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花柳響
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Novels by 花柳響

攻略対象は私じゃない! ~腐女子が神視点で推しカプ見てたら、いつの間にか逆ハーレムの中心にいた件~

攻略対象は私じゃない! ~腐女子が神視点で推しカプ見てたら、いつの間にか逆ハーレムの中心にいた件~

私、月詠栞は、現実の恋よりBLゲームの推しカプが命の腐女子。神の視点からイケメンたちの恋模様を見守る方が楽しい! そんな私の前に、学園の王子・輝とクール系イケメン・奏が現れた。――この二人、並んでるだけで尊すぎ……! 理想のカップリングだ! よし、私がキューピッドになって、二人の恋を全力で応援しよう! さらにバイト先の可愛い後輩・陽翔も、どうやらイケメン店長に片思い中みたい!? もちろん、彼も全力でサポートしなきゃ! イケメンたちの恋を成就させるため、プロデューサーとして奔走する私。 ……なのに、なぜか輝先輩たちが私を巡って火花を散らしてる? まさか。ありえない。 だって、攻略対象は私じゃない!
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Chapter: 第14話:看病戦争、勃発②
 瞼の裏が、じりじりと焦げ付くように熱い。 知らないはずの景色が、熱に浮かされた意識の暗闇で、閃光のように激しく明滅していた。 燃え盛る城、天を覆い尽くす黒い翼、そして空から降り注ぐ無数の漆黒の羽根。誰かの、胸を掻きむしるような悲痛な叫び声が、現実の音を遮断して耳の奥で木霊している。 ああ、知っている。これは、私がこの世の何よりも愛してやまないBLゲーム『Fallen Covenant』の、最も胸を締め付けられる悲劇のシーンだ。 そうだ。私は魔王なんかじゃない。私は、この物語の登場人物ですらない、ただの観測者。いつだって安全な場所から、神の視点から、彼らの過酷な運命を見守ることしかできなかったはずなのに……。 ハッとして、まるで溶けた鉛を塗りたくられたかのように重い瞼を、ありったけの力でこじ開けた。 ぐにゃり、と視界が歪む。見慣れたはずの自室の天井が、まるで水面のように不気味に揺らめいていた。喉がカラカラに渇いて、息を吸い込むたびにガラスの破片が突き刺さるような痛みが走る。 その朦朧とした視界の、すぐ間近に、誰かの顔が映り込んでいることに気づいた。 私の顔を、静かに、心配そうに覗き込んでいる。 光を吸い込むような、艶のあるサラサラの黒髪。その隙間から覗く、嵐の前の湖面のように静まり返った灰色の瞳。熱に浮かされた私の肌とは対照的な、血の気を感じさせないほど透き通るように白い肌。 その、現実感を失わせるほど人間離れした美しい姿が、私の魂に深く、深く刻み込まれた最愛のキャラクターの姿と、ぴたりと重なった。 追放された天使、アーク。 神に背き、魔王ジークフリートにその魂と身体を捧げた、哀れで、気高くて、そしてどうしようもなく美しい私の最推し。 いつもどこか世界を拒絶するような悲しみをその瞳に湛え、誰にも心を開かず、ただ一人、主君であるジークフリートだけをその灰色の瞳に映している、健気で愚かな天使。 目の前にいるのは、氷室奏。わかってる。熱で機能不全に陥った脳の、片隅に残った冷静な回路が必死に警鐘を鳴らしている。わかっているのに、心が、魂が、言うこと
Last Updated: 2025-10-27
Chapter: 第13話:看病戦争、勃発①
 どうやって自分のアパートまで辿り着いたのか、記憶はひどく曖昧だ。 医務室で意識を取り戻したものの、熱は一向に下がる気配を見せず、身体はぐったりとベッドに沈んだまま。結局、見かねた乃亜がタクシーを呼んでくれて、私を家まで送り返してくれることになった。 そこまでは、よかったのだ。 問題は、乃亜が「あんたたち、原因作ったんだから一人くらい責任持って手伝いなさいよ」と釘を刺したことだった。その一言が、新たな戦争の火種となった。「当然、俺が行く」「いや、僕が送る」「俺が付き添います!」 三者三様の、しかし決して譲らないという固い意志のこもった声。結局、誰か一人に絞ることなどできるはずもなく、乃亜は早々に交渉を諦めた。「……もう知らない。全員で来れば」と吐き捨てた親友の顔は、般若のように見えた。 そんなわけで、タクシーの後部座席で、私は三人のイケメンにサンドイッチにされるという、状況さえ違えば天国のような地獄を味わうことになった。右隣の天王寺先輩から感じる高い体温と、仄かに香る上品なコロン。左隣の氷室くんの、触れているわけでもないのに伝わってくる、ひんやりとした静謐な空気。そして、助手席から何度も振り返って「先輩、大丈夫ですか!?」と心配そうに声をかけてくる七瀬くん。 熱で朦朧とする頭で、私はぼんやりと思う。 乙女ゲームなら、ここはスチルが発生する重要イベントのはずだ。ヒロインが熱に倒れ、誰か一人のヒーローが献身的に看病し、二人の距離がぐっと縮まる……。 なのに、どうして私の現実は、三人の男たちの無言の圧力が渦巻く、息苦しい空間になっているんだろう。◇ アパートに着くと、鍵を開けた乃亜が呆れたように言った。「はい、あんたたち、さっさと必要なもの買っておいで。栞の看病に必要なもの。誰が一番役に立つか、ここで決めなさいよ」 その言葉は、まるで闘牛士が赤い布を振ったかのようだった。三人は一瞬顔を見合わせ、火花を散らすと三者三様の方向へと駆け出していった。 数分後。私の狭いワンルームに、三人の騎士がそれぞれの武器を手に帰還した
Last Updated: 2025-10-26
Chapter: 第12話:倒れた女神(?)と三人の騎士
 目の前が、ぐにゃりと歪んだ。さっきまで見ていた大学の廊下のありふれた景色が、水に落とした絵の具のように滲んで溶けていく。「……あれ?」 おかしい。なんだか自分の身体が自分のものではないみたいに、ふわふわと浮いている感覚。周りの学生たちの声がやけに遠い。すぐ隣を通り過ぎていくはずの雑談も、分厚いガラスを一枚隔てた向こう側から聞こえてくるようだ。 ――ヤバい。 そう思った瞬間、足から力が抜けた。視界が急速に暗転していく。最後に聞こえたのは、誰かの短い悲鳴と、自分の名前を呼ぶ親友の切羽詰まった声だった。◇「――だから! 俺が付き添うって言ってるだろ!」「……どうして君である必要がある。最も長く彼女の側にいたのは僕だ」「はぁ!? 一番心配してるのは俺なんですけど! 先輩たちは黙っててください!」 誰かの声がする。 低く、苛立ちを隠そうともしない声。 静かだが、有無を言わせない強い意志を感じさせる声。 少し高く、焦りと必死さが滲んでいる声。 頭に響くその声が、ひどく不快だ。まるで質の悪いスピーカーで三つの曲を同時に流されているみたいだ。今はただ、この身体を包む柔らかいシーツの感触と、消毒液の微かな匂いだけに意識を委ねていたかった。 私が廊下で倒れたらしいという事実を、まだ夢うつつの中でしか認識できていない。 乃亜からの連絡を受けた天王寺先輩が講義を抜け出して駆けつけ、ほぼ同時に、図書館で私を探していたらしい氷室くんも異変を察知して現れた。そして、たまたま大学に来ていた七瀬くんが、騒ぎを聞きつけて飛んできたのだという。 ――そんな都合のいいこと、ある? まるで、出来の悪い乙女ゲームの強制イベントみたいだ。もちろん、そんなことになっているとは、意識の途切れた私には知る由もなかったけれど。 三人が医務室に殺到したのは、ほぼ同時だったらしい。白いカーテンで仕切られた簡素なベッドで眠る私の姿を認めた瞬間、彼らの間に走った緊張感は、火花が散るようだったと、後から乃亜が呆れ顔で教えてくれた。
Last Updated: 2025-10-25
Chapter: 第11話:プレゼントの解釈違い
 世界が、ぼんやりと霞んで見える。 意識と現実の境界線が曖昧で、まるで水の中にいるみたいに、耳に届くすべての音がくぐもって聞こえた。 原因は、分かっている。睡眠不足だ。 グループ課題のレポート作成、カフェの新人教育(という名の陽翔くんの恋の応援)、そして、何よりも優先すべき、我が魂の結晶である同人誌原稿の締切。この三つが、私の貧弱なキャパシティの上で、無慈悲なデッドライン・ダンスを踊っていた。「……ジーク……アーク……待ってて、今、最高の、シチュエーションを……うへへ……」 大学の講義中も、私は机に突っ伏し、意識の半分を『Fallen Covenant』の世界に飛ばしていた。時折、自分の口から漏れる不気味な笑い声で我に返るが、数分もすれば、また強烈な睡魔と妄想の波に飲み込まれていく。 周りの学生が、私を「いよいよヤバい奴」という目で見ているのは知っていた。だが、どうでもいい。私には、成し遂げなければならない使命があるのだから。 そんな、ゾンビのようにキャンパスを徘徊していたある日の放課後。グループ課題の簡単な打ち合わせを終え、よろよろと席を立とうとした私を、天王寺先輩が呼び止めた。「月詠さん。ちょっと、いいかな」「ひゃい!?あ、あの、なんでしょうか、先輩!」 突然の王子様の声に、私の脳が無理やり再起動する。ぼやけた視界に、相変わらずキラキラとした、完璧な笑顔が映った。彼は、少しだけ困ったように眉を下げると、すっと一本の小さな瓶を差し出してきた。 金色の、高級そうなラベルが貼られた、栄養ドリンクだった。「……これ。最近、すごく顔色悪いみたいだから。無理、してない?」 心配そうに、私の顔を覗き込む、甘い声。 私の心臓が、きゅっと奇妙な音を立てた。いかん、いかん。これは、私への優しさではない。 私の脳内BLフィルターが、ガコン、と音を立てて作動する。
Last Updated: 2025-10-24
Chapter: 第10話:図書館の少女漫画(BL風味)
 しぃん、と静まり返った図書館。ここは、私の聖域の一つだ。普段なら、この古い紙の匂いと、ページをめくる微かな音だけに包まれて、心ゆくまで妄想(という名の創作活動)に没頭できる場所。 だけど、今日だけは事情が違った。 私の左右には、この静寂とはあまりにも不釣り合いな、二つの輝かしいオーラが存在している。右に、学園の太陽・天王寺先輩。左に、氷の騎士・氷室くん。 私たちは、あの地獄の(私にとっては天国だった)グループ課題のための資料を探しに、こうして連れ立って図書館に来ていた。 乃亜には「乙女ゲーの主人公になってる自覚持て」と本気でキレられたけれど、彼女は何もわかっていない。私が今感じているこの高揚感は、決して恋愛のそれではない。これは、公式から「推しカプの共同作業」という、最大手の供給を与えられた、一介の腐女子としての歓喜なのだ。「コミュニケーション論の棚は、あっちだね」 天王寺先輩が、私にも聞こえるように、少しだけ声を潜めて囁く。その低く甘い声が、静かな空間でやけに響いて、耳がくすぐったい。いやいや、違う。これは私への配慮ではなく、その隣の氷室くんへ「こっちだよ」と伝えるための優しさだ。「……ああ」 氷室くんが短く応じる。ああ、尊い。会話が成立している。 私は、二人の崇高な空間を邪魔しないよう、カニ歩きのように横移動しながら、必死に背表紙を追う。あのファミレスでの一件以来、二人の間には(私の脳内では)確かな絆が芽生え始めていた。私がやるべきことは、二人が次のステップに進むための、触媒(カタリスト)になることだけ。「あ、あれかも」 私が探していたのは、社会心理学の権威が書いた、分厚い専門書。それは、運悪く書架の一番上の棚に鎮座していた。 私は自分の身長を呪った。150cmちょっとの私では、どう頑張っても手が届かない。「うぅ……」 ぴょんぴょんと、その場で軽くジャンプしてみるが、指先がかすりもしない。近くに脚立(きゃたつ)も見当たらない。 どうしよう。二人に頼む?いや、だめだ。今、二人は二人で、何か目に見えないオーラ(たぶん恋の駆け引き)を交換している最中。私が「取ってください」なんて言ったら、その神聖な儀式を妨害してしまう。 私はもう一度、ぐっと背伸びをした。かかとを限界まで上げ、腕を、これ以上ないというくらい伸ばす。指先が、あと、ほん
Last Updated: 2025-10-23
Chapter: 第9話:グループ課題は地獄の始まり②
 そうして私たちが流れ着いたのは、大学の門を出てすぐの、ごく普通のファミリーレストランだった。ガヤガヤとした店内の雰囲気は、先ほどのカフェテリアとはまた違う騒がしさがある。 席に着くなり、天王寺先輩は「さて」と楽しそうにメニューを広げた。「俺、お腹空いちゃったな。月詠さんは?あ、そうだ、ドリンクバー頼むよね?」「は、はい!もちろんです!」「じゃあ、俺、先になんか取ってくるよ。何がいい?」 彼が、私に天使の笑顔を向ける。違う、先輩!あなたが聞くべきは、私じゃなくて!「わ、私は後で……!そ、それより、氷室くんは!氷室くんは何が飲みたい気分ですか!?」 私が、必死の形相でパスを出す。 すると、氷室くんは私と天王寺先輩の顔を交互に一度だけ見ると、静かに、しかしはっきりと立ち上がった。「……僕が行こう」「え?」「君は、座ってていい」 そう言って、彼は私の分のコップまで手に取ろうとする。 その瞬間、それまで笑顔だった天王寺先輩の空気が、すっと変わった。「いや、いいよ氷室くん。俺が行くって言ったんだから。君こそ座ってて」「……君は、テーマの骨子をまとめておいてくれ。飲み物は、僕がやる」「その必要はないよ。俺がやるから」「……僕が、やると言っている」 ばち、ばち、ばち。 テーブルを挟んで、私の目の前で、見えない火花が激しく散っている。二人の視線が、ドリンクバーのコップを巡って、鋭く交差する。 始まったわ、二人の痴話喧嘩!「(氷室くんに格好いいところを見せたいから)俺が飲み物を持ってくる!」「(天王寺先輩の手を煩わせたくないから)いや、僕がやる!」という、お互いへのアピール合戦! 私への親切を口実にした、高度なイチャイチャ……! 尊い……!尊すぎる……!ファミレスのど真ん中で、こんな神々しいやり取りを見られるなんて……! だが、このままでは、二人の戦いが終わらない。そして、私は、二人の共同作業を、何よりも見たいのだ。「あ、あの!」 私は、意を決して、二人の間に割って入った。「せっかくですし、お二人で、行ってきてはいかがでしょうか!?私は、ここで、おとなしく、二人の愛の巣(テーブル)を守っておりますので!」 私の完璧な提案に、二人はぴたりと動きを止めた。そして、同時に私を見ると、何とも言えない、複雑な表情を浮かべる。「……月詠さ
Last Updated: 2025-10-23
禁区の残穢

禁区の残穢

他人の悪意が「澱み」として見え、日常に疲弊する女子大生、氷鉋静(ひがの しずく)。彼女の唯一の安息だった友人・燈(ともる)が、「咎(つみ)を喰う神様」の噂を追って忽然と姿を消した。 燈の記憶は周囲から急速に薄れ、静の日常は街を覆う濃霧と、自らの「影」が蠢く怪異に侵食されていく。 謎多き先輩・観月斎(みづき いつき)と共に、静はこの土地に根差す禁忌の真相へと足を踏み入れるが……。人々の罪悪感を糧とする土着神の恐怖を描く、心霊民俗ホラー。
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Chapter: 第八話:影喰の噂③
 |静《しずく》の切実な声に、|燈《ともる》は一瞬、|虚《きょ》を突かれたように目を瞬かせた。そして、次の瞬間にはもう、いつもの人懐っこい笑顔に戻っていた。だが、その切り替わりのあまりの速さが、逆に不気味な印象を与える。まるで、スイッチを切り替えるように、表情の仮面を付け替えたかのようだった。「おいおい、大げさだな、しずくは。ただの昔話だって。この大学の連中が好きそうな、ありがちなオカルト話の一つだよ」 彼はそう言って笑い、今度こそチーズケーキをフォークで刺して口に放り込んだ。しかし、その咀嚼の動きはどこかぎこちなく、味わっているようには見えなかった。ただ、この気まずい空気を霧散させるための、義務的な作業に過ぎない。「……本当?」 静は、彼の目をじっと見つめた。自分の声が、自分でも驚くほどか細く震えていることに気づく。「本当に、ただの作り話だと、思ってるの?」 燈の動きが、ぴたりと止まった。彼の喉が、ごくりと鳴る。カフェテリアの喧騒が、また嘘のように遠ざかっていく。静と燈、二人の間のテーブルだけが、真空のスポットライトに照らされているかのようだ。 やがて燈は、フォークを皿の上に、ことり、と置いた。その乾いた音が、やけに大きく響く。「……もし、本当だったら、どうする?」 その声は、|囁《ささや》きに近かった。「もし、本当に、自分の影に全部押し付けて、忘れられるとしたら……それって、すげえことだと思わないか?」 その言葉は、静の心の最も柔らかな部分を、冷たい刃物で|抉《えぐ》るようだった。彼の「光」に安らぎを感じていたのは、彼が「影」を知らない人間だと思い込んでいたからだ。だが違った。彼は誰よりも深く、濃い影を、その眩しい光の裏側に隠し持っていた。そして今、その影が彼の魂を喰い尽くそうとしている。 静は何も言えなかった。どんな言葉も、彼の絶望の深さには届かないと悟ってしまったからだ。否定すれば、彼はますます頑なになるだろう。肯定すれば、彼の背中を押すことになる。 沈黙を肯定と受け取ったのか、燈はふっと息を漏らし、再びあの|屈託《くったく》のない笑顔を顔中に貼り付けた。完璧な、しかしだからこそ恐ろしい、|能面《のうめん》のような笑顔だった。「俺さ、ちょっとやってみようと思うんだ」 その声は、信じられないほど明るく、弾んでいた。まるで、明日ど
Last Updated: 2025-10-27
Chapter: 第七話:影喰の噂②
 |燈《ともる》は、|静《しずく》の反応を面白がるように口の端を吊り上げた。だが、その瞳の奥に宿る光は、単なる好奇心とは異質な、もっと粘り気のある何かに変質しているように見えた。静は、彼の背後に一瞬だけ見えた、あの黒い人影の幻覚を思い出していた。あれは、彼の内側に巣食う「何か」の予兆だったのかもしれない。「ビビってんの、しずく? まあ、名前からしてヤバいもんな」 彼はわざと軽い口調で言い、フォークでケーキを一口分すくい取った。しかし、それを口に運ぶことなく、再び皿の上に戻す。食欲など、とうに失せているようだった。「そのウツロ様ってのが、この|咎凪《とがなぎ》市の、いわば|土着神《どちゃくしん》みたいなもんなんだと。でも、神社とかがあるわけじゃない。実体がないんだ。空っぽ。だから『|虚《ウツロ》』様」 その説明は、カフェテリアの雑音に紛れて掻き消えてしまいそうなほど静かだったが、静の耳には呪いの言葉のようにこびりついた。実体がない。それは、どこにでもいるということだ。この澱んだ空気の中にも、霧の中にも、人の心の隙間にも。「でな、そのウツロ様を信仰してた連中が、昔やってた儀式がある。それが――『カゲオクリ』」 影送り。その言葉の不吉な響きに、静は喉の奥が乾ききるのを感じた。心臓が、嫌なリズムで脈打ち始める。「人間、誰だってあるだろ。ミスったこととか、誰にも言えない秘密とか、忘れてえ記憶とか……そういう『|咎《とが》』がさ」 燈の視線が、ふいと静から外れ、窓の外の灰色の空に向けられる。その横顔に、一瞬、彼のものではない深い疲労と苦悩の色がよぎったのを、静は見逃さなかった。彼の|纏《まと》う光が、|翳《かげ》っていく。「その『|咎《とが》』を、自分の影に移すんだと。強く、強く念じるんだ。あの時の罪悪感を、この後ろめたさを、全部、俺の影にくれてやる、ってな」 それは、遊びや噂話にしては、あまりにも具体的で、生々しい手順だった。まるで、誰かの切実な願いが、長い年月を経て儀式という形にまで練り上げられたかのような。静の脳裏に、湿った土の匂いと、暗い沼のイメージが勝手に浮かび上がった。「そうして自分の『咎』を全部吸わせた影を、『ウツロ様』に捧げる。……つまり、喰ってもらうんだ」「……喰ってもらう?」 掠れた声で問い返すのが精一杯だった。「ああ。影を喰わ
Last Updated: 2025-10-27
Chapter: 第六話:影喰の噂①
 ざわめきが、ぬるま湯のように思考を鈍らせる。 大学のカフェテリアは、昼のピークを過ぎてもなお、無数の声と食器の触れ合う音、そして様々な人間の感情の匂いで飽和していた。|氷鉋《ひがの》|静《しずく》は、テーブルの隅で背中を丸め、色の抜けたチャコールグレーのパーカーのフードを深く被っていた。気休めに過ぎないとわかっていても、そうせずにはいられない。他人の視線が、声が、その裏側にある粘ついた本音が、彼女の皮膚を直接撫でるようで、全身の肌が粟立つのを止められなかった。 誰もが、無害な笑顔の仮面を貼り付けている。友人の成績を妬む声。恋人の無神経さを詰る声。講義への退屈と、未来への漠然とした、しかし自己本位な不安。それら一つ一つが、静にとっては明確な形と色を持つ「|澱《よど》み」として見えた。それは物理的な汚れのように空間に浮遊し、呼吸のたびに肺腑を汚していく。胃の奥がじりじりと灼けるような不快感に、静はアンティークシルバーの丸眼鏡のブリッジを押し上げ、テーブルの木目をただ見つめた。爪を噛む癖が、また顔を出す。親指の先に歯を立てた瞬間、不意に、澱みを切り裂くような明るい声が鼓膜を打った。「しずく、いた! 探したぜ」 顔を上げると、|朱鷺《とき》|燈《ともる》が盆を片手に立っていた。オレンジブラウンに染め上げた髪が、カフェテリアの気怠い照明を吸って鮮やかに光る。安全ピンのピアスが揺れ、派手なロゴの入ったパーカーが、周囲のくすんだ風景から浮き上がっていた。彼がそこにいるだけで、澱んだ空気がわずかに晴れるような錯覚を覚える。静にとって、燈の存在はそういうものだった。彼の内側から発せられる光は、他人の悪意の影を薄めてくれる。「……燈」「隣、いい?」 静が頷くより先に、燈は向かいの席にどかりと腰を下ろした。アメリカンコーヒーと、ほとんど手をつけていないチーズケーキが盆の上に乗っている。彼は甘いものが好きだが、それ以上に、誰かと話すためのおもちゃとしてそれを買う癖があった。「またそんな暗い顔して。世界終わんの?」 からかうような口調。だが、静はその裏にある心配の色を正確に感じ取る。だからこそ、彼女は燈の前でだけ、少しだけ心の壁を低くできるのだ。「別に。通常運転」「通常運転がそれってのが問題なんだよなー」 燈はプラスチックのフォークでチーズケーキの角を無意味に突き
Last Updated: 2025-10-27
Chapter: 第五話:咎凪の霧②
 大学の正門が見えてきたところで、霧の壁から不意に人影が滲み出した。心臓が喉元まで跳ね上がる。だが、その輪郭が色を得るにつれて、安堵が恐怖を上書きしていった。最初に視界に飛び込んできたのは、この白の世界で唯一彩度を許されたような、オレンジブラウンの髪だった。「よお、しずく。遅かったじゃん」 |朱鷺《とき》|燈《ともる》が、ポケットに手を突っ込んだまま立っていた。彼がそこにいるだけで、濃霧が作り出した非日常の風景に、無理やり日常のラベルが貼り付けられる。まとわりつくような土の匂いが、少しだけ薄れた気がした。「……待っててくれたの」「んー、まあな。こんな日に一人だと、どっかに連れてかれそうだろ」 燈はそう言って笑った。けれど、その笑みはいつもの太陽のような明るさとは違い、どこか湿っている。霧が彼の輪郭だけでなく、その快活ささえも僅かに侵食しているようだった。 二人で並んで、霧に包まれたキャンパスを歩く。人の姿はまばらで、足音が白い静寂に吸い込まれていく。「しかし、すげえ霧だな」 燈が、面白そうに周囲を見回しながら言った。「この霧、何かを隠すのにちょうどいいよな」 その言葉は、静の背骨を冷たい指でなぞるような感触を残した。冗談めかした口調。だが、静の耳には、それが単なる冗談には聞こえなかった。昨日見た、彼の背中に張り付いていた黒い人影の幻覚が、脳裏を掠める。隠す。何を? あるいは、誰を?「……不吉なこと言わないで」 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。「はは、わりいわりい。でもさ、マジで何も見えねえ。自分の影すら、すげえ薄いし」 燈が、自分の足元に目を落とす。確かに、霧が光を乱反射させているせいで、地面に落ちる影はほとんど見えなかった。まるで、最初から存在しないかのように。 その時、燈がぴたりと足を止めた。 静もつられて立ち止まる。彼の横顔から、表情が抜け落ちていた。いつもの人懐っこい笑顔も、悪戯っぽい光も消え、能面のように平坦になっている。視線は、何もないはずの地面の一点に縫い付けられていた。 霧が、二人の周りで音もなく渦を巻く。「なあ、しずく」 彼の声は、ひどく低く、抑揚がなかった。「最近、影を踏まれるのが怖いんだ」 それは、神経質に研ぎ澄まされた刃物のような呟きだった。静は、返事もできず、ただ彼の横顔を見
Last Updated: 2025-10-26
Chapter: 第四話:咎凪の霧①
 その朝、|咎凪《とがなぎ》市は乳白色の息を吐いていた。 |静《しずく》がアパートの窓を開けると、粘り気のある冷気が奔流のように流れ込んできて、肌を粟立たせる。外の世界は、完全に「白」に塗り潰されていた。隣の建物の輪郭も、電線の黒い線も、すべてが曖昧なグラデーションの中に溶け落ちている。季節外れの、濃すぎる朝霧。この街では、珍しくもない光景だった。 だが静にとって、この霧は単なる気象現象ではなかった。「……土の匂い」 乾いた唇から、吐息と共に言葉が漏れる。 それは、湿った|腐葉土《ふようど》の匂いだ。|黴《かび》の胞子と、掘り起こされたばかりの古い土が混じり合ったような、生命の循環から取り残された死の匂い。人々はこれを「|盆地《ぼんち》特有の天気」と片付けるが、静の神経は、その奥にある本質を正確に感じ取っていた。これは空気が運んでくる匂いではない。土地そのものが、皮膚呼吸のように吐き出している「|澱《よど》み」の気配だ。 古くから、この土地の霧は「|黄泉路《よみじ》の|帳《とばり》」と呼ばれていると、祖母から聞かされたことがある。現世と常世の境界を曖昧にする、忌むべきもの。その言葉の意味を、静は肌で理解していた。視界が奪われるからではない。霧に満たされた世界では、あらゆるものの輪郭が、存在の確かさが、揺らいでしまうからだ。 大学へ向かう道は、異界への入り口と化していた。 数メートル先でさえ、白く煙っている。街灯の光はぼんやりと滲み、まるで水底から見上げる月のように頼りない。いつもは賑やかなはずの駅前通りも、今日に限っては、しんと静まり返っていた。車のヘッドライトが、霧の壁の向こうで不意に点灯しては、音もなく通り過ぎていく。人の話し声も、足音も、分厚い綿に吸い取られたように遠い。 自分の足音だけが、湿ったアスファルトの上でやけに大きく響いた。 霧の奥から、何かが現れる。それは人であり、自転車であり、時には犬を連れた老人だ。しかし、彼らが白い闇から姿を現すその瞬間、静の心臓はいつも氷の塊に握り潰されるような感覚に襲われた。あれは本当に、いつも通りの日常の一部だろうか。霧という帳の向こう側からやってきた、別の「何か」ではないのか。 そんな妄想に囚われながら歩いていると、不意に、すぐ背後で甲高いブレーキ音が鳴った。びくりと振り返るが、そこには誰もいな
Last Updated: 2025-10-26
Chapter: 第三話:澱み③
|燈《ともる》の背中は、|静《しずく》にとって世界の中心だった。 彼が前を歩き、静がその後ろを数歩ぶんだけ離れてついていく。その距離が、今の静には何よりも安全なテリトリーに思えた。彼の肩幅、無造作に揺れる髪、ストリート系のパーカーがつくる緩やかな輪郭。そのすべてが、静を苛む無数の「|澱《よど》み」から彼女を守る防波堤だった。 彼が楽しげに話すカフェのメニューのことや、昨日見た深夜アニメの馬鹿げた展開について、静は半分も聞いていなかったかもしれない。ただ、彼の声の響き、その明るい音色が、ささくれた神経を優しく撫でるのを感じていた。彼と一緒にいる時だけ、自分も「普通」の女子大生になれたような気がした。このまま、時間が止まればいい。そう、本気で願った。 渡り廊下を抜け、校舎の出口へ向かう。西日が強く差し込む角を曲がった、その瞬間だった。 一歩先を歩いていた燈の身体が、一瞬だけ、強い光の中にシルエットとして浮かび上がる。 静は、息をのんだ。 違う。 燈の背中に、彼ではない「何か」が、ぴったりと張り付いている。 それは影ではなかった。影は彼の足元に、アスファルトの色より少しだけ濃く落ちている。静が見たのは、もっと立体的で、冒涜的な黒。まるで、人間の形をした「染み」が燈の背中に重なっているかのようだった。陽炎のように輪郭が揺らめき、その手足は燈自身のものより僅かに長く、細い。まるで、燈を後ろから抱きしめるような形で、その黒い人影は存在していた。 一秒にも満たない幻覚。 静が強く瞬きをすると、それはもう消えていた。そこにいるのは、いつも通りの朱鷺燈だ。彼は何も気づかずに、不思議そうな顔で振り返る。「しずく? どうかしたか?」 声が出なかった。喉が、見えない手に締め上げられたように硬直している。さっきまで和らいでいたはずの頭痛が、鉄の杭を打ち込まれたように激しく再発した。胃の腑の底から、氷よりも冷たいものがせり上がってくる。 講義室で感じていた無数の「澱み」が、嵐のように静の内に逆流してきた。だが、今度のそれは、ただの不快な感情の沈殿物ではなかった。明確な「意志」と「形」を持った、純粋な悪意の塊。 あの黒い人影は、いったい何だ。 静は、自分の左手の親指が、血が滲むほど強く噛み締められていることに、気づいていなかった。
Last Updated: 2025-10-26
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