Chapter: 第59話:肝試しと吊り橋効果⑤ 連行された先は、宿泊棟の裏手に広がる人気のない中庭だった。 不意に腕が解放されたかと思うと、ドン、と背中が硬い樹皮に打ち付けられる。太い松の木と、目の前の人体によって逃げ場は完全に塞がれた。「か、輝く……ん?」 月明かりを背負った顔は影になり、表情が読み取れない。ただ、肌を刺すようなピリピリとした緊迫感だけが、鈍感な身にも痛いほど伝わってくる。「……手」「え?」「氷室と繋いでいた手、出して」 短く鋭い命令と共に、視線が右手に突き刺さる。おそるおそる差し出した瞬間、手首を万力のような力で締め上げられた。「っ……!」「……ここか」 懐から取り出されたのは除菌タイプのウェットティッシュだ。親指が掌に押し当てられ、ゴシゴシと執拗に擦られる。まるで、そこに残る奏くんの体温や感触を、皮膚ごと削ぎ落とそうとするかのように。「ちょ、ちょっと輝くん! 痛いよ、そんなに擦ったら……!」「ずっと、繋いでたんだね」「そ、それは……暗くて、危なかったから……」「ふーん。危なかったら、男の手なら誰でも握るんだ?」「違うよ! 奏くんが助けてくれたから……」「奏くん」 ピクリ、と整った眉が不快げに跳ねた。「名前で呼ぶなよ。……あいつのこと」 グイッと腕を引かれ、バランスを崩して胸板に飛び込む。浴衣越しに伝わる体温は驚くほど高く、筋肉の硬さがダイレクトに触れた。脳内で警報音がけたたましく鳴り響く。距離が近い。近すぎる。恋愛経験ゼロの身には、もはや致死圏内だ。「……嫌だ」 耳元で低く唸る声が鼓膜を震わせる。「栞が他の男を見るのも、触れるのも、名前を呼ぶのも……全部、嫌だ」 それは今まで聞いたことがないほど幼く、けれど切実
Terakhir Diperbarui: 2025-12-11
Chapter: 第58話:肝試しと吊り橋効果④ 木々の切れ間から灯りが見えてきた。ゴールの神社だ。鳥居の下、懐中電灯の明かりが揺れている。「あ、着いた……」 安堵の声が漏れる。やっと、このドキドキする吊り橋効果から解放される。 そう思った瞬間だった。 鳥居の陰から、ゆらりと人影が現れた。逆光で顔は見えない。でも、その立ち姿だけで誰だか分かってしまった。ポケットに手を突っ込み、少し首を傾げてこちらを見下ろす、長身のシルエット。「……遅かったね」 低く、地を這うような声。空気の温度が一気に氷点下まで下がる。「輝くん……!」 駆け寄ろうとするが、繋がれたままの右手が引き止める。ハッとして振り返ると、奏くんは逃げも隠れもせず、真っ直ぐに鳥居の下の人物を見据えていた。「……天王寺」「よう、氷室」 輝くんが、ゆっくりと歩み寄ってくる。懐中電灯の光が、下から顔を照らし出した。 笑顔だ。完璧な、美しい、王子様の笑顔。 だが瞳は笑っていないどころか、ハイライトが完全に消え失せている。唇の端だけが吊り上がったその表情は、まさに「般若」。「ずいぶんと楽しそうだったね?」 視線が、私と奏くんの「繋がれた手」に固定される。瞬間、笑顔がピキリとひび割れたように見えた。「お化けなんて出なくても、十分スリル満点だったみたいじゃないか。……ねえ?」 ヒッ、と喉が鳴る。激怒している。レベルマックスの嫉妬だ。「さあ、こっちにおいで。栞」 差し伸べられた手はエスコートではなく、「回収」の合図だった。 奏くんの手が、一瞬だけ強く私を握りしめ――そして、ふっと力を抜いた。「……行け、月詠」 小声で告げられる。弾かれたように手を離し、輝くんの元へと駆け寄った。 腕を掴まれると同時に、痛いほど強く引き寄せられる。そのまま肩を抱かれ、威嚇するように奏くんを見下ろした。「ご苦労だったな、氷室。…
Terakhir Diperbarui: 2025-12-10
Chapter: 第57話:肝試しと吊り橋効果③ 砂利道は徐々に登り坂になり、鬱蒼とした木々の枝がトンネルのように頭上を覆う。懐中電灯の頼りない光だけが、世界を切り取っていた。 静かだ。虫の音さえ、私たちの気配に息を潜めたように止んでしまった。聞こえるのは、砂利を踏む足音と、少しだけ早くなっている私の呼吸音だけ。(……意識、しちゃうなぁ) こっそりと、繋がれた手を見つめる。 すらりと指が長く、冷たそうな見た目をしているのに、触れると驚くほど温かい。骨ばった関節の感触や、少し大きめの掌。現実はゴツゴツとしていて、男の人なのだと実感させられる。「月詠」 不意に名を呼ばれ、肩が跳ねた。「は、はいっ」「……そんなに緊張しなくていい。取って食ったりしない」「別に、緊張なんて……してないよ?」「嘘だな。手が汗ばんでいる」「うっ……! そ、それは暑いからで……!」「そうか。ならいいが」 彼はそれ以上追及せず、私の歩幅に合わせてゆっくりと歩を進めてくれる。その沈黙が優しくて、どこか居心地が悪くて。紛らわすように話題を探した。「そ、そういえば! 奏くん、お父さんとは……その、仲悪いの?」 口に出してから地雷だと気づいたが、奏くんは怒る様子もなく、ふう、と息を吐いた。「仲が悪いというより……俺が一方的に反発しているだけだ」「反発?」「父は優秀な研究者だが、家庭人としては落第点だ。母や俺のことなど、自分の研究対象の一部くらいにしか思っていない」 淡々とした口調に、深い諦めが滲む。教室で万年筆のことを暴露された時の、傷ついたような表情が脳裏をよぎった。「俺は……あんな風にはなりたくない。大切な人を蔑ろにして、自分のエゴだけを押し付けるような大人には」 奏くんが足を止め、ふと夜空を見上げた。木々の隙間から、わずかに星が瞬いている。「だから、俺は&hell
Terakhir Diperbarui: 2025-12-09
Chapter: 第56話:肝試しと吊り橋効果② 旅館の裏手には、鬱蒼とした杉林が広がっていた。月明かりも届かない山道は、足元の判別すらつかないほど暗い。風が木々を揺らす音が、正体不明の何かの囁き声のように耳へ絡みつく。「うぅ……暗い……怖い……」 両腕を抱きしめ、ガタガタと震えながら足を運ぶ。 修羅場の緊張感など一瞬で吹き飛ぶほど、原初的な闇への恐怖が支配していた。どこからか白い手が伸びてきたら。落ち武者の霊が目の前に現れたら。「……月詠」 隣を歩く奏くんが、静かに声をかけてきた。懐中電灯の明かりが、彼の足元だけを白く切り取っている。「大丈夫か? 歩くのが遅れているが」「ご、ごめん……足がすくんで……」「……そうか」 奏くんが足を止め、振り返る。暗闇の中で、瞳だけが微かに光を宿していた。少し躊躇うように視線を泳がせた後、意を決したように手が差し出される。「……掴まれ」「え?」「足元が危ない。……それに、震えているだろう」 ぶっきらぼうな口調。だが、声色には隠しきれない優しさが滲んでいる。差し出された手は大きく、骨ばっていた。 輝くんとの約束――「あいつに触れさせるな」という言葉が脳裏をよぎる。しかし、この恐怖には勝てない。腰を抜かしてリタイアするよりは、好意に甘える方がマシだ。「……ありがとう」 おそるおそる、彼の手を取る。 ひんやりとしていた指先は、握るとすぐに熱を帯びていった。ギュッと握り返してくる力強さに、不思議と恐怖が和らいでいく。「行くぞ」 手を引かれ、再び歩き出す。 一歩先を行く背中は、昨日まで見ていた「線の細い美少年」のそれとは違っていた。浴衣の肩幅は意外と広く、私を闇から守るように立ちはだかっている。(……頼もしい、かも) 不覚
Terakhir Diperbarui: 2025-12-08
Chapter: 第55話:肝試しと吊り橋効果① 一夜明けても、胸の奥で早鐘が鳴り止まない。 朝食の席でも、移動のバスの中でも、視線が突き刺さってくる。輝くんの独占欲に満ちた熱っぽい瞳と、奏くんの静かだが確かな熱量を孕んだ眼差し。そして、別の宿にいるはずなのに朝の散歩中に遭遇した陽翔くんのあざとい笑顔。 三方向からのプレッシャーに、生きた心地がしなかった。「――さて、諸君」 夕食後、大広間に集められたゼミ生を見渡し、氷室教授が低い声を響かせた。 浴衣姿の教授は、時代劇に出てくる悪代官さながらの貫禄を漂わせている。口元に浮かぶ笑みは、不吉な予感の塊でしかない。「勉強ばかりでは息が詰まるだろう。今夜は、この宿の裏山を使って、日本の伝統的なレクリエーションを行いたいと思う」 ざわざわと学生たちが色めき立つ。レクリエーション? あの「氷の独裁者」が? 背筋を嫌な汗が滑り落ちた。「……『肝試し』だ」 その単語が耳に入った瞬間、サーッと血の気が引いていく。 肝試し。暗闇。幽霊。 三大苦手要素のフルコースだ。脳内で幾多のBL妄想を繰り広げ精神を鍛えてきたとはいえ、オカルト耐性とは使用する回路がまるで違う。「コースは裏山の神社まで。男女ペアで出発してもらう。……親睦を深めるいい機会だろう?」 教授の鋭い視線が、私と輝くん、そして奏くんの並びをなめるように掠めた。瞳の奥に宿る光は、学生の親睦を願う教育者のものではない。極上の見世物を期待する、サディスティックな光だ。「ペア決めは公平を期すため、くじ引きで行う」 仲居さんが恭しく運んできたのは、朱塗りの箱だった。中には漢数字が書かれた割り箸が入っているという。古典的だが、逃げ場のないシステムだ。「しおり」 袖をくいっと引かれる。見上げると、輝くんが力強く微笑んでいた。「大丈夫。俺が絶対に、栞と同じくじを引いてみせる」「え、でも……中見えないよ?」「気合と愛の力でねじ伏せる。……もし外れても、栞のペアの男を全力で説得(威圧)して交換させるから」「それはダメだからね!?」 目は本気だった。この男なら本当にやりかねない。けれど、その自信満々な態度に、強張っていた肩の力が少しだけ抜ける。輝くんがいれば、お化けなんて怖くない――彼氏のほうが怖いかもしれないが。「では、女子学生から引きたまえ」 教授の指示で、女子たちが順番に箱へ手を入れる。私の
Terakhir Diperbarui: 2025-12-07
Chapter: 第54話:ゼミ合宿は混浴パニック!?⑥「げっ、七瀬……」「……チッ、部外者が」 輝くんと奏くんが、同時に毒づく。 しかし、陽翔くんは動じなかった。状況を一瞬で理解したのか、あるいは理解することを放棄したのか、ニヤリと面白そうに笑った。「へえ……。先輩たち、抜け駆けはずるいっすよ」 彼は躊躇なく湯船に入ってくると、ザブザブと音を立ててやってきた。 そして、輝くんと奏くんの間に割り込むようにして、私の目の前に立った。「栞先輩。……俺も、混ぜてくれますよね?」「は、はいぃ!?」 役者は揃った。 誰もいないはずの露天風呂に、今、私と三人の半裸の男たちがひしめき合っている。 湯気で上気した肌、滴る水滴、そしてギラギラとした三対の瞳。 もう、逃げ場はない。この状況で「出ます」と言って、無事に帰してもらえるとは到底思えなかった。 輝くんが右手を掴む。 奏くんが左手を掴む。 陽翔くんが正面から見つめる。「……一緒に入るか?」 輝くんが試すように聞いた。その瞳は、拒絶を許さない色をしていた。「僕は構わないが」 奏くんが淡々と言った。けれど、握られた手の熱さが本音を物語っている。「俺はもちろん、大歓迎ですよ!」 陽翔くんが、無邪気に(装って)笑った。 三人が手を差し伸べてくる(正確には、すでに掴まれているけれど)。 湯煙の中、月明かりに照らされた三人の裸体は、神々しいほどに美しく、そして致命的に危険な香りを放っていた。 「(……無理。キャパオーバー。処理不能。システムダウン)」 脳内で赤い警告灯が激しく回転している。 眼福? 確かに眼福だ。 輝くんの彫刻のような肉体美、奏くんの陶器のような肌としなやかな筋肉、陽翔くんの少年らしさと男らしさが同居する身体。 どのアングルを切り取っても、BL漫画の表紙を飾れるレベル
Terakhir Diperbarui: 2025-12-06
Chapter: 第五十三話:残されたもの② どのようにしてアパートまで帰り着いたのか、記憶は曖昧だった。 早朝の街は暴力的なまでに日常を取り戻している。新聞配達のバイクの音、部活の朝練に向かうジャージ姿の学生たち、ごみを出す主婦の姿。泥まみれで幽鬼のようにふらつく静を、彼らは怪訝そうに見るか、あるいは関わり合いになるまいと視線を逸らして通り過ぎていく。 その反応がありがたかった。もし誰かに「大丈夫ですか」と声をかけられたら、その場で叫び出してしまっていたかもしれない。 世界は正常に機能している。昨夜、地下であれほどの怪異が起き、一人の人間が泥に飲まれて消滅し、もう一人が精神を破壊されたというのに。地上は何食わぬ顔で、新しい朝を迎えている。あまりの無関心さが薄ら寒く、吐き気がするほど空々しい。 アパートの部屋に入り、鍵をかける。ガチャリと鳴った金属音が、世界と自分を隔てる最後の結界のように響いた。 玄関のたたきに座り込み、泥だらけのスニーカーを脱ぐ。靴紐の間まで入り込んだ黒い泥は、乾いてボロボロと崩れ落ちた。ただの土ではない。数千人の死者の怨念と、燈の「咎」が凝縮された残骸だ。 「……汚い」 呟くと、涙が溢れてきた。 汚い。自分が汚い。友人を殺して、自分だけがのうのうと生き残って帰ってきた、薄汚れた身体が憎い。 服を脱ぎ捨て、浴室へ向かう。シャワーをひねると冷たい水が出たが、構わずに頭から浴びた。排水口へ流れていく水は墨汁のように黒い。 髪にこびりついた泥を爪で掻き出す。皮膚に染みついた腐敗臭を落とそうと、スポンジで肌が赤くなるまで擦る。けれど、匂いは落ちない。鼻の奥の粘膜に、地下書庫の湿ったカビの臭いが焼き付いてしまっている。 「落ちて……落ちてよ……ッ」 嗚咽しながら、身体を傷つける勢いで洗い続けた。 鏡を見るのが怖かった。曇った鏡の向こうに、また「蠢く影」が見えるんじゃないか。背後に燈の亡霊が立っているんじゃないか。 恐る恐る顔を上げる。 鏡の中には、濡れた髪を張り付かせ、充血した目でこちらを見つめる青白い顔の女が一人映っているだけだった。 影は遅れない。歪みもしない。 ただの、疲れ切った、抜け殻のよ
Terakhir Diperbarui: 2025-12-11
Chapter: 第五十二話:残されたもの① 地上への扉が開いた瞬間、網膜を焼いたのは暴力的なまでに清浄な朝の光だった。 地下書庫の重厚な鉄扉の向こう側には、昨夜の世界を塗り潰していた異界の霧はない。ただ白々とした冬の夜明けが広がっているだけだ。肺に流れ込んできた空気は氷の針を含んだように冷たく、無味無臭だった。 さっきまで鼻腔を犯していた湿った土と腐敗の臭い、何千もの死者が吐き出す怨嗟の熱気。それらが嘘のように遮断され、あまりの落差に視界がぐらりと揺れる。「……出たぞ」 頭上から降ってきた声には、少しの乱れも温度もなかった。 足がコンクリートの地面を踏んでいる。泥ではない。吸い付くような粘り気も、這い上がってくる触手もない、ただの固い地面だ。膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。「あ……、はぁ……」 呼吸をするたびに、肺の奥から泥の味がした。身体は地上に戻ったが、内側はまだ暗い泥の中に半分浸かっている感覚が抜けない。 自分の手を見る。爪の隙間、指の皺の間に、黒く乾いた泥がこびりついている。単なる汚れではない。あの場所で触れた「咎」の残滓のように見えて、慌てて手をこすり合わせる。落ちない。皮膚の下にまで染み込んでしまったかのように、黒い染みは消えなかった。「……う、……うぅ……」 隣で、うめく塊があった。 慧だ。地面に投げ出されたまま、胎児のように背を丸めて震えている。泥と脂汗で固まった髪。汚れ、破れたブランド物のスーツ。かつて鋭い眼光を放っていた瞳は焦点を結ばず、どこか遠くの虚空を彷徨っていた。「……トリック……全部、トリック……」 譫言のように繰り返される言葉は、もう意味を成していない。首筋には、泥人形に掴まれたどす黒い手形が火傷の痕のようにくっきりと残っていた。彼女が直面した現実の証拠だ。だが、彼女の精神は受容を拒絶し、結果として砕け散ってしまったのだろう。 かける言葉は見つからなかった
Terakhir Diperbarui: 2025-12-10
Chapter: 第五十一話:観月の「処理」③ ドォォォォォン!! 繭が内部から爆発するように膨張し、泥の一部が弾け飛ぶ。 その裂け目から、二つの影がもつれ合うのが見えた。 一つは、必死に何かにしがみつく、小さな影。静。 もう一つは、それを飲み込もうとする、巨大で不定形な影。燈であり、ウツロ様であるもの。「今だ」 瞳孔が開く。 この瞬間、二つの影の輪郭が明確に分かれた。 躊躇なく、掲げていた手鏡を振り下ろすように構え、鏡面を繭の裂け目に差し向ける。「――穿て!!」 咆哮。 鏡面から、目に見えない衝撃波が放たれた。 光線でも物理的な力でもない。「認識」の強制書き換え。鏡に映ったものを「実体」として固定し、そこにあるものを「虚像」として弾き飛ばす、因果の逆転。 ガシャアァァァァァッ!! 地下空間全体が、巨大な鏡が割れたような轟音に包まれた。 空間に亀裂が走り、泥の繭が真っ二つに裂ける。「ぎゃあぁぁぁぁぁッ!!」 繭の中から、この世のものとは思えない断末魔が響いた。 静の声であり、燈の声であり、そして泥に沈みかけていた慧の悲鳴とも重なる。 斎の放った一撃は、静と燈の結合部を正確に断ち切っただけではない。その余波が周囲の空間ごと衝撃を与え、慧に群がっていた影たちさえも吹き飛ばしたのだ。「……チッ、余計なものを」 顔をしかめる。 慧を助けるつもりはなかった。だが、鏡の出力が高すぎたせいで、結果的に周囲の雑魚を一掃してしまった。 吹き飛ばされた影たちが霧散し、泥の中から慧の体がボロ屑のように放り出される。「ごほっ、ごほっ……!」 泥の上に転がり、激しく咳き込む慧。 全身泥まみれで、髪も服も皮膚も溶けかかっている。だが、生きている。 虚ろな目で、裂けた繭の方を見上げた。 そこには、泥の中から這い出そうとする静の姿があった。 そしてその背後――切り離された巨大な「燈の影」が、苦痛にのたうち回りながら、形を保てずに崩壊しようと
Terakhir Diperbarui: 2025-12-09
Chapter: 第五十話:観月の「処理」② 地下書庫の高い天井に、女の悲鳴が不協和音となって降り注ぐ。 泥の触手が太ももまで這い上がり、高価なスーツの生地を腐食させながら肉に食い込む。焼けるような痛みに、慧は半狂乱で泥を掻きむしった。「いやぁぁッ! 入ってくる……! 泥が、体の中に……!」 皮膚の毛穴という毛穴から、おぞましい「他人の記憶」が侵入してくる。 何十年も前にここで死んだ者の後悔、痛み、怨嗟。それらが汚水となって血管を巡り、自我を内側から汚染していく。 だが、観月斎は止まらない。 慧の絶叫を、単なる環境音の一部として処理し、思考を研ぎ澄ませる。 優先順位は明確だった。 第一に、「ウツロ様」の核である朱鷺燈の影を切り離すこと。 第二に、そのために必要な「隙」を見極めること。 廻慧の命は、そのリストのどこにも記述されていない。「……悪くない」 手鏡の曇った表面を親指で拭いながら、独り言ちる。 視線の先には、脈動する巨大な泥の繭。 中には氷鉋静がいる。彼女は自らの強い感受性を触媒にして、ウツロ様の意識を内側に引きつけている。 そして背後では、廻慧が「雑魚」の影たちに襲われ、新鮮な恐怖と絶望を撒き散らしている。「あの女の『咎』……独善的な正義と、無自覚な加害性。それは腐った肉のように強烈な臭いを発する。……奴らにとっては、抗いがたい撒き餌だ」 計算は冷徹だった。 静が「本体」を抑え込み、慧が「周囲」を引きつける。この二重の囮によって、斎自身への攻撃は最小限に抑えられ、本体への接近が可能になる。「み、観月……ぅ……!」 背後から、空気を絞り出すような喘ぎ声。 慧の首に泥の手が巻き付いたのだ。 視線が、斎の背中に突き刺さる。助けて、という懇願と、なぜ助けないのかという激しい憎悪。 斎は一瞬だけ足を止め、肩越しに慧を一瞥した。 そ
Terakhir Diperbarui: 2025-12-08
Chapter: 第四十九話:観月の「処理」① 鼓膜を劈く死者の嘲笑も、鼻孔を犯す腐敗臭も、この黒い繭の内側までは届かない。 あるのは羊水に似た粘度と、ドクン、ドクンと波打つ巨大な心臓の拍動だけ。 溶けていく。 指先が、髪が、皮膚が、砂糖菓子のように崩れ落ち、黒い泥へと還元されていく。個体としての輪郭が消失する感覚。そこに痛みはない。むしろ、張り詰めていた神経が一本一本焼き切れていくような、背徳的な安らぎがあった。『……しずく……』 脳髄に直接、声が響く。 朱鷺燈の声であり、同時に私自身の声でもある。泥の中で意識が混濁し、境界が曖昧になっていく。 他人の記憶が、奔流となって流れ込んでくる。 真夏のアスファルトの照り返し。舌に残るコンビニコーヒーの苦味。そしてあの日――バイクの後部座席で友人が血を流していた時の、咽せ返るような鉄錆の臭いと、冷え切った戦慄。「俺は悪くない」「誰も見ていない」。 卑小な自己保身と、それを塗り潰すほどの巨大な罪悪感。(ああ、燈。ずっと、こんなに痛かったんだ) 泥の中で、彼の形をした「影」を抱きしめる。 影は黒いタールのように腕にまとわりつき、感受性という回路を通して苦痛を共有してくる。私の心にあった「救えなかった後悔」と、彼の「逃げたかった弱さ」。二つの咎が混じり合い、化学反応を起こして熱を帯びる。『……いっしょに、いよう……』『……もう、かえらなくていい……』 無数の死者たちの囁きが、燈の声に重なる。 ここは心地いい。誰も私を「異常」だと指差さない。深琴ちゃんのように怯えない。廻さんのように否定しない。ただ泥になって、何もかも忘れてしまえばいい。 意識が、甘い腐敗の底へと沈んでいく。 だが、その微睡みを無粋に断ち切るように、遥か頭上の「外側」から硬質な音が響いた。 カツ、カツ。 革靴が湿った地面を踏みしめる、冷徹なリズム。「…&hellip
Terakhir Diperbarui: 2025-12-07
Chapter: 第四十八話:慧の「咎」④ 鼻腔を突く腐敗臭も、耳障りな死者の嘲笑も、包まれた瞬間に遮断され、代わりに鼓膜を打つのは、ドクン、ドクンという巨大な心臓の拍動のような音だけ。(ああ、ここは……) 暗闇の中で目を開ける。 重い泥がまぶたを圧迫するが、不思議と痛みはない。 そこは温かかった。 まるで羊水の中にいるような、あるいは腐りかけた果実の種になったような、甘く、とろけるような浮遊感。 身体の輪郭が溶けていく。指先が、髪の毛が、皮膚が、泥の粒子と混ざり合い、境界線を失っていく。『……しずく……』 脳裏に声が響く。ノイズ混じりの、けれど懐かしい声。 意識の奥底で、誰かが膝を抱えて座っていた。 オレンジ色の髪。派手なパーカー。 朱鷺燈だった。 泥の暗闇の中で震えながら顔を伏せている。その背中には、黒いコールタールのような「罪」がべっとりと張り付き、身体を少しずつ侵食していた。「燈」 心の中で呼びかける。 燈が顔を上げる。その顔は涙でぐしゃぐしゃで、恐怖に歪んでいた。『……ごめん、なさい……俺、逃げたかっただけなんだ……』『あいつのこと、忘れたかっただけなんだ……』「うん、知ってる」 泥の中を泳ぐようにして彼に近づき、震える肩を抱きしめた。 冷たい。魂は凍えきっていた。「痛かったね。怖かったね」『……しずく……?』「もういいよ。私が来たから。私が、全部知ってるから」 抱きしめた瞬間、燈の背中に張り付いていた黒い「咎」がじゅわりと溶け出し、腕へと伝ってきた。 焼けるような激痛。吐き気。絶望感。 友人を裏切ったという自己嫌悪が、精神を直接蝕む。 けれど、腕を離さない。 この痛みが、燈が一人で抱えてきた重さなのだとしたら、耐えられる。(大丈夫。私なら、壊れない) 自らの「感受性」を全開にする。 他人の悪意を受け止め、流し、耐え続けてきた器は、この泥沼の中でも、かろうじて自我を保っていた。 ◇ 地上――地下書庫の空洞では、異様な光景が広がっていた。 静
Terakhir Diperbarui: 2025-12-06