうなほど強く跳ねる。 いつの間にか回り込んでいた男が二人。 慌てて振り返れば、逃げ道を塞ぐように背後にも二人。 完全に、逃げ場を失った。 「……何ですか」 声が震えてしまわないよう、下腹に力を込めて言葉を絞り出す。 彼らは明らかに堅気ではなかった。雨に濡れてよれた安物のスーツ。鼻を突く甘ったるい香水と、繊維の奥まで染みついた古いタバコの臭い。 そして何より、私を見つめる目が、とろりと白濁して濁っている。目の前の女を「一人の人間」ではなく、値踏みすべき対象として見ている、下卑た視線。 「小鳥遊 咲良(たかなし さくら)ちゃんだな?」 指先まで流れていた血液が、一気に逆流するような感覚に襲われた。 ただの通り魔や強盗ではない。彼らは「私」という個人の名前と顔を、正確に特定して狙っている。 「人違いです」 「ハッ、とぼけんなよ。写真と瓜二つじゃねえか」 前方に立つ男が一歩、泥の混じった水たまりをバシャリと踏んで距離を詰めてくる。街灯の薄暗い明かりに照らされたその顔には、獲物を品定めするような粘着質な笑みが張り付いていた。 男の手には、黒い塊が握られている。バチバチ、と青白い火花が雨粒の中で散った。スタンガンだ。 「大人しく来てもらうぜ。お前みたいな貧乏学生でも、『血』には価値があるんだとな」 「血……?」 「すっとぼけんな、『久遠(くおん)』の隠し種が」 ――クオン? 聞き覚えのない不穏な響きに、思考が一瞬、白く弾ける。 けれど、男たちは私の混乱を待ってはくれない。 逃げ場はない。講義で学んだゲーム理論も、身を守るための交渉術も、この場所では何の役にも立たない。私の人生で積み上げてきた「目立たず生きる」というささやかな防御策が、圧倒的な暴力を前にしては紙切れ一枚ほどの価値もないのだと、残酷な現実を突きつけられる。「ギャアギャア騒がれると面倒だ。ここで眠ってもらう」 男がぬっと汚れた腕を伸ばしてくる。 タバコのヤニで茶色く汚れた爪が、私の肩を掴もうとした瞬間。 「嫌ッ……!」 私は反射的にその手を振り払おうとした。 だが、所詮は非力な女の抵抗だ。逆に手首を万力のように強く掴まれ、強引にねじ上げられる。 「痛っ……!」 「活きがいいなァ、おい! そういう女、嫌いじゃねえぞ」 骨が軋む痛みに、視界が涙で滲む。 酸素がうまく吸い込めない。雨の冷たさと底知れない恐怖で、歯の根が合わない。カチカチと情けない音が頭蓋骨に響いている。 誰か、助けて。 いや、誰も来るはずがない。母さんが死んでから、誰も私を助けてなんてくれなかった。 (考えるのよ、咲良。泣いても状況は一ミリも変わらない) 必死に自分に言い聞かせるけれど、膝が笑って力が入らない。 男の生温かい、腐ったような吐息が顔にかかる距離まで迫る。 目の前が真っ暗になるような絶望に、頭から飲み込まれようとした、その時だった。 ヒュッ、と空気が鋭く裂ける音が路地に響いた。 「――あ?」 私の手首を掴んでいた男が、間の抜けた声を上げる。 次の瞬間。 ゴヂュッ。 水を含んだ雑巾を固く絞り上げるような、あるいは生木を無理やりへし折るような、耳にするだけで吐き気を催す音が響き渡った。 「ぎ、……アッ?」 男の腕が、ありえない方向に曲がっていた。 肘から先が、まるで操り人形の糸が切れたようにだらりとぶら下がっている。 「ガ、アアアアアアアアアッ!?」 男が喉を裂くような悲鳴を上げてのけぞった。 拘束が解け、私は濡れた地面に尻餅をつく。冷たい泥水がスカートに染み込んでくる冷たささえ、今は感じない。 何が起きたのか理解できず、呆然と顔を上げると――そこに、男が立っていた。 激しく降りしきる雨の中、傘もささずに佇む、喪服のような漆黒のスーツ。 街灯の逆光で、その表情までは読み取れない。 けれど、その立ち姿から放たれる肌を刺すような重い圧迫感が、一月の雨の冷たささえ忘れさせた。 それは死神のように美しく、圧倒的な「暴力」そのものが形を成したような姿だった。雨が降り始めた夕闇の向こうから、腹の底に響くような低い声が聞こえた。 不来方が弾かれたように振り返る。 ガードレールの傍らに、両手をポケットに突っ込んだ龍之介が立っていた。 傘もささず、肩から雨の滴を滴らせながら、彼は不敵に口角を吊り上げている。「お前が、久遠……」 不来方の顔面が、怒りと憎悪で歪む。「よくもノコノコと姿を現したものだ。社会の底辺を這いずり回るダニが、彼女に近づくな」「小難しい理屈はどうでもいい」 龍之介は、不来方の言葉を完全に無視して、真っ直ぐに桔梗の元へ歩み寄った。 不来方と桔梗の間に、分厚い身体を割り込ませるようにして立つ。 そして、桔梗の手を、自分の大きな手でしっかりと握りしめた。「……行こうぜ、桔梗。こんな息の詰まる場所、お前には似合わねぇ」「はい。……龍之介さん」 桔梗が、初めて不来方の前で、柔らかく、温かい微笑みを浮かべた。 それは、不来方がどれほど望んでも決して引き出すことのできなかった、心からの笑顔だった。「待て! 行かせると思うか!」 不来方が激昂し、龍之介の肩を掴もうと手を伸ばす。 だが、龍之介がゆっくりと首だけを振り返り、不来方を睨み据えた。 その瞬間、不来方の動きが完全に凍りついた。 殺気。 ただの威嚇ではない。これまで数え切れないほどの修羅場をくぐり抜け、命のやり取りをしてきた本物の獣だけが放つ、絶対的な暴力のプレッシャー。 エリートとして机の上で「正義」を振りかざしてきた不来方の身体が、本能的な恐怖で金縛りにあったように動かなくなる。「……次、その汚ぇ手で彼女に触れようとしたら、腕の骨、根元からへし折るぞ」 静かな、凄絶な宣告。 龍之介はそれだけを言い残し、桔梗の手を引いて雨の降る闇の中へと歩き出した。 不来方は、伸ばしかけた手を空中で震わせたまま、ただ二人の背中が遠ざかっていくのを見送ることしかできなかった
不来方は、写真を握り潰すように手の中に丸めた。 許せない。 彼女は、私のものだ。私の正しく美しい人生を彩るための、欠かせない存在だ。それを、あんな汚らわしい男がたぶらかしている。「彼女の目を覚まさせなければならない。……あの男から、彼女を保護する。それが、私の正義だ」 歪んだ使命感が、不来方の胸の奥で黒い炎となって燃え上がった。 相手の意志など関係ない。自分が正しいと信じた方向に相手を強制的に矯正すること。それこそが彼にとっての「法」であり「愛」だった。 その日の夕刻。 桔梗が屋敷の裏門からそっと外に出ようとした時、目の前に黒塗りの車が滑り込んできた。 後部座席から降りてきたのは、不来方だった。「どこへ行くつもりだ、桔梗さん」 静かな、だが逃げ場を塞ぐような冷たい声。 桔梗は足を止め、鞄の持ち手を強く握りしめた。「……少し、散歩に」「嘘をつくのは感心しないな。君の行動は、すべて把握している」 不来方は一歩、彼女との距離を詰めた。 夕暮れの薄暗がりの中、彼の眼鏡の奥の瞳が、爬虫類のようにねっとりとした光を放っている。「あの男に会いに行くのだろう? 久遠とかいう、スラムのチンピラに」「……探りを入れたのですか」 桔梗の声音が、スッと低くなる。 不来方は悪びれる様子もなく、淡々と答えた。「君を守るためだ。君は騙されている。あんな男の傍にいて、君が得るものは何もない。ただ泥にまみれ、破滅するだけだ」「それは、あなたが決めることではありません」「いいや、私が決める。君は私の妻になる女性だ。……さあ、屋敷に戻りなさい」 不来方の手が伸び、桔梗の腕を掴もうとした。 だが、桔梗はその手を鋭く払い除けた。 パシッ、と乾いた音が鳴る。 不来方の目が、驚愕に見開かれた。今まで一度も彼に逆らったことのない、従順なはずの令嬢が、明確な敵意と拒絶をもって彼を跳ね除けたの
「息なら、てめぇの立派な屋敷でいくらでもできるだろうが」「あそこには、空気がありません」 桔梗は両手で自分の膝を抱え、薄暗いガード下の奥を見つめた。「すべてが決められていて、誰かが用意した道の上を歩くだけ。……自分が生きているのか、ただの飾りの人形なのか、わからなくなるんです」 彼女の静かな、けれど切実な吐露。 龍之介は何も言わず、ただ自動販売機で買ってきた缶コーヒーを、無言で彼女の膝の横に置いた。 触れると、火傷しそうなほど熱い。 桔梗は冷え切った両手でそれを包み込んだ。じんわりとした熱が、手のひらから身体の芯へと広がっていく。「……俺の生きてる場所は、泥水すするような底辺だぞ」 龍之介が、前を見据えたまま低い声で言う。 その声には、自分と彼女の間に横たわる、決して埋まらない身分と環境の差に対する苛立ちが混じっていた。「油断すりゃ背中から刺される。明日の飯の保証もねぇ。綺麗な着物も、美味い紅茶も出してやれねぇ」「そんなもの、必要ありません」「はっ、世間知らずのお嬢様が、知ったような口を……」「龍之介さんの手は、温かいからです」 桔梗が、缶コーヒーから片手を離し、龍之介の右手にそっと自分の手を重ねた。 節くれ立ち、喧嘩のタコがいくつもできた、荒々しい男の手。 龍之介の肩が、ビクッと強張る。「……おい」「この前、ハンカチで血を拭いた時、わかりました。あなたの身体は、不格好で、傷だらけで……でも、誰よりも力強く生きようとしている熱で満ちている」 桔梗は、彼の手を強く握り返した。 その掌から伝わってくる生々しい命の鼓動が、桔梗の干からびた肺に、強烈な酸素を送り込んでくる。「私に、あなたの空気を分けてください」 龍之介は、重ねられた真っ白な手をしばらく見つめ、やがて深く、重い息を吐き出した。 振り払うことはしなかった。 代わりに、彼の大
その瞳の奥で、確かな熱が揺らぐ。 美しい。血筋、教養、そしてこの従順な佇まい。彼女は、法と秩序で世界を正すという己の完璧な人生設計において、隣に置くべき最後の、そして最高のピースだった。「桔梗さん。今日の着物も、よく似合っている。……だが、少し顔色が悪いのではないかな」 不来方は気遣うような口調で言いながら、手を伸ばした。 桔梗の膝の上に置かれた、真っ白な指先へ。 彼の指が触れる直前。桔梗はごく自然な動作で、茶托を直すふりをして手を引いた。 空を切った不来方の指先が、微かに宙で止まる。「お気遣い、ありがとうございます。ただの寝不足ですので」「そうか。ならば良いが。……来月、君のお父様と私の父を交えて、正式な食事の席を設けることになった。君には、何の心配もいらない。すべて私が手筈を整える」 君を守る。君を正しく導く。 不来方の口から紡がれる言葉は、常に「自分が主体」の論理で構成されていた。 桔梗の意思を問う隙間はない。彼にとって、圧倒的な正義と知性を持つ自分が彼女の人生の舵を取ることこそが、彼女にとっても最大の幸福であると信じて疑わなかったからだ。「……はい」 桔梗は短く答え、視線を庭の飛び石に落とした。 胸の奥が、重い鉛を飲んだように苦しい。 この男の傍にいると、真綿で首を絞められているような錯覚に陥る。清潔で、正しくて、一切のノイズがない世界。それは、桔梗が長年閉じ込められてきた白河家の「ガラスの箱」と同じ成分でできていた。 肺が、酸素を求めて悲鳴を上げている。 泥臭く、不規則で、熱を帯びた空気を吸い込みたいという衝動が、彼女の身体を内側から叩き続けていた。 ◇ その日の夜。 桔梗は、音を立てずに自室の窓を開け、暗い庭へと降り立った。 用意された着物ではなく、仕立ての古い木綿のワンピースに身を包み、財布だけを小さな鞄に押し込んで、裏木戸から夜の街へと駆け出す。 向かう先は決まっていた。 繁華街か