Chapter: 第64話 逆転のコーディネート② エプロンのポケットで、スマホが短く震えた。 画面には「詩織」の文字。『朱里、あんた今どこ? テレビでそのホテルの近くで事故があったってニュースやってるけど』 ――これだ。 私は祈るような指先で通話ボタンを押し、耳に当てた。「お姉ちゃん! お願い、助けて! 今すぐパンが必要なの!」『はあ? あんた何言ってんの。人が心配してる時に』「緊急事態なの。今、ホテルのパーティーでトラブルがあって、あと二十分でバゲットかクラッカーを三百人分、用意しなきゃいけないの。お姉ちゃん、区役所の産業振興課にいたでしょ? この辺りで、この時間に無理を聞いてくれる業務用卸のパン屋さん、知らない!?」 電話の向こうで、姉が息を呑む気配がした。 ほんの数秒の沈黙。だが、私の姉は優秀だ。瞬時に「呆れた姉」から「冷徹な公務員」へとモードを切り替えたのが、声のトーンでわかった。『……場所はインペリアル・ドラゴンね。あそこの裏手、桜通りの一本裏に、老舗の「ベーカリー・ミヤマ」がある。区のイベントでよく使わせてもらってる店よ。店長とは顔なじみ』「そこ! 今すぐ連絡取れる!?」『やってみる。ちょうど来週の夜間防災訓練の差し入れ用に、大量のバゲットを焼いてもらってたはず。それをそっちに回してもらうように交渉するわ。……その代わり、あとで湊さんにたっぷりと請求書回すからね』「お姉ちゃん、愛してる! 一生恩に着る!」 通話を切り、私は天を仰いで小さく拳を握った。 首の皮一枚で繋がった。 振り返り、総支配人に叫ぶ。「裏口に搬入車を回して! 十分以内に『ベーカリー・ミヤマ』から焼きたてのバゲットが届くはずよ! 到着次第、薄くスライスしてオリーブオイルを塗って!」「は、はいっ! すぐに!」 総支配人が弾かれたように走り出す。 よし、これで「食」の問題は片付いた。 次は――「空間」だ。 私は熱気のこもった厨房を飛び出し、パーティー会場へと続く廊下を走った。 ふと、窓の外に広がる闇が目に入り
Last Updated: 2026-01-27
Chapter: 第63話 逆転のコーディネート① そのバックヤードは、戦場というよりも、高熱に浮かされたボイラー室のようだった。 怒号と金属音、そして焦げた油の匂いが入り混じる中、私はイブニングドレスの上に業務用の白いエプロンをきつく締め直した。乱れかけた髪を一本に括り上げ、総支配人からひったくるように受け取った在庫リストを睨む。「いい、聞いて! 目指すのは『五感で味わう宝石箱』。それだけ頭に叩き込んで!」 私の声が、食器の触れ合う音を切り裂いて響く。 厨房のスタッフたちが一斉にこちらを向いた。その目には戸惑いと、わずかな期待の色が混じっている。「冷蔵庫のフォアグラのテリーヌ、残さず出して。サイコロ状にカットして、トップにはドライフルーツのイチジクを。ピックは金色のもの以外使わないで」 矢継ぎ早に指示を飛ばす。迷っている暇はない。「スモークサーモンは薔薇の花に見立てて巻くの。敷くのはクラッカーをやめて、スライスしたキュウリにして。緑とオレンジのコントラストを際立たせたいのよ」「チーズはあるだけ全部盛って。でも、ただ並べるのは無しよ。カッティングボードの上に高さを出して、立体的に積み上げて。ブドウの枝をあしらって、静物画(スティル・ライフ)みたいに見せるの」 私の言葉が具体的な作業へと変換されるにつれ、シェフたちの目の色が変わっていくのがわかった。 彼らは超一流の職人だ。何をすべきかという「設計図」さえ示せば、その腕は確かだった。バラバラに散らばっていた彼らの熱量が、私の指先一つで束ねられ、同じ方向へと走り出す。 絶望的な状況が、熱狂へと変わる予感がした。「茅野様! パンが足りません!」 パントリー担当の若いスタッフが、裏返った声を上げた。 その悲鳴で、厨房の空気が一瞬で凍りつく。「予定していたバゲットは、メイン料理の付け合わせ分しか残っていなくて……これじゃあ、全員分のピンチョスの土台(ベース)が作れません!」 血の気が引く音が聞こえた気がした。 ピンチョスパーティーにおいて、手でつまめる土台は命綱だ。それがなければ、ただ具材を皿に乗せただけの、みすぼらしい試食会になってしまう。
Last Updated: 2026-01-27
Chapter: 第62話 パーティーの危機⑦「……何をする気だ」「『ピンチョス・パーティー』に切り替えるの」「ピンチョス……?」「そう。今の食材で、一口サイズのアペタイザーなら無数に作れる。クラッカーにチーズとフルーツを乗せるだけ、ハムで野菜を巻くだけ、パンをカットして彩りよく並べるだけ。……これなら、火を使わなくても、高度な調理技術がなくても、スタッフ総出でやれば十五分で数百個は用意できる!」 私は周りのスタッフを見渡した。「盛り付けが勝負よ。大皿に山盛りにするんじゃなくて、鏡やアクリル板を使って、ジュエリーみたいに美しく並べるの。高さと彩りを意識して。……会場の照明を少し落として、各テーブルにキャンドルを増やして。料理の少なさを誤魔化すんじゃない、あえて『フィンガーフードを片手に会話を楽しむ、洗練された大人の夜会』という演出に変えるのよ!」 スタッフたちが、顔を見合わせた。 絶望に染まっていた彼らの目に、微かに光が宿り始める。 できるかもしれない。 いや、やるしかない。「……ふん、馬鹿馬鹿しい」 麗華が冷ややかに笑った。「そんな貧乏くさいおつまみで、舌の肥えたVIPたちが満足するとでも? 九龍家の恥の上塗りよ」「満足させます」 私は麗華を睨み返した。 「空腹は最高のスパイス、なんて言葉に甘えるつもりはありません。……演出次第で、ただのクラッカーも宝石に変わる。それが、私の仕事です」 そして、湊を見た。 彼の瞳が、揺れている。 私を信じるか、それとも拒絶するか。「……湊。あなたが選んだ女は、ただの人形じゃないんでしょ?」 私の挑発に、湊の口元が――ほんの数ミリだけ、上がった気がした。 あの、不敵な笑みの欠片。「……総支配人」 湊の声が、低く響いた。 そこにはもう、迷いも焦りもなかった。あ
Last Updated: 2026-01-26
Chapter: 第61話 パーティーの危機⑥ あの絶対的な自信に満ちたCEOが、初めて見せる弱音。 その背中が、私の知っている彼よりもずっと小さく、脆く見えた。 志保はもはやパニックで役に立たない。総支配人もおろおろするばかり。 麗華は高みの見物を決め込んでいる。 誰も、動けない。 ――カッ、と。 私の腹の底で、熱い火種が爆ぜた。 冗談じゃない。 こんな、しょうもない悪意に負けてたまるか。 私の雇い主を、私の「婚約者」を、こんな形で笑い者になんてさせてたまるか! これは結婚式じゃない。 でも、状況は同じだ。 一生に一度の晴れ舞台。楽しみにしているゲストたち。そして、予期せぬトラブル。 それを何とかして、「最高の時間」に変えるのが、私たちプロの仕事じゃないの! 私は、ドレスの裾を強く握りしめると、ヒールの音を高く鳴らして前に出た。「――まだ、終わってません」 私の声は、騒然とするバックヤードの空気を切り裂くように、凛と響いた。 全員の視線が、私に集まる。 湊が、驚いたように目を見開いて私を見た。 志保が、呆然と顔を上げる。 麗華が、不快そうに眉をひそめる。「朱里……? 何をしている、ここは関係者以外……」「関係者です。あなたの婚約者ですから」 私は湊の言葉を遮り、まっすぐに彼を見据えた。 今の私は、ただの「雇われ人」じゃない。 数々の修羅場をくぐり抜けてきた、ブライダルコーディネーター・茅野朱里だ。「総支配人さん、今の厨房にある食材のリストと、すぐに動けるスタッフの人数を教えてください。それと、冷蔵庫にあるドリンクの在庫表も」「は、はい……? いや、しかし……」「急いで! 時間がないの!」 私の剣幕に押され、総支配人が慌ててタブレットを差し出す。 私はそれをひったくるように受け取り、高速で画面をスクロールさせた。「…
Last Updated: 2026-01-26
Chapter: 第60話 パーティーの危機⑤「事故だと……!? 警察には確認したのか!」「それが、現場周辺が大渋滞で、誰も近づけない状況らしく……連絡も途絶えてしまって……」 総支配人の声が裏返る。 事故? メインシェフが来ない? 食材も届かない? 血の気が引いた。 今夜のパーティーの目玉は、剛造も言っていた通り、三つ星シェフによる特別コース料理だ。 招待客の多くは、それを楽しみに来ている。 それが、「出せません」で済むはずがない。 九龍家のメンツは丸潰れだ。主催者である湊の責任問題に発展するのは避けられない。いや、それどころか、ホテルの信用問題に関わる大惨事だ。「……代わりは! ホテルのシェフたちに作らせろ!」 湊が叫ぶ。「そ、それが……ジャン・ピエール氏の特別メニューに合わせて、厨房の機材も配置も全て変更してしまっておりまして……ホテルの通常メニューを作るための食材も、今日のガラのために別の倉庫へ移動させてしまっていて……今から準備しても、一時間以上かかります!」「一時間だと……!? 乾杯まであと十五分だぞ!」 絶望的な数字。 十五分後に乾杯をして、そこから一時間も料理が出ない? あり得ない。暴動が起きるレベルだ。「……あぁ、なんてこと……」 志保が、壁に手をついてよろめいた。 その瞳からは、いつもの威厳ある光が消え失せ、絶望の色だけが浮かんでいる。「終わりよ……。九龍家の恥さらしだわ……。あの方々になんてお詫びすれば……」 彼女の視線の先、通路の陰から、一人の女性が優雅に歩み寄ってきた。 綾辻麗華だ。 彼女は、この混乱した状況にまったく動じるこ
Last Updated: 2026-01-26
Chapter: 第59話 パーティーの危機④「あいつには近づくな。……笑顔の下で何を考えているかわからない古狸だ」「わかりました」 湊はそれだけ言うと、またすぐにきびすを返そうとした。 その背中に、私は声をかけそうになって、止めた。 何を言えばいい? 「助けてくれてありがとう」? 「麗華さんと楽しそうでしたね」? どれも、今の私たちの距離感では不適切な気がした。 その時だった。 ザワッ……。 会場の一角、スタッフたちが控えるバックヤードの入り口付近で、不穏な空気が立ち上ったのは。 最初は小さなさざ波だった。 配膳係の顔色が悪い。インカムで話すスタッフの声が上擦っている。何人かが小走りで奥へと消えていく。 ブライダルコーディネーターとして、数々の修羅場をくぐり抜けてきた私の「トラブル感知センサー」が、警報を鳴らした。(……何かが、起きてる?) ただの皿の割り間違いや、ドリンクの遅れといったレベルではない。もっと致命的な、会場の空気を根底から揺るがすようなトラブルの気配。 湊もそれに気づいたようで、鋭い視線をスタッフの方へと向けた。 そこへ、青ざめた顔をした志保が、足早に近づいてきた。 いつも鉄壁の冷静さを誇る彼女の顔が、今は幽霊のように真っ白だ。額には脂汗が滲み、呼吸が浅い。「……湊。ちょっと、いらっしゃい」 震える声。 湊が眉をひそめる。「どうしました、義母上。お客様の前ですよ」「いいから! ……裏へ。早く!」 志保の尋常ではない様子に、湊は短く舌打ちをし、私に「ここで待っていろ」と目線で合図して、志保と共にバックヤードへと消えていった。 残された私は、胸騒ぎを抑えきれずにいた。 私の足は、彼らの言いつけを破り、勝手に動き出していた。 「……ちょっと、お手洗いに」 近くにいたボーイに言い訳をして、
Last Updated: 2026-01-25
Chapter: 第106話 孤独の影② 怒鳴るわけでもない。淡々とした、部下に指示を出す時のような声色。 それが余計に、彼の冷酷さを際立たせていた。 父の死に関わる書類を、まるでただの業務報告書のように扱う態度。「……嫌」 喉が張り付いて、声が擦れる。 それでも、睨みつける視線だけは逸らさない。「返さない。……これ、お父様の形見よ。あなたが奪った、お父様の命そのものじゃない」「形見だと?」 征也の眉が、わずかに動く。 彼は差し出した手を下ろすと、どさり、とベッドの端に腰を下ろした。 マットレスが大きく沈み込み、彼の体重が生々しく伝わってくる。 近い。 ムスクと煙草の混じった匂い。数時間前まで、安心できる香りだと思って肺いっぱいに吸い込んでいたそれが、今は腐った花のように鼻につく。「それは、ただのビジネスの記録だ。……いちいち感情を持ち込むな」「ビジネス……?」 頭の中で、何かが切れる音がした。「人を自殺に追い込んでおいて、それがビジネス? 会社を乗っ取って、バラバラに解体して……それがあなたの言う仕事なの?」 私はファイルを彼に向かって投げつけた。 バサリと紙束が散らばり、あの『清算完了』のメモが、征也の膝の上に舞い落ちる。「答えて! これがお父様への復讐だったんでしょう? 4年前の、私への腹いせに……私の家を潰そうと計画したんでしょう! 『清算』って、そういう意味なんでしょう!」 征也は膝の上のメモを拾い上げ、目を細めた。 その瞬間、彼の瞳にさざ波のような揺らぎが走ったのを、私は見逃さなかった。 図星なのだ。「……違う」 彼は短く否定した。けれど、その声にはいつもの傲慢な響きがない。「何が違うのよ! 証拠はあるの! 日付も、サインも、あなたの筆跡も……全部ここにあるじゃない!」
Last Updated: 2026-01-27
Chapter: 第105話 孤独の影① 窓ガラスを叩く雨の音が、不快なリズムで鼓膜を揺らす。 キングサイズのベッドは一人には広すぎた。私はシーツの端で膝を抱え、ただじっとしている。 指先が冷たい。氷水に浸したあとのように感覚がないのに、胸の奥だけが嫌な熱さで燻っている。 目の前には、書斎の金庫から持ち出したファイルが散らばっていた。 『月島ホールディングス解体計画書』。 そして、見覚えのある筆跡で記された『復讐完了』という走り書き。 これ以上ないほど分かりやすい答えだった。 彼が私に向けてくれた甘い視線も、触れる指の熱も、すべてはこの瞬間のための伏線。 父から会社を奪い、死に追いやり、その娘を金で買って飼い殺しにする。 それが、天道征也という男の描いたシナリオ。「……っ、う……」 喉から、嗚咽ともため息ともつかない音が漏れる。 悔しい。 あんな男に心を許しそうになった自分が、どうしようもなく惨めで、許せない。 昨夜、このベッドで彼に抱かれながら感じた安らぎは、ただの錯覚だった。その甘さに目を眩ませ、父を殺した男の腕の中で眠っていたなんて。 首元のサファイアが、冷たい異物となって鎖骨に食い込んでいる。 引きちぎりたかった。けれど留め具は頑丈で、爪を立てても外れない。この首輪がある限り、私は彼の所有物であり続ける。その事実を突きつけられているようで、吐き気がした。 その時。 ピピッ、と電子音が静寂を裂いた。 ドアロックが解除される音。 息が止まる。 来る。 ドアが重々しく開き、廊下の薄明かりを背負って征也が入ってきた。 手にはカードキー。彼は部屋の惨状――散らばった書類と、蒼ざめた私――を一瞥しても、表情ひとつ変えない。 背手でドアを閉める。 カチャリ。再び密室が出来上がる音が、心臓を雑巾絞りのように締め上げた。「……莉子」 名前を呼ばれる。 いつもなら、その低い声だけで胸が跳ねたはずなの
Last Updated: 2026-01-27
Chapter: 第104話 疑惑の種④「……触らないで。二度と、私に触れないで!」 私はファイルを抱えたまま、彼を避けるようにしてドアへと走った。 征也の手が伸びる。 私の二の腕を掴もうとする。「待て! 聞け!」「嫌! 人殺し……っ! 悪魔!」 私は渾身の力で彼の手を振り払った。 バチン、と乾いた音が響く。 征也の手が空を切り、力が抜けたように垂れ下がった。 その一瞬の隙をついて、私は部屋を飛び出した。 裸足で廊下を駆ける。 ペタペタと鳴る足音が、やけに耳につく。 後ろから追いかけてくる気配はない。 彼は、書斎の中に立ち尽くしたまま、動こうとしなかった。 リビングを抜け、階段を駆け上がる。 息が切れる。涙で前が見えない。 部屋に戻り、鍵をかける。 ベッドの隅にうずくまり、盗み出したファイルを胸に抱きしめた。 これが真実。 これが、蒼くんが言っていた「戦利品」。 私は、父を殺し、家を奪った男のベッドで、愛された気になっていた。「……許さない」 暗闇の中で、呟く。 愛していた分だけ、ドス黒い感情が胸の奥で渦を巻く。「絶対に許さない……天道征也……!」 首元のサファイアのネックレスを引きちぎろうとしたけれど、留め具は外れない。 まるで、彼の罪ごと私を縛り付けて離さないかのように。 私は声を押し殺して泣き叫んだ。 窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。 四年前のあの日と同じ、すべてを洗い流すような、冷たい雨が。 ◇ 書斎に残された征也は、砕けたクリスタルの破片が散らばる床に、立ち尽くしていた。 開けっ放しの金庫が、ぽっかりと黒い口を開けている。 そこから消えたのは、かつて自分が強引に買い上げた『月島ホールディングス』関連のファイルだ。「…&
Last Updated: 2026-01-26
Chapter: 第103話 疑惑の種③「ひどい……ひどすぎるよ……」 涙が溢れて止まらない。頬を伝う雫が、冷たく感じる。 父を殺したのは、病気じゃない。 征也だ。 彼が、父の誇りも、希望も、すべて奪い取って殺したんだ。 そして今、彼はその娘である私を金で買い、飼い殺しにして楽しんでいる。 『愛してる』とか『守ってやる』なんて甘い言葉を耳元で囁きながら、腹の底では私を嘲笑っていたんだ。 愚かな女だと。父親と同じように、簡単に騙せる無能な人形だと。「……っ、うぅ……」 足の力が抜け、その場にへたり込んだ。 冷たい床の上で、ファイルを抱きしめて嗚咽する。 悔しい。 憎い。 そして何より、そんな男に抱かれ、心を許しかけていた自分が、死ぬほど許せない。 私の身体の奥には、まだ彼の熱が残っている。 首筋には、彼がつけたキスマークが焼き付いている。 それら全てが、汚らわしい焼き印のように思えて、皮膚ごと爪で剥ぎ取りたい衝動に駆られた。「……誰だ」 不意に。 背後から、闇を切り裂くような声がした。 ヒッ、と小さく息を呑む。 心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出した。 振り返りたくない。 でも、背中に突き刺さる視線の重圧が、私を無理やり振り向かせた。 書斎の入り口に、人影が立っている。 逆光で表情は見えない。 けれど、その長身のシルエットと、闇よりも深く重たい気配は、間違いなく天道征也だった。 彼は動かない。 ただ、じっと私を見下ろしている。 私が抱えているファイルと、開け放たれた金庫、そして床に散らばった写真。 そのすべてを見て、状況を理解したのだろう。 逃げられない。 言い訳もできない。 私は、彼が最も隠しておきたかった「罪」を暴いてしまったのだ。 カツ
Last Updated: 2026-01-26
Chapter: 第102話 疑惑の種② でも、もう後戻りはできない。 4、4、1、0。 ピッ、ピッ、と乾いた電子音が静寂を切り裂いていく。 最後に『ENTER』を押した、その時。 カチャリ。 重々しい金属音が響き、ロックが外れた。「……開いた」 開いてしまった。 知ってはいけない秘密への扉が。 私は重たい鉄の扉を手前に引いた。 庫内は二段になっていて、上段には現金の束やパスポートが無造作に放り込まれている。 そして下段。 そこには、黒い革表紙の分厚いファイルが一冊、主のように横たわっていた。 ごくり、と喉が鳴る。 私はそのファイルを両手で取り出し、月明かりが差し込む窓際で開いた。 1ページ目。 目に飛び込んできたのは、見慣れたロゴマークだった。 三日月のシルエットに、イニシャルの『T』。 父がいつも誇らしげに語っていた、月島ホールディングスの社章だ。『株式譲渡契約書』『譲渡人:月島 隆之』『譲受人:天道 征也(天道投資ファンド代表)』 日付は、四年前の四月十日。 父が亡くなる、半年前の日付だ。「……うそ」 父の会社が倒産したのは、経営不振が原因だと聞かされていた。 でも、この書類が意味する事実は違う。 倒産するよりも前に、会社の権利はすべて征也の手に渡っていたということだ。 父は会社を奪われ、そのショックで病に倒れ、そして……。 ページをめくる手が止まらない。紙の擦れる音が、耳障りに響く。 次に出てきたのは、さらに信じがたい書類だった。 『月島ホールディングス解体計画書』。 そして、見覚えのある筆跡で記された『4月10日。月島案件、清算完了』という走り書き。 これ以上ないほど分かりやすい答えだった。 彼が私に向けてくれた甘い視線も、触れる指の熱も、すべてはこの瞬間のための伏線。 父から会社を奪い、死に追
Last Updated: 2026-01-26
Chapter: 第101話 疑惑の種① 時計の針が、深夜二時を回った。 隣で眠る征也の寝息が、深く、一定のリズムを刻み始めたのをじっと待つ。シーツが擦れる微かな音さえ立てないよう、私は慎重に身体を滑らせてベッドを抜け出した。 冷え切ったフローリングに裸足を乗せた瞬間、足の裏から這い上がってきた冷気が、心臓をぎゅっと鷲掴みにする。 振り返り、ベッドの彼を見る。 昨夜の会食で煽ったアルコールのせいか、征也は泥のように眠っていた。無防備に投げ出された腕、枕に散らばる少し乱れた黒髪。 月明かりに浮かぶその寝顔は、かつて私がひそかに想いを寄せていた青年の頃と何も変わらないように見えて――胸の奥がちくりと痛む。(……ごめんね、征也くん) 声に出さず、唇だけで謝る。 けれど、確かめなくてはいけない。 あなたが私を救い出してくれた人なのか、それとも、私のすべてを奪い去った張本人なのか。 ガウンを羽織り、帯をきつく締める。私は自分の気配を殺し、忍び足で寝室を出た。 静まり返った廊下は、昼間の暖かさが嘘のように冷たく、どこまでも続いているように思える。 階段を降り、リビングへ向かう。 ソファのクッションの下。そこに隠しておいた封筒を、震える指先で引き抜いた。 中に入っていたのは、蒼くんから渡されたメモだ。端のほうに、小さく数字が走り書きされている。『4410』 征也の書斎にある金庫の暗証番号だという。 なぜ蒼くんがそんなものを知っているのか。考えると怖くなるけれど、今の私には、その数字だけが唯一の道しるべだった。 封筒を握りしめ、一階の奥にある書斎へと足を向ける。 重厚なマホガニーの扉が、黒い壁のように私の前に立ちはだかった。 この部屋は、征也が「仕事の心臓部だ」と言って、使用人でさえ一歩も立ち入らせない場所。 ドアノブに手をかけ、ゆっくりと回す。 中に入ると、使い込まれた革と古びた紙、そして微かに残る征也の煙草の匂いが、鼻腔をくすぐった。 月明かりだけが頼りの、薄暗い部屋。 壁一面を埋め尽くす本棚。主人の
Last Updated: 2026-01-26
Chapter: 第125話:輝のプロポーズ(仮)②「どれ、見せてみなよ」「えっ、まだ恥ずかしいよ……!」「何言ってんだ。俺は栞の一番のファンだって言っただろ」 彼は立ち上がると、テーブルを回って私の隣に腰を下ろした。 肩と肩が触れ合う距離。シャツ越しに彼の高い体温が伝わってくる。 彼は私のノートを覗き込み、真剣な目で並んだ文字を追い始めた。「……なるほど。『ユーザーがキャラに干渉するのではなく、見守ることに特化したシステム』か」「う、うん……やっぱり、変かな? 乙女ゲームなのに、自分から恋愛しにいかないなんて」「いや、面白いよ。栞らしい着眼点だ」 彼はまず肯定した上で、胸ポケットから赤ペンを取り出し、さらさらと要点を書き込んでいく。「ただ、これだとターゲット層が少し狭すぎるかもしれないな……『見守る』ことでキャラがどう成長するか、そのカタルシスをもっと具体的にアピールした方がいい」「あ……そっか」「あと、ここの収益モデル……推しへの課金動線を、もっと感情に訴える流れにした方が説得力が増すはずだ」 的確すぎるアドバイスに、思わず唸る。 それもそのはず、彼は今や海千山千の投資家たちを相手に、自分のビジネスプランを売り込んできた「プロ」なのだ。 その彼が、私の拙い企画書を本気でコンサルティングしてくれている。「……輝くん、スパダリすぎる」「ん? 何か言ったか」「ううん! ありがとう、すごく参考になる」 私はペンを握り直し、彼がこぼした言葉を逃さないよう必死にメモを取った。 隣にいる彼が、時折私の髪をすくように撫でたり、煮詰まった時に新しいコーヒーを淹れてくれたりする。 そのさりげない優しさが、不安で押しつぶされそうな私の背中を、何度支えてくれたことか。「栞なら、絶対に大丈夫だ」 不意に、彼の手が私の手を包み込んだ。 大きくて、温かい手。
Last Updated: 2026-01-27
Chapter: 第124話:輝のプロポーズ(仮)① 季節の移ろいというのは、いつも足音を忍ばせてやってくる。 窓の外で唸り声を上げていた木枯らしは、いつの間にかどこかへ鳴りを潜め、代わりに柔らかな日差しが、冬の間に固く閉ざされていた蕾を、指先で優しく叩くようにノックし始めていた。 三月。 別れと出会い、そして何かが始まろうとする気配に満ちた季節だ。「……よし。これで、理屈は全部通ったかな」 パタン、とノートパソコンを閉じる乾いた音が、静まり返ったワンルームに響く。 ローテーブルを挟んで向かい合っていた天王寺輝くんが、凝り固まった背中をほぐすように大きく伸びをして、天井を仰いだ。 その横顔には、ここ数ヶ月、薄皮のように張り付いていた焦りの色はもうない。あるのは、長い坂道を登り切った後にだけ見せるような、清々しい達成感だった。「お疲れ様、輝くん……契約書、全部見終わった?」「ああ。弁護士のチェックも済んだし、あとはハンコを押すだけだよ」 彼は少年のようにニカッと笑うと、テーブルの上に積み上げられた分厚い書類の束を、愛おしそうにポンと手のひらで叩いた。 そこには、彼がゼロから立ち上げた新しい会社の登記書類や、投資家と交わす契約書が収められている。 天王寺家という巨大な後ろ盾も、親の威光も、コネさえも使わずに。 彼が自分の足で街を歩き回り、頭を下げ、ただ情熱だけを燃料にして勝ち取った「未来」への設計図だ。「すごいね……本当に、社長さんになっちゃうんだ」「まだスタートラインに立っただけさ。……でも、ようやく形になった」 輝くんが、冷めかけたコーヒーカップを手に取り、一口飲む。 立ち上る湯気の向こう、緩められたネクタイと、第一ボタンを外したワイシャツの首元が目に入る。仕事モードからふっと素の自分に戻る瞬間の、無防備な色気とでも言うべきもの。 付き合い始めて半年以上経つというのに、私の心臓はいまだに学習能力がないらしく、肋骨の裏側でトクンと大きく跳ねた。(……か
Last Updated: 2026-01-27
Chapter: 第123話:スランプと支え⑫ 翌朝。 目が覚めると、輝くんはまだ隣で眠っていた。 昨夜の情熱的な彼とは打って変わって、子供のように無防備な寝顔だ。 その頬をつんと指でつつくと、「ん……」と唸って、私を抱き枕のように腕の中に引き寄せた。(……重いけど、幸せ) 時計を見ると、いつもより少し遅い時間だ。 今日は日曜日。二人とも、久しぶりの完全オフだ。「……ん、おはよ」 しばらくして、輝くんがもぞもぞと起き出した。 寝癖がついた髪が可愛い。「おはよう、輝くん。……よく眠れた?」「ああ。……泥のように眠った。こんなに深く寝たの、いつぶりだろう」 彼は大きく伸びをし、私を見てふにゃりと笑った。「……栞がいると、やっぱり違うな。充電完了って感じ」「ふふ、私もだよ」 二人で布団の中でまどろんでいると、不意に私のスマホが鳴った。 メッセージの着信音だ。 画面を見ると、『氷室 奏』の名前。『おはよう、月詠。昨日はすまなかった。少し強引だったかもしれない。天王寺とは、ちゃんと話せたか?』 短い文面に込められた、彼らしい気遣い。 そして、追伸があった。『P.S.アルカディア・ワークスの件だが。二次募集があるらしい。企画職の枠で、欠員が出たとかで。詳細は公式サイトには出ていないが、教授の伝手で聞いた。……諦めるなよ』「……っ!」 ガバッと布団から起き上がる。 隣で輝くんが「どしたの?」と目を丸くしている。「か、輝くん! チャンス! まだチャンスあるかも!」「え?」 私は奏くんからのメッセージを見せた。 輝くんはそれを読み、少しだけ複雑そうな、でもすぐに力強い笑顔を見せた。「&hel
Last Updated: 2026-01-26
Chapter: 第122話:スランプと支え⑪ いつぞやの黒歴史(BLプレゼン)を思い出して顔が赤くなるけれど、今の彼の言葉は茶化しているわけじゃなかった。「場所が変わっても、形が変わっても……栞がその『好き』を持ち続けている限り、夢は終わらない。俺はそう思う」「……っ」「それに、俺は栞の最初のファンだから」 彼は悪戯っぽく片目を瞑り、私の額にコツンと自分の額を押し当てた。「俺に『愛』の尊さを教えてくれたのは、栞だろ? ……その感性は、絶対に誰かの心を動かす武器になる」 涙腺が、決壊した。 ボロボロとこぼれ落ちる涙を、彼は親指で優しく拭ってくれる。 否定されたと思っていた。社会からも、世界からも、必要とされていないと。 でも、一番大切な人が、こんなにも私を肯定してくれている。「武器になる」と言ってくれている。 それだけで、十分だった。 落ちたことの悔しさは消えないけれど、前を向く勇気が、体の底から湧いてくる。「……うん。うん……!」「いい顔になった」 輝くんは満足そうに微笑むと、そのまま顔を寄せてきた。 触れ合う唇。 プリンの甘い味と、しょっぱい涙の味が混ざり合う。「……ごちそうさま」 唇を離し、彼が艶っぽく囁く。 その瞳の色が、先ほどまでの優しいものから、少しだけ熱を帯びた「男」の色に変わっていることに気づいて、ドキリとした。「プリン、食べたし。……元気、出た?」「う、うん。おかげさまで……」「そっか。……じゃあ」 彼の手が、私の腰に回る。 ぐいっ、と引き寄せられ、ソファ代わりのベッドに押し倒される形になった。「ひゃっ!?」「次は、俺が元気を貰う番でもいいかな?」 覆いかぶさる彼の影。 逆光になった表情は見えないけれど、低く響
Last Updated: 2026-01-26
Chapter: 第121話:スランプと支え⑩ その指先が首筋に触れ、ドキリとする。「栞。……話してもいいか?」「うん?」「俺がこの数日、何をしていたか」 輝くんの表情が、スッと真面目なものに変わる。 ビジネスモードの「天王寺輝」の顔だ。でも、以前のような孤高の冷たさはない。パートナーである私に向けられた、信頼の眼差し。「今日……投資家との最終プレゼンがあったんだ」「えっ……最終?」「ああ。これまでの交渉の総仕上げだ。……もしこれがダメなら、立ち上げようとしていたプロジェクトは白紙に戻るところだった」 息を呑む。 そんな瀬戸際の戦いを、彼はたった一人で、私に心配かけまいと黙って戦っていたのか。「結果は……?」「……取れたよ」 ふっ、と彼が息を吐き、破顔した。 それは、自信と安堵が入り混じった、最高の笑顔だった。「満額回答だ。……『君の描く未来に賭けてみたい』って言われたよ」「……っ!!」 スプーンを取り落としそうになる。 すごい。すごすぎる。 天王寺の名前も、親のコネも使わずに。彼自身の力だけで、大人たちを認めさせたんだ。「輝くん……! おめでとう……!」「ありがとう。……でも、俺が頑張れたのは、栞のおかげだよ」「私?」「ああ。プレゼンの最中、厳しい質問攻めに遭って心が折れそうになった時……栞の顔が浮かんだんだ」 彼は私の手を取り、自分の頬に寄せた。 伸びかけの髭が少しチクチクして、男の人なんだな、と改めて思う。「あの雨の日、『ここが輝くんの家だよ』って言ってくれた時の顔。……あの笑顔を守るためなら、俺は何だってできると思った」「
Last Updated: 2026-01-26
Chapter: 第120話:スランプと支え⑨「ごめん……ごめんなさい、輝くん……!」 私は彼の背中に腕を回し、泣きじゃくりながら謝った。 マナーモードにしていたスマホ。勝手な思い込みで部屋を飛び出した自分。彼をこんなに心配させてしまった罪悪感で、胸が押し潰されそうだ。「もう……消えたかと思った……。俺が構ってやれないから、愛想尽かして出て行ったんじゃないかって……」「そんなことない! 絶対にないよ!」 私は彼の胸から顔を上げ、必死に首を横に振った。「私が……私が弱かっただけなの。就活に落ちて、自信なくして……輝くんに合わせる顔がないって、勝手に落ち込んでただけで……!」「……就活?」「うん……第一志望、落ちちゃった……」 情けない理由を告白すると、輝くんの瞳からふっと力が抜けた。 彼は安堵したように大きく息を吐き、へなヘなと座り込みそうになって、私に体重を預けてきた。「なんだ……そんなことか……」「そんなことって……私にとっては大問題だよ……!」「大問題だけど……栞がいなくなることに比べたら、些細なことだよ」 彼は私の頬を両手で包み、額を押し当ててきた。 熱いおでこと、潤んだ瞳。「よかった……。本当によかった……」 彼が泣きそうな声で繰り返す。 その姿を見て、私はようやく気づいた。 私が不安だったように、彼もまた、不安だったのだ。全てを捨てて私を選んだ彼にとって、私が居なくなることは、世界そのものを失うことと同じなのだと。「……ごめんね、寂しい思
Last Updated: 2026-01-25
Chapter: 第五十六話:残されたもの⑤「……あ……」 喉が引きつり、悲鳴さえ出ない。 スマートフォンの画面が、呪いの鏡のように光り輝いている。 既読がついた。 その瞬間、画面の向こう側にいる「何か」が、ニタリと笑った気がした。『みつけた』『みつけた』『みつけた』 追撃のようにメッセージが連続して表示される。通知音が鳴り止まない。ピコン、ピコン、ピコン、ピコン。静寂だった部屋が無機質な電子音で埋め尽くされていく。それは心電図のモニターが異常を知らせる警告音のようであり、あるいは泥の中から這い出そうとする者の、必死のノックのようでもあった。 違う。これは燈じゃない。 私が知っている、あの明るくて少しお調子者だった朱鷺燈はもういない。これは彼の残骸だ。地下の泥の中で溶け合い、混ざり合い、「ウツロ様」の一部となってしまった彼が、莫大な悪意と執着のほんの一部を、デジタルな回線を通して滲み出させているのだ。「……やめて」 震える指で電源ボタンを長押しした。画面が消える。部屋に再び闇と静寂が戻る。 けれど、もう遅かった。 視線を感じる。スマホの黒い画面からではない。部屋の隅から。天井のシミから。カーテンの隙間から。 そして、自分自身の足元の影から。 ズズッ……。 微かな音がした。 幻聴かもしれない。けれど鼓膜には、あの湿った土を引きずる音がはっきりと届いていた。 鼻腔の奥で、消えたはずの腐敗臭が蘇る。肺が冷たくなる。 終わってない。 斎の言葉が呪いのように蘇る。『ウツロ様は退けたが、消滅したわけではない。地下で眠りについただけだ』 眠ってなどいない。あれは起きている。地下の暗闇の中で無数の目を開き、じっとりとした視線で地上を見上げている。そして、一度触れてしまった私という「窓」を通して、いつでもこちら側を覗き込んでいるのだ。 サイドテーブルに置いたカードキーをひったくるように掴み、胸に抱く。硬いプラスチックの角が皮膚に食い込む。痛
Last Updated: 2025-12-14
Chapter: 第五十五話:残されたもの④ その夜、自室のベッドに座り、膝の上に乗せたカードキーを飽きもせず眺めていた。 プラスチックの薄い板。無機質な白いカード。それが斎から渡された「こちら側」への片道切符だ。 部屋の明かりは消してある。カーテンの隙間から差し込む月光だけが、手元を青白く照らしていた。静寂が耳に痛い。かつては好きだったこの部屋の静けさが、今は巨大な空洞のように感じられる。「……燈」 名を呼ぶ。返事はない。空気の振動が壁に吸い込まれて消えるだけ。 世界は彼を忘れた。物理的な痕跡はおろか、人々の記憶からも、デジタルなデータからも、朱鷺燈という存在は綺麗に切除された。まるで、最初からいなかったかのように。 私だけが覚えている。 それは特権などではなく、呪いだった。不在の重みに押し潰されそうになりながら、カードキーを握りしめる。指先に角が食い込み、微かな痛みを与える。「……やるしかないんだ」 深琴たちのいる「光のあたる世界」には、もう戻れない。あそこで笑って、恋をして、就活をして、平凡に生きていく資格はもうない。私は「見て」しまったから。世界の裏側にある、どろどろとした排泄物のような淀みを。それを知らんぷりして生きていくことは、耐え難い欺瞞に思えた。 それなら、斎の言う通り境界線に立って監視する方がいい。二度と燈のような犠牲者を出さないために。そしていつか、またあの泥の底から燈が呼ぶ声が聞こえたら、その時こそ――。「……寝よう」 カードキーをサイドテーブルに置き、布団を被る。思考を遮断しないと、また地下の腐臭が蘇ってくる気がした。 目を閉じ、意識を闇に溶かす。 静寂。冷蔵庫のモーター音、遠くを走る車の走行音。日常の音が薄い膜のように静を守っている。大丈夫。今夜は影も動かない。幻聴も聞こえない。私はただの氷鉋静に戻ったのだ。 ブブッ。 枕元が震えた。低い振動音。 ビクリと肩を震わせ、目を開ける。スマートフォンのバイブレーションだ。こんな時間に誰だろう。深琴ちゃんか? いや、彼女はもう連絡してこないだろう。勧誘の
Last Updated: 2025-12-13
Chapter: 第五十四話:残されたもの③ 翌日、大学へ向かった。 昨日まであれほど濃厚だった霧は嘘のように消え、冬晴れの空が広がっている。 中庭ではサークルの学生たちが笑いながらビラ配りをしていた。講義室からは気怠げな学生たちの話し声が漏れてくる。日常だ。かつて憧れ、そして今は何よりも憎んでいる、平穏で無関心な日常。 誰も、昨夜この地下で起きた惨劇を知らない。一人の学生が泥に飲まれて消えたことを知らない。事実は胸に重く沈殿するばかりだ。 講義室に入り、いつもの席に座る。隣の席は空席のままだった。 そこには燈が座っていたはずだった。くだらない冗談を言って、笑わせてくれたはずだった。でも、もう誰もそこを見ない。まるで最初から空席だったかのように、空気のように扱われている。「……静ちゃん?」 顔を上げる。宇津木深琴だった。 以前のように怯えた表情はしていない。むしろ少し気まずそうに、けれど心配そうに眉を寄せていた。「顔色、悪いよ? やっぱり、まだ体調悪いの?」「……深琴ちゃん」 彼女の顔をじっと見つめる。記憶はどうなっているのだろう。私が燈の話をして拒絶されたこと、あの時感じた恐怖。それらは残っているのだろうか。「……ねえ、深琴ちゃん」「うん?」「朱鷺燈くんのこと……覚えてる?」 最後の賭けに出た。もし、少しでも覚えているなら。まだ希望はあるかもしれない。 深琴は小首を傾げた。瞳には一切の曇りも、演技の色もなかった。「とき……ともる? 誰それ、静ちゃんの好きな人?」「…………」 喉が凍りつく。 完全に消えている。前回の「誰だっけ?」という曖昧な反応ではない。存在そのものが認識されていない、真っさらな無知。「……ううん、なんでもない。……変な夢を見ただけ」「夢? 静ちゃん、最近疲れてるんだよ。今日はも
Last Updated: 2025-12-12
Chapter: 第五十三話:残されたもの② どのようにしてアパートまで帰り着いたのか、記憶は曖昧だった。 早朝の街は暴力的なまでに日常を取り戻している。新聞配達のバイクの音、部活の朝練に向かうジャージ姿の学生たち、ごみを出す主婦の姿。泥まみれで幽鬼のようにふらつく静を、彼らは怪訝そうに見るか、あるいは関わり合いになるまいと視線を逸らして通り過ぎていく。 その反応がありがたかった。もし誰かに「大丈夫ですか」と声をかけられたら、その場で叫び出してしまっていたかもしれない。 世界は正常に機能している。昨夜、地下であれほどの怪異が起き、一人の人間が泥に飲まれて消滅し、もう一人が精神を破壊されたというのに。地上は何食わぬ顔で、新しい朝を迎えている。あまりの無関心さが薄ら寒く、吐き気がするほど空々しい。 アパートの部屋に入り、鍵をかける。ガチャリと鳴った金属音が、世界と自分を隔てる最後の結界のように響いた。 玄関のたたきに座り込み、泥だらけのスニーカーを脱ぐ。靴紐の間まで入り込んだ黒い泥は、乾いてボロボロと崩れ落ちた。ただの土ではない。数千人の死者の怨念と、燈の「咎」が凝縮された残骸だ。 「……汚い」 呟くと、涙が溢れてきた。 汚い。自分が汚い。友人を殺して、自分だけがのうのうと生き残って帰ってきた、薄汚れた身体が憎い。 服を脱ぎ捨て、浴室へ向かう。シャワーをひねると冷たい水が出たが、構わずに頭から浴びた。排水口へ流れていく水は墨汁のように黒い。 髪にこびりついた泥を爪で掻き出す。皮膚に染みついた腐敗臭を落とそうと、スポンジで肌が赤くなるまで擦る。けれど、匂いは落ちない。鼻の奥の粘膜に、地下書庫の湿ったカビの臭いが焼き付いてしまっている。 「落ちて……落ちてよ……ッ」 嗚咽しながら、身体を傷つける勢いで洗い続けた。 鏡を見るのが怖かった。曇った鏡の向こうに、また「蠢く影」が見えるんじゃないか。背後に燈の亡霊が立っているんじゃないか。 恐る恐る顔を上げる。 鏡の中には、濡れた髪を張り付かせ、充血した目でこちらを見つめる青白い顔の女が一人映っているだけだった。 影は遅れない。歪みもしない。 ただの、疲れ切った、抜け殻のよ
Last Updated: 2025-12-11
Chapter: 第五十二話:残されたもの① 地上への扉が開いた瞬間、網膜を焼いたのは暴力的なまでに清浄な朝の光だった。 地下書庫の重厚な鉄扉の向こう側には、昨夜の世界を塗り潰していた異界の霧はない。ただ白々とした冬の夜明けが広がっているだけだ。肺に流れ込んできた空気は氷の針を含んだように冷たく、無味無臭だった。 さっきまで鼻腔を犯していた湿った土と腐敗の臭い、何千もの死者が吐き出す怨嗟の熱気。それらが嘘のように遮断され、あまりの落差に視界がぐらりと揺れる。「……出たぞ」 頭上から降ってきた声には、少しの乱れも温度もなかった。 足がコンクリートの地面を踏んでいる。泥ではない。吸い付くような粘り気も、這い上がってくる触手もない、ただの固い地面だ。膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。「あ……、はぁ……」 呼吸をするたびに、肺の奥から泥の味がした。身体は地上に戻ったが、内側はまだ暗い泥の中に半分浸かっている感覚が抜けない。 自分の手を見る。爪の隙間、指の皺の間に、黒く乾いた泥がこびりついている。単なる汚れではない。あの場所で触れた「咎」の残滓のように見えて、慌てて手をこすり合わせる。落ちない。皮膚の下にまで染み込んでしまったかのように、黒い染みは消えなかった。「……う、……うぅ……」 隣で、うめく塊があった。 慧だ。地面に投げ出されたまま、胎児のように背を丸めて震えている。泥と脂汗で固まった髪。汚れ、破れたブランド物のスーツ。かつて鋭い眼光を放っていた瞳は焦点を結ばず、どこか遠くの虚空を彷徨っていた。「……トリック……全部、トリック……」 譫言のように繰り返される言葉は、もう意味を成していない。首筋には、泥人形に掴まれたどす黒い手形が火傷の痕のようにくっきりと残っていた。彼女が直面した現実の証拠だ。だが、彼女の精神は受容を拒絶し、結果として砕け散ってしまったのだろう。 かける言葉は見つからなかった
Last Updated: 2025-12-10
Chapter: 第五十一話:観月の「処理」③ ドォォォォォン!! 繭が内部から爆発するように膨張し、泥の一部が弾け飛ぶ。 その裂け目から、二つの影がもつれ合うのが見えた。 一つは、必死に何かにしがみつく、小さな影。静。 もう一つは、それを飲み込もうとする、巨大で不定形な影。燈であり、ウツロ様であるもの。「今だ」 瞳孔が開く。 この瞬間、二つの影の輪郭が明確に分かれた。 躊躇なく、掲げていた手鏡を振り下ろすように構え、鏡面を繭の裂け目に差し向ける。「――穿て!!」 咆哮。 鏡面から、目に見えない衝撃波が放たれた。 光線でも物理的な力でもない。「認識」の強制書き換え。鏡に映ったものを「実体」として固定し、そこにあるものを「虚像」として弾き飛ばす、因果の逆転。 ガシャアァァァァァッ!! 地下空間全体が、巨大な鏡が割れたような轟音に包まれた。 空間に亀裂が走り、泥の繭が真っ二つに裂ける。「ぎゃあぁぁぁぁぁッ!!」 繭の中から、この世のものとは思えない断末魔が響いた。 静の声であり、燈の声であり、そして泥に沈みかけていた慧の悲鳴とも重なる。 斎の放った一撃は、静と燈の結合部を正確に断ち切っただけではない。その余波が周囲の空間ごと衝撃を与え、慧に群がっていた影たちさえも吹き飛ばしたのだ。「……チッ、余計なものを」 顔をしかめる。 慧を助けるつもりはなかった。だが、鏡の出力が高すぎたせいで、結果的に周囲の雑魚を一掃してしまった。 吹き飛ばされた影たちが霧散し、泥の中から慧の体がボロ屑のように放り出される。「ごほっ、ごほっ……!」 泥の上に転がり、激しく咳き込む慧。 全身泥まみれで、髪も服も皮膚も溶けかかっている。だが、生きている。 虚ろな目で、裂けた繭の方を見上げた。 そこには、泥の中から這い出そうとする静の姿があった。 そしてその背後――切り離された巨大な「燈の影」が、苦痛にのたうち回りながら、形を保てずに崩壊しようと
Last Updated: 2025-12-09